ルージュ


「困る」
「のっけからそれは無いだろぉ?折角誘ってやってるのに」
「ど、どうせなら時間に余裕を持って誘って欲しいものだな
 いきなり今からなんて言われても・・・」
「言われても?」
「その・・・困る」

始まりはいつものように事務所にかかってきた電話だった
一日中書類仕事に終われていた私は、新しい依頼かと半ばうんざりしながら受話器を掴んだ

そこから聞こえてきたのは小次郎の声

疲れた声で電話に出た私に少々面食らったのだろうか
いや、それともいきなり電話をかけた事に緊張していたのか

多少ぎこちなさを感じさせる声が聞こえてくる

「ああ、弥生か?」

冬の夕暮れは早い
昼間の仕事が立て込んでいたかと思えば、少し外に視線をやればもう辺りは暗闇に包まれる

仕事に掛かりっきりだった私は時間も確認せずに小次郎に言葉を返した

「何の用だ?こんな夜中に」
「夜中?まだ7時を過ぎたばっかりだぜ?」
「あ、ああ・・・済まない。時計を見ていなかった」
「時間もわからないくらいに商売繁盛か。御羨ましいことで」
「有り難いと思わないとな。忙しいのも恵まれてる証拠だ」
「まあな」
「ところで・・・何の用だ?」
「おお、そうそう。今からメシでもどうだ?」
「な・・・」
「うむ。丁度8時に店の方を予約しておいた」
「8時・・・って、後一時間も無いじゃないか」
「だから今電話してるんだろ?で、どうだ?」

正直、あの時の私は小次郎が何を言っているのか理解できなかった
今思えばそれは凄く悲しい事であると同時に、滑稽で、しかも一面深刻だった

いきなりとは言え折角の食事の誘いを受け入れられない、なんてのは・・・

色んな思いと気持ちが、頭の中だけじゃなく身体中をぐるぐる過ぎるのを感じていた
呆然と立ち尽くした、というのは大袈裟な表現ではない

勿論嬉しかった
でもそれ以上に何故という気持ちの方が勝っていたのだろうか

「・・・弥生?」
「困る」
「のっけからそれは無いだろぉ?折角誘ってやってるのに」
「ど、どうせなら時間に余裕を持って誘って欲しいものだな
 いきなり今からなんて言われても・・・」
「言われても?」
「その・・・困る」

自分の事ながら、自分の言葉に溜息が出そうになったのを覚えている
何も困る事なんて無いはずだ
本当は声をあげたいくらい嬉しかったはずだ

だけど、それが素直に言葉にならない

「そっか・・・都合悪いんじゃ仕方無いなあ」
「待って!」
「んお?」
「困る・・・だけで、イヤじゃ無いぞ」

受話器の向こうで少し意地の悪い小次郎の微笑が見えた気がした
そう考えると嬉しくもあり、だけど何だか見透かされてるようにも感じる

「YESって事でいいのかな?弥生ちゃん?」
「・・・こ、小次郎からの誘いを断るわけないだろ・・・」
「じゃ、今からそっち行くから」
「・・・うん」
「弥生?」
「何?」
「急で悪かったな」
「今更よく言う・・・小次郎のくせに生意気だぞ」

電話が切れる瞬間、最後に「ふん」という、小次郎独特の鼻で笑う声が耳に残った

今からの数十分が何よりも嬉しい時間
早く過ぎて欲しい、でもできるだけゆっくり過ぎて欲しかった

「化粧・・・くらいは直そっかな」

まだまだ時間はあるのに、意味も無く慌てて化粧室に駆け込む私が何処か可笑しかった
ルージュを引き直して、書類仕事続きでボサボサになった髪をブラシで整え直す

こんな風に鏡に向かい合ったのは何年ぶりだろう
最後にこんな風に化粧を直したのはいつだったんだろう

そうやって半ば真剣に思い出さないと浮かんで来ないほど、というのが少し悲しい気もする

「何年待たせれば気が済むんだ?」

溜息混じりに出たその言葉は、誰に向けられたものだったのだろう
小次郎?
それとも私自身?

もう一度鏡を見つめる

「ちょっと濃くなったかな・・・」

引き直した口紅の色が少し目に付いた
鏡の中には意識して唇を小さく、瞳を大きく開いて映る私が居る

(そんなことに気付くようなヤツだったら・・・)

もう少しだけ今の苦労が少なくなっていたかもしれない
けど・・・そんなのは小次郎じゃないのかもしれない



事務所の呼び鈴が鳴った

「は〜い」

我ながら嬉しそうにドアに駆け寄る自分が可笑しい
でも、今夜はそんな私で居たい

ルージュを厚めに引いて、小次郎が来るのを今か今かと待つ私
それこそ今更かもしれない
だけど小次郎の前では、そういう私で居たかった

今夜こそ、少しでも素直になれれば

淡い期待を心の何処かで抱いて、私はドアを開ける


◆ ◆ ◆


小次郎が予約を入れた店は本格的なイタリア料理の店だった
結構な年季を感じさせる店内の雰囲気も小洒落ていて悪くない
どちらかと言えば、こういった店を小次郎が選んだ事自体が意外でもあり、珍しかった

食事の最中、その意外さが顔に出てしまったのか、
やはり例の意地の悪い微笑を浮かべながら小次郎が私に話しかけてくる

「意外って顔してるな」
「ふふん・・・小次郎にしちゃあ上出来の店じゃないか」
「オレにしては、ってのが気にくわんが・・・でもいい店だろ?」
「ああ、悪くないどころか気に入ったぞ」

