「総統暦一一一年」

 序章

 一

 西暦二三〇五年
 地下五百キロメートル
 アガルタ要塞 中央管制室

「第七防衛ライン、突破されました!」
 オペレータの声は悲鳴に近かった。
 だが、所長は動じない。管制室の中央に立ったまま微動だにせず、命ずる。
「作業を急げ。MBHチーム、早く第二フェイズに入れ。聖槍チームの方も機能チェックはどうした?」
 そう、彼はひるんだ様子を全く見せていなかった。内心にどれほどの苦悩が渦巻いていようとも。第一から第七までの防衛ライン全てが突破されたということが何を意味するか、理解していても。
 衝撃。
 この地下基地が……遙か地の底、マントル層に埋まった要塞が揺らいだ。同時に照明が真っ赤な非常灯に切り替わる。
 これは砲撃だった。
 第七、すなわち最後の防衛ライン……地球をすっぽりと包み込む電磁バリアを突破してきた「奴ら」が、反物質砲を撃ち込んできたのだ。人類の造り出した戦闘艦の砲とは比較にならない大威力の。核兵器すら凌ぐ、山脈を引きちぎり大洋を沸騰させるほどの莫大なエネルギーが、今地上に放たれたのだ。
「ひ、ひ、ひ、ひいっっ!」
 悲鳴に近い、ではなく、まるきり悲鳴でしかないものが発された。意外にも、これまで冷静さを保って任務を続けてきた男……「聖槍」チーム主任の声だった。彼は顔面の皮膚をひきつらせ、両膝を折って震えている。
 彼の恐怖は瞬く間に室内に伝染した。
 だが、所長はなおも表情を崩さない。白い仮面のような、その表情を。
 要塞とは言うが、ここに集まっているのは軍人ではない。科学者・技術者たちだ。責任者の役職名が「司令」ではなく「所長」なのは、本当の意味では軍事施設ではないという証拠だ。だが所長は歴戦の下士官もかくやという落ち着いた態度をたもったまま、嗚咽をもらす主任を見下ろしていた。
 彼はこれまで、いつもそうだった。
 この計画が人類最後の希望であると、そう理解したときから。何億人の死者が出ようとも、決して動揺を見せることがなかった。
「……報告しろ。地上の被害は?」
「地表との連絡とれません!」
 オペレータの一人が、管制室に並んだモニターを見て叫んだ。彼の額には汗が流れている。
「アジア・ブロック、ヨーロッパ・ブロック、アメリカ・ブロック、ロシア・ブロック……アフリカ・ブロック……すべて駄目ですっ!
 ……あ! オセアニア・ブロックが! オーストラリアが呼びかけています! 生き残ってますっ!」
 一筋の希望を見いだし、オペレータは歓喜の声を上げた。今のただ一撃で地球住民の大半が死んだ、という事実から眼をそむけて。
「つなげ」
 回線の向こうの声は、ひどく早口だった。
「……こちらオセアニア・ブロック、メルボルン。アガルタ要塞へ。大地震だ、ビルが片端からなぎ倒された。オーストラリア中がこの有様だ。津波も観測されている。空が黒い。大量の塵が……他のブロックとは連絡が取れない。たぶん、一瞬で焼き払われた」
 そう、男は実に早口だった。運良くオーストラリアは直撃を免れたが、二度目もそうであるという保証は全くないことに。
「そうか、そうかみんな……きいてくれっ! みんな恨み言なんて一言もいってないっ! みんなあんたたちに期待してる。計画がうまくいってくれるって祈ってる。だからおれたちのとにかくみんなの仇を討ってくれ、世界を変えてくれ、なあ必ず」
 そのとき突然、通信は途絶えた。激しい雑音が管制室に満ちる。
「……オセアニア・ブロックとの通信が途絶しました」
 今まさに。今まさに、人類は絶滅した。「奴ら」の攻撃によって。このアガルタに残された、わずか二十名の聖槍計画メンバーをのぞいて。
