第七章

 一

 総統暦一一一年
 四月一一日一九時三八分
 ランツェスガーテン管制室

「ついに侵入されたか。アズマ君、君の弟はなかなかやるな」
 アズマは無言である。そのかわりに警備隊長が答えた。
「ご安心下さい、総統閣下。わずか二人にすぎません。館内防御機構で十分に対処できます。アインヘリヤルも五名残っています。この管制室まで敵がたどり着く確率は万に一つもありません」
 ハイドリヒはつるつるに剃った顎をなでながら首を傾げる。
「ふむ。すると敵はまるで勝算のない戦いをしかけてきたわけか。わざわざ全滅するためにやってきた間抜けなのか。どう思うね、アズマ長官」
 アルベルト・アズマはよどみなく答えた。
「勝てるつもりだったのでしょう。第二世代型アインヘリヤルの力を過大評価していたのでしょうな。それと……連中には後がありません。彼らの支持者は減る一方ですから。このままでは緩やかに滅びていくだけです。普段は数百万のドイツ軍に守護されている総統閣下が、わずか数十人の護衛のみを連れて山中に赴く。この機会を逃すわけにはいかない、一か八か賭けに出よう……そう思ったのでしょう」
「なるほど。どうせ死ぬなら戦って死のう、という類か。君の弟も、そんなものにつき合わされるとは哀れだな」
「いえ。裏切り者の当然の末路です」
「いっそこの手で殺してやりたい、かね」
 からかうような笑みを白い顔に浮かべ、ハイドリヒが問う。アルベルトは表情を変えなかった。そのかわり二秒ばかり沈黙し、小さく息を吸ってから答えた。
「……いえ。殺すだけでは不足です。奴にはそれ以上の苦しみを与えてやりたいと思っています」

