その3  “芸術”って何?。
 
〜 無意味な“壁” 〜

 静岡県では毎年「しずおか春の芸術祭」というイベントが開催されている。平成11年に行われた「第2回シアター・オリンピック」を契機として、世界から“舞台芸術”作品を招聘して公演を行っているのだ。僕自身はこれまで何となく避けるようにして観なかった。それはほとんど本能的にで、自分でも何故かは分からなかったのだが、平成15年5月に地元新聞に掲載された「しずおか春の芸術祭」を紹介する記事を読んで理由が分かったような気がしたのだ。
 主旨は「舞台芸術を楽しむには基礎知識が必要。それは中学生など早い時期から身につけたい。」というもの。それ自体は納得できたのだが、しかしながら文章の後段で気になる表現があった。一部を無断(いけないかな?)で抜粋する。

 「原作を演出家がどう読み解き、俳優に演じさせているか―舞台を数多く観ることで、演出を楽しむ、それが舞台芸術の醍醐味なのである。舞台芸術は肩の凝らない演劇とは異なる。むしろ肩が凝る。緊張感が求められる。面白さだけを期待すると裏切られるかもしれない。だが、ほかの演劇にはない感動を得ることができる。」

 ふ〜ん、そうなんだ。古典落語とかは江戸時代の風俗を良く知ってると楽しさ倍増ということを聞いたことがあるが、舞台芸術もそうなんだね。でもそれが僕にとっては本能的に避ける理由だったんだろうな。知識がないと楽しめないことを嫌うのではない。この文章を書いた記者も、芸術祭を企画する県も、“演劇”よりも“舞台芸術”の方が上、高尚という意識が見え隠れするのが嫌なのだ。

 はっきり言ってしまおう。芝居は嗜好品なのだ。第2回のコラムでも同じようなことを書いたが、楽しみ方はお客さんそれぞれだろうけど、いずれにしても舞台を“楽しもう”として観にくる訳じゃない? だとしたらお客さんが楽しめなかった舞台は失敗作ということになる。例えどんな巨匠が演出して、有名な役者が演じたところでお客さんが楽しめなければその舞台は失敗なのだ。芝居を観に行くと、わざわざ小難しい表現をして“芸術”ぶった作品にあたってしまうことがある。観終わった後の第一声は間違いなく「あ〜分かんね〜。」となる。僕の場合はストーリーや表現方法が訳分からない時は、役者の台詞回しや動きに注目するので、役者さえ巧ければそこそこ満足はするのだけど、一般のお客さんはねぇ…。

 いや別に、先の新聞記者が言うところの“舞台芸術”を全て否定する気はない。創造力豊かな演出家の下で、鍛え上げられた役者たちが、優れた舞台を創り上げる。その舞台に感動して涙することもある。でもその感動って“演劇”でも得ることができるんだよね。無論基礎知識が必要な舞台もありだと思うが、それを“舞台芸術”と称して高尚ぶるのはいかがなものか? 要はどっちも舞台上で演じる芝居でしょ? 何故そこに小難しい“壁”が必要なの?

 そこまで言っていいかは分からないけど、僕自身は
「第2回シアター・オリンピック」は決して成功したイベントだとは言えないと思っている。静岡で世界有数の芝居を観ることができる機会が増えた一方で、「演劇って難しいもの」というイメージを観る側に植えつけてしまった気がするのだ。上記の記事を書いた記者が言う“舞台芸術”と一緒に、肩が凝らない“演劇”も同じ規模で観る機会を作れば、もっともとお芝居を観ようとする人が増えただろうに。肩が凝らない“演劇”を何度か楽しんだ後に「よっしゃ、いっちょ観てみるか。」と“舞台芸術”と称する芝居を観る。いきなりじゃとっつきにくいもんね。まずは“舞台芸術”だとか“演劇”だとかの、くだらない壁を無くすこと。昔から「文化は知識層からではなく、庶民から生まれる。」って言うはない。芝居を観る“文化”をホントに県民に定着させたいならば、片手落ちの方法じゃいけないとおもうんだけどなぁ。

(平成17年1月23日)