keikoba日記

平成22年2月

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2010年2月28日(日)
死にたい奴は死ねばいい

 昨日のチリ地震の後、主に太平洋岸に大津波警報や注意報が出されていたが、それを知っていてサーフィンをしていたり潮干狩りをしていた人間がいたと言う。おそらく半世紀前のチリ地震の津波だけでなく、つい最近に至るまでの津波災害の知識を持たない、お気楽かつ不勉強な人間たちなのだろう。
 災害が起こるたびに行政の防災体制の不備が問われるが、いくら体制を整えたって市民が聞く耳持っていなければ何をしても無駄。体制を整えること自体税金の無駄使いだ。避難勧告が出ても従わなかったり、第1波到達後解除される前に独断で帰宅した市民も同じようなものだ。半世紀前の実例がある以上、今回の津波が小規模だったのも単なる結果であり、予報とおり3mに及ぶ津波が来た可能性も大きかったのだ。その中で避難勧告に対して独断で判断してしまう。ならばその結果については全て自分で責任を負うべきだと思う。

 いっそ事前に全市民に避難勧告等に従わない場合は以後何が起こっても救助を求めない、または救助活動されなくても一切文句を言わないとの誓約書を出させたらどうか? その代わり行政には避難所に避難してきた市民の命を守ることに全力を尽くしてもらう。

 早い話が、死にたい奴は死ねばいいと言うことだ。

 しかしながら津波危険地帯がコース上にあるのに市民マラソン大会を決行していた自治体もあったから、行政の対応もイマイチだったことも間違いない。でも気象庁が「大袈裟すぎた。」と謝罪するのもおかしい話だ。

2010年2月24日(水)
富士山の日

 昨日は盛り上がったのかどうだか。主旨は分かるが元々東西に長い静岡県。東部と西部で盛り上がりの温度が異なるのは仕方がないか。
 でも2月23日を休日にするっていうのは何とも理解し難いなぁ。そもそも現状では議論の対象になっているのが学校だけ。授業時間数をどう確保するかだの、公立はともかく私立は足並み揃えられるのかだの…。そうまでして休みにしなけりゃいかん理由を見出すのに苦しむ。そもそも私立学校もそうだが、企業に対しても「休日とするように協力を依頼していく。」では、この経済状態厳しき折に協力してくれる企業が出てくるのは難しいだろうし、企業=大人たちが休みにならないのに子どもたちだけ学校を休みにしても、それこそ「受け皿」の問題が起こる。中高生はまだいいが、小学校低学年はどうすりゃいいの?
 企業に休日にして欲しいのなら、今年から県庁を始め県の組織は全て休みにしてアピールするべきだったのでは? 他者に投げかけるのなら、まずは己が姿勢を示さなきゃ。

 でも他に緊急性のある、やるべきことがいくらでもあるような気がするんだけどなぁ。

2010年2月23日(火)
何をいまさら騒いでるんだか(呆)

 浜松市のゴミ袋問題が騒がしいのだが、注意しなければいけないのが、騒いでいるのはあくまで「旧」浜松市民であることだ。僕が住む旧浜北市はもちろん、少なくともお隣の旧天竜市、引佐3町は合併のかなり前から既に指定ごみ袋が導入されている。逆に言えば「まだやってなかったの?」と驚かされたくらいだ。
 しかしTVや新聞で報道される時には「“浜松市”でゴミ袋が指定になってレジ袋が不可になることに“市民”が怒っている。」と表現されている。が、怒っているのはあくまで「旧」浜松市域に住む市民なのだ。

 そーか、「旧」浜松市域以外に住むのは「浜松市民」じゃないのか。

 旧浜北市域で指定ゴミ袋制度が導入された際には確かに「面倒くせぇな。」と多少思ったがすぐに慣れた。地球環境保護が叫ばれる中、多少の煩わしさや負担の受け入れは、地球上に住む者の当然の義務と言っていい。環境保護はしなくちゃいけないが自分とは関係のない所でやれ、ではあまりに我が儘だ。と言うか、合併した他市町が既にやっていることを知らないのかな?