 二

一九時四〇分
 ランツェスガーテン館内一階・廊下

 エルンストとセバチンスキーは途方にくれていた。
 二人が飛び込んだ部屋は、使用人が寝泊まりしている部屋らしい。誰もいなかった。安全を確認しつつドアを開け、鏡で向こう側を見ながら角を曲がり、地下へ階段へと向かった。見取り図によると、あと、わずか二つの角を曲がるだけでいい。むろん、罠をしかけつつ進んだ。追っ手のアインヘリヤルが間抜けなら全身に爆風と鉄片を浴びて悶死するはずだし、十分に注意深くとも、少しくらい時間はかせげるはずだ。
 そこまではよかった。
 だが、そこで二人は止まっていた。
 真っ赤な、くるぶしまで埋まってしまうような絨毯のしきつめられた廊下。
 壁には小さな額縁に飾られた、どちらかといえば写実的な画風の絵。それはこのランツェスガーテンが、基地というより宮殿に近い場所であることを教えてくれる光景だった。
 だが、外見はどうあれ事実は一つ。ここはやはり要塞だった。
 二人は並んで壁にはりついていた。わずか二メートル先の曲がり角を抜けることができなかった。なぜ? エルンストが手にしている金属の棒を見れば判る。先端が溶けた棒。溶けた部分には鏡が取り付けられていた。
「まさか対人レーザーとはな……」
 エルンスト、しかめっ面で棒を睨む。
 最初に鏡を出して確認したのは正しい判断だったと言えるだろう。それを省略して欠けだしていたら、あの角の向こうに設置されたセンサーが作動、天井からレーザーが降り注いで、一瞬のうちに焼き尽くされていたはずだ。
 レーザー……波長をそろえ、極限まで凝縮された破壊的な光。それを兵器として用いる研究が行われていることは、もちろんエルンストも知っていた。人工衛星に搭載し、宇宙空間で核ミサイルを迎撃する実験に成功した、というニュースが流れたのは、エルンストがまだ小さかった頃だ。
 だが、あれは宇宙兵器だ。レーザーは莫大な電力を消費し、小型化しづらく、曲線を描いて飛ばすことができず、しかも霧や雨などの自然現象によって実に簡単に威力を減じてしまう。地上で使うには欠点が多すぎる兵器だった。
 おそらく外に設置されていなかったのは、そういった欠点があるためだろう。屋内専用、それも固定式に絞ることで、どうにか実用化にこぎつけたのだ。
「蛇を倒すためだな」
「……アーデルハイドを? そうか、第二世代型に対抗するためか……」
 なるほど。アーデルハイドは銃弾をよけられる。だが光の速さで飛来する光線はどうだろう。無理に決まっている。千倍倍の神経加速をかければすべてのものは千分の一の速度に見えるが……それでも光は、一秒間で三百キロを飛ぶ。
「これを使う」
 そう言って背嚢からセバチンスキーが取り出したのは発煙筒だった。
「煙か」
 確かに煙幕を張れば光を散らすことはできるだろう。だが……エルンストは賛成する気になれなかった。
「視界は」
 見えなくなる。赤外線スコープを使えば多少はましになるが、それでも得られる情報量は大きく低下する。
 セバチンスキーは答えなかった。いつもしかめているようなその顔には何の表情も浮かんでいなかった。
「わかった、他に方法はないってんだな」
 覚悟をきめてゴーグルを取り出した。ロシア軍の横流し品が、果たしてどの程度の視界を約束してくれるか。以前おこなった実験では、こいつはドイツ製より遙かに劣る性能しかないことが明らかになっているのだ。
 セバチンスキーは無造作に発煙筒を放った。途端に灰色がかった白い煙が通路一杯に充満しはじめる。ミルクの中に飛び込んだような世界が出現した。
 スコープをかける。スイッチを入れた。背中のバッテリーがスコープを作動される。
 ゴーグルを通して見える世界は暗い。天井と壁に等間隔で取り付けられた照明と、その周辺が、ほんのりと赤く見えるだけだ。熱を出さないものは見えないのだ。
 ゆっくりと歩き出す。
 どんなに急いでいても、この有様では走ることはできない。曲がり角の向こうにいる敵の姿にしても、眼でとらえるわけにはいかないだろう。耳をすますしかない。
 幸い、地図は頭に叩きこんであった。
 管制室までは、わずかな距離だ。そこを占拠すれば情報が手に入る。相当自身がそこで戦局を見守っている可能性もある。
 みずからの足音で敵の足音を消さないように、エルンストたち二人はゆっくりと歩いた。
 一つ目の角を曲がった。
 とたんに光の槍が降り注いだ。
 煙を切り裂いてまぶしく輝く、対人レーザーだ。ゴーグルを通して見えるほどの強烈な光だった。
 一瞬、身を硬くする。レーザーが肩のあたりに当たった。懐中電灯を押し当てられたような、わずかな熱を感じる。だが、それだけだ。威力はないも同然になっていた。
 ひとつ目の敵が、これで無力化できた。だがもちろん、敵は対抗策を持ち出してくるだろう。
 直線の廊下が続いている。そこを突っ切る。中央あたりにぶらさがったレーザー照射器が、またしても光を浴びせてくる。
 風の唸る音が聞こえてきた。天井からだ。
 見上げても赤外線スコープは何もとらえない。だが判った。換気だ。煙を強制排出しているのだ。
「火花!」
「判っている」
背嚢からもう一本発煙筒を出す。
「あまりもたん」
 若干速度を速めた。
 通路の一番奥にまでたどりついた。
 扉がある。この向こうには地下へ降りる階段があるはずだ。あと少しなのだ。
 エルンストはゴーグルをずらして愕然とする。顔の前にかざした手も見えないほどだったのに、今は壁に絵がかかっているのが見える。ここの空調はかなり効くらしい。全身の汗腺から汗が噴き出した。これだけ煙が薄くなっては、レーザー拡散効果はもう期待できないのではないか。
「まずいぞ」
 セバチンスキーは答えない。ただ、立ち止まる。振り向いて突撃銃をかかげる。発砲。狭い通路に轟音が響き渡る。背後のレーザー照射器をひとつ破壊した。
 視界に入るかぎり、照射器はもうない。
 そのかわり、角を曲がって人影が飛び出してきた。全力疾走に近い速度だ。それだけ走っても足音に気づかなかったのは、銃声のほうが遙かに大きかったからだ。
 セバチンスキーが銃を水平に戻す。エルンストは反射的な動作で小銃を敵に向ける。だがそれより、その飛び込んできた男のほうがより早かった。
 男の持っている銃は突撃銃でなく、もっと銃身の短い、軽い、箱のような銃……短機関銃だったから。そしてもう一つ、武装SSの制服をまとったその男は、アインヘリヤルだったから。
 突撃銃の銃声より遙かに小さく軽い、タイプライターを連続して叩くような音。
 エルンストは身を投げた。だがセバチンスキーの動作はほんのわずかに遅れた。彼の背嚢には何十の爆発物がぎっしりとつまっていたからだろう。彼の身体がもんどりうって倒れる。
 一方エルンストは腹が絨毯に接触するのとほとんど同時に、銃口を敵に向けていた。
 図太い銃声。銃弾はたった数メートルの距離を音速の二倍で突っ走り、アインヘリヤルの灰色の軍服を貫いた。突撃銃の威力は短機関銃の何倍にも及ぶ。アインヘリヤルは無個性な顔をひきつらせ、のけぞって吹き飛ばされる。いまだ銃弾を吐き出し続ける短機関銃が、天井に多数の穴を開けた。
 エルンストは決して油断していなかった。
 第一世代型アインヘリヤルが超人であるということは認識していた。だがしかし、それ以上の超人……第二世代型の印象があまりに強烈だったため、それに比べれば大したことがないと思っていたことも事実だ。
 だから。自分の放った銃弾がアインヘリヤルの腹をえぐったとき、彼のこわばった顔面が少しだけゆるんだ。
 一瞬のち、また顔面が凍り付く。
 アインヘリヤルは倒れなかった。倒れる途中でバランスを取り戻し、再び銃をエルンストたちに向けた。へその下あたりに開いている穴こそ小さいが、そこから飛び込んだライフル弾は衝撃波で腸を弾けさせ、背骨を削り取って、背中の肉を破裂させたはずなのに。
 彼の顔を見た瞬間、エルンストは今度こそ本当に震えた。ギリシャ彫刻を思わせる金髪の巻き毛、よく通った鼻筋、鋭い眼。ひきしまった口元。それは先ほどから全く変わっていなかった。苦痛も、恐怖も怒りもない。
 こいつは何も感じていない。ただ機械のように動いている。命令されたから敵を探して、命令されたから撃って。アインヘリヤルは痛みを感じない、恐慌におちいることもない。手足がもげても平気で動く、だから一撃で絶命させるしかない。頭では判っていたはずの特徴が、いまやっと実感をともなって理解できた。
 闇雲な恐怖に駆られ、エルンストは引き金を絞った。何度も何度も。半自動に設定してあるため、機関銃のような連続発射はできない。続けざまに放たれた銃弾は、アインヘリヤルの腹と足に当たった。しかし、頭を吹き飛ばしたものは一発もない。伏せ撃ちのため、あまり高い目標には当てられないのだ。
 そして……
 アインヘリヤルはそれだけの弾を浴びてなお、よろめきつつも立っていたのである。
 エルンストが、背中と足の筋肉が許す限りの速度で体を起こす。彼の眼は血走っていた。そして銃をアインヘリヤルの頭に。
 その時にはもう、アインヘリヤルは射撃に入っていた。

