第一章

 一

 総統暦一一一年四月十一日
 十九時二十六分
 高度五千メートル

 エルンスト・アズマは希薄な空気の中で、酸素マスクとゴーグルに覆われた顔を歪めていた。
 こんな作戦、正気の沙汰ではない。
 何度も何度もそう思った。作戦を聞かされたときも思ったし、訓練の過程でも思った。訓練の途中で次々に死者が出るのを見て、疑問は確信へと高まった。しかもその訓練は、決して十分なものではなかった。施設にせよ時間にせよ不足していた。エルンストたち『リヒテン・フェーヌス』は確かにナチス相手に四十年近く戦い抜いてきた歴戦のレジスタンスだが、本物の軍隊ではないのだ。
 それなのに、グライダーで山脈上空を突っ切って敵基地に降下作戦だと? 正気か。
 もちろん今だってそう思っている。
「あっ、あ! あああ!」
 風に乗って誰かの悲鳴が聞こえてきた。この悲鳴が、訓練不足の何よりの証明だ。
 バランスを崩さないよう、慎重に首を動かす。
 真横を飛んでいたグライダーが風にあおられ、傾いて落ちてゆく。ろくに光がないのだ、その姿はすぐに見えなくなる。彼は暗視装置のゴーグルをつけていたが、星明かりすらろくにない状況では限度がある。
「あ、ああああ!」
 声はたちまち、聞き取れないほど小さくなった。
 胸にぶら下げた通信機をいじれば声をかけることもできるが、エルンストは黙っていた。
 何故? 他人を助けている余裕などなかったから。
 自分も、木の葉のように揺らぐグライダーを立て直すのがやっとだったから。
 左右の腕に力を入れ、身体を傾け、風を逃がす。だが軽すぎるグライダーは浮き上がり、ひっくり返ろうとする。頭の上の軽量二サイクルエンジンが弾けるような音を立てているが、そんな非力なエンジンでは何もできない。気休め程度といっていい。
 風が弱まった。ひと息つく。今回は、どうにか生き残ることが出来たようだ。そうだ、こんなところで死んでたまるか。おれは奴の胸に銃弾をぶち込むんだ。
 周囲は雲とも霧ともつかない白いもや、そして眼下にはごつごつした山並み、ときおり、この高度よりも高い山が前に立ちはだかる。山と山の隙間を抜けなければいけない時もある。こんな、飛行機と呼ぶのがためらわれるような、エンジン付きハンググライダーで、しかも夜間に!
 だが……くじけるわけにはいかない。
 あとわずか十数キロで、目標が見えてくる。眼下に広がっているはずのアルプスの山々。その中に建てられた一つの館。「ランツェスガーテン」。そこに総統はいる。
 ふだんは何十万、いや何百万という軍隊……国防軍と武装SSに守られている総統が、ほとんど無防備な状態であそこにいるのだ。
 あいつも……アルベルトも一緒にいる。
 分厚い手袋で覆われたエルンストの手、ハンググライダーにしがみついているエルンストの手が、震えた。骨がきしんだ。それほどに強く握りしめているのだった。
 暗視ゴーグルと酸素マスクの奥にわずかにのぞくエルンストの顔から、いつしかこわばりは消えていた。笑っていた。彼は笑っていた。すこし彫りが深いものの明確に東洋人の特徴をとどめているその顔を、喜びに歪ませていた。
 やっと、奴を殺せる日が来た。
 この狂った世界を……叩き潰す日が。
 十五年前から、俺はこの日だけを待ち望んできた。

