第二章

 一

 総統暦一一一年四月一一日
 一九時二〇分
 ランツェスガーテン

 大型ヘリコプターが着地した。
 巨体。前後に並んだ二つのローター。
 側面に大きく描かれた鉤十字。
 総統専用ヘリコプター「フォッケアハゲリス八八八」だ。ドアが開いて、コート姿の男が二人降り立つ。
「総統閣下、ここはどういった場所なのですか?」
 アルベルト・アズマは四角い眼鏡の位置を直しながら総統に尋ねた。
「見ていれば判る、と言っただろう。ああ、ご苦労」
 総統は細長い顔に冷笑とも微笑ともつかない笑みを浮かべて、迎えに出てきた軍服姿の男たちに挨拶した。軍服の男たちは少しの乱れもないSS式敬礼を行っている。
 アルベルト・アズマは不審げな顔をした。
「この男たちは……ただの武装SSではないでしょう。アインヘリヤルですか」
「そうだ」
 アインヘリヤルとは、第三帝国の誇る医学・薬学を駆使して造り出された、「超人兵士」のことである。脳手術と薬物投与と暗示。この三つを巧みに組み合わせることで、痛覚、恐怖といったものを一切もたない人間が作り出せる。筋力や反射神経も通常の人間とは比較にならない。
 だが、アインヘリヤルの量産はまだ軌道に乗ったばかりだ。ごく一部の部隊にしか配属されていないはずなのだ。
「アインヘリヤルがいるとは……この館は一体なんなのです?」
「SS長官である自分すら知らないことがある、というのが不快かね、アズマ長官?」
「いえ、そこまでは申しませんが」
 アルベルト・アズマは無表情のまま、声のトーンだけをわずかに沈めて答えた。
「私には総統の身を守らなければいけない義務があります。SSは確かに帝国のすべてを取り仕切っていますが、もともとは総統警護のために作られたことを忘れてもらっては困ります」
 SS……親衛隊。それはドイツ第三帝国を支配する、つまり世界を支配する組織だった。それは軍隊であり、警察であり、政治結社であり、思想集団であり、総統を神と崇める宗教団体である。どれかではない。全てである。
 ドイツには確かに内閣もあり、大臣もいる。だがSSはそれら全てに口を挟める存在だった。
 そんな絶対の力をもつSS、その指導者が、ここにいるSS長官アルベルト・アズマ。
「それを忘れたことはないよ、長官。私だって元はSSの人間だ。君の先輩なんだよ。
 そうだね、君は実に良い仕事をしてくれた。君の考えたプログラムのせいで、収容所の『処理効率』は大変上がったし、君が潰してくれた反国家組織はとても数え切れないほどだ。だからこそ半分は有色人種で、しかもあのような人物を身内にもっているのにここまで出世できた。うん、素晴らしい。実に素晴らしいよ」
 かなり甲高い声で、歌うような調子で総統は言った。
「だから私は……君を後継者に選んでもいいと思っている」
 ハイドリヒはそこでアルベルト・アズマの表情を確認した。
「ふむ……あまり嬉しそうでないな」
「いえ、私は生まれつきこういう顔なのです」
「そうだったな、君が笑っているところなど見たことがない。君をここに呼んだのはその件だよ。まずは中に入ろうじゃないか。話はそれからだ」

 二

 総統暦一〇〇年一一月七日
 帝都ノイベルリン
 SS国家保安本部

「君の忠誠心は疑われている。このままではSS内部での出世などおぼつかん。わかるな」
 黒い開襟ジャケット……一般SS制服を隙無く着込んだ初老の男が、アルベルト・アズマにそう言った。
「わかっています、本部長」
 アルベルト・アズマは動ずることなく答えた。本部長は少し口元を歪めた。この平静さは尋常なことではない。「反逆の疑いあり」とされた者がどんな運命をたどるか、仮にもSS内部の人間が知らないはずがないのだ。
 だがアルベルト・アズマは動揺をあらわさなかった。考えてみれば、この男が不安や恐怖といった感情を表したところなど一度として見たことがない。表情は泥で作られた仮面のよう、そして声は、平板なようでいてほんの少しだけ歓喜をふくんで……
 なんという男だ。絶滅収容所で、『処理』の現場を見せた時も眉一つ動かさなかったという話ではないか。私がこの男ほどの年齢だった頃、こんな真似ができたろうか。いや、とても出来なかった。
 少しばかり不気味なものを感じながら、本部長は次の言葉を発した。
「まあ、それは君のせいというより、君の家族のせいだがな。絶滅対象の娘をかくまっていた父と母、そして収容所から脱走してレジスタンスに加わった弟。たったひとり君だけが、正道に立ち戻ってくれた」
「弟や両親の分まで、祖国に貢献したいと思ったのです」
「それはよい心がけだが……言葉だけでは」
「では、これではいかがでしょう」
 アルベルトはそこで、手にしていたトランクの蓋を開けた。中から取り出したのは分厚い書類である。
「それは何かね」
「聞くところによりますと、近年ドイツでは犯罪の発生率が上がっているとか。なかでも思想犯罪……退廃思想を蔓延させようと企む輩が増えているとか」
「うむ、そうだな」
「そこで私が考えたのがこの計画です。正しい思想を身につけるためには幼い頃からの徹底した教育が必要です。小学校の段階で、健全な思想を持っているかどうか選別を行い、その結果いかんでは厳しい処置をとるべきです」
「厳しい処置とは?」
「訓練キャンプ、収容所、最悪の場合にはアインザッツです」
「処刑かね! いくらなんでも子供相手にそれは厳しすぎやせんかね」
「甘いですね。ドイツをより美しく正しい国にするためには、どんな妥協も許してはならないのです。そうは思いませんか」
「むう……君の計画とはそれだけか」
「いいえ。逆に善行をなした者には相応の高い評価が必要です。現在わが国の公民は人種によって大まかに区分されているだけですが、それだけでは足りません。その人間がどれだけ国家に貢献しているか否かをポイントで表すのです。すべての人間に国家貢献度を設定し、行動によって増減する。ある一定以上になれば特典を与えましょう」
「ぬう……」
「これらの改善を行った結果、どれほどの綱紀粛正が実現しうるか、レポートをまとめてきました。これがそれです」
 本部長は眉間にしわを寄せてその書類をのぞき込み、うなり声を上げた。実に詳細なものだったのだ。犯罪の発生率だけでなく、工業生産や教育プログラムに与える影響までものが計算に入れられているのだ。
「これは……わかった。ここまで壮大なものとなると国家保安本部だけでは決められん。他の本部に打診してみよう」
「お願いします。その計画が採用された暁には、ドイツは現在よりも更に美しく、清潔な国になっていることでしょう」
 本部長はアルベルト・アズマの顔をのぞき込んだ。四角い眼鏡の向こうに輝く、限りなく黒に近い灰色の瞳を。
 人間の眼ではなかった。生気というものを感じさせない、魚のような眼だった。 
 本部長は、いまや戦慄すらおぼえていた。