 三

 五分前
 ランツェスガーテン管制室

「それ以上の苦しみ? どういうことかね」
 ハイドリヒは金属的な声をアズマ長官にぶつけた。彼の青い眼は値踏みするような視線を放っている。
 アルベルトは動ずることなく答えた。四角い眼鏡の向こうの眼には、総統に勝るとも劣らない冷たい光が宿っていた。
「そうです。完全な勝利のためです」
「連中はもうほとんど残っていない。全滅させれば完全な勝利だろう」
「それだけでは足りないのです。このまま殺しても、彼らは満足して死んでいくかも知れません。レジスタンスの死に顔を見たことはありますか」
「いや。私は書類に許可のサインをするだけだからな」
「私は何度もあります。彼らは確かに、苦しみの表情で死んでいくこともありますが……誇らしげな笑みを浮かべていることもまた多いのですよ。志半ばにして倒れたが、私は最後まで正しいことを貫いたのだ……とでも思ったのでしょう。そう、幸福に死んでいったのです」
「ふむ。君のいわんとすることが飲み込めてきた。つまり、それをうち砕けというのだな。その愚かな思いこみを」
「そうです。裏切り者、人類の敵たちに、ほんの少しでも幸福を味あわせてはなりません。すべてを知らしめるべきです。自分たちは間違っていたのだと、どうしようもなく間違っていたのだと、そう教育してからアインザッツすべきなのです」
「よくわかった。君はあの男、エルンスト・アズマに、聖槍のメッセージを見せるつもりだね?」
「ええ。あれを見れば、自分たちのやってきたことがいかに愚かで間違っていたか、全て判ります。それを判らせたうえで処刑しましょう。殉教者気分に酔いしれている人間を死刑にしても、罰を与えたことにはならない」
 総統はアルベルトに顔を近づけた。黒い眼の奥までのぞき込む。
「ふむ……真実を口にしているようだな」
「私は総統閣下に嘘などついたことはございません」
「そうだな。だが今回は、とりわけ誠実さが感じられる。君の本心からの言葉と判断していいだろうな」
 そこで総統は管制室前面の大型スクリーンに視線をずらした。
 その左半分には、この館の館内見取り図が映っている。もう半分には、館内の至る所に隠された監視カメラのとらえた映像が。
 この管制室へとつながる扉のすぐ前の廊下が映し出されていた。突進しながら短機関銃を連射するアインヘリヤル。もんどりうって倒れるセバチンスキー。たった一人の生き残りとなったエルンストが必至の反撃を試みる。だがアインヘリヤルは即死しない。アインヘリヤルはプログラム通り、エルンストに銃口を向け……
「やめさせろ!」
 総統は叫んだ。
 
 四

 一九時四一分
 ランツェスガーテン館内

 エルンストより早く、アインヘリヤルは射撃に入っていた。
 だがその時、いかなる恐怖も痛みも感じないはずのアインヘリヤルが、電撃に撃たれたように硬直した。
 銃口から鉛玉が飛び出すことはなかった。かわりにアインヘリヤルの口から言葉が、発音の奇麗なドイツ語が飛び出した。
「降伏しろ!」
 エルンストは中腰の姿勢で、固まった。アインヘリヤルのかまえた短機関銃、その短い銃身は、間違いなく自分の頭を指向している。自分の銃と全く同じように。
 どうする。相手の言葉を受け入れずに撃てば、次の瞬間と俺も、こいつも頭が木っ端微塵。相打ちには持ち込める。
 もはや汗すら出なくなった身体をこわばらせ、排気装置のうなりの中で、彼は考えた。
いや、考える必要など無かったのだ。脊髄反射よりも早く、答えは出ていたから。
 ……それでは意味がない。
 ここで死んだら奴を殺せない。
「五秒以内に降伏しろ」
 腹には親指が入るほどの穴が三つも四つも開いているというのに、アインヘリヤルの声はしっかりしていた。身体がふらついている様子もない。
 エルンストの心にふと疑問が生じた? 降伏? 降伏だと。こいつらがレジスタンスの降伏を認めたことなど、いままで一度でもあったか?
「総統閣下がお会いになる」
 エルンストの顎が大きく開かれた。言葉が出てこない。一体どういうことだ。こんな形でチャンスが巡ってくるとは。
「わかった、降伏する」
 両方の手を大きく挙げた。
「武器を捨てろ」
 突撃銃を後ろ向きに放り投げる。背嚢から腕を抜く。どさりと背嚢が床に落ちる音。
「もう武器はない。調べろ」
 手袋に覆われた手が体中をはい回っている間、エルンストの脳裏をしめていたのはたったひとつのことだった。
 あきらめない。俺はあきらめない。
 たった一人になっても。
 背後の扉が、重い音とともに開いた。
 振り向きたい。だが目の前、わずか数十センチの距離にある短機関銃が「少しでも動けば殺す」と告げている。
 背後から聞こえてきたのは開閉音ばかりではなかった。ひどく甲高い、神経質そうな声。そして重い、陰気そのものの声。
「これがエルンスト・アズマ君か。君にはまるで似ていないねえ、アズマ長官」
「そうでしょうね。昔からそうでした」
 この声は。この声は!
 振り向きたい。あらんかぎりの瞬発力を振り絞れば、あるいは一発くらいは撃ち込めるのではないか。次の瞬間蜂の巣になっても俺はかまわん、とにかく奴を……そう思いはしたが、かんじんの小銃が足下に転がっているという事実は動かなかった。しゃがんで掴むより、引き金を引く方が早いのは明らかだ。
 今は駄目だ。そう判ってはいても、身体の筋肉が勝手に動こうとする。それをとどめるのには渾身の意志力を必要とした。
「震えているぞ、どうしたのかねエルンスト・アズマ君?」
 総統の声がまた響いた。
「遠慮することはない。こちらを向きたまえ」
 総統が許可したのだ、かまわないだろう。エルンストはゆっくりと身体の向きを変えた。
 そこには総統ラインハルト・ハイドリヒがいた。広い額、細長い頭、とがった鼻、整ってはいるが、どこかいびつなものを感じさせる容姿。ニュースで見たままの姿だ。
 そしてそのすぐ後ろに、影のように付き従っているのは。
 枯れ木のようにやせ細った男。黒光りする一般SS制服を着込んではいても、その下に一片の肉もついていないことがわかる。まったくもって軍人らしからぬ体格だ。身体の上には、やはり細い首。そのまた上には、白髪まじりの頭が乗っている。頬はえぐりとられたかのようにこけている。四角い眼鏡の奥で、灰色の眼球が粘液じみた光を放っている。
「き……さま……」
 その言葉はすぐに出てきた。もはや足の傷も、アインヘリヤルに銃を突きつけられていることも関係なかった。ただ、ただ、あふれかえった怒りが臓腑を灼いた。
「おやおや、久しぶりの再会だというのに、雰囲気が少し険悪過ぎはしないかね、二人とも?」
「ご冗談はおやめ下さい、総統閣下」
 いっさい表情を変えず、それどころかエルンストを見ようともせずに、アルベルトは言った。その態度がエルンストの血液をさらに沸騰させる。足が、身体が震える。拳を砕けんばかりに握りしめる。だが、動くことはできない。ただ一片だけ残った理性が、今動いたらその瞬間殺される、お前の目的は達成できない、そう叫んでいた。
 エルンストは息を深く吸った。身体の緊張を無理矢理にでもほぐそうとする。このままでは、いくら頭が拒否しても、身体が勝手につかみかかってしまいかねない。
「ふふん。まあ、そんなものかも知れんな。こうしてみるとなかなか意志の強そうな顔立ちではないか。どこまで耐えられるか、どれほど取り乱すか、楽しみだな」
「ええ」
 何をする気だ。おれを拷問にかけるのか。エルンストの頭の中に疑問符が出現した。なぜ、さっさと殺さない?
「ついてきてもらおう。君には見てもらわねばならないものがあるのだよ」
 総統は無表情だった。
 だがアルベルトは違った。幽鬼そのものの顔にまぎれもない期待の笑みが浮かんだのを、エルンストは確かに見た。