 二

 総統暦九六年(西暦一九八四年)
 六月一五日
 ミュンヘンのとある中学校

「気をつけ!」
 初老の教師が、気合いを入った号令をかける。軍服によく似た制服を着込んだ少年少女たちは一斉に姿勢を正した。
「うむ。よろしい。それでは授業をはじめる。今日はこれだ」
 教師は教卓に設置されたキーボードを叩いた。黒板に文字が映し出される。
 「国家社会主義的世界観 反逆者の末路」
教師は生徒たちをひとしきり見回し、全員が黒板に注目していることを確認した上で、また満足げにうなずいた。
「今回はドイツを蝕む裏切り者について話をしよう。そこ、ベーア君、第一次世界大戦はどんな戦争だったか、知っているかね」
 ベーアと呼ばれた少年は、ばね仕掛けのような勢いで起立すると、背筋を伸ばしたままの姿勢で答えた。
「はいっ。第一次大戦は、ドイツの偉大さが明らかになった戦争でしたっ。ドイツはイギリス・フランス・ロシア・日本など、多くの敵国を抱えていたにも関わらず勝利を重ねたのですっ。おもな勝利には、二倍の敵軍をうち破ったタンネンベルクの戦い、新兵器で敵を苦しめたイープルの戦い、敵の猛攻を退けたソンムの戦い、イギリス艦隊を見事撃退したケルマデック海戦などがあります!」
 実際にはドイツが負けた戦いも多いのだが、そんなことは教科書に載っていない。誰も教えない。
「その通り。だが、それだけの勝利を重ねたにも関わらずドイツは戦争に負けた。さて、それはどうしてだ、誰かわかるものはいるか」
「はいっ」
 ベーアの隣に座っていた、より小柄な男子生徒が手を挙げた。
「ハイネマン君か。答は?」
「はいっ。それは裏切り者がいたからです」
「裏切り者とは?」
「はいっ。それは共産主義者とユダヤ人です」
「全くその通りだ」
 教師は重々しくうなずいた。
「ドイツは勝っていた。戦いには勝っていたのだ。それなのに裏切り者たちがドイツを内部から崩壊させた。そしてドイツは負けた。たった一度の敗北で、ドイツは莫大な金をむしりとられ、誇りをふみにじられた。人々は屈辱と貧困に泣くばかりだった。ワイマール時代と呼ばれる暗黒の時代だ。我々ドイツ国民にとって最悪の時代といえる。だが! 一人の指導者が現れ、この状況を変えてくれたのだ!」
 そこで教師は教室を見渡し、後ろの方に座っている少年に眼を止めた。中学生離れした良い体格だが、どこか苦しげな表情を浮かべている少年。
「アズマ君。エルンスト・アズマ君」
少年は弾かれたように立ち上がった。
「はっ、はい」
「その指導者とは誰かね」
 エルンスト・アズマと呼ばれた少年は即答した。
「初代総統、アドルフ・ヒトラー閣下です」
「その通り」
 教師はまたうなずいて、教卓のキーボードを操作する。黒板に、四人の顔写真が映った。
 髪の毛を中央で分けた、目つきの悪いチョビひげの男。初代総統アドルフ・ヒトラー。
 広い額と、意志の強そうな眼が印象的な男。第二代総統カール・デーニッツ。
 丸眼鏡をかけた病弱そうな男、第三代総統ハインリヒ・ヒムラー。
 細長い顔、極端に彫りの深い整った容姿を持つ男、第四代総統ラインハルト・ハイドリヒ。
「歴代の総統はいずれも偉大な方々ばかりだ。だがヒトラー閣下の偉大さはその中でも別格だと言わざるを得ない。閣下の偉大な采配あってこそ、ドイツは再び蘇り、世界の頂点に立つことができたのだ。我々は総統に感謝の念を捧げなければならない。わかるな? 我々はそう思っているからこそ『西暦』というものを廃し、ヒトラー閣下の生年を元年とした『総統暦』を使うようになったのだ。つまりヒトラー閣下はキリストごときより遙かに偉大であるということだ」
 ここで教師は生徒全員を見回した。
 エルンスト・アズマが、教師の鋭い眼光を浴びせられた体をこわばらせる。
「だが……戦いはまだ終わっていない」
 教師が、これまで以上に熱のこもった口調でそう断言する。
 生徒の多くは不審な表情をうかべた。戦いは終わったではないか? 第二次世界大戦において、ドイツは完全に勝利をおさめた。フランスを瞬く間に叩き潰し、イギリスを占領し、ソ連をも崩壊させた。たった一つアメリカだけは残ったが、戦争が終わって以来四十年、あの国の経済状態は悪化する一方だ。近々崩壊することは確実だと言われている。
 それなのに戦いが終わっていないとはどういうことだ? そう思ったのだろう。
 だがエルンストは不思議には思わなかった。教師が何を言おうとしているのか、彼にはよく判っていたからだ。
 判っていたからこそ、彼は覚悟を決めた。意志の力を奮い起こした。
 けっして逆らうな、と。
 同意しろ、少しでも嫌がったりするな、と。
 これから先生が口にする言葉が、どれほどむごい、どれほど耐えがたいものだったとしても。
 ともすればうつむこうとする体にむちうって、顔をあげる。
 教師は息を深く吸い込み、胸を張って話し始めた。
「戦いはまだ続いているのだ。このドイツの中に敵がいるからだ。裏切り者たち。第一次大戦の時と同じように、このドイツを再び没落させようとしている裏切り者たちがいるのだ。このドイツを腐らせようとしている連中。さあ、アズマ君!」
 名指しで呼ばれて、エルンストの心臓が飛び跳ねた。何故だ、どうして、どうして二回も続けて。ぼくは何かおかしなことをしただろうか。態度が不自然だったか。いやがってるのが顔に出ていたか。この心の中に抱えているものが、あの先生にはわかってしまったのか。
 もしかして……もしかして、ばれてるのか。
 シャツの中が汗でべとべとに濡れ始めた。
「はいっ」
「いい返事だ。アズマ君。人類を、いや、生物を進化させる最大の原動力はなんだ?」
 答えられるはずだった。当然だ。答は「自然淘汰」。まだ小学校にもあがらないうちから、ドイツの子供たちは意味もわからずにこの言葉を暗唱させられる。
 だが……一瞬ためらった。言いたくない。そんな考え認めたくない。嫌だ、嫌だ。
 ほんの一瞬だった。言うしかない。目だっちゃいけないんだ。ばれるかも知れないから。
「自然淘汰です」
「そう。弱い者、能力の劣った者は死ななければいけない。強い者、能力の優れた者だけが生きる資格を持つ。弱肉強食という言葉をきいたことがあるだろう、つまりそれだ。そういう厳しい競争があるから生き物は進歩できるのだ。それなのに、間違った思想を垂れ流してドイツを汚染しようとする奴らがいる。聞いたことはないか、『民主主義』とか、『人権』とか『平等』とか……弱い者でも生きて構わないという、とんでもない考えだ。そんな考えが広まったら、たちまちドイツは腐ってしまう。君たちも気を付けるんだ、そういう悪魔の思想を広めようとする者達が君たちの側にいるかも知れないからな。連中はこのドイツ、違うな、人類を堕落させようという陰謀をたくらんでいるのだ。裏切り者だ。そうだ、絶対にゆるしてはいけない。見つけ次第、必ず警察に報告するように。秩序警察でもいいし、SS国家保安本部でもいい」
 そこで教師は、闘志といっていいほどの強い感情をたたえていた表情をゆるめ、微笑んだ。
「まあ、君たちは見たところ立派な考えを保っているようだから、そんなふざけた思想に汚染されることはないだろうが……それでも気を付けてくれ。わかったね」
 生徒たち全員が声をそろえ、応じた。
「はいっ!」
 エルンストもそう叫んでいた。
 胸の奥に広がっていく闇を、どす黒い感情を押し殺しながら。
 間違ってる、そんなの間違ってる、弱い人は死んでいいなんて、死ななきゃいけないなんて、それが世の中の常識だなんて、そんなの間違ってる。この世界は間違ってる。だから言いたい。そんなの嘘だって、そう叫びたい。思いっきり叫びたい。
 でも……できない。できるわけがない。
 そんなことを言ったら捕まる。言わなくても、あいつ怪しいな、もしかしたら危険思想の持ち主かもって思われただけで。それだけでSSは、あの真っ黒い服の男たちは動く。それでぼくの家を調べられて。
 そしたら姉さんが……
 だから、ぼくは絶対に疑われちゃだめだ。
 普通にしてなきゃ、普通にしてなきゃ。
「よし、わかってくれたようだな。ではこれで三時間目は終わりだ。第三帝国に栄光あれ! 国家社会主義ドイツ労働者党に栄光あれ! ジーク・ハイル!」
 教師の叫びと共に、生徒たちは勢いよく右腕を振り上げる。
 エルンストもそうした。
 我慢しなきゃ。普通でいなきゃ。
 だって姉さんが……