 報道機関や市当局は「浜北や天竜ではとっくの昔に始まっていること。」ともっと伝えるべきだ。報道機関などはわざと隠した上で、市民と行政の議論を楽しんでいるような気さえする。「何を今更…。」と呆れてしまうような話し。こんなことで騒いでいて他地域に住む人たちから「浜松って遅れてるんだねぇ。」と笑われないか心配だ。

2010年2月21日(日)
夢の島プロジェクト稽古

 今日はことちゃんめめちゃん鉄兵ちゃんと本役5名中3名が欠席。稽古ができるか?と心配して、台本とは別に稽古ネタを用意したりしたが、僕の他に他屋さん滝浪さん美郷さん参加でアンダースタディ(代役)を入れて何とか台本冒頭から持ち立ち稽古ができた。途中で止めて小返ししたりあらかじめ決めてあるパートを通したりしながら、何度も同じところを繰り返す。今日はこれまでに比べてかなり細かいところに意識するようにダメを出した。

 演じる人間は台本を読んでいるので後々の展開を知っているが、日常生活の中では会話している相手が次に何を話すか、行動するかは普通知らないわけで、予想に反する言動をされたら多少なりとも戸惑うはず。そのわずかな戸惑いをちゃんと表現できるかどうかが、自然な演技となるか、お芝居お芝居してる(悪く言えばわざとらしい)演技となるかの分かれ道になる。
「言動の自然なキャッチボール」を目指す夢の島プロジェクトとしては重要視すべき事柄だ。

 同じところを繰り返す度にどんどん演技が変わっていくからおもしろい。まるで違うシーンのよう。少しずつ台詞に気持ちがノッてくるし、気持ちがノると自然と身体が動くし表情も豊かになる。着実に
「言動の自然なキャッチボール」に近づいてるな。

 繰り返す度にどんどん変わっていく芝居を観られるのは、稽古場にいる者だけに許された醍醐味。おもしろいよ。

2010年2月19日(金)
腑に落ちた

 バンクーバー五輪フィギアスケート男子シングル。高橋大輔選手が日本人初のメダルを取って盛り上がったが、一方で銀メダルを取ったロシアのプルシェンコ選手が「4回転ジャンプに挑戦しないのに金メダルを取れるのはおかしい。」と発言して物議を醸している。金メダルを取ったアメリカのライサチェク選手が以前から4回転ジャンプを跳ばないことに対する問題提起だ。

 フィギアスケートについては門外漢なので詳しく分からないが、前から疑問に思っていたことが今回の問題提起で腑に落ちた気がする。「フィギアスケートって“スポーツ”なの?」という疑問だ。演技に対する審査員の採点。やってることはバレエやダンス等の、現状では「芸術」と呼ばれるものと基本的に変わらないと思ったのだ。バレエやダンスだって身体鍛えて練習して演じてるんだからね。それがプルシェンコ選手の発言で分かったような気がする。現在のフィギアスケート男子では4回転ジャンプが最高難度の大技。そこにチャレンジするのは確かに“スポーツ”だ。
 もちらん「技の繋ぎ」というのも鍛練の賜物だから評価されるべきだとは思うが、やはりそれは難しい技にチャレンジした上だから“スポーツ”になり得るのではないか。なるほど、フィギアスケートは“スポーツ”だ。

 もっともライサチェク選手がやった3回転→2回転の連続が、最高難度ではないけれど「難しい技」でもないかは門外漢なので分かりません。

2010年2月16日(火)
他にやるべきこと

 夫婦別姓の法案を提出するらしいが、他にもっと危急の問題があるのにねぇ。国の財政問題とか経済問題とかに全力をあげて欲しいものだが。

 まぁ、それだけ危機感がないんだから仕方がないわな。

2010年2月13日(土)
「人」という字は支えあって成立している

 ってのはありきたりの説教文句であるが。

 自分と身近な人間のみで参加しているのであれば自由にすればいい。しかしオリンピックはそうじゃない。他の選手との競争に勝ち、代表に選出された競技能力は自分自身の努力で得たものかもしれないが、代表としてオリンピックに出場するには多くの人たちの尽力によるものが大きい。スキー連盟しかりJOCしかり、必要な費用も税金等から助成されている。決して自分一人の力で出場できるわけではないのだ。