 五

 一九時五〇分
 ランツェスガーテン 聖槍の間への階段
 
 螺旋階段を、エルンストは登っていた。
 むろん彼だけではない。彼の前と後ろに一人ずつ、無傷のアインヘリヤルが張り付いている。それよりさらに前に、総統とアルベルト。アルベルトの曲がった背中がちらちらと、壁にとりつけられた小さな白熱電球の光の中で見えた。
 ……どこまで行くつもりだ。
 こいつらはおれをどこに連れていくつもりなのだ。いや、そんなことより……隙。隙はないか。ほんの一瞬でいい。このアインヘリヤルどもから銃を奪って、前方の二人に向かってぶっ放せる瞬間はないか。
 結論。ありはしない。今の彼は銃の命ずるがまま、両手を上げている。これを十センチ下げたら、抵抗の意志ありと見なされる。
 エルンストは額を伝う汗を感じながら、ひとつの可能性に思い至った。
 ここは狭い。ここで俺を撃てば、天井や壁を弾が跳ね回る。総統やアルベルトも道連れではないか。実は撃てないのではないか。
 するとハイドリヒが冷笑をふくんだ声で告げた。
「そうそう、エルンスト・アズマ君。彼らの弾は屋内用の弱装薬だ。君の身体の中で止まるよ。残念だったね」
「……!」
 歯ぎしりする。そのくらいは考えているということか。だとすれば手はないのか。
 そうこうしているうちに、階段は終わった。
 ここは、ちょうど三階あたりだろうか。
 ひとつの大きな扉があった。
 重厚な装飾をほどこされた扉だ。
「お前たち」
 ハイドリヒは振り向くことなく言った。
「はっ」
 二人のアインヘリヤルが即答する。
「この部屋の中に何があるのか、お前たちは知る権利を持たない。だが、監視のためには一緒に入る必要がある。仕方ない、この部屋を出た直後に自決しろ」
「かしこまりました」
 全く同じタイミングで二人は答える。
 死ねと命じられたというのに、やはりアインヘリヤルの声に震えはなかった。
「偉大なる『聖槍』よ。我らアーリアの導き手よ。人類の守護者よ。第四代総統ラインハルト・ハイドリヒが願う。御身との謁見を。再び我らが前に、その姿を示したまえ。託宣を賜わしたまえ」
ハイドリヒが直立不動の姿勢をとって、その文句を唱える。
 扉が、ゆっくりと開いた。
「さあ、見るがいいエルンスト・アズマ君。これこそが人類の救い主、第三帝国をして世界の支配者たらしめた力、『聖槍』だ」