 三

 総統暦一一一年四月一一日
 一九時二七分
 アルプス山中

 暗視ゴーグルによって、眼下の闇は薄闇へと変化している。その薄闇の中に、目的のものがあらわれた。
 どこまでも連なる険しい山々。その中に作られた棚のような地形。一辺が百五十メートル程度の菱形の地形。雪崩を防ぐ壁で覆われた庭。奇麗に除雪されており、その部分が黒く塗りつぶされているかのようだった。
 その黒い菱形の上には、箱が置かれていた。箱からは光が漏れている。人間の住んでいる建物である証拠だ。
 あれこそが、ランツェスガーテン。
 総統と、奴のいる場所。
 二重の手袋で覆われた手を、さきほどからずっとつかんでいたグライダーのフレームからひきはがす。そして頭上高く差し上げ、エンジンに取り付けられているレバーを思い切り倒した。ぱぱぱぱぱ、というエンジン音が急に消えた。
 機体を慎重に降下させる。これがもっとも難しい作業だ。飛行機というより限りなく凧に近いこのグライダーは、あまりに軽すぎるためにどんなささいな風にでもあおられて浮いてしまう。
 両手でつかんでいるフレームを揺すり、機体を振って、木の葉を思わせる動きで高度を落とす。そのうちに突風が下からやってきて、すべての努力をだいなしにする。
 それでも、彼は忍耐強く操縦を続けた。
 無謀すぎる手段を取ったのにはちゃんと理由がある。ヘリコプターや固定翼の飛行機は、レーダーから逃れられない。だが、大半が布で出来ているハンググライダーなら、あるいは。肉眼という索敵手段も残っているが、曇り空で灰色の機体を識別することなど。
 だがその時、眼下で光が弾けた。
 ランツェスガーテンの周囲の空き地で白い光が明滅している。ときおり、その光が異常に強くなり、網膜に突き刺さる。
 サーチライトだ。サーチライトでこちらを探さしているのだ。光が強く見えるということは、俺たちは捉えられたということだ。
 まさか発見されたのか?
 次に生じた光は、細く鋭い線だった。白い光の線。それはサーチライトの光よりは遙かに遅く、しかし人間の反射神経の限界を超えた速さで飛んできた。
 彼のすぐ前を飛んでいた機体がまっぷたつに裂かれ、落下した。
 一瞬遅れて、連続した重低音が響いてくる。ぶおーん、とでも表現すべきその音は。
 二十ミリ程度の、対空機関砲だ!
 まさか発見されたのか!
 ドイツの暗視装置をなめてかかっていたか。それとも、第一世代型アインヘリヤルの眼が予想以上に凄かったということか。
 どうする? 昼間なら、機体を傾けるなり振るなりしてサインを伝えることもできるだろう。だがこの暗闇だ、そんなもの見えはしない。だとすると通信か。
「シュ、シュヴェルト! 迎撃されてる! 指示をっ!」
 イヤホンに甲高い声が飛び込んできた。
 ちっ。舌打ちする。勝手に通信機を使われてしまった。もう無線封鎖の意味はない。
 胸にぶらさがった黒い箱、通信機の送信ボタンを押す。
「剣より全機、緊急降下せよ!」
 だが軽すぎる……翼面荷重の小さすぎるハンググライダーだ。急降下などできはしない。どうする。
 ……こうするしかないのか!
 とっさに彼は手を離した。グライダーの下に伸びているフレームから手を離したのだ。
 グライダーが上に吹っ飛んでいった。いや違う、エルンストのほうが下に落ちているのだ。風が数倍に激しくなった。髪が逆立ち、ゴーグルが顔からはぎ取られそうになる。すべての意志力を動員して、彼は眼を見開き、判断力を保った。
 落ち着け。
 落ち着くんだ、エルンスト。
 俺はこんなところで死ぬわけにはいかないんだ。
 姉さん……姉さん、俺に力をくれ!