ウェイターが食前酒を運んでくる
ワイングラスの中の液体は、店の照明に照らされて綺麗な光沢を放っていた

「ま、とりあえずおつかれさん」
「乾杯」

二つのグラスが重なり合い、静かな高い音と淡い芳香が私に届く

「ふふふ」
「何だぁ?さっきからニヤニヤと」
「うん・・・何だか小次郎らしくなくてな」
「まだ言う・・・」
「こんな洒落た店を見つけるだけでも信じられないさ」
「むぅ・・・」
「・・・こうやって二人向き合ってグラスを重ねてる事自体、ちょっと考えつかないよ」
「らしくない、か?」
「まあね・・・でも」

グラスをテーブルに置いて静かに呟いた
グラス越しに見える小次郎の表情は、何時になく穏やかで、
だけどそれは私の知らない顔じゃなかった

「好きだよ、こういうのも」

ちょっと高そうな店で柄にも無く食前酒を飲みながら、楽しく笑い合う二人
今の私たちはどこにでも見られるような光景の中の一つなのかもしれない

言ってしまえば何も特別な事じゃない
それをそう感じる私と、その事を思わず口に出した自分が少し悔やまれた

だけど私は嬉しい

こうして、私たちはどこにでも居そうな恋人たちになれるのだから

・・・

「ごちそうさま・・・でも本当にいいのか?」
「夕食の金を奢ってやるくらいには仕事も入ってるんだぞ、気にするな」
「でも・・・」
「ま、その、何だ」
「?」
「たまには奢らせろ」

私は気恥ずかしそうに答える小次郎の腕に自分の腕を絡ませた

「じゃあ、ごちそうさま」

こんな風に腕を組んで肩に寄り添うのも久しぶりだった
少し意識した、というのは嘘じゃないけれど

「小次郎?」
「あん?」
「今日はどうして私を誘ったんだ?」
「・・・弥生を食事に誘うのに、一々理由なんかいるのか?」

少しだけど、本当に少しだけど二人の距離が近付いた言葉だった

さっきまでは何か理由が無ければ久しぶりに顔を合わす事すら出来なかった二人
それが、今の言葉で少しだけ昔に戻った気がした

昔に戻る?

ううん・・・違う
私たちは前に向かって歩き出したんだ

こんな風に腕を組むのも以前の二人を取り戻したいからじゃない
勿論久しぶりに一緒に食事をしたからでもない

小次郎の腕に抱き付いたいから
一緒に夜空を見ながら街を歩きたいから

「あ、小次郎そっちじゃない」
「事務所はあっちだろ?」
「・・・こっちに歩きたい・・・」

私が腕を引っ張った方向はサンマンションのある方向
暫くきょとんとしていた小次郎だったが、その事に気付いて声をかけてくる

「いいのか?」
「事務所のカギは閉めたし、私が明日朝イチで行けば問題無いさ」
「いや、そうじゃなくて・・・」
「べ、別に変な気持ちで言ってるんじゃないぞ。少しでも変な気起こしたらすぐに放り出すからな」
「何だ、その変な気ってのは?」
「ウルサイ!自分で考えろ!」
「へいへい・・・」

冬の夜に暫しの沈黙が訪れる

私たちは無言のまま暫く歩いた
何かを言い出すのが恥ずかしくもあった
でも、何より言葉を発するのが勿体無いようにも思えた

小次郎の腕の温もり・・・それだけを感じていたい

「弥生」
「うん?」
「その・・・ほら、どうして、というか・・・何で、また・・・」

しどろもどろに言葉を紡ぎ出そうとする小次郎
私には小次郎が言おうとしていることがよくわかった

私たちは、さっきまでただ顔を合わすだけでも理由が必要だった
でないと会えないように思い込んでいた

そうじゃないことはずっとわかっていたんだ
だけど私たちは、「そうじゃない理由」すら必要としていた

その事に私は気付いた
小次郎もそれに気付いてくれたのかもしれない
だから、それを確かめたくて・・・だけど言葉が出ないのは、実を言えば子供っぽい恐怖と気恥ずかしさの所為なのかもしれない

「理由」

そう、理由なんて・・・

「要らないだろ?」
「・・・弥生」

二人の唇が重なった
互いが互いを意識せず、本当に、ごく自然に・・・

それがどれだけ幸せな事か、どれだけ私たちが素直になれたのか

そんな事を気付かせてくれる長いキスだった

「口紅、濃くないか?」
「・・・今頃気付くなよ・・・バカ」
「あ、ああ・・・」
「それにそんな事は気付いても黙ってるもんだぞ」
「そ、そうか」
「そうだ」

再び私たちはマンションの方に向かって歩き出した

今日はとても幸せな日

私たちが、少しだけど、お互いが素直になれた日だから
お互いが会うのに理由も必要としなくなった日だから

そして・・・

こんな風に二人で同じ家に帰れる日だから




四方山話(言い訳)
毎度どうも、氷室バカtalkでございますー。
今回は祝50000ヒット記念ということで弥生×小次郎小説を書きました。

うーん、苦労しましたねー。いや、氷室を出さない事に苦労したわけじゃ無いんですけど、
実を言えば「年甲斐も無く」ってあたりを書こうかなあとは思ってたんです。
が、流石にそういうのはEVEではタブー(笑)なんで、「柄にも無く」と変更。
落ちついた雰囲気の店で夕食を共にする小次郎と弥生。
なーんか気恥ずかしそうにしてる二人とかを思い浮かべてくれれば幸いで御座います。

ま、後は私なんでもうちょっとイチャイチャさせましたけど。

では、50000ヒットおめでとうございます!これからも宜しくお願い致しますわ♪