 六

 一九時五二分
 「聖槍の間」

 そこは白い部屋だった。
 磨き上げられた石によって、床・壁・天井の全てが構成されている。中央には祭壇めいたものがあった。その祭壇にまつられているものを見ようとして、エルンストは眉をひそめた。
 それは彼の常識では理解できないものだった。それは槍だった。人の身長ほどの、まるで水晶のような質感をもつ槍。それが宙に浮かんでいた。
 いや違う、根本の部分は、まだ描きかけの絵のように消えている。とぎれているわけではない。何もない空間から、槍が生えているのだ。まるで別の世界からこちらの世界に現れようとして、途中で力つきたかのようだった。
聖槍。その単語には聞き覚えがあった。
 聖槍……またの名をロンギヌスの槍という。キリストの血を浴びて神聖な力を得たという槍で、所有者には絶大な神秘力を与えてくれるという。
 ヒトラーがヨーロッパ制覇の野望にとりつかれたのは聖槍に魅入られたがゆえ。それを成功させたのも聖槍の力を借りたからこそだと言われている。
 だが、そんなものはおとぎ話ではないか。第三代総統あたりなら、そういった話を信じても不思議ではないが……ハイドリヒはそんな人間ではない。
「ひざまづけ、人間!」
 そんな声が頭の中ではじけた。
 ハイドリヒとアルベルトが、そしてアインヘリヤルが、機械仕掛けのような動きで片膝をつく。仰天した。神聖不可侵の、神に等しい総統が膝を屈している。
 自分も同じ姿勢をとった。
「ハイドリヒよ。この男は何者か」
 また同じ声がした。奇妙な違和感を覚える。
 そうだ、この声は耳から聞こえていない。空気を震わせ、耳から飛び込んできたわけではない。俺の頭の中に聞こえているのだ。
 一体なにが起こっている。こいつは一体なんだ。
 エルンストの中の疑問符はその数を百倍に増していた。たった一つわかったこと、それは……自分がナチスの、ほんの一部しか知らなかったということだ。
「エルンスト・アズマなる反逆者です、聖槍よ。この者に、我らの使命を、それに逆らうことの愚かさをご教示ください」
 聖槍は答えなかった。
 そのかわり頭の中で何かが弾けた。
 眼に映る景色が消えた。耳から流れ込んでくる音が消えた。あまりに膨大すぎる情報が、五感をかき消してしまったのだ。
 意識をえぐって多数の単語が炸裂した。
 ……本来の歴史。第三帝国は負けていた。米ソによるドイツの分割。世界の分割。冷戦。核ミサイルと宇宙ロケット開発競争。朝鮮で、ベトナムで起こった代理戦争。地球国家の建国。そして人類はついに宇宙へ。しかし奴らは来た。接触。壊滅。相互理解を求めて。また壊滅。ついに大艦隊が。それでも壊滅。人類はすべての植民星を喪った。最後の反攻作戦。聖槍計画。人類に残された最後の希望。歴史を、現実を織り直せ。悲劇の歴史を回避せよ。祈り。多くの人たちの祈り。百億、いや千億におよぶ人々の。どうか、どうか歴史を。我々の思いを無駄にするな。どうか、どうか。
 全く同時に、映像も見えた。
 ……ベルリンを踏みにじるソ連の重戦車。すでに街は瓦礫の山。パンツァー・ファウストをかついで突撃していく、老人と子供ばかりの部隊。そのベルリン地下、ぐらぐらと揺れる地下壕にこもっている男。げっそりとやつれているが、初代総統アドルフ・ヒトラーだ。彼はかたわらの女性に何事か囁きかけると、拳銃で自分の頭を撃ち抜いた。
 場面が変わる。無骨な箱形の機械が、灰色の世界に音もなく降り立つ。その機械……月着陸船から降り立った男はアメリカの国旗を持っていた。また場面が変わる。今度の宇宙船は実に巨大だった。周囲を漂っている宇宙服姿の男達と比較すれば、城塞なみの大きさを持っていることが判る。人類初の恒星間宇宙船だ。また場面が変わる……
 