 四

 総統暦九六(西暦一九八四年)年六月一五日
 ミュンヘン
 アズマ家屋根裏
 
 太陽が没しつつある中、エルンスト・アズマは走っていた。
 住宅地。三階建て、ほとんど同じ形の建て売り住宅が並ぶ。片側一車線の道路を、「シャーッ」というかすかな音を発して燃料電池車が駆け抜けていく。
そんな光景を横目で見ながら、彼は歩道を走っていた。背負った小型リュックを派手に揺らしながら、全力疾走だ。
 日焼けした顔は疲労感に彩られ、白い息が荒く吐き出され、額には汗がしたたっている。
 しかし、その足は止まらない。
 もともと運動するのは大好きで、学校から家まで程度の距離を走ったところで大して疲れはしない。けれど、全力疾走はやりすぎだった。まるきり百メートル走の走り方なのだ。
 愚かと知りつつも、それでもエルンストは走るペースを落とさない。
 一瞬でも早く、家に帰りたいから。
 ひとりぼっちで待っているあの人に、少しでも早く会いたいから。
 店頭にガラス瓶の並ぶスーパーマーケットの角を曲がり、真っ白い壁のヘーゲンボーゲンさんの家の前の三叉路を左折。
 ああ、もうすぐだ。
 ふと時間が気になって、上着のポケットから携帯端末を取り出す。
 トランプ程度の大きさの端末には数々の機能が納められている。もちろん時計機能もあるにはある。顔の前まで持ち上げて、液晶画面を読む。
 いけない。もう五時じゃないか。
 すぐに端末をしまいこみ、さらにスパートをかける。いや、本人はそのつもりなのだが、やはり速度は落ちていた。
 家だ!
 他の家とまったく変わらない、一階がガレージになっている三階建て住宅。まあ、人種区分Cの人間が住めるのはこの程度の家だ。このあたりはC専用居住区画なのだから、家が同じ形なのはある意味当然だった。
 だが、他の家と同じなのは外見だけ。
 階段を駆け上り、ドアの前で立ち止まる。鍵を取り出すわずかな時間が、惜しい。
 ドアをひきちぎりそうな勢いで開け、そのまま飛び込む。
 そのまま二階にのぼり……いや、走って引き返してくる。
 ドアにしっかりと鍵をかけた。
 そう、万が一にも、家族以外の人間を入れるわけにはいかない。
 それからもう一つ。まだ学校の制服を着ている。この格好で姉さんには会えない。会えるものか。
 一般SSの制服によく似たグレイの開襟ジャケットを脱ぎ捨てる。その下は白いワイシャツ。これは脱がない。
 やるべきことをやった後は、もう一直線だ。
 二階にかけのぼる。さらに二階の廊下のある場所に行く。廊下の明かりはつけない。ところどころ暗い場所もあるが、気にしない。
 立てかけてあった梯子をのぼる。一番上までたどりついたら、天井板を外す。
 叫びたかった。本当は叫びたかった。
 「……姉さん! ルイーゼ姉さん!」と。
 だが、それはできない。アズマ家には、父と母と息子二人しかいないことになっているのだから。
 屋根裏部屋は埃っぽかった。掃除はよくやるが、それでも限度があるのだ。湿っぽく、カビのような臭いも少し漂っていた。
 だが、気にならない。
「姉さん……入るよ」
 汗まみれの体をもちあげ、屋根裏部屋へと這い上がった。
 なにも見えない。明かりのたぐいが一切ないのだ。窓も作られておらず、天然の光もまるで入ってこない。
 手探りで、置いてあるはずの懐中電灯を探す。……あった。
「エルンスト……すごい汗の臭い。走ってきたの?」
 暗闇の向こうから声がした。
 落ち着いた感じ……いや、それを通り越して、少し暗い女の声だ。
「うん」
 エルンストは床板を……つまり二階の天井をゆっくりと踏みしめながら、静かに歩いていく。
 声のするほうに懐中電灯を向けた。スイッチを入れる。
 光の中に浮かび上がったのは、長い髪の女だった。いや、少女といっていい年齢かも知れない。
 彼女は右の手で自分の髪をなで、左の手で紺色のロングスカートをつまんでいた。そう、彼女は何かにべたべたと触るのが好きだった。服、布、リボン、髪の毛、シーツ、木、金属……いつも何かにさわっていた。髪にリボンを付けているのも、フリルつきの服をよく着たがるのも、実はそれが理由だ。いろいろなものをつけていると、その分手触りを楽しめる、と本人が言うのだ。
 絶えず触っていないと、消えてしまうような気がする。彼女はよくそう言っていた。
 エルンストはさらに近づく。ベッドの脇に立った。姉の白い顔がすぐ目の前にせまった。
 いままでいつもそうだったように、一つの感情がエルンストの中でふくれあがる。
 ……きれいだ。今日も姉さんはきれいだ。
 彼はよく、こうやって姉を見つめることがあった。
 ふっくらとした頬を。日を浴びたことのない肌を。つんと上をむいた小さな鼻を。二重まぶたを。黒く輝く、半開きの、決して焦点を合わせることのない瞳を。
「姉さん、ルイーゼ姉さん。いま帰ったよ。おなか空いてない? 今日は母さんも兄さんも遅いから、ご飯はぼくが作るよ」
「ありがとう、エルンスト。まだ大丈夫。動いてないから、そんなにおなか空くわけないよ」
 彼女はエルンストの方に顔をむけて、そう答えた。だが、彼を見てはいない。浅黒く日焼けした、中学生にしては大人びた顔も、太い眉も、少し吊り目ぎみの黒い眼も見てはいない。
 見られるはずがないのだった。彼女の大きな眼は確かに半分開いていたが、なんの光もとらえていなかったから。
「エルンスト、あなた歩き方へんよ。学校でなにかあったんじゃない。けがしたの。もしかして、喧嘩したの」
「やっぱりわかっちゃったか……いや、違うよ姉さん、体育の時間に転んだだけさ」
「へえ、エルンストでも、転ぶことなんてあるんだ?」
「スポーツ万能なんて言われても、やっぱり人間だからね……それにちょっと練習キツイんだ」
「ふうん……」
 エルンストはベッドから離れ、机の前に座った。
 机の上には小さなラジオが一台。本やノートは一冊もない。当然だ、この国に点字はない。彼女に読める本はない。盲導犬や手話が存在しないのと同じ理由だ。