 三

 総統暦一一一年
 四月一一日
 一九時二五分
 ランツェスガーテン内

 螺旋階段を、総統とアルベルト・アズマは上っていく。
「ずいぶん静かな建物ですね。人の姿もありません」
「そうだろうな。ここには衛兵の第一世代型アインヘリヤルが一個小隊と、あとは同様の処理をした使用人がいるだけだ。連中は無駄な動きをしないし、音も出さない。生活感のない連中だよ。そうそう、第二世代型も一人いるんだぞ」
「第二世代型ですか? あれはまだ、わずか二、三体が試作されただけのはずですが……」
「ああ、そうだよ。その試作型のうち一体がここに配備されているんだ。どうした? 心配か? 『闇妖精郷』の技術者達は、心理面の問題点は取り除いたと断言していた。もう反乱の恐れはないよ。アーデルハイドのようなことはない」
「総統閣下は、ずいぶん生体工学を信頼されているのですね」
「もちろんさ。もうじき百歳にもなろうかという私がこうして若々しい体でいられるのも、遺伝子操作の魔法あってのことだからね」
「しかし、そんなものが本当に必要なのですか?」
「それは君がここの重要性を知らないから出てくる台詞だな。それに、あのアーデルハイドがレジスタンスに加わっているという話があるだろう。用心に越したことはない。第二代型に対抗するには、こちらも同等のものが必要さ」
 階段がとぎれた。
 そこには巨大な鋼鉄の扉が待ち受けていた。中世の城塞を連想させる、まるで飾り気のない扉だ。
「扉ですか」
「そう。ここで君は最後の試練を受けてもらう。君はこれまで素晴らしい成績を挙げ続けてきた。君が立案し、実行の指揮をとった多くの計画……それはドイツの犯罪を劇的に減らした。わがアーリア人種はより進化できたのだ。レジスタンス狩りにも力を発揮してくれたね。ああ、能力はすでに十分だ。胆力もあるようだな、先代のヒムラーと違って」
 ハイドリヒはそこで、声ににじんでいた冷笑の響きを消した。真面目そのもの、荘厳とすら言いたくなるような態度で、アルベルト・アズマに向き直る。
「だが、総統になるにはそれだけでは不足なのだ。もう一つ必要なものがある。それは……いや、私が口で言っても仕方がないな。どのみち判断を下すのは私ではない」
 アルベルト・アズマは片方の眉を微妙に持ち上げた。「当惑」の感情表現である。総統が判断するわけではない、だと? では一体だれが? 総統以上の権限を持つ者などこの世のどこにいるのか。
 アルベルトが不審に思っていることを気にもせず、総統は姿勢を正し、そして……唱えはじめた。呪文のような言葉を。
「聖槍よ。人類の導き手、我らを救うために訪れた希望の光よ。我は総統ラインハルト・ハイドリヒ。地上界における聖槍の代行者なり。今ひとたびの拝謁を願う。託宣を下したまえ!」
 言葉が終わると共に、扉がゆっくりと開きはじめた。総統とアルベルトは中に踏み込む。
 ……そこは白い部屋だった。壁といい天井といい、すべてが真っ白い岩で作られている。
 中央には祭壇があった。
 祭壇の上には、ガラスの棒があった。
 いや、槍か。水晶のような質感をもつ、人の背丈ほどの槍。途中で折れている。いや、折れているわけではない。
 生えていた。
 空間から生えていた。
 槍の根本は陽炎のように揺らめいていた。まるで、その部分だけが実体ではないかのようだ。別の世界の存在が、この世界に訪れようとして……完全にはこちらへ来れなかった、とでもいったふうに。
 この槍は一体?
 アルベルトがそう眉を寄せた瞬間、頭の中に声が響き渡った。
「ひざまづけ、人間よ!」
 思わず耳を押さえたくなる大声である。
 総統は即座に反応した。祭壇の前に片膝をつき、顔を伏せたのである。
 アルベルトは我が眼を疑った。総統が、神より偉大な世界の支配者が、跪いている!
 ばかな!
 だが事実だ。自分だけ突っ立っているわけにもいくまい。彼もすぐに膝を折った。
「……よく来たな、次代の総統アルベルト・アズマ。我は聖槍。時空の裂け目『ギンヌンガ・ガップ』を超えて訪れたもの。第三帝国を導く者。人類の未来の為に遣わされたもの」
 耳を押さえても、首を振っても、声の強さは変わらない。間違いない、これは自分の心の中に聞こえてくるのだ。そもそも、これはドイツ語ではない。だが英語でも、ロシア語でも……世界中のどんな言語でもなかった。純粋な「意味」そのものが、むき出しの状態で心の中に送り込まれてくるのだ。
「驚いたかね? なんでもイメージ投射システムとかいうらしい。量子力学の応用なのだそうだ」
 総統は笑っていた。
「これが聖槍の力さ。ああ、無理をすることはない。私もヒムラーも、デーニッツも、初代総統も、最初に聖槍と対面したときは動揺せずにはいられなかった」
 ふたたび心の中で声が響く。
「だが案ずるな、怯えるな、人間よ。私は汝らに滅びをもたらすために来たのではない。救いを、勝利を、栄光をもたらすために来たのだ」
「どういう……ことです?」
 アルベルトは自分の声が震えていることを自覚していた。これまで十五年、彼の青ざめた顔は人間らしい感情をほとんど表さずにいたというのに。
「教えよう。すべてを。真の歴史を。汝らの使命を!」
 アルベルトの頭の中で閃光がはじけた。情報の洪水がやってきた。
 それは悲痛な叫びだった。真摯な祈りだった。「すでに起こった、もう一つの歴史」だった。
 