「もう嫌だあっ!」
 主任はついに、その場に這いつくばって絶叫した。
「艦隊も全滅したっ! 植民星系も、木星や火星も、軌道のコロニー群も粉々だ! そのうえ地球も! 生きてる人間はもう俺達だけだ。もういい、もう何をしたって無駄だ、できるわけがねえ、やめだっ!」
 そして、あとはすすり泣き。
 しばらくの間、誰も言葉を発さなかった。
 聖槍チームの人間ばかりでなく、もう一つのチーム……MBHチームの人々も。
 彼の叫びは、ここにいる人々の思いを見事に代弁していたからだ。
 「奴ら」との戦いで、人類は滅びた。
 いまさら、こんな計画になんの意味がある。成功する確率はきわめて低く、たとえ成功したところで死んだ人間が生き返るわけでもないこの計画に。
 いや、それだけではない。人類は残された力の多くを、この計画につぎこんできた。計画がなければ、膨大な予算と資源が使われなければ、地球の壊滅はいくぶん遅れていただろう。ある意味、人々が死んでいったのは自分たちのせいなのだ。
「……立て」
 所長は命じた。
「すべて了解した上で、お前はここに来たはずだ。違うのか」
 冷たい視線が所長にそそがれた。
 その通りだ。頭では判っている。だが、じっさいに目の当たりにしてしまうと、やはり我慢ならない。それなのに、あなたは理屈通り行動できるというのか。あなたは本当に人間か。全員の視線が、そう訴えていた。
 所長は、赤い非常灯に照らされた室内を見渡した。いや違う、部屋を見たのではない。ともに計画を推進してきた仲間たちを見たのだ。
「オーストラリアからの通信は聞いたろう。連中は『頼む』と言ったのだ。成功してくれと。恋人や家族の名前を叫びたかったろうに、そんなことはせずに、ただ頼むと。いまここでやめたら、あの連中の思いは全くの無意味だということになるな。それでいいのか」
 言葉がメンバー全員に浸透するまで、何秒かの時間を要した。
 聖槍チーム主任が身を起こした。死人のような顔色の彼は、だが瞳に確かな光を宿して所長を見た。
「……やります」
「……よし。作業に戻れ。敵もすぐ我々に気づくだろう。時間がない。急ぐんだ。私はMBHの方を手伝おう」
「わかりました。おい、聖槍機能チェックスタート。自動にまかせておけん、自分の眼でやるんだ」
「『聖槍』機能チェック開始します。記憶系異常なし、演算系異常なし、イメージ転送系異常なし、重力中和ユニット異常なし、外装異常なし!」
 モニターの文字列を読み上げるオペレータの声は興奮と緊張を帯びていた。当然だ、たとえMBHが首尾良く『門』を開いてくれたとしても、『聖槍』のほうが動いてくれなければどうにもならない。
 一方のMBHチームも、血走った眼でモニターを睨み作業に没頭していた。
「MBH、レベル四以上の帯電を確認。第一フェイズ終了、第二フェイズに移行します」
「全ジェネレータ最大出力。第二フェイズ、MBH加速プロセス開始」
 壁の向こうから、巨獣の雄叫びにも地鳴りにも似た轟音が響き始める。
 惑星一〇〇〇個に電力を供給できる、特大の核融合発電装置が、その力を振り絞り始めたのだ。
「フライホイール接続。予備電力を投入します」
 轟音は、さらに強まる。
「MBH角速度、コンマ一、コンマ一二、コンマ一三、コンマ一四、コンマ一五、コンマ一六っ!!」
 オペレータは声を張り上げた。そうでもしないと聞こえないのだ。
「ホーキング効果抑制触媒の作用を確認しろ」
「了解。……触媒、規定の効力を発揮しています。作用率一〇五パーセント、MBHの蒸発抑制に成功していますっ!」
「MBH加速続きます! コンマ二、コンマ二二……!」
 その時、再度の衝撃が襲ってきた。