「姉さん……ちょっと話しない?」
「うん、いいけど」
 エルンストは、姉と共に過ごす事が多かった。授業が終わるやいなやまっすぐ帰途につき、友達と遊ぶこともなく姉の相手をして一日をすごす。それが彼の日課だった。
 だから、わざわざ断るまでもなく、勝手にそこらに座って話をはじめても姉は驚かないだろう。それでもエルンストは、毎回断っていた。「話してもいい?」そう尋ねるたびに、エルンストの引き締まった顔は不安に彩られるのだ。もし「いやよ」って言われたらどうしよう? だが、聞かずに勝手に始めるのも悪い気がした。
「喧嘩っていえば……学校の友達とは仲良くしなきゃ駄目よ。こないだ友達と喧嘩したっていってたじゃない」
 友達が出来ても、絶対にこの家に呼ぶことは出来なかった。しかも、呼べない理由を考えなければいけない。だがエルンストには少々荷が重すぎるようだった。
 「とにかく来て欲しくないんだよっ。来るなよっ」「なんだとっ」
 よくあることだった。中学に入ってからの一年で五、六回はあったはずだ。
「う、うん……でもあいつとは仲直りしたよ。今度、どっかに遊びに行くことになった。たぶん、メシくらいぼくがおごる羽目になるんじゃないかな」
「このミュンヘンのどこか?」
「うん……ほんとはノイベルリンに行きたいって言ってるだけど……ぼくもそいつもC級だから、ノイベルリンには入れないんだ」
 人種区分。NSDAPの定めた、「人間のランク付け」。特AからEまで六種類ある。いや、正確には五種類と言うべきかもしれない。人種区分Eは「絶滅対象」であり、発見されしだい抹殺されるのだから。
 帝国の中枢たる帝都ノイベルリンは白い壁に囲まれ、「ビフレスト」と呼ばれるただ一本の橋によってのみ外部とつながっている。そのビフレスト……北欧神話における「神の国への橋」を渡れるのは、B級より上だけ。居住するための条件はさらに厳しい。
「そう……」
 姉の声が沈んだ。
 やはり「人種区分」に関する話は聞きたくないのだろう。
「ねっ、姉さん。ラジオ聴こうよラジオ」
 エルンストはあわてて机の上のラジオに手を伸ばす。
 適当に周波数を合わせる。
 「……本日一六時三〇分、ロンドンのSSGB本部に爆弾が投げ込まれ、二名が死亡、七名が重軽傷を負いました。実行犯の男は逮捕される直前国王陛下万歳と叫んで自決。犯行声明のたぐいは出されておりませんが、ロイヤル・ガーズによる犯行の可能性が高いと思われ、近々大規模な取り締まりが行われる見通しです……」
「あ、ニュースだ。ドラマの方がいい? 音楽もやってるよ。ちょっと待って、いま新聞とってくる」
「どれでもいいわよ」
 事実、姉の表情には少し光が戻っていた。どんな内容のものであれ、ラジオを聴けるのがうれしいのだろう。
「ロイヤル・ガーズか……」
「懲りないひとたち。また殺されるだけなのに……」
 イギリスは第二次大戦で負け、本土を占領された。終戦から四十年以上経った現在も、SSGB……SS英国部によって支配されている。王族は一人残らず処刑され、英語の使用は禁止され、国民はドイツよりも遙かに厳しい監視の眼におびえながら生活している。
 ロイヤル・ガーズは、そんな英国を解放しようと戦う団体だ。国民の中にひそみ、活発なテロを繰り返している。いつぞやは総統の身が狙われたことすらあり、あの時は英国全土に粛正の嵐が吹き荒れた。ほんの少しでもロイヤル・ガーズに関わりがあると考えられたものは、みな収容所送り。ざっと十万人は殺されただろう。
 だが、ロイヤル・ガーズを根絶することはハイドリヒ総統にも不可能だった。何度つぶされても、いつの間にか復活していた。ドイツ国内のレジスタンス組織「リヒテン・フェーヌス」などと連絡を取り合い、いまも活動を続けている。
「でも、なんとなくわかる気がする……やっぱり我慢できないんだよね。ドイツが許せないんだよね。ぼく、わかるよ」
「そう? だって、こういう事件を起こしたら、関係ない人までたくさん処刑されちゃうのよ。それがとても……」
「ねえさんは優しいんだね」
 エルンストは弱々しく微笑んだ。。
「……次のニュースです。
 我がドイツの友邦、大日本帝国のカイゼルがドイツを訪れ、ハイドリヒ総統と会談しました。カイゼルは独日の同盟が四十年以上の長きにわたって続いたことを喜び、この友好が永遠に続くように願うと述べました。なお、来月大西洋で行われる独日海軍合同演習についても言及し」
「ふん、なにが友好だか」
 思わず悪態をつくエルンスト。日本人の血が半分流れているものの、あまり日本にいい感情はもっていない。
 ……だいたい日本なんて、ドイツにペコペコしてばかりの国じゃないか。戦争だって、ドイツに助けてもらってやっと勝ったわけだし。インドや東南アジアが手に入ったのは、たまたまイギリスが滅んでくれたからだし、ドイツが派遣した潜水艦部隊がアメリカの補給を妨害しなかったら、ガダルカナル島は取られていたはずだ。
 いまの日本は、表向きにはドイツと対等の同盟国だけど、実際にはどうみたってドイツの子分。ドイツの片腕かも知れないけど、手下には違いない。白人からは「まがいものめ」とさげすまれ、有色人種からは「裏切り者」と罵られる。
 ……コウモリだ。日本はコウモリだよ。
 そう思っていた。だからエルンストは鼻を鳴らす。
だが、姉の反応は違っていた。机にひじをついて、もう片方の手で髪をなで、うっとりとした表情で呟く。
「ニホン、か……」
「姉さん……」
「きれいなとこらしいね……ドイツよりずっと暖かくて……知らない花が咲いてて……」
「でも父さんの記憶だから、かなり美化されてるよ」
「でもいいの。どうせ、本当の日本なんて行けるわけないんだから。せめて空想で楽しむの」
「……ごめん」
「そうやってすぐ謝る。子供の頃からずっとそうね。エルンストって体おっきいし、喧嘩強いのに、怒られるんじゃないかっていつもビクビクしてるのよね」
 エルンストの日焼けした顔が歪んだ。