 四
 
 二十秒後
 聖槍の間

「あ、あ、あ……」
 アルベルトは気づく。自分が石の床に這いつくばっていることに。手も足も震え、まるで言うことをきかないことに。
 今のは……今のは幻覚か?
 だが自分は確かに、何かを見た。ドイツがたどった本当の運命を。そしてその後、世界がどうなったか。何百年という時の流れを。とても夢や幻とは思えない現実感のあるものだった。
「幻覚ではない。これは真実だ。すでに起こった未来だ。さあ、悲劇の歴史を回避せよ。そのために……第三帝国はあったのだ」
 それきり聖槍は沈黙した。
「総統……閣下?」
 アルベルトは首を巡らし、総統の説明を求めた。これは悪い冗談だ。こんなことが、こんなことがあってたまるものか。ナチスの存在目的が、こんな。
 だが、すでに立ち上がっていた総統は、真面目そのものの顔をしていた。薄暗いこの部屋でも、その蒼い両眼に澄んだ光が宿っているのが判る。
「ひどい顔だな、アズマ長官。数年は老けたぞ。まあ、私もそうだったがな」
「今のは、今のは……」
「事実さ。あれが、このドイツが戦争に勝った理由、勝たなければいけなかった理由だ。そして、これからも世界の支配者であり続けなければいけない理由でもある」
 アルベルトは立ち上がることができなかった。黒い制服に包まれた身体は、脳の指令に全く従わない。
 いや、司令塔である脳すらも、混乱の極みにあった。なにもかもが信じられなかった。
 だが、もし本当だったら?
 あれが本当だったら?
 私のやろうとしていることは一体なんだったのだ。あの日の決意は。
その疑問こそが、アルベルトの身体をつらぬき、心を揺さぶっていた。
 数秒かけてどうにか震えをとめ、立つ。ひびわれた仮面が、まだ砕けてはいないことがかろうじて証明された。
 総統を見上げる。細長い顎に白い指を這わせながら、ハイドリヒは微笑んでいた。
「さあ……これが最後の試練だ。君はこの事実に耐えられるか? 人類の未来を背負うという、この重すぎる義務に? 総統の失敗は人類の終わりだということに? 耐えられるというなら、君こそ次の総統にふさわしい」
「私は」
 そうだ、大丈夫だ、平気だと言うのだ、アルベルト。
 彼は自分を叱咤した。いや「ぜひやらせて下さい」と言うのだ、アルベルト。ここでそう言わなければ、後継者としてハイドリヒに認めてもらえなければ、全てが水の泡だ。あの日、私は決めたこと、この十五年間ずっと続けてきたこと、それが無意味だと言うことになってしまう。
 だがしかし、身体は抵抗した。
 すでに、すべては喪われているのではないか。ハイドリヒの言うことが事実なら。それがナチスの存在目的なら。
 ……人類の、人類の未来を。悲劇の歴史を回避せよ。「奴ら」の襲来に備えよ。数千億の人々が望みを懸けて。ほんとうに大切なものを守るために。
 それが真実だとしたら。私にはなにもできないのではないか。なにもする資格はないのではないか。
 そんなはずはない、あの日の決意を思い出せと心が叫んだ。
 だからこそ、できはしないのだと魂が返した。
 この問いに答えを出せるのは。あるいは自分ではなくて。
「どうしたのかね、アズマ長官」
 しかし、総統が呼んでいる。答えを求めている。嘘でもいい、この場を取り繕わなければ。
「私は……」
 その瞬間、衝撃が建物を揺るがした。
「む……?」
 総統が眉間にしわを寄せた。
 続いて警報が鳴り響く。
「敵襲? 馬鹿な」
「総統閣下、どうやら儀式どころではなくなったようですね」
 実のところ、彼は感謝していた。
 考える時間を与えてくれた敵に。