 先ほどの比ではなかった。所長はバランスを失い、床に叩きつけられる。
 とっさに身を起こした彼が発した言葉は。
「被害と状況を報告しろ!」
「了解! また敵の砲撃です。この要塞の直上に喰らったようです。岩盤が十キロほどえぐられた模様ですが、この施設そのものの損害はありませんっ!」
「もうばれたってのか!」
「そんな!」
「動ずるな。作業を続行しろ!」
「第二フェイズ続行します。角速度コンマ二六、二八、三〇」
「聖槍、再度チェックします。全機能異常ありません!」
「角速度、順調に増大中。コンマ三二、コンマ三五……!」
 じれったい。もっと早く。時間がないのだ。
 おそらく室内の誰もがそう感じていただろう。敵は確実にこの要塞を狙ってきている。ここで行われている「計画」に気づいているのだ。防御のため地底深くに施設を造ったが、厚さ五百キロの岩盤とマントルといえども、反物質ビームを完全に受け止めることはできない。少しずつ削られる。
 もっと、もっと早く。
 その思いに耐えきれなかったのだろう、オペレータの一人が隣のオペレータに喰ってかかった。
「おい、なにやってんだよ、もっと早くできないのか!」
「これでも限界だ。MBHの電荷が足りないんだよ」
「だったらもっと強く帯電させろよ」
「無茶言うな。カー・ノルドシュトローム型ブラックホールがどんなに制御困難か、あんただって知ってるだろう。それに触媒だってまだ研究段階だ。これ以上電荷を強めたら、何が起こるか」
 そう、この計画に使われている技術はおせじにも成熟したものとはいえない。ほとんどは実験段階のものばかりだ。完璧を期するにはもう十年か二十年は研究しなければいけないが、そんな時間は誰も与えてくれなかった。
「コンマ四、コンマ四三……!」
 それでもMBHの角速度……回転数は着実に上がっていく。
 その時、またしても衝撃。先ほどと同レベルのものだが、今度は誰も倒れなかった。
「前回から十五秒たっています。やはり砲撃ですね。岩盤がまた十キロえぐられました」
「この分だと、あと五十回だな」
 所長は険しい表情でつぶやく。
「計算によると、五十二回でこの基地は破壊されます。この砲撃ペースだと十二、三分ですね」
「……最終フェイズの終了までは何分だ。間に合うのか」
 所長が鋭い眼光を向けて、MBHチーム主任に問う。
 もし「否」という答えが返ってきたら、すべては無に帰する。数千億の人命も、予算もエネルギーも。
 室内の空気が残らず粘液と化したかのような沈黙が、ほんの一瞬降りた。主任は顔を上げ、胸を張って叫ぶ。
「あと七分で終了しますっ! 我々の勝ちですっ!」
 歓声をあげようとした皆を、所長が片手で制した。
「まだ喜ぶのは早い。いかなるアクシデントも起こりうる。気を緩めるな」
 踊りださんばかりだった熱狂は、一気にしずまった。そこにまた衝撃が襲いかかり、彼らの気をひきしめる。
「コンマ六、コンマ六二、六三、六四、六五……」
 回転速度の上昇率が、目に見えて遅くなり始めた。無理もない。MBHは大きさのわりに途方もなく重いのだ。
「保持フィールドの負担、高まっています!」
「……保持できないのか?」
「いいえ、まだ大丈夫ですが」
「無意味な報告はするな」
「……し、しかし、このままでは目標値のコンマ八八に到達できない可能性が」
「我々にはそれしか方法がない」
「……わかりました」
「保持フィールドストレス値、一〇〇パーセントを突破!」
「かまわん、続けろ。一二〇までは耐えられるはずだ」
「コンマ七五、七五五、七六、七六五……!」