 違うよ。違うよ姉さん。
 ぼくはただ、姉さんを傷つけるのが怖いんだ。それは罪だから。
 しかしその言葉は喉で止まり、口から出ていかない。そう言ってしまえば、なおさら姉は嫌な思いをするだろう、自分がみんなに負担をかけていると思ってしまうだろう。だから何も言えない。
「……だいじょぶ、怒ったりしないからさ。ねっ、弱虫の、あまえんぼのエルンスト」
「うん……ありがと、姉さん」
 「今年の宇宙開発予算は……『イェルムンガンド』計画の……」
 イェルムンガンドとは、人工衛星と光ファイバーを使った、全世界を覆うコンピュータネットワークのことだ。現在ある電話ケーブルを使ったネットよりはるかに大量のデータを送ることができる。
「宇宙か。どうしてドイツ人って、こう宇宙が好きなんだろうね」
「よくわからないわ。もっと他に、やらなきゃいけないことがたくさんあるのにね」
 第二次大戦に勝ってからというもの、ドイツは狂ったように宇宙開発に邁進した。年間国家予算の十パーセント以上をつぎ込み、人工衛星や惑星探査機を次から次へと打ち上げた。
 ドイツ以外にも、日本とアメリカがロケットを持っていたが……ドイツ人が宇宙に向ける情熱のすさまじさに比べれば、何もやっていないも同然だった。
 「総統暦百年までに人類を火星に」
 エルンストが生まれる前から、そんなスローガンが叫ばれていた。期限まであと五年。どうやら実現しそうだ。もちろん、火星が最終目標ではない。月面に基地を造る計画、宇宙都市を造って何万人も移民させる計画、異星人からの信号を受信する計画、何キロ四方もある太陽電池を浮かべて発電し、その電力を地上に送る計画……核融合エンジン搭載の宇宙船で、他の太陽系にまで行こうという計画。宇宙開発のスケジュールは、百年先までびっしりと埋まっていた。
「宇宙開発って、お金かかるよね。人工衛星だって、一回打ち上げるのに何千万マルク、宇宙基地なんて何十億マルクもかかってるよね。それだけあれば、薬とか食料をどれだけ買えるかな」
 姉の悲しそうな顔を見て、エルンストの心は痛んだ。姉さんは本当に優しいんだ。他人のことを考えてしまう。自分がこんなに苦しいのに。こんなにひどい目に遭わされてるのに。それでも他の人を思いやってしまう。
 もう少し、自分勝手な性格だったら。姉さんはもう少しだけ、幸せに生きられるのに。
「姉さん……そんなに苦しまなくていいよ。みんな姉さんのせいじゃないんだから」
「うん……ねえ、エルンスト。わたしの髪の毛に何かついてる?」
「えっ」
 はっとする。いつの間にか自分は姉にさらに歩み寄り、波打った黒髪に顔を近づけていた。微妙な空気の揺れで、姉はそれを察したのだろう。
「あ、あの……いやべつに……なんでもないよっ」
 あわてて一歩飛び退く。
 嘘だった。少しでも姉さんの近くに寄りたい、その身体にさわりたい、匂いを嗅ぎたい、すべてを感じたい、そういう思いがあったに決まっている。
「へんなエルンスト」
 姉は笑った。鼻とくらべて少し大きすぎる口が、半円を形作った。
 よかった。とにかく笑ってくれた。
 これだけが楽しみだった。姉の笑顔を見るのが。
 ひとつの秘密、決して知られてはならない秘密を胸に生きてゆくのはたやすいことではなかった。家から一歩出たら、仮面をかぶらなければならない。姉の事を口にするのはもちろん、「お前姉さんとかいたっけ」と訊かれて動揺を見せることもいけない。教師が「国家社会主義に基づき、肉体に欠損のある人間は殺さなければいけない」と言っても、絶対に異をとなえるわけにはいかない。ほんの少しでも怪しまれたら……最期だ。
 それでも耐えられたのは、姉が自分に笑いかけてくれたからだ。
 もちろん姉は他の人がいる前でも笑う。父や母、兄の前でも。
 だが、自分の前ではとくにその笑顔の輝きが増す。そう思えてならなかった。
 それがとても嬉しく、そして誇らしかった。
 エルンストの体から、すべての疲れと不安がぬぐい取られていった。ここまで走ってきたことも、学校で息の詰まる思いを味わってきたことも、これからもずっとそうであることも、もうどうでもよかった。ここに姉さんがいて、笑ってくれるのだから。
 そして、まさにその時、ラジオから格調高いクラシック音楽が流れ出す。
 ついで、澄んだ声。
 「SSより帝国公民のみなさんへのお知らせです。今週は特別警戒・国家健全化週間です。みなさんの周りに裏切り者はいませんか。ドイツを内側から蝕み、堕落させようと企むものはいませんか。
 人権、民主主義、自由、平等、そんな言葉を口にする者は。弱い者、劣った者を淘汰するという大自然の法則に逆らう愚か者は。社会の役に立たない欠陥人間、寄生虫を放っておく者は。
 そんな裏切り者を見つけたら、ただちに保安警察およびSS各部局にご連絡ください。ドイツの未来を守るのは、あなた達の仕事です。悪魔の誘惑に駆られそうになったら、神が我らアーリア人に授けてくれた大いなる福音、『我が闘争』を読んで理性を取り戻しましょう」
 室内のよどんだ空気が、完全に凍り付いた。
 ラジオはまだニュースを流し続けていたが、それはもうどうでもいいことだった。
 凝固した空気のなかで、二人は沈黙を続けた。五秒、十秒。
 ぺたん、という音が響いた。ルイーゼが、白く細い手を髪から離し、机の上に置いた音だった。
 たったそれだけの小さな物音が、エルンストをおびえさせた。彼は電撃を受けたように震え、こわばった声を発した。
「ね、ね、姉さんっ! 気にしちゃいけないよっ。ナチスは頭狂ってるんだ、そんな奴の言うことなんて。あ、ああ、こんなラジオなんて、こうだっ」
 わななく手を激しく動かして、ラジオのスイッチを切る。
「……ね、エルンスト」
「なに……姉さん」
 少しだけ落ち着いて、エルンストは答える。
 なぜ落ち着いたのか。姉の声には、「悲しい」「傷ついた」「怒っている」そんな種類の感情がほとんど感じられなかったからだ。
「その通りかな、って思っちゃった」