 五

 総統暦一一一年四月一一日
 一九時二八分
 ランツェスガーテン上空

雪山の上で光が弾ける。野蛮な咆哮が耳をつんざく。だが火線はエルンストをそれ、グライダーばかり狙っていた。素早く周囲を見回す。明滅する光の中に、人形のような小さな人影があるのに気づいた。ひとつ、ふたつ、もみっつ……少なくとも全滅ではない。何人かは飛び降りることに成功したようだ。
 落下速度は増してゆく。
 もう二百キロくらいはあるのではないか。空気抵抗があるため、これ以上速くなることはない。もちろんこれでも、人体を粉砕するには十分な速度だ。
 エルンストは太い腕を背中に回した。紐を……まだ引かない。
 駄目だ。まだパラシュートは開けない。速度を落とせば撃たれる。今は自由落下しているから、かろうじて射殺の運命を免れているだけなのだ。ぎりぎりまで、このまま石のように落ち続けなければ。
 エルンストは額を奇妙な感覚が這い回っていることに気づいた。これは何だろう? ぬるりとした感触が生じ、次の瞬間それは痺れるような痛みに変わる。そしてさらに次の瞬間、痛みは消え、また液体の感触が。
 ああ、汗だ。おれの額を汗が流れて、一瞬で凍り付いて。この寒いのに汗を。
 暗闇の中で、空気だけに支えられながらのダイブ。眼下からは何十本とも知れない火線。頭上では次々と味方がやられていく。あるいは回転しながら、あるいは火を噴いて落ちてくる。それらの事実が、彼に極度の緊張を強いていた。
 高度一千。
 胸が苦しい。心臓が、弾けそうなほどに激しく脈打っている。
 高度五百。
 眼下の光景に眼をこらした。白い山の中に描かれた菱形は、すでに視界の半分ほどを埋め尽くすような大きさになっている。
 高度……三百!
 紐を引いた。
上半身と下半身が生き別れになりそうな衝撃。内臓をつらぬく圧迫感。時速二百キロが、ものの数秒で数十キロにまで減速したのだ、それも仕方ない。
 ……くそっ、腹にくるな。やはりドイツ式は駄目だ、イギリス式にすべきなんだ。
 彼の背中からはパラシュートが生えていた。幾本もの太いザイルに支えられて、彼は大気にぶらさがっている。このように、パラシュートの紐が背負い袋に直結している形式を「ドイツ式」といった。いっぽう肩紐とつながっているのがイギリス式である。
 ドイツ式の場合、腰を支点にしてぶらさげらり、うつぶせに寝ころんだような姿勢で降下することになる。イギリス式は直立姿勢で降りることが出来る。後者の方が身体は楽だといえるだろう。
 いや、それはいい。苦しいのは耐えられる。
 だが……
……最悪なのは、ドイツ式では操縦がまるっきり出来ねえってことだ!
 そう、ドイツ式のパラシュートで降下すると、人間はただ落ちるだけ、その軌道をわずかにねじ曲げることすらできない。風と運だけが頼りなのだ。イギリス式に比べて劣った形式だろう。
 だが、手に入ったのはドイツ式パラシュートだけだった。俺はまだいい、これしか使ったことがないからだ。アメリカ出身のバーガー、イギリス出身のロックウェルなんかはさぞかし辛かろう。
高度は百五十。
 パラシュートといっても秒速十メートルを超える速度で落ちる。そう、降りるというより落下に近いのだ。すぐに下の男たちが見えるようになってきた。暗視装置さえもいらないほどだ。
 なぜなら、ランツェスガーテンは……アルプス山中に描かれた黒い菱形は、炎によって照らされていたから。
 箱形の建物の中央にそびえ立つ尖塔は、すでにへし折られている。いくつかの窓から炎が噴き出している。バルコニーとおぼしき建物のでっぱりの上では、機関銃をかまえた兵士たちが連射している。その火線の先には、何かがいた。それが何であるのかは判らない。とにかく速い。とても人間とは思えない速さで走り回り、突撃銃を振り回していた。ひらめく火線。その火線の先には常に敵がいた。
 アーデルハイドだ。やってるな。
 たった一人で何十人もの兵士を……それもアインヘリヤルを敵に回して、一歩も引いていない。戦意も実に旺盛だ。
 ……あいつ……
 エルンストの胸にわずかな後悔が弾けた。
 アーデルハイド。ナチスによって作られた、人間を超えた人間。それなのにナチズムに逆らった人間。今までの人生で教えられてきた全てを否定して、それだけの決意をして俺達の元にきたのに、俺達は奴になんて言った。ナチの手先、スパイ、穢れた奴、そんな罵声を浴びせたじゃないか。
 もう少しあいつの事を信じてやればよかったな。
 もう少し、俺は奴のことを真剣に思いやってもよかったんじゃないのか。
 ずきりと胸が痛む。けれど頭脳はこう冷たく言い放った。
 ……謝ったって無駄だ。アーデルハイドは死ぬ。もう一言も言葉を交わすことなく死ぬ。最初からそういう計画だ。それに俺は決めたはずだ。仇をとるためなら、なんだって犠牲にすると。