 回転速度はますます上がらなくなっていった。コンマ七五といえば光速の七五パーセント、それだけ光速に近づけば、少しは重くもなる。それだけではない、この速度領域のMBHがどのような動きを見せるのか、理論では予測できても、実際に見知っている人間はひとりもいないのだ。あまりにも研究期間が足りな過ぎた。
 またしても衝撃。
「コンマ七六五、コンマ七六八、コンマ七七〇……!」
 それから数分がすぎた。長い長い数分だった。
「……コンマ八七九五、コンマ八七九六。コンマ八七九七、八七九八、八七九九……」
 オペレータの声が震えた。彼の顔面の皮膚は、いまにも破れそうにひきつっていた。
「コンマ……コンマ八八! 八八です!」
「臨界超えました!」
「事象の地平線、消滅を確認!」
「因果律の乱れを確認!」
「MBH、NEPに変化しました!」
 これらの報告は、たった一つのことを意味していた。
 MBH……マイクロ・ブラック・ホールが、いまこの瞬間「タイムマシン」と化した。
 これこそが、「奴ら」に対抗する切り札。人類に残された最後の希望だった。
「第二フェイズ終了、第三フェイズに移行しますっ!」
 大変なのはむしろこれからだと言っていい。
 ブラックホール自体はありふれたものだ。だが、超高速回転によってブラックホール周囲の時間停止領域を消滅させたもの……NEP、裸の特異点。それは全宇宙でもきわめて稀だ。そんな代物を完全に制御しなければいけない。裸の特異点はすべての物理法則を超えた存在であるとすら言われている。はたしてコントロールできるのか。
「磁力バイアス、正常に作動しています。制御が可能です!」
「よし!」
 相変わらず無表情だったが、所長は力強くうなずいた。もっとも難題とされていたことが片づいたのだ。
「目標時空座標の設定を行え」
「了解。目標時間、西暦一九三五年。目標空間、ヨーロッパ、ドイツ。設定完了」
 これ以上に細かい設定は、現在の技術では不可能である。聖槍の人工知能に期待する他ない。
「第三フェイズ終了。最終フェイズに移行します」
 上方からの衝撃はますます強くなっていた。だが、時間はまだ七分も残っている。
 司令はMBHチームから離れ、再び管制室の中央に立って命じた。
「『聖槍』射出せよ!」
「了解。射出しますっ!」
 オペレータがコマンドを打ち込んだ。
 沈黙。
 息苦しいほどの、沈黙。
「どうしたっ」
「射出カタパルトが作動しません!」
「落ち着け。原因をチェックするのだ」
 オペレータは血相変えてキーを連打する。モニターに表示されたカタパルトの構造図を、真っ赤な眼でにらみつける。
「……!」
「どうだ。こ、これは……」
脇からのぞき込んだ者も絶句した。
「第六十四番コイルの絶縁が不完全だったようです。被覆がはがれてショートしています」
「馬鹿な、なぜそんな初歩的なミスを」
「急ぎすぎたんだ……」
 誰かが口にしたその言葉は、間違いなく事実を言い当てていた。だが、いまさら言っても仕方ないことだ。
「修理は?」
「自動修復では無理です。この部分にはマニュピレータも届きません」
 全員の眼が見開かれた。
 では、すべては無意味?
 九十九パーセント成功したのに、最後の一歩で何もかも失うというのか?
その時ひとりの男が立ち上がった。
「私が行きます。カタパルトのコイルを交換すればよろしいのですね」
 聖槍チーム主任だった。
「危険だ。裸の特異点からは放射線の嵐が」
「防護服を着ればすぐには死にません。死ぬまでに数分あります。作業をするには十分です。……先ほどは、取り乱して申し訳ありませんでした」
「……償いをするというのか?」
「いいえ、義務を果たすだけです」
 所長は彼の眼を見つめ、ただこれだけ言った。
「頼んだぞ」