 電撃がまた襲ってきた。今度は膝から力が抜け、薄い天井の上に片膝をついてしまう。
 気づいてしまった。なるほど、姉の言葉に怒りや悲しみの成分は含まれていない。だが代わりに「諦観」が彼女を支配しているのだ。
「そん……ちが……ねえさ……」
「違わないよ。わたし、確かに役に立ってないよね。父さんみたいな技術者にも、母さんみたいな音楽家にもなれっこないし、エルンストみたいにスポーツもできない、兄さんみたいに大学にも行けないし。ずっと、一生このまま、ここに閉じこもったままなんだよね。それって意味あるのかな」
「ねっ、姉さん」
 彼は机に掌を叩きつけた。
 懐中電灯が机から落ち、床に転がる。円錐形の光がルイーゼから逸れ、斜めの壁……正確には屋根を照らし出した。
 ふたたび見えなくなった姉に向かって、エルンストは言葉を投げつける。
「違う、それはちがう、ねえさん。ちがうんだ」
 胸が熱かった。熱泥にも似たものが胸に詰まり、暴れていた。だが、暴れるだけで口から出ていかなかった。姉さんは間違ってる、それは確実なのに、反論が出てこない。
 姉は静かな口調で語り続けた。
「……私が生まれたときのこと、兄さんから聞いたの。もう九歳になっていたから、よく覚えているって。父さんはものすごい額のお金を病院の人に渡して、書類を『死産』に書き換えてもらったって……眼の見えない女の子が生まれたことを隠して……そのために父さんは……」
「やめてくれ姉さん」
 だが、闇の中から声は響き続ける。
「ねえ、わたし最近、よく思い出すの。兄さんが昔話してくれた、世界の存在の話」
「……?」
 兄アルベルトは秀才だった。そして、嫌味にならないぎりぎりの範囲で、自分の知識を披露する癖があった。物理、数学、外国語、歴史、哲学……彼の知識は実に幅広かった。
「物は、誰かがそれを観測した時、はじめて存在する……物理学でもそうだし、哲学でもそういう考えがあるんだって……人間が外の世界を見ることで、世界が生まれるんだって」
 姉が何を言いたいのかまるでわからず、エルンストは言葉を発せない。
「だとしたら、わたしにとって世界はないのね。だってわたし、なにも見えないし、音とかで知ることの出来る範囲もすごく狭いし、世界の方も、わたしの存在をしらない……ないの、エルンスト。なにもないのよ。わたしにとって世界も、世界にとって私も、なにも」
 エルンストは叫んでいた。
「そんなことないっ!」
 それは絶叫だった。これまで彼が、この部屋では決して発さないように心がけていたものだった。
 彼が破ったタブーはそれだけではなかった。彼は姉との間のわずかな距離をさらに詰めた。
 ゼロへと。
 両腕でしっかりと、姉の細い身体を抱きしめる。
「エ、エルンスト、ちょっと」
「ねえさん。ぼくの手が触ってるのわかるでしょう。腕もわかるよね」
 長い黒髪に顔をうずめて、姉の匂いを胸一杯に吸い込んで、エルンストは言った。
 もう、考える必要も、悩む必要もなかった。これまでずっと胸の中で渦巻いていた想いがあふれだしてきた。
「ぼくも感じてる。ねえさんの身体、髪も、顔も、体温だって感じてる。少し震えていることも。少なくとも、今だけは、ぼくにとって姉さんはいるんだよ。世界が姉さんを認めないなら、ぼくが世界になってあげる。ほら、感じるでしょう、さわってわかるでしょう。ぼくは確かにここにいるでしょう。ねえっ」
 姉は絶句していた。顔には、喜びと……そしていくばくかの恐れが浮かんでいた。
「……姉さん、勘違いしてるよ。自分はみんなに迷惑かけるだけで、役にたってない、だから生きてたって無駄だ、そう思ってるの。とんでもないよ。ぜんぜんちがうよ。姉さんは必要だよ。まるで逆なんだ、姉さんがぼくを生かしてくれてるんだ。いつだって姉さんのこと思ってる。ぼくが生きてられるのは、明日も生きてこうって思えるのは、みんな姉さんがいるからなんだ。子供の頃からずっと、そればっかり考えてきたんだよ」
「エルンスト。あなた……まさか」
 エルンストの腕の中で、ルイーゼの身体は急に固くなった。
「そうだよ。そうなんだよ、どうして、そんなに震えてるの、どうしてそんな顔するんだよ。ああ、そうだよ。ぼくたちは姉と弟だよ。でも、だから何? 世の中の常識がなんだっていうんだ。常識がなにをしてくれた、姉さんを殺そうとしてるだけじゃないかっ。そんなのに、なんで従わなきゃいけないんだよっ」
 そしてもう一度、姉を強く抱きしめた。
「ねえさん……ずいぶんやせてるんだね。もっと食べなきゃ駄目だよ」
 姉の身体は小さく、そしてひどく細かった。顔を見る限りはそうでもないが、肩や背中に腕を回してみればすぐにわかった。ブラウスとカーディガンを通して、骨のごつごつした感触が伝わってくる。体重は四十キロを切っているだろう。身長百五十センチそこそことはいえ、確かにやせすぎだ。
「うん……」
「でも、やせてても姉さんはまだ生きてる。それはとても嬉しいことだって、ぼくは思うんだ。姉さんをこうして感じることができるから。姉さんがそこにいて、笑ってくれるから。これからもずっと、生きていて欲しい。もし眼だけじゃなくて、耳が聞こえなくなっても。手足が固まって動かなくなっても。意識がなくなってずっと機械につながれるようになっても、生きてて欲しいし、ぼくはそばにして、手をつないでるよ。それで一生が終わっても、ぼくはそれでいいから」
 ふいにルイーゼは身体の力を抜いた。そして膝を折り、弟ごとベッドに倒れ込んだ。
「ねえさ……」
 エルンストが仰天しつつ発したその言葉は、またしても途中で止まった。
 どこにそんな力が、そう思うほどの強さで、姉が抱きしめ返してきたから。
 闇の中。姉が十六年間閉じこめられてきた、これからも生涯出ることができないだろう闇の中。
 それでも、その場所は暖かかった。
 確かに姉と弟はそこにいて……互いの存在を感じあっていたから。
「……ありがとうエルンスト。わたしも、エルンストのことだいすきよ」

