keikoba日記

平成22年3月

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2010年3月7日(日)
夢の島プロジェクト稽古

 今回も欠席者が多くて心配になってきた。昨年来出席率が良かったのでそれが至極当然のような気になっていたが、決して当たり前じゃないんだよね〜。2週間に1度の稽古に向けてみんなスケジュール調整をしているけど、100%はなかなか合わせられないことは理解しなくてはならない。稽古量は確保したいが…。
 夢の島が“夢の島”たるために乗り越えなくてはならない課題だ。

 逆にここんとこ欠席が続いていた鉄兵ちゃんが久々参加してきたので、その出番を代役入れつつ持ち立ち稽古。稽古は休んでいても役柄の研究はしていたようで、大きく出遅れてる感じはしないのでホッとする。が、やはり全体との調和というものはメンバーが揃う稽古場でしかできない。それぞれが考えることはもちろんだが、それは自分一人の考えであり、芝居全体の考えと同じであるかどうかは分からない。それを突き合わせるのが稽古場なのだ。その辺を重点的に。

 さらに今日の稽古で気づいたことを一つ。夢の島では作る技術と予算と場所と運ぶ手段がないことから、Festa開催時の大道具は極力簡略化、悪く言っちゃえば誤魔化せるトコは誤魔化そうと考えている。つまり台本上あるべき物が「壁の向こう側」という設定により実際に演じる時には存在しないことがあるのだ。今回の台本で言えば「玄関のドア」。芝居の中で何度か扉+鍵の開け閉めをするが、実際には存在しない。でもまるであるように演技しなけりゃならない。が、台詞とか他のことに気をとられてると忘れちゃうんだよなぁ。

 昨夜はそんなあたりを気をつけながら。あとはそろそろ「言動の自然なキャッチボール」にも意識をするように稽古を進める。小返しで繰り返すたびにどんどん芝居が変わっていくからおもしろい。でもそれが行き詰まって悩んで、さらにその先に行って初めておもしろい芝居になる。早くその段階まで行きたいものだが…。

 稽古が佳境に入ってきたが、どうも次回稽古は休みが多そうなんだよなぁ。さぁて、どうやって稽古進めるかな?

2010年3月3日(水)
他人を責める前に

 東京の中学2年生の女生徒がいじめを苦に自殺した。何十年も前から繰り返されてきた悲劇が再び起きてしまった。

 いじめによる自殺が起こると必ずと言っていいほど学校長が「いじめは把握していなかった。」などと記者会見をする一方、自殺をした生徒の両親が学校の責任を追及することが報道されるのだが、いつも疑問に思うことがあった。

 「自分の子どもが死ぬほど悩んでいるのを、この親は気がつかなかったのかなぁ。」と。

 ご遺族の心中は痛いほど察する。愛する子どもが死んだ理由を知りたい、そう思う気持ちも分かる。
 しかし、だ。例にとって申し訳ないが、今回自殺した生徒の両親もTVのインタビューを受けて「前の晩もごく普通だった。」「自殺の原因が分からない。」と発言しているが、逆に言えば自分の娘が自殺するほどの悩みを抱えていたのに親の自分たちは全く気づかなかったと認めていることになる。親が自分の子の悩みを気づかずに、学校側に対して「何故気づかなかったのか?」と批判するのはいかがなものか。もちろん学校側にも大いに反省すべき点はある。しかし他をさて置いて真っ先に批判を受ける立場か? 学校内のいじめは教師の目の届かない場所で行われる。後に生徒に調査を行ったところで、いじめていた側が正直に話すことなどほとんどありえない。僕たちが学生だった頃、教師の問いに全て馬鹿正直に答えていたかを振り返れば分かる話だ。

 何かというと学校や行政を批判するマスコミ報道と世論の流れ。判らなくも無いが、短絡的な批判は、これもまた「いじめ」だ。