 いつもの大会参加ならどんな着こなしをしようと他人からとやかく言われることはなかろう。不快に思う人は多いだろうがね。でも今回は日本代表選手が統一して身につけるユニホームだ。そこで表現されるべきは一人一人の個性ではなく、オリンピックに一丸となって攻め込む選手団の心意気なのだ。それなのにあのような着こなしをすれば眉を顰める人がいることは成人した大人であれば容易に想像がつくはず。まして先に書いた組織の役員は年配の方が多い。日本代表に選ばれたのであれば当然注意すべきことだったのだ。
 さらに問題はあの記者会見。若いからと言って許されるものではない。批判が高まり、スキー連盟が出場辞退を考えるのも仕方がなかろう。
 どんな競技、大会に関わらず、「日本代表」選手は公人と同等の責任が問われる。ユニホームに日の丸をつけるというのはそれだけ重いことなのだ。だらしなく着込んだそのユニホームを、心底着たかった競技者が数多くいることを考えるべきだ。これを機会として世の中そんなに甘くはないことを勉強して欲しい。

 同時に「個人の自由だ。」と一方的に擁護する意見も違和感がある。あれを「個人の自由」と称してしまうほど、日本には節度とかマナーというものが無くなってしまったのか…。

 ただ、マスコミを筆頭にこの騒ぎの大きさもおかしいよな。自業自得とは言え、執拗な批判は「いじめ」に近いものを感じてしまった。「ホントは優しい人間」と病に苦しむ友人との関係を紹介してるが、それこそ競技とも今回の問題とも関係の無い話しだしね。本当に優しい人間はあんな行為をして周囲の人に不快な思いをさせたりせんよ。

 「国母選手は世界選手権で優勝してる。メダル争いをするはず。」とマスコミは取り上げるが、スノボの最も有力なアメリカの選手たちは世界ツアーには参加せず、賞金が稼げるアメリカ国内ツアーに参加していると聞く。つまり世界選手権優勝と言ってもアメリカの選手抜きでの話しらしい。さて、おかしなところで注目されるようになった男子スノーボードはどうなるやら。
 ところで前回トリノで話題になった成田導夢選手って何してるんやろ?

2010年2月10日(水)
組織の寿命

 これまで様々な活動に関わらせてもらってきたが、その経験から言うと「組織」というものには自ずと“寿命”がある。

 ちなみにここでいう
「組織」とは基本的に営利を目的とする企業、事業所ではなく、例えば青年団とか婦人会、レクリエーション団体、そして劇団等の、所謂「任意団体」を指す。

 「組織」が誕生した時、どんな「組織」でもその活動には勢いがある。「こんな活動をしたい!」という希望を胸に集まり、その欲求を満たす場を持った初期メンバーの意気は当然高い。この頃の活動は本当に楽しくて楽しくて仕方がないもの。自分たちが自らの手でその組織を創っているという充実感に満ち、次に集まる機会が待ち遠しく、活動の場に向かうのに胸弾ませている。

 その幸せな時間がどれくらいかは組織によって異なるだろうけど、やがて少しずつ活動するにあたっての問題が表れてくる。活動自体がメンバーの非日常から日常に変化する頃から表れてくることが多いのが、

@ 「初期メンバー元来の意識の相違」
 活動が軌道に乗ってくると、さらなる発展を望む気持ちがメンバーの中に出てくるのは当然。その中でメンバーそれぞれの思いの違い、わずかなベクトルの違いが表面化してくる。もちろん方向性は同じなんだろうけど、目標達成するための手法が違ったりとか。
 そうしたわずかな思いの違いを埋められるか、メンバーがお互いを尊重しながら埋める努力ができるが鍵となる。

