その2  芝居に込めた“主義主張”。
 
〜 芝居って“楽しむ”ものだよね? 〜

 僕は芝居ってのは基本的に100%娯楽だと考えています。確かに政治的や社会的なアピールをする場として芝居が利用されてことがあって、「反体制の象徴」と位置づけられ、芝居をやっている者はそれだけで公安当局に連行される時代もありました。でも今では他にいくらでも方法があるし、昔に比べれば誰でもアピールできる社会になっていると思いますから、台本書いて、役者を集めて稽古して…、なんて回りくどいことしなくたっていいんじゃないかな? せっかく劇場に足を運んでくれたお客さんには、難しいことは考えずに心ゆくまで芝居を楽しんで欲しいと考えているなべです。

 ところが中には「ただ自分の主義主張をしたいだけなの?」とか、「あ〜ここで何か思想的なアピールすれば芝居がカッコつくと考えたのかな?」と思ってしまう芝居を観ることがあります。自分の思想と合えばまぁ我慢できるでしょうが、合わなかったりすると芝居を観終えた後に気分が悪くなることさえあります。「“人間はこう生きるべきだ”なんてお前に言われたくないよ。」とか、それが10代や20代前半の作家が書いた台本だったりすると「アピールする前にもう少し人生や社会勉強しなさい。」なんて説教したくなったりして。いっそ“政治問題演劇”とか“環境演劇”とか事前に宣言してやるならまだ潔いのに。まぁ僕個人としてはそれらは純粋な“芝居”とは思えないけど。
 またそういう芝居に限って問題提起するだけで解決方法は示されないことが多い。文句言うだけなら誰だってできる。問題提起する以上、例え稚拙でもいいから自分なりの解決策を言えよと思うのは僕だけなのかな?

 もちろん本腰入れてアピールしてる作品もあります。観ていると「あ〜たぶん血ヘド吐きながら台本書いたんだろうなぁ。」と作家の心意気を感じることができる場合もあったりして。でも残念に思うのは“お客さんを楽しませる”という芝居の原点が感じられない作品がけっこー多いんです。そんな舞台を観たときは「あ〜やっちゃったね〜。」とガックリしちゃうんですけど。「そういう舞台が好きだ!」というお客さんもいるでしょうけど、学生運動盛んな頃と違って今は「いろいろな問題を考えることを“楽しむ”。」ってのが正直なトコじゃないかと思うんです。だとしたらお客さんを楽しませずに考え込ませただけで帰らしたら、アピールとしては成功なんだろうけど、芝居としては成功とは言えないんじゃないかなぁ。

 僕の芝居には難しいアピールはありません。もちろん採用した台本にテーマがあればそれに従いますし、例えば客演させていただく劇団の演出がそういうものを求めれば当然それに従う演技をしますが、僕自身はそういうアピールよりも観に来てくださったお客さんが「あ〜楽しかった〜。」と笑って言っていただく方が嬉しく思います。

 えっ? ホントに何もアピールしたいことは無いのかって? そりゃ演じる作品によって「お客さんがこんなこと感じて欲しいなぁ。」と言うものはあるけど、それは無理強いするつもりはない。「人間はこう生きるべきだ」なんて偉そうに言うほど立派な人生送ってないし。
 まぁ強いて言えば、楽しそうに芝居やってる僕自身を観てください。それで「あ〜元気貰った。」とか「自分も何か趣味持ちたい。」って思って貰えれば嬉しいですね。「あいつにできるんなら自分にもできそう。」って思って芝居始めてもらうのが最高かも、なんて考える、根は生涯学習推進活動家のなべです。

(平成17年1月18日)