 六

 総統暦九六年(西暦一九八四年)
 七月一五日 夕刻

 足取り軽く、エルンストは家路についていた。今にもスキップを始めそうだ。空には暗雲が立ちこめていたが、心の中にはさんさんと太陽が照っていた。
 大通りから住宅地に入るとき、ヒトラーの銅像に向かって敬礼する。
「ハイル・ヒトラーッ!」
 この銅像には監視カメラが組み込まれており、敬礼せずに前を通過したものは処罰の対象となる。いままでのエルンストは、この敬礼が嫌でたまらなかった。だが、やらないわけにもいかない。少しでも疑われるわけにはいかないのだ。だから彼は敬礼を続けてきた。苦痛をこらえ、無理に笑顔をつくって行うか、さもなければ最初から、銅像の前を通らないか。
 それなのに、今日は自然と身体が動いた。もちろんヒトラーへの憎しみは変わらない。だが、いいのだ。
 ……だって、家に帰れば姉さんがいて、ぼくを抱きしめてくれて。ぼくの言葉をきいてくれて、ぼくの、ぼくの。
 あれから一月。エルンストと姉は、毎日のように屋根裏で逢瀬を重ねていた。
 このことを他の家族が知っているのかどうか、それはわからない。だが、どうでもいいことだ、すべてどうでもいいことだ。
 姉さんとひとつになれる、ねえさんがここにいると感じることが出来る、あのひとときが味わえるのだから。
 そう思いながら、彼はいつもの道をゆく。
 もう、走ったりはしない。
 焦ることはないのだ。
さあ、角をまがって。
家が見え……
 あれは、なんだ?
 エルンストの鼓動が急に加速した。
 家の前に、黒光りする高級車が止められていた。
 ……なんてことはない。父さんか、母さんの友達が来てるだけさ。だけさ……
 自分で自分に、そう言い聞かせようとする。
 今まで一度もそんなことはなかった、という事実を無視して。
 事実をそのまま認めるのは、あまりに恐ろしいことだったから。
 まさか、まさか。
 彼は走った。家までの距離を一気に詰め、階段を駆け上って玄関のドアを。
 開ける必要は、なかった。
 すでに金属のドアは開かれ、そこには来客があったから。
 その後ろ姿……かぎりなく黒に近いコート姿を見ただけで、エルンストは自分の想像が正しかったことを知った。
 ……そんなことはない、ありふれてるさ、あんなコートなんて。
 コートの訪問者は二人。それを出迎えているのは父と母。白髪だらけの頭を下げた父、年齢のわりにはしわの目立たない顔を恐怖でこわばらせている母。
「我々の要求がきけないのかね?」
 コートの男の片方、極端に大柄なほうが言葉を発した。父は血の気が引いた顔をあげ、哀願するような口調で答えた。
「いや……その、あの、何度も申し上げているではありませんか……うちには娘などおりません。男の兄弟が二人、それだけです」
 もともと小柄な父の身体は、さらに一回り縮んでいた。母のほうは言葉を発することすらできないらしい。
「ほう? くくくっ。ひひひっ」
 もう一人の男……やせた身体と細長い逆三角形の顔をもつ、酷薄そうな男だ……が、ひどく耳障りな笑声をあげた。
 今なんと言った。父さんはなんと言ったんだ。
「父さんっ! 母さんっ!」
 絶叫した。
 そこまでしてようやく、両親はエルンストの帰宅に気づいたらしい。だがやはり喋れず、震えるばかりだ。
「父さん……この人たち誰? 何を言ってるの?」
 わかっていた。もちろん、何もかも判っていた。だが信じたくない。ほんのわずかでも、自分の想像通りではないという可能性があるなら。
 父は答えなかった。代わりに大男のほうが振り向き、口を開いた。
「我々はSS国家保安本部第四局のものだ」
 その瞬間、億分の一の可能性はゼロになった。
 国家保安本部。国内にいるドイツの敵を探し出して狩るための組織。第四局はその実行部隊。ゲハイム・シュタッツ・ポリツァイ、略してゲシュタポ。
「ゲシュタポが……ゲシュタポが何の用なんだよっ」
 愚問である。ゲシュタポの目的は一つしかない。愚問に答えたのは、やせた方のゲシュタポだった。
「君はエルンスト・アズマ君ですね。スポーツ万能の少年。書類にはそう書いてあります。実にすばらしいことです。だが震えていますねえ、どこか身体でも悪いのでしょうか。それとも……心当たりでも?」
「な、ないよっ!」
「そ、そうです。うちの一家はみんな国のために尽くしてきました……私はAEG社で研究を、母はドイツの偉大な文化を高め、アルベルトは学問に貢献し、こうしてエルンストの方も……」
 父はここぞとばかりにまくしたてた。
「ほーお。くくくく。しかしですねえ」
「国家に対する犯罪の嫌疑がかかっているのだよ、市民アズマ」
「そう。ですから娘さんを出してください。あなた方が隠している、絶滅対象の娘さんをね!」
「い、いません。そんなもの」
「いるかどうかは、我々が判断する」
 父と母は玄関からどかなかった。せめてもの抵抗と言うことか。だがゲシュタポの男達は形ばかりの抵抗など意に介さなかった。
「どけっ」
 そのまま巨漢が突き進む。父と母は紙人形のように倒れた。父は巨漢のコートの裾にしがみつき、懇願する。
「おやめ下さい! 誰もいません! 娘なんていないんですっ」
「いないのなら、なぜそんなに必死になって隠すのかね」