A 「初期とその後に加入したメンバーとの相違」
 初期メンバーは「組織」誕生時の苦労を知っていて、大袈裟に言えば「同じ釜の飯を分かち合った」仲間だ。その結びつきも強いし思い入れも生じる。そこに新しいメンバーが入ってくるとなかなか難しいことが起こる。新しいメンバーは当然「組織」が誕生した時のことを知らない、少なくとも体感をしていない。その「組織」への憧れはあるかもしれないが、それは初期メンバーの思いとは異なる。
 さらに問題をややこしくするのが「初期メンバーの団結」だ。「組織」誕生時の特別な時間を共にした仲間だから仲がいい。ところが場合によっては初期メンバーがお互いを特別視しがちになる。悪く言えば新参者を排他する田舎の集落だ。新メンバーを実際に排他するわけではないが、何か問題が起こると初期メンバーにしか相談しないとか、見えない壁のようなものを作ってしまう。
 これも@と同じだが、初期メンバーが見えない壁を作らず門戸を開く努力ができるか、新メンバーも溶け込む努力ができるかが、新しい人材を得て「組織」をさらに発展させるかどうかの分かれ道だ。

B 「停滞期に目標を見出せるか」
 「組織」に限らずどんな物事でも同じだが、常に成長し続けることは難しい。必ず停滞期、場合によっては後退する時期もある。「組織」誕生時の勢いが失われ、決まったイベントを変わらずにこなしていくだけの、変化がまるで無い活動を毎年繰り返すだけになると、目標を見失い、メンバーのモチベーションも同様に停滞、或いは後退する。当然活動していて面白味も停滞、或いは後退してしまう。
 こんな時に活動を継続させうるモチベーションを保てる目標を如何に見出すか、ということが課題となる。その目標は新しいものを見出してもいいし、それまでのものを心新たに設定してもいい。

C 「運営に携わる者とそれ以外の者との相違」
 「組織」規模の大小問わず、「運営に携わる者」とそれ以外の所謂「構成員」がいる。「運営に携わる者」と言うと偉く感じるが、実際に偉いというか「組織」を代表する場合と、書類作成や会計処理を行う事務担当の場合があり、「組織」規模が小さくなるほど両者を兼ねることが多くなる。ここでは主に後者の問題を論じるが、「運営に携わる者」と一「構成員」とは、活動に要する労力に差が存在するのはある程度避けられないことだ。一人のメンバーが「運営に携わる者」になった理由は様々であろうが、自薦他薦問わず多くの場合は「自分がやらねば。」という責任感だ。
 ところが「運営に携わる者」のモチベーションが下がってしまい、「何で自分だけがこんな苦労を…。」と考え始めるとかなりまずくなる。元々「構成員」とは避けられない違いがあるから、何かの問題、悩みを提起してもその受け取り方に相違が生じる。自分の悩みを十分に理解してもらえないとなると「運営に携わる者」は「組織」の中で孤独感を増していく。やがて限界に達せば、「運営に携わる者」の立場を降りる、最悪「組織」から脱退ということも起こりうる。もし一人のメンバーに運営を頼っていた場合は即「組織」の存続を問われる事態となってしまう。
 これは「構成員」であるメンバーが「お客さん」にならないようにすることでかなりの確率で回避できると思う。「運営に携わる者」に対して感謝の念を忘れず、協力する姿勢を持ち続ける。役割なんだからやるのが当然、というような考えは厳禁。その役割はメンバーであれば誰が担当してもいいのだから。「運営に携わる者」が孤独を感じないように、常に気にかけることだ。

 他にもいろいろあるだろうが、代表的なものを書いてみた。上記の問題はどんな「組織」でも多かれ少なかれ必ず起きてくるはずだ。それらの問題が大きくなって限界に達し解決不能になる。「組織」によって長短はあるだろうが、誕生から10年程度で起こる確率が大きい。ゆえに「組織」の“寿命”は10年と言えると思う。

 何故こんなことを書いたか。特にCで悩んでいる、「活動に携わる者」に言いたいのだ。


 やめちまえー!!  と。


 あなた一人が悩む必要はない。あなたの「組織」は既に寿命が尽きている。あなたの努力でいくら延命しても、あなたの「組織」に、例えば社会に還元する有益な何かを生み出す力は残っていない。ならばあなたのその労力を新しい何かに費やした方が有意義だ。頑張ってきた分思い入れも大きいことは痛いほど分かるが、あなたのその有能な力を無駄に浪費して欲しくない。

