その8  なべ流“役創り”考
 
〜 “役柄”と“役回り”を探る 〜

 ここいらでちょいと「役創り」について考えてみたい。劇団や役者さんそれぞれ流儀があるだろう中で、僕なべ夢の島プロジェクトが追求しようとしている「役創り」の仕方とは…。



 台本に書かれている筋とかストーリーとかを無視して
「役創り」はできない。我々が演じようとしている役(キャラクター)は、台本のストーリーを展開させるために各々役割を持っている。その役割を読み解くということも「役創り」の重要な作業の一つである。

 つまり、
「役(キャラクター)は台本の中で生きている」のである。

 この大切なことを見失うと迷宮に迷いこむか単なる勘違いクンになってしまう。役創りをしようとすると、得てして自分に与えられた役のみに注目しがちになる。同時にやっぱり役者も人の子、自分の役はカッコよく(可愛く)見せたいもの。これが主役だったらまだいいが、所謂脇役だったりすると、台本が描く話の本筋からかけ離れることが起こりうる。まさに
「幹を見ずして枝葉のみを見る」。自分が演じる役(敢えて枝葉と表現)ばかり見て、台本が本来伝えたかった本筋(幹)を無視してることになる。

 経験が浅いうちはやりがちな失敗。エラソーに書いてるけど僕もやっちゃったことがあるんですな。で、迷宮に迷いこんじゃった。その時に先輩が教えてくれたのが
「台本に答えが書いてある。役創りで迷った時には台本に帰れ。」 今も肝に銘じてる言葉です。



 もちろん台本を一つの読み物ととらえれば正直疑問を感じることもある。「ここでこんな台詞言わねーよ。」とか「こんな行動するわけねーじゃん。」とか。確かに時にはホントに酷い台本もあって、ストーリーを展開させるがゆえに、かなり無理な設定とか無茶苦茶な台詞言い回しがなされている場合もあるんだけど、そういう酷いのはさておき、ここで注意をしなければならないのは
「今やっているのは“読書”ではなくて“役創り”である」ということ。つまりこの台本の中のとある役を演じるために、その役について探求するゆえに読んでいる。「役創り」で求められるのは、そこのシーンでそういう言動をする役(キャラクター)を「あなたはどう思うか?」ではなく、そういう言動をする役を「あなたはどう演じるか?」ということなのだ。

 そこには「自分」という存在は必要としない。敢えて言えば逆に「自分」という存在を消して望むのがベター。自分という存在を通して考えたら、当然自分自身に似かよった人物像になってしまう。「ここでこんな台詞を言うのは理解できないから演じられない。」などと言うのは単に読んだ上での感想に過ぎなくて演じることを放棄したに等しい。理解できないなりに落としどころを探るのも役創りの一つ。別の先輩に教えてくれたことに「悩んだ末に答えが見つからなかったら、とりあえず演出の言うとおり演じとけ。で、判断はお客さんに委ねろ。」ってのもあった。これはちょっと無責任な感じがして好まないのではあるが、「役創り」の手法の一つではあるが。



 ちなみに辞書で調べてみると、「役」とは「上演に際して俳優がふりあてられた劇中人物のこと。」、「役柄」とは「その人物の性別・年齢別・性格別を分類したこと」をいい、「役回り」とは「その人物が劇中でいかなる劇的効果を果たすか」をいったもの。(『演劇小事典(ダヴィッド社)』)と書いてあった。なるほど、
「役創り」とは「役柄」と「役回り」を探る作業。どちらが欠けても「役創り」は成り立たないのだ。



 が、ここで一つ問題がある。台本を読む際に自分という存在を通さないと言うものの、役の性格を読み解く力(読解力というか感受性というか)は自分自身の能力の一つであると言うこと。同時にそれを舞台上で演じる力(表現力というか演技力というか)も同じく自分の能力だということ。つまり、例えば完璧に役の性格を読み解いたと思っても、自分の引き出しの量により、浅くもなれば深くもなるのだ。ゆえに自分の引き出しを増やすために、我々は様々な基礎練習に精をだす。読み解く力を高めるために芝居や映画を観たり読書したり、演じる力を高めるために稽古に励んだり。

 って書いてると芝居に対してえらくストイックだと思われちゃうかもしれないけど、僕、そして
夢の島プロジェクトではあくまで「芝居を楽しむ」ために取り組んでいる。自分の引き出しが増えれば増えるほど芝居を楽しめる幅が拡がるでしょ? 「次はこんなん演技やったるかぁ。」なんてね(^^)

(平成25年3月13日 筆)