うるさい虫を追い払うように、巨漢は父の手をブーツで蹴り払い、さらに踏みつけた。
 母は、悲鳴をあげつつも父を助けようとする。その時巨漢の拳が、彼女の腹部にめりこんだ。「ぐううっ」と声をあげて倒れ、それっきり動かなくなる母。
「やめろーっ!」
 エルンストが突進する。
 だが、はじき返された。岩そのものに激突したかのような衝撃が全身を走り、彼は玄関のコンクリートの上に転がされていた。
 顔をあげる。
 巨漢は一ミリたりとも揺らいでいない。
「この反応、やはりな。そうは思わんか」
「決まりですな」
 二人のゲシュタポは廊下を奥へ進む。
 そうだ、全く相手にされていないのだ。
 絶対的な力を背景に持つゲシュタポにとって、民衆は虫けらにすぎない。権力だけの話ではない。ゲシュタポは一般親衛隊と呼ばれ、軍人そのものである武装親衛隊とは別物である。とはいっても過酷な戦闘訓練を積んでいることには違いない。素人が殴りかかったところでどうなるものでもなかった。
 それでもエルンストは即座に立ち上がり、二度目のタックルをしかけた。
 また、弾き返される。その場に尻餅をついた。こいつは本当に人間か、石像じゃないのか、そう言いたくなるような手応えが伝わってきた。
 その石像がゆっくりと振り向いた。顔には微笑が浮かんでいた。
「元気がいいな、坊主」
 エルンストの闘志は尽きていなかった。立ち上がり、目標をさだめ直す。もう一人の細身のほうなら、なんとかなるかも知れない。あいつを人質にして時間を作れば、あるいは姉さんは逃げてくれるかも知れない。
 と、そこまで思って足に力をこめた瞬間、目の前を何かが覆い尽くした。
 それが掌……張り手であることに気づいた時には、彼はもう吹き飛ばされ、ドアに後頭部を激突させていた。
 眼球の裏側で火花が散った。口の中にどろりとした生臭い鼻血が流れ込んでくる。自分が誰で、今どこにいて、どんな目にあったのか、これから何をしなければいけないのか、一瞬なにもわからなくなる。
 これでも殺してしまわないよう十分に手加減したのだろうが、しょせんは素人にすぎない彼を行動不能にするには十分な打撃だった。
 けれど、彼の唇が動く。
「……ねえさん……」
 その言葉が、混濁しきったエルンストの意識を貫き、たちどころに覚醒させる。
 ……姉さん!
 鼻と、頭の後ろから大量の血を流したまま、エルンストはバネ仕掛けのように飛びかかった。
「姉さんにさわるなーっ!」
 身長二メートル体重百二十キロのゲシュタポ隊員は、太い眉毛の下の眼を見開いた。おそらく、彼の一撃を受けてすぐに立ち上がったものなど今までいなかったに違いない。
 奇跡を起こしたエルンストは、廊下の奥、たった三メートルの向こうにいる二人のゲシュタポ隊員に突進し……今度は黒光りするブーツを腹部にくらった。丸太そのもののような足が、深々と腹部に沈み込んでいく。エルンストの意識ではなく、脳ですらなく、脊髄反射が身体をくの字に折った。彼は運動の法則に従って、またもドアに激突、バウンドしてコンクリートの上に投げ出された。顔面から落下し、歯を折ったが、蹴りのダメージに比べれば無視していいだろう。
 声は出なかった。かわりに出たのは、蛍光灯の光を反射して奇麗に輝く胃液だった。特大のガマガエルを思わせる異音とともに、彼は身をよじり、胃液を吐き出し続けていた。もう何も吐くものがなくなったが、止まらなかった。
 エルンストを文字通り一蹴したゲシュタポ隊員は、苦悶するエルンストに一瞥もくれず、くるりと背を向けて廊下の奥に歩み去っていく。
 すぐに彼らは目的の場所に到達することだろう。居間や台所を無視し、突き当たりの階段を上り、エルンストとアルベルトの部屋も無視して、三階の天井をはずして穴に潜り込めば……そこに姉はいる、一家が十六年間やってきたことは全て無駄になってしまうのだ。
 だが、そうわかっていても、もう立てない。手足そのものに損傷はないのに、全身の筋肉が反乱を起こしていた。意味のない痙攣ならいくらでもやってやるが、あんたの言うとおりになんぞ動いてたまるか……そう宣言していた。
 父と母は、意識もさだかでない状態で横たわっている。かわりに動いてくれることは期待できない。
 こつん、こつん。
 かっ、かっ。
 二人のゲシュタポが、階段を上がっていく音。
 もうおしまいだ。
 ねえ……さん。
「しかし、アルベルト・アズマはどこに行ったのでしょう?」
 やせた方の隊員が、ふと気づいたように口にした。
 二度目の奇跡は起こった。トカゲのような姿勢で胃液を吐き散らす以外なにもできなかったエルンストの意識が一瞬にして澄み渡った。光がみちあふれた。
 兄さん! そうだ。兄さんの姿が見えない。今日はたまたま家に戻ってきているという話だったのに。これだけ騒ぎになって、出てこないはずがないのに。それでも姿を現さないということは。
 先に姉さんの部屋に行って、姉さんを逃がしてくれているのではないか。
 そうだ、そうに決まっている。そうだ。