 七

 もう一つの世界
 もう一つの歴史

 ドイツは、負けていた。
 勝つことができたのは、フランスとの戦いまで。その後は敗北の連続だった。イギリスに負けた。ソ連に負けた。ついに米ソの大軍が本土にまで押し寄せた。焼け野原となったベルリンで、ソ連兵は暴虐のかぎりをつくした。総統が自決してから三ヶ月ほどで、同盟国だった東洋の帝国も滅亡した。
 それ以後、世界はアメリカと、そしてソ連によって統治されることとなった。戦争が終わってわずか数年で、二つの国は対立を始めていた。はじめはアジアの小さな半島をめぐって砲火がまじえられた。やがて二つの国は世界を灼きつくせるだけの核爆弾を手に入れ、危険な睨み合いを始めた。
 睨み合いは、経済力に劣るソ連の屈服という形で決着がついた。次は宇宙開発の時代がやってきた。たった一つの世界帝国となったアメリカは月面に、衛星軌道に基地を造り出した。火星に、木星に宇宙船を送り込んだ。
 二十二世紀に入り、世界統一国家・地球連邦が建国され、国家間の対立が消滅したことも、宇宙開発を加速する原因となった。そしてついに西暦二二五〇年、人類はこの狭苦しい箱庭から、太陽系から飛び出した。
 人類初の超光速探査船が、千億の星またたく銀河へとこぎ出したのだ。
 繁栄の時代が、黄金期がやってきた。だがその時代は……最悪の形で中断されたのだ。
 二二八八年。とある植民惑星が、正体不明の艦隊に襲われ連絡を絶った。確認に訪れた部隊もたちまち撃滅された。
 「奴ら」の襲来だった。
 「奴ら」が、あの異星人たちが、結局どんな連中であったのか、それは今もって判らない。彼らは人類といっさい交流をもたなかったからだ。こちらがいかなる手段でよびかけても、すべて無視した。「奴ら」が使っている言葉を理解しようという試みも、すべて失敗した。
 学者達は言う。彼らは、昆虫と人間ほどに、我々とは思考形態が異なっているのだろう。あまりに精神が違いすぎて、相互理解がまったくできないのだと。向こうは、こちらが心のある存在だと認識していないのかも知れない。雑草を刈るような、あるいは害虫駆除のよな気分なのかも知れない。
 むろん、それすらも仮説にすぎない。
 すべては謎だったが、二つだけ、即座に判明した事実があった。「奴ら」は……我々を問答無用で絶滅させようとしている、ということ。そしてもう一つ……「奴ら」の科学技術は、我々を上回っていること。
 超光速エンジンの速力。航続力。ビーム兵器の破壊力、射程、防御システム。センサーによる探知可能距離。すべてが桁違いだった。人類の艦隊は、勝利どころか反撃すらできずに潰されていった。
 全人類領域から全ての戦闘艦艇がかき集められた。そうして編成された決戦艦隊すら、ろくに損害を与えることもできずに壊滅した。
 その報を受け取った時、連邦宇宙軍総司令部の人間は天を仰いで絶叫したという。
 「あと百年。あと百年、我々の科学が進んでいたなら。あと百年!」
 それは、あらゆる人間達の心の叫びであったろう。技術格差の前にすべての戦術は無意味だった。押し寄せる戦車や装甲車を、火縄銃や矛で止めようとするようなものだった。
 多くの植民惑星が根絶やしにされた。
 やがて「あと百年」という悲痛な叫びが、ひとつの計画を生み出した。
 つまり、あと百年、科学技術の発達が早ければ勝てるのではないか。我々の世界はそうではない。だが、そんな世界に変えてしまえばいい。
 過去にさかのぼり、歴史を変えるのだ。
 残り少ない物資の大半を投入して、時空間に穴を開ける計画が遂行された。マイクロ・ブラックホールの超高速回転による因果律の破壊。それによって小さなカプセルを過去に送り込み、カプセルに搭載された人工知能が人々を導いて、歴史を変える。技術的には可能であろうと考えられた。
 問題は、どんなふうに歴史を変えるかである。どう変われば、科学の発達は加速されるか。いろいろ可能性はあった。
 キリスト教のせいでヨーロッパの科学は停滞した。キリスト教が生まれなければどうか。もっとも大きな効果が期待されたのはそのプランだ。だが、過去に物体を送り込む技術はまだまだ研究の途上にあった。今の技術レベルでは、二三〇〇年もの遠い過去には干渉できない。
 何かないか。もっと手近な過去に、大きく歴史を変えられる転換点は。
 あった。確かにあった。人々が眼をそらしてきた、だが確実な転換点が。
 ナチス・ドイツ!
 人類史に決して消えることのない傷痕を残して、わずか十年そこそこで跡形もなく消滅した国家。
 ジェット戦闘機、ロケット戦闘機、弾道ミサイルといったもの、当時の科学の常識を越えた「超兵器」を多数造り出した国家。戦争には負けたが、戦勝国アメリカやソ連の技術者たちですら、ドイツの高度な科学技術には驚嘆するばかりだったという。アメリカ・ソ連が宇宙ロケットを開発、衛星軌道や月面に到達できたのは、ナチスから得た技術あってのことだ。
 その進んだ科学力をもつナチスが、もし敗北していなかったら? 世界を手中におさめ、百年、二百年におよび存続していたら。
 量子コンピュータは結論を導き出した。
 新しい歴史においては、我々の歴史とは比較にならないほどの速度で科学技術が発達するだろう。九十八.五パーセントの確率で、人類の科学力は「奴ら」をしのぎ、その撃退を可能にするだろう。
 ……これしかない。
 歴史を改変し、ナチスドイツに勝利を。
 それこそが、人類を救いうるたった一つの道なのだ。
 
 ここまでの歴史が、めくるめく映像と言葉の乱舞が、エルンストの頭に流れ込んでは消えていった。あまりに膨大な量に打ちのめされ、それが本当なのかどうかすら判断できなくなる。やがてエルンスト・アズマは、自分が虚空のただ中に浮かんでいることに気づいた。目の前にひとりの男の映像があらわれた。
 長年の闘病生活。そんな言葉を連想するような顔つきの男だった。単に衰弱しているだけではない。年齢そのものは四十代だろうが、その皮膚から、表情から、眼の輝きから、すべての生命力がこぼれ落ちてしまったような顔だ。
 いま、その顔は深い苦悩に歪んでいた。苦々しい表情を浮かべたまま、男は唇を震わせ、言葉を発した。
「……もうひとつの歴史の住人達へ。私は地球連邦の首相だ。これが真実だ。我々の世界で何が起こり、どう歴史が進み、そして我々がなにを決断したか、すべては今君たちに教えた通りだ。すでに人類は、ほとんど全ての植民星を喪った。地球すら、あと数ヶ月もしないうちに攻め滅ぼされてしまうことだろう。だが、このまま終わらせて良いはずがない。何千億という同胞が、我々の最後の計画に望みを託して死んでいった。我々はその期待に応えなければいけない。だから……我々はこの計画を断行することにした。もう一つの世界の住人たちよ。聖槍の言葉に耳を傾け、聖槍のシナリオ通りに歴史を進めてくれ。そうすれば必ず、『奴ら』に勝利することが出来る。
 どうか、人類を、地球を救ってくれ。
 ああ、判っている。それが苦難に満ちた道のりであることくらいは。ナチスは多くの人を殺した。ユダヤ教徒、共産主義者、ロマ族、身体障害者……国家社会主義に逆らうものと、弱者は、ナチスの世界では生きることを許されない。ナチスが滅びることなく続けば、殺される人間の数は爆発的に増えることだろう。何億もの人々が死んでいくだろう。
 だが……もしそれをやらなければ。このまま歴史を自然なままにしておけば、それとは比較にならないほどの人間が死ぬことになるのだ。だから、どうか理解してくれ。人類全体を救うためなのだ。
 我々の思いを、願いを無駄にしないでくれ、必ず歴史を変えてくれ。人類を救ってくれ。どうか、どうか……」
 そして、「想い」が伝わってきた。
 砂袋で頭を殴られたような衝撃。
 ……どうか、どうか、人類を救ってくれ。
 ……おれたちの祈りを、犠牲を無駄にしないでくれ。
 それはイメージ投射システムによって彼の意識に送り込まれる、何千人もの人々の思いだった。その奔流にエルンストは圧倒された。
ただ、ひたすら圧倒された。
 