 あなたの「組織」がまだ必要とされるのであれば必ず協力者が現れるはず。それが現れないということは、もう必要とはされていないということなのだ。



 今日の日記、このまま「書きなべコラム」に転載しよっと。

2010年2月7日(日)
夢の島プロジェクト稽古

 前回体調不良により休んじゃったゆえ僕にとっては4週間ぶりとほぼ1ヶ月ぶりの稽古。ホント夢の島プロジェクトのシステムは1回の稽古の機会が貴重だ。

 で、前回の稽古がメンバーの話し合いにより読み稽古になったことを聞いたので、今日は台本冒頭から持ち立ち稽古とした。台本は読んでいたが稽古感が薄らいだ僕のためでもある(自分のためかい!)。まだ動きが固まっていない段階の稽古では、中に全く予想だにしない言動をする役者が出てくる。今日は滝波さんの動きにメンバー大爆笑! シリアスっぽいシーンなのに稽古場全体が腹がよじれる状態になった。まぁ面白いことは面白いのだが、芝居全体のバランスもある。単に笑えるだけのものを指向するのならこれでもいいだろうが、夢の島プロジェクトが目指すのは面白い“芝居”であるから、たぶん台本を手放した後の稽古でかなり押さえる指示を出すことになると思うな。どの程度にするかはまさに演出の判断になる。その判断が芝居全体の出来に影響する。当たり前の話だが、演出の責任は重い。

 あと、エンディング・シーンは少し台本に手を入れたいところ。具体的には台詞の追加。作者の神谷さつき氏とよく相談せねばなるない。

 冒頭からエンディング・シーン前まで。予定よりも少々遅れ気味ではあるが、今の段階でここまでできたのは大きい。これで早い段階で台本を離した稽古ができれば理想的だな。

2010年2月5日(金)
「黒」ではないが「白」でもない、それ以上に問題なのは…

 民主党小沢幹事長不起訴。本人は記者会見でえらく息巻いていたが、今回検察が判断したのは{不起訴=起訴しない」ということで、つまり「起訴して裁判で有罪を立証するだけの証拠がなかった」ことが証明されたにすぎない。決して疑惑が払拭されたわけではないのだ。

 さらに、小沢幹事長はずっと「軽微な事務的ミス」と称していたが、政治資金規正法とは元々企業献金等を規制する代わりに税金からお金を拠出しましょうという法律であり、その報告こそ制度の根幹を為すもの。その記載が間違っていて単なるミスと片付けてはマズイだろう。そして一番の問題は4億円もの巨額なお金の動きに関することを「軽微」と称する政治家の感覚だ。民主党は「国民の生活が一番」と掲げているが、日常の生活費も困窮する国民がいる中で、その感覚はあまりに国民と乖離していると言わざるをえない。

2010年2月2日(火)
前途は暗い

 日本相撲協会の理事選挙で大方の予想に反し、貴乃花親方が当選した。なかなか動かなかったものが動いたという感じだが、早速今日から各一門で「裏切り者探し」が行われているようだ。元々貴乃花親方に同調して一門から破門されたのが6名、貴乃花親方本人を入れて基礎票は7なのだから、他に貴乃花親方に投票したのが3名いるということになる。投票する権利は立行司や日本国籍を有する大関以上の力士も含まれるのでその3票が全て親方衆とは限らないが、実際には何人かの親方が一門の判断に沿わずに投票を行ったのであろう。

 貴乃花「理事」の今後に注目が集まるが、今日あたりの一門の動きを見る限り改革が大きく進むことは期待できそうもない。一つの組織の改革は一人の力でできるものではなく、同志や協力者の助力を得て初めて可能となるものだ。しかしながら「貴乃花に投票をした者は一門から出て行け。」と公然と発言するベテラン親方がいるようでは前途は暗い。
 “改革”とは「危機感」を持つ者が行うもの。組織を動かす人間たちに「危機感」がなかったり、自分の地位に固執するようでは“改革”などできるわけがない。