 兄さんはいつだって、ぼくよりうまくやってしまうんだ。ぼくがまだ小さくて、自分のことを「あのね、エルンストはね」と言っていたころ、兄さんはすでに十代後半だった。聞いたこともないような難しい言葉をいくらでも知っていて、父さん母さんも答えられない質問にもすらすらと答えることができた。当時のぼくにとって大人はみんな「じぶんとは別の生き物」だったが、兄さんは「じぶんより上の生き物」だった。どんな時でも焦ることなく、眼鏡のレンズの向こうで灰色の眼を細め、 一瞬考え込むだけで最適の解決策を導き出す。いつだって兄さんはそうだったんだ。
 だから今だってきっと。
 その時もう一つの記憶が蘇り、兄への信頼を裏付けた。
 そうだ。それに兄さんは言ったのだ、まだ三歳くらいの自分をだっこして、あの屋根裏の暗い空間に連れてきて。懐中電灯を一振り、明るい空間を作りだして。
 その中に、姉さんを……六歳のねえさんを浮かび上がらせて。
「……お前のお姉さんだ」
 兄がそう言った。いつも通りの静かな、だが自信にあふれた声で。
 当時六歳の姉はベッドの上にいた。こちらに顔を向けている。白い、愛らしい顔だ。三歳の子供が六歳の子供を見て「きれいだ」と思うはずがない、エルンストが思ったのは「かわいそうだ」ということだった。
 こんな暗くて狭いところにいて怖くないのか。外に出ればいいのに。
 その心を読んだかのように、兄は言った。
「出ることはできない……彼女は、僕の妹、お前の姉は、日の当たる世界には決して出られない」
「どうして」
「世界が、こいつを認めていないから。殺そうとしているから」
 声も出ないエルンストに、アルベルトは言った。
「だから、僕達が守ろう。僕もやる。お前も頑張れ」
 わけもわからず、ただエルンストはうなずいていた。
 それが、エルンストの最初の記憶だった。
 ……あの時からずっと、兄さんはいつも約束を守ってきた。この冷たくむごい「世界」全てを敵に回しても、姉さんを守り続けてきたんだ。
 ……だから今回もきっと。
「やあ。お待たせして申し訳ありません」
 頭上から声が浴びせられた。
 低い、だが澄んだ、きざな物言いが似合いそうな声だ。
 聞き間違えるはずもない、兄の声だった。
 兄さん、どうしてここにいるの。
 逃げたんじゃなかったの。
 姉さんを、ねえさんを連れだしてくれたんじゃなかったの。
 顔をあげた。下半分が胃液とよだれ、上半分が涙にまみれた顔を。
 ぐちゃぐちゃの顔が、いっそう乱れ、歪んだ。
 怪我のせいではなかった。驚愕のためだ。
 自分の目で見ているものが信用できない。
 階段を真ん中まで上がった二人のゲシュタポ。その少し上に、通せんぼをするようにして兄が立っていた。あまり高くない、弟に抜かれてしまった背。猫背気味で、体格も良いとはいえない。細長い顔。こけた頬。四角い銀縁の眼鏡。その奥には灰色の瞳。
 見慣れた兄の姿だ。
 兄は一人きりではなかった。とてもそんな力があるとは思えない細い両腕で、一人の少女を横抱きにしていた。
 水色のワンピースを着た少女。黒く長い、微妙に波打った髪の。その少女の片手は胸の下あたりでぎゅっと握られ、もう片方の手は髪飾りをさわって。
 まちがいなくねえさんだ。
 ねえさんが……なぜここに。
「やはり、いましたか」
 ゲシュタポのやせた方が、いまにも舌なめずりを始めかねない声で言う。大きな方は無言でうなずいただけだった。
 やせた方は振り返った。見事な鷲鼻、眉間に刻まれたしわ、そんなもので構成された顔が嘲笑をうかべて歪む。
「……これはどういうことですか、帝国公民アズマ?」
 父は顔だけを起こし、「あ、あ、あ……」と、悲鳴ともうめきともつかない声をあげるばかりだった。自分の目の前で怒っていることがなんなのか、理解出来ずにいるのかも知れない。母に至っては気を失ったままだった。もしかすると死んでいるのかも知れない。
「どういうことかと訊いているんだ、答えられないのか、同志?」
「あ。あ。あ……」
「私がかわりに答えましょう」
 アルベルト・アズマが口を開いた。
「父と母は、この生存不適格者ルイーゼ・アズマを十六年の間かくまっていました。明らかに国家への反逆です。もちろん私アルベルト・アズマ、弟のエルンスト・アズマが、それを看過していたという事実も認めないわけはいきません」
 兄の声はじつに冷静で、よどみなく、あらかじめ脳に焼き付けてあった文章を朗読するかのようだった。
 なにを。なにを言ってるんだ兄さん。
「私は眼をさましました。このような反逆行為、このような罪をおかしていた自分が恥ずかしい。よって、ここに父と母を告発します。 党と祖国と、ドイツ民族の名において」
 うらぎった……
 突然その言葉が、這いつくばったままのエルンストの胸中に生ずる。
 ごつい方のゲシュタポは、無言のまま腕を組んだ。やせ形、鷲鼻のゲシュタポは、にやにやと笑いながらアルベルトに問いかける。
「ほう、なるほど、裏切り者を告発するのは立派な行為ですねえ。ですが、君自身の罪はどうなるのですか? まさか、告発したくらいで罪が消えると思っているのではないでしょうね」
 そこで兄は、ゲシュタポの問いにすぐさま答えた。その白い顔に、薄笑いを浮かべて!
「……アインザッツを行うことで、罪をつぐないたいと思っております」