 八

 一九時五三分
 「聖槍の間」

 腰に衝撃をおぼえた。その場に力無く転がる。ぼんやりした照明に照らされた天井が見えた。
 ようやく意識がはっきりする。
 おれはエルンスト・アズマ……レジスタンスの一員……ナチスを滅ぼすため、総統と、そしてアルベルト・アズマを暗殺するためにここへ来た……それで、聖槍とかいう奴のメッセージを聞かされて……
 これは……これは本当のことなのか。
 全身がわなないていた。彼は恐怖を感じていた。銃弾の飛び交う中を駆け回り、突撃銃を振り回して敵兵とわたりあった時にも決して感じなかった種類の恐怖。
 自分を支えてきたものが、根底から崩れ去っていくような恐怖。
「うそだ……」
「嘘ではないのだよ、エルンスト・アズマ君」
 口を半開きにして、声の主を見る。
 総統が、ひやかかな笑みを浮かべていた。
「これは事実だ。もともとの歴史では、第三帝国は滅んでいた。だからこそ科学の発達は遅れ、人類は『奴ら』と呼ばれる異星人の攻撃によって絶滅した。そんな未来を回避するために、聖槍はやってきた。第三帝国が行っている全てのことは、『奴ら』を撃退するためなのだ」
 総統の深く窪んだ眼には、なかば恍惚としているかのような光が宿っていた。自分は絶対に正しいことをしているのだと、心の底から思っている人間の眼だった。
「まちがってる……そんなのまちがってる……」
 かぼそい声で、そう言うのがやっとだった。
「ほほう。何が間違っているのかね」
「いくら……いくら人類を救うためだからって……こんな……何億人も殺していいはずが……」
「正しいことのためでも、やってはいけないことはある。多数のために少数を犠牲にするという思想は間違っている、君はそう主張するのかね、エルンスト・アズマ君?」
 総統は薄い唇の端をつり上げた。笑っているらしい。
「ああ……そうだ……ぜったいに。絶対にそんなことは……」
 今度は、総統は何も言わなかった。代わりにSS長官が、どこか粘着質の声で尋ねた。
「君にそんなことが言えるのですか? 言う資格があるのですか」
その言葉はエルンストの脳をつんざき、臓腑を灼いた。頭の中で一つの閃光が弾けた。
 おれもおなじことを、やっている。
 ナチスを倒すという目標のために。多くの人を殺して。仲間すら殺して。これは仕方ないのだと、大きな目的のためには仕方ないのだと。仕方ないのだと、そう言い聞かせて。呪文のように唱えて。
 いくつもの言葉が脳裏によみがえった。
 ……どんなに罪をかさねても、絶対にやらなければいけないことがある……
 ……ねえさんのために。ほんとうに大切なもののために。あいつを殺すために、そのためなら何でもやる……
「どうしたのですか、エルンスト・アズマ。とても顔色が悪いですよ。そうですか。ついに理解したのですね。自分がやってきたことが、どれほど愚かなことだったのか。あなた方レジスタンスに、我々NSDAPを批判する資格などないということを。鏡の中の自分と出会った気分はどうですか?」
「あ、あ、あ……」
 唇をかんだ。拳をにぎりしめた。拳からは感触が失せ、唇は破れて血が噴き出した。
だが、それほど強い力をこめても……痛みは感じなかった。そんなちっぽけな、身体の表面を滑っていく痛みとは比較にならないほどの激痛が、彼をさいなんでいたからだ。
「ふふん。見てみろ、アズマ長官。この男の無様な顔を。レジスタンスの闘士がきいて呆れるではないか。君の言ったとおりだったな」
「いいえ、まだです」
 アルベルトは床にうずくまっている弟を一瞥、氷よりも冷たい声で断言した。
「まだ、足りません。他人から言ってきかされただけでは駄目なのです。自分の意志で、自分の言葉で、すべてを否定させるのです。自分のやってきたことすべてを。総統閣下、こちらへおいでください。この愚か者の末路を、惨めな有様を、すぐそばで見ようではありませんか」
 そう言うなり、つかつかと弟に歩みよる。総統はうなずき、アルベルトのすぐ後ろについてきた。
 わずか数分前まで勇気と覚悟に満ちていたエルンストの顔は、十人中八人は精悍だと認めるだろうその顔は、今やただ恐怖によってのみ彩られている。錯乱寸前であった。
「……さあ。エルンスト・アズマ。認めるのです。すべてが虚しいということを。すべて間違っていたということを。口に出して言うのです、自分の意志で」
「あ……おれ……ま……」
「そう、言うのです。俺は間違っていた、何もかも無意味だったと」
「おれ……おれ……は……」
 血の気が引いた唇が震えるが、言葉らしい言葉は出てこない。
「おれ……」
「まだ認めることができないのですか、すべて無意味だと……あなたに、我ら第三帝国の大義を非難する資格などないと」
 アルベルトの声は冷たかった。
 しかし、その骨張った顔には、ある種の期待が見え隠れしていた。それが何を意味するのか、総統もエルンストも理解していない。総統は、絶対的な勝利を前にして気分がゆるんでいた。エルンストはそれどころではない。
「おれ……」
「言うのです」
 その瞬間、エルンストの身体の震えがぴたりと止まった。顔を上げる。兄の視線と弟の視線が、真っ向からぶつかった。
「そうだ……そうだよね……」
 弟の声は、まだ震えていた。だがそこには明確な力が充満していた。
「そうだ……おれはやらなければいけないんだ……ねえさんが、あいつが、みんなが、いってくれたんだ……やくそく、したんだ……」
