終章

 一

 総統暦一一一年四月一七日一九時五四分
 聖槍の間

 銃声。連続した銃声。
 まずエルンストが、アルベルトと総統に連射を浴びせた。弾倉にある限りの銃弾が目標に送り込まれた。軍服の各所に真っ赤な染みをつくり、アルベルトと総統は倒れた。
 次の瞬間、もはや躊躇する必要がなくなったアインヘリヤルたちは、エルンスト・アズマに背後から銃弾の雨を叩きつけた。彼もまたボロ雑巾のようになって前方へ吹き飛ばされる。
 彼はアルベルトのすぐ上に折り重なって倒れた。彼の身体から流れ出た血が、アルベルトの真っ黒いSS制服を濡らした。
 エルンストは荒い息をしていた。心臓や脳はまだ活動を止めていなかったが、眼には何も映っていなかった。大量の失血のため、あと数秒ですべてが喪われるだろう。だが口が動いている。唇がほんの少しだけ開けられ、その隙間から何か声が漏れている。
「……ね……さん。いいね」
 アルベルトもまた仰向けになって、手足を折り曲げ、口を半開きにして、何事かつぶやいていた。
「……きっと……でき」
 二人の顔に苦痛の色はなかった。致命傷は痛みを伴わない。むしろ彼らは夢見るような、平安そのものの表情を浮かべていた。
 ような? いや、彼らはじっさいに夢を見ていた。
 同じ夢を、見ていた。
 アルベルトのそばに、エルンストがいて。
 エルンストのそばに、アルベルトがいて。
 二人のあいだに、ルイーゼがいて。
 これからもずっとそれが続くのだと思われていた、あの遠い日の夢を。

 二

 総統暦九一年
 八月一五日
 一八時五一分
 アズマ家の屋根裏

「おねえさん。ぼくだよ。エルンストだよ」
 梯子をのぼり、天井の板を外すとき、彼はいつも胸の高鳴りを覚える。
 やがて彼の胸中を埋め尽くすことになる一つの感情は、当時の彼にはまだ無縁だ。けれどそれでも、姉を見るたびに胸のしめつけられる思いを味わうことには変わりなかった。どうして自分はおねえさんのために何もしてあげられないんだろう、いつも彼はそう思っていた。なにかしてあげられる人になりたい、そう思っていた。
「おねえさん……あれっ」
 かび臭い空気の中に頭を突っ込んで、エルンストは当惑する。そこには明かりがあった。懐中電灯の光。姉には全く必要のないものだ。
「ああ、エルンストか、おかえり」
 兄がいた。姉が腰掛けているベッドの前に膝をついて、何か食べていた。姉も白い手に何かを握っている。ベッドには盆が置かれ、クッキーが並べられていた。
「にいさん……」
「どうしたんだ、エルンスト。そんな顔して」
「……おにいちゃん、エルンストがどうかしたの? ねえエルンスト?」
「ううん……なんでもないよ姉さん」
 アルベルトはそう言うと、二人のいる場所へと歩みよっていった。
「おねえさん、おやつ?」
「ふふん。エルンストは食いしん坊だな。心配しなくても、ちゃんと残してやるつもりだったぞ」
「もう、兄さん……!」
「まあいい。ここに座って食え」
「いただきます!」
 クッキーを口に放り込んだ瞬間、からかわれていたことなど完全に忘れた。
「おいしい! このクッキー、兄さんが作ったの?」
「作れるわけないだろう。帰りに買ってきたんだ」
「そうだよね、兄さん、あんなにいろんな事しってるのに、料理はぜんぜんできないよね」
「まあな」
「そうよね、不思議よね。こないだも、ほら、あたしが眠れなかった時、すっごく難しい話してくれたじゃない」
「ああ。時代による倫理観の変化の話だな。あれは少し難しすぎたな。悪いことをした」
「悪くないよ、面白かったわよ。ねっ、エルンスト? おにいちゃんの話、面白いよね」
「う、うん」
 実のところエルンストには、兄の語る話……歴史、芸術、生物学、物理学の面白いエピソードを彼流に組み合わせたもの。教科書には絶対に載っていないような大胆な仮説が飛び出してくることも多い……の大部分が理解できなかったのだが、それでもうなずいた。兄の言葉の向こうには、広大な世界が広がっている気がしたのだ。そしてもちろん、姉の言葉を否定したくない、という気持ちの働きもある。
「難しい話を簡単に説明できない。それはまあ、僕がまだまだ勉強不足だということさ」
 兄は笑って、額の汗をぬぐった。いかにドイツが涼しい国とはいえ、八月、それも冷房どころか窓のひとつもない屋根裏となると相当な暑さだ。
「ちょっと暑いな。たまには下に降りて、冷たい物を食べよう。冷房を入れてくる、少し待っててくれ」
「あぶないよ!」
 悲鳴じみたエルンストの声。
「大丈夫だ。誰か人が来たときには、僕がうまく対応する」
「兄さんがそう言うなら……」
 ルイーゼが笑った。
「どうした」
「エルンストって、とってもおにいちゃんのこと信頼してるのね」
「そりゃそうだよ」
「信頼なんて言葉、どこで覚えた?」
「おにいちゃんの真似よ」
「……ルイーゼ、少し待っていろ」
 ベッドから腰を上げるアルベルト。その手をルイーゼがつかんだ。
「なんだ?」
「……おにいちゃん、さっきの話だけど。ほら、こないだしてくれた話」
「倫理観の変化? あれか?」
「ねえ兄さん、リンリカンってなに?」
「簡単に言うとだ。正しいこと、善。それは時代によって変わるということを説明していたんだ。結局、支配者が植え付けたものだからね」
「あたし、その話きいてすっごく嬉しかったんだ。だからお礼言いたいの」
「ルイーゼはまだ十一歳なんだ、そういう難しいことを考えるのはもう少し後でもいいぞ」
 ルイーゼは満面の笑みを浮かべているが、褒められているはずのアルベルトは、どこか苦々しげな表情をつくっている。
「だって、リンリカンが時代によって変わるんなら、いまのナチスだっていつか変わるもん!」
 兄の顔が、薄闇の中でもはっきりわかるほどに震えた。彼には判っていたのだ、少なくともルイーゼの生きているうちに、それほどの大きな変化はないだろうと。
 だが、それより先にエルンストが叫んでいた。
「そうだね、きっとできるよ、ねえさん! そうだよねにいさん」
 アルベルトは「そうだ」とは言わなかった。嘘をついても、ルイーゼはすぐに見抜く。それほど聡い子供なのだ。嘘だとわかった上でつきあってくれることはある。だが、そんな辛いことはさせたくなかった。だから彼は疑問を口にした。
「……そうだろうか? みんなが幸せに暮らせる時代か? 有史以来一度も実現したことのない時代がくるというのか?」
「だって、僕たちしあわせじゃない。それっと、仲良くしてるからだよね。けんかしちゃったら、しあわせじゃないよね。ほら、だからみんな、しあわせになりたいから、ほんとはみんな、なかよくしたいんだよっ」
 それだけの言葉をほとんど一息にまくしたて、エルンストは挑むような眼で兄を見ていた。いや、彼が挑戦のまなざしを向けているのは兄ではないだろう。兄の言葉の向こうに広がっている、「世界」そのものだ。
 それが理解できたから、アルベルトは精一杯の笑みを作った。
「……そうだな。そうなるといいな。本当に、そうだといいな」
 
 Das Ende
 


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