 二

 二分後
 聖槍射出カタパルト付近

 直径数百メートルに及ぶ大空洞の中に、彼はいた。
 不格好な放射線防護服をまとって。
 もちろんマイクロブラックホールのぶちまける放射線をこんな代物で防げはしない。気休め程度だ。
 が、これによって死ぬまでの時間は多少は伸びる。
 それでいいと、彼は考えていた。
大空洞は熱気に満ちていた。ブラックホールの放射線が壁を叩き、加熱しているのだ。だが熱の源であるブラックホールの姿はどこにも見えない。確かに空洞の中心部に浮かんでいるはずなのだが、そこには保持コイルが同心円上に並んでいるだけで、ブラックホールそのものの姿はない。当然だ、原子より遙かに小さなものなのだ。
 重力の影響もない。マイクロブラックホールの重力は確かに強いが、ほんの数ミリ離れれば人間が感じられないほどに弱まってしまうのだ。
 彼は点検用ハッチを背に、よたよたと歩き出した。
 走っているつもりなのだが、客観的に見ればその動きは実に緩慢なものだった。
 ……あと四分しかないぞ。
 身体の動きを妨げる防護服がうっとうしくてならなかった。これを抜けば一瞬で吐血して死ぬとわかっていても。
 電磁カタパルト……空洞の中央に向けられた、大砲のような機械…そこまでたどりつくのに、さらに一分の時間を要した。
 腰の工具箱から取り出したレンチで外板を外し、潜り込む。
 残り時間はあと二分。
 第十四番コイルは人間の頭ほどもある部品だった。この防護服に簡易の筋力増強機構がついていなければ、取り外して引っ張り出すことは不可能だったろう。
 カタパルトの外にコイルを転がす。
 その時、もうタイムリミットは一分二十秒先に迫っていた。
 急げ、急げ、落ち着いて急げ。
 彼は自分にそう言い聞かせながらカタパルトの下に降り、交換用のコイルを持って上がってきた。
 手袋の中は汗まみれだった。振れば音がするほどだろう。決して暑さのせいではない。顔は真っ赤になって腫れ上がり、びっしりと汗の玉が浮いていた。そして吐き気がした。今、誰かが彼の頭をつかめば、ごっそりと髪の毛が抜けるだろう。
 それでも、彼は作業を続けた。
 最後の配線の接続を終えると、彼はヘルメット内の通信機を作動させ、怒鳴った。
「完了した! 作動させろ!」
「……わかった」
 脱出しろ、とは誰も言わなかった。いまさら戻ってどうするというのだ。
 次の瞬間、コイルに電流が流された。
 強烈きわまりない磁力が生じた。防護服の全電子機器は火花を吹いて沈黙した。あらゆる金属部分が真っ赤に熱される。防護服は破裂した。コイル群から、煮えたぎった粘液が噴き出す。一瞬前まで、聖槍チーム主任の肉体だった物が。
 彼の命とひきかえに、カタパルトは作動した。「聖槍」は加速し、ぎらぎらと輝く雷光をまとって、カタパルトの端から発射される。空洞中央の「裸の特異点」、時空トンネルに向かって。設定された通りの速度と角度で。
 閃光。
 光が消えたとき、聖槍の姿はどこにもなかった。

 三

 タイムリミット二十秒前
 管制室

「……聖槍の消失を確認! NEPジャンプに成功した模様です!」
 全員が歓声をあげた。
「やった! やったぞ!」「やりましたね!」
「人類はこれで救われる!」「変わる! 世界は変わる!」
 あと二十秒で確実な死がやってくるというのに、彼らは一様に明るかった。そうだろう、彼らは今人類を救ったのだ。「奴ら」に滅ぼされるという歴史を織り直すことに成功したのだ。全員が満足していた。
 全員?
 いや、たった一人、所長だけが熱狂から取り残されていた。歓喜のかわりに彼の表情を支配していたのは苦悩だった。彼はこの作戦が始まって以来はじめて、表情らしい表情を浮かべていた。
 本当に、本当にこれでよかったのだろうか?
 人類を救ったにも関わらず、彼はそう思い、悩んでいたのだ。
 次の瞬間、最後の衝撃がやってきた。アガルタ要塞の外壁が破れ、灼熱のプラズマが放射線の奔流とともに押し寄せてきた。
 死の瞬間、所長だけが疑問を感じていた。
 「本当に、これでよかったのか」と。
 彼は、ユダヤ人だったから。


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