 五

 総統暦一一一年四月一一日
 一九時二七分
 ランツェスガーテン上空

 ほんの一瞬だけ意識が遠くなっていた。
 そして思い出していた。あの遠い日、とても幸せだった……彼の生涯でもっとも幸福だった、あの日のことを。
 風が体を叩き、頬の肉をえぐっていく。冷たい風、希薄な風。
 だがそれでも……彼の体には力が蘇っていた。もはや震えることはない。
 彼の手は姉を感じていた。姉の柔らかい腕、少し骨張った体、つややかな髪を思い出していた。一六年の歳月を超えて、すべての感触が彼の皮膚に蘇っていた。
 そうだ、忘れたことはない。
 そしてもう一つ……あの幸せが失われた日のことも、忘れてはいない。
 だから……だから俺は。
 彼はうつぶせの姿勢で自由落下しつつ、近づいてくる地面を、大きくなるランツェスガーテンを凝視した。
 まだだ。まだコードを引くな。
 ぎりぎりまで自由落下を続けるんだ。
 出来るだけ速度を落とさないほうがいい、撃たれる確率が減るからだ。
 そうだ。あの日の事は絶対に脳裏から去らない。だから……だから俺は。
 こんなところで死ぬわけにはいかない!
 奴を、アルベルト・アズマをこの手で仕留めるまでは。

 


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