 その言葉を耳にした瞬間、アルベルトは眼をそらした。つい数秒前まで赤子のように無力だった弟の眼に、何か恐ろしいものを見いだしたかのように。見えない力に打ち据えられたかのように。しかし彼の顔に恐怖はなかった。遠い昔を懐かしむような表情と、そしていびつな歓喜の表情があった。
 エルンストは両方の手を地面に突き、片方の膝もついて、ゆっくりと立ち上がりはじめた。
「……エルンスト」
 アルベルトは問うた。
「なぜ、お前は立ち上がれる?」
 はっきりと、彼の口調は変わっていた。
「……声がしたから。ねえさんの声が。アーデルハイドの声が。みんなの声が」
「そうか。……私には、もう聞こえないんだ。だがお前には聞こえたのだな」
 総統が顔面をこわばらせる。
「待て……アズマ長官、君は一体何を言っているのだ?」
「こういうことです、総統閣下」
 アルベルトの行動は迅速だった。総統の後ろに回り込むと、背後から羽交い締めにする。いつの間にやら、もう片方の手には護身用の小型拳銃が握られていた。
「な、なんのつもりだっ! アズマ長官!」
「おわかりにならないのですか? 本当に?」
「まさか君は……あ、アインヘリヤルどもっ! こいつを撃ち殺せ、アインザッツしろ!」
 しかし、アインヘリヤルたちは動けない。総統の首筋には銃が突きつけられている。それに二人の身体はあまりに密着している。総統を傷つけず、アルベルト・アズマだけを殺すことは不可能だ。
「無理ですよ、総統閣下。アインヘリヤルは、総統の命を第一に考えるように作られている。それは総統自身の命令ですら覆せない」
 エルンストは両眼と口をいっぱいに開いていた。あまりのことに声も出せない。
「どうした、エルンスト。そんなに私の行動が意外か。私がお前の期待を裏切るのは、これで二度目のはずだ。いまさら驚くな」
 エルンストの口がようやく動いた。この十五年間、一度として発されたことのない単語が飛び出してくる。熱い吐息と共に。
「にいさん……」
「……私をその名で呼ぶな。そんな男はもういない。一五年前に消えた。お前ではなく私が、ルイーゼの最後の望みを聴いた。私のほうがルイーゼに近い場所にいる。ただそれだけが喜びだった。そのために生きてきた。だが、それも……間違いだったようだ。お前には、声が聞こえたのだな。私には聞こえなかった」
 エルンストの脳がようやく、ひとつの推論を導き出そうとしていた。あまりにも驚くべき答えだったので、驚嘆の声すら出せない。奇妙な平板な声で問いかける。
「にいさん。それじゃあ、兄さんは今までずっと、ナチスの奴らをだまして……ねえさんのために?」
「そんなくだらんことはどうでもいい。結局、ルイーゼはお前を選んだ。全ては私の勘違いだった。それだけのことだ」
 アルベルトはそこで言葉を切る。
「……私ごと総統を撃て」
「にいさん!」
「何を驚いている。お前には総統は撃てないかも知れない。自分もナチスと同じだから撃てない、そう気づいてしまったかも知れない。だが、私なら撃てるはずだ。私が憎いはずだ。長い長い間、ただ私だけを憎んで憎み続けてきたはずだ。違うか。アインヘリヤル、命令する。エルンスト・アズマに銃を渡せ。逆らえば総統を今すぐ射殺する」
「やめろアインヘリヤル、従うな、こいつは反逆者だ! もはやSS長官ではない」
 しかし、総統の命を盾にとられている以上、逆らえる道理がなかった。片方のアインヘリヤルが整然と歩いてきて、エルンストに短機関銃を手渡す。
「……私が自分で総統を撃つことはたやすい。だが、お前にやってほしい。思えば、私はずっと、こうされたかったのかもしれん。お前がこうしてくれるのを待っていたのかもしれんな」
 エルンストは銃を持ち上げた。
「どうした、銃身がふらついているぞ。そんなことでは駄目だ。一撃で確実に絶命させろ」
 エルンスト・アズマは弱々しく微笑んだ。
「やっぱり、にいさんは兄さんのままだ。おれが悩んでいると、少しだけ考え込んで、すぐに正しい答えを出してくれる、なんでも知っていた、あの頃の兄さんのままだ」
 兄の血色の悪い顔に、無理矢理張り付けた様な笑みが浮かび、すぐに消えた。
「そうかも知れないな。だが、もう遅い。私の気が変わらないうちに撃て。……この私が、私の体を動かしていられるうちに撃て」
「馬鹿なことを。私一人を殺したからどうなるというのだ。第三帝国は強固なシステムだぞ」
「いいえ、エルンスト達のことです、きっとこれをきっかけに、大きな動きを起こしてくれるでしょう。全世界でレジスタンスが一斉に立ち上がる。それで本当にナチスがひっくり返せるかどうかは不明ですが……やってみる価値はあるでしょう」
 ……人間よ! 人間よ! 愚かなことはやめろ。我は聖槍、人類を導くもの。滅びの運命を回避するためにさしのべられた腕。計画からの逸脱は許されない。シナリオは絶対に変更してはならない。わずかな変更が大きな歴史変動となり、勝利の確率を減少させるだろう! 人間よ! 人間よ! 愚かなことはやめよ……
 そこにいる全員の頭の中で、聖槍の悲鳴が炸裂した。エルンストは呻きながらもそれに耐え、言った。
「……できるさ。他にも方法はある。ナチスなしでも、そいつらに対抗する方法は」
「そうだな……そんなこともあるかもしれん。私にできなかったことが、お前にはできたようにな」
 アルベルトはため息をついた。そして顔から、いっさいの感情を消して。
「さあ、撃て」
 


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