 兄が裏切った、これ以上とほうもない事態など起こりようがないと、これ以上の悪夢などあり得ないと、エルンストはそう思っていた。だが兄が口に出した「アインザッツ」という言葉は、まさに「これ以上の悪夢」だった。
 アインザッツ。直訳すれば「特殊行動」「特別行動」ということになるか。「特別行動隊」と呼ばれるSSの部隊もいる。だがアインザッツグルッペンが「虐殺部隊」「処刑部隊」などと意訳される事を見れば解るとおり、アインザッツの本当の意味は「裏切り者を処刑する」ことだ。
 国民がそれを行うことは密告以上の名誉とされ、多数の裏切り者をアインザッツした場合場は総統の表彰を受けることすらあるという。
 それをやるというのか。
 つまり、兄さんは姉さんを。
「妹をアインザッツし、忠誠の証しとします。拳銃を貸してください」
「うむ」
 巨体のゲシュタポ隊員は、感心したように大きくうなずくと、コートの前を開き、銃身の短い自動拳銃を取り出した。ワルサーPPKだ。
「使い方は知っているな」
「もちろんです」
 愚問であった。今の第三帝国では、どんな人間も少年少女のうちに最低限の軍事教練を受けている。拳銃の撃ち方を知らない人間はいない。
 光を反射しない漆黒の拳銃が、兄の手に収まった。
 そこではっと気づいた。
 姉さんが殺されようとしている……
 あまりに想像を絶することばかり起こっていたせいで、現実に対処することを忘れていた。まるで夢の中を泳いでいるかのように感じていた。
 だが、いまや気づいた。これは悪夢などではない。どれほどそう思えても、こんなこと信じたくないと思っても、現実に起こっている出来事なのだ。
 ……姉は階段に下ろされた。座り込む事も暴れることもなく、その場に棒立ち。
 ……何故か、本当に不思議なことに、姉は一切の抵抗を示さない。顔に怒りや憎しみの表情を浮かべるといった、そんな種類の抵抗すら。
 姉は両手の指を組んで、胸の高さに持ち上げた。キリスト教徒が祈りを捧げる時の動作そのものだ。
 その瞬間、エルンストの中で力が膨れあがった。内臓破裂寸前の力で蹴られたばかりにも関わらず、身体から一切の痛覚が消滅した。体内を炎が駆けめぐった。炎は筋肉を駆動した。
「うわああああああっ」
 動かないはずの足が動き、エルンストは三度目の突進をした。銃がある? 撃たれるかも知れない? だからどうしたというのだ。
 姉さんが死ぬ、止めなければ。それしか考えていなかった。
 しかし、銃声。
 銃火はエルンストに向けられたものではなかった。もしそうであれば、どれほどよかったろう。
 エルンストは見た。
 姉の側頭部……耳に銃口が押しつけられたのを。
 姉の首が、折れるほどに激しく振られたのを。
 頭の反対側から、赤黒いペーストがどろりと噴き出したのを。
ぺたん……
 エルンストは階段に這いつくばった。
 全ての力が四肢から、意識から、臓腑から喪われた。
「あ……」
 姉は首を曲げ、両手を合わせたままの姿勢で、階段に転がっている。
 死者の顔はしかし……安らかだった。
 怒り、憎しみ、そんなものは微塵も感じられない。
眼は閉じられ、頬は少しひきしまり、口はきゅっと結ばれ、だがその表情全体には、負の感情は感じられない……あえていうなら、その表情が伝えているものは「祈り」だった。
 なにかを祈りながら、姉は死んでいったのだ。
 いや、殺されたのだ。
「あ、あ、あぁぁぁっ」
 兄が殺した。姉を殺した。尊敬していた兄が、大好きな姉さんを。
 殺したい。兄を殺したい。そう思った。
 だが力が入らない。大切なもの、世界のすべてより大切なものは、もう消えてしまった。
 けっして戻りはしない。
 だから、だから……
「素晴らしい。実に見事なアインザッツです」
 やせたゲシュタポが賞賛する。そんな言葉はエルンストの耳に届いていなかった。
 巨漢のほうが、自分の首根っこをつかんで持ち上げたことも、耳元で「お前は矯正不可能のようだな」と呟いたことも。
 だから、だから……
 なにもできなかった。なにひとつできはしなかった。
 姉さん。姉さん。
 ルイーゼ……ねえさん。
 もっとも大切なものの名前だけが、彼の旨に反響していた。いつまでも。

 七

 数ヶ月後
 ダッハウ強制収容所
 
「起きろ、起きろ。……起きんかっ!」
 その声で、エルンストは眼をさました。
 砂埃のせいで何かの眼病にかかっているのか、ひどく痛む眼をあける。視界に飛び込んできたのは板だ。茶色い、しみだらけの板。
 身体を、ゆっくりと動かす。
 手足に力を入れる。手の指、足の指を一本一本動かす。激しく動かせば、ひびが入って折れてしまいそうだ。どのみち、勢いよく身体を動かす元気などない。
 とりあえず、指は動いているようだ。「ようだ」というのは、感覚が半ば失われているからである。マイナス二十度にもなる中、暖房も防寒衣もなしに寝ていたのだ、指が麻痺するのは当然だ。麻痺で済めばまだいい。本当に凍傷にかかり、黒く変色して腐り落ちることもありうる。
 身体を覆っている毛布……紙のように薄っぺらいが、自分たちに与えられた唯一の防寒具……の中から、ゆっくりと這い出す。
 「カイコ棚」から頭を出した。
 「カイコ棚」は四段ベッドだ。木製で、腐臭の漂うベッドだ。二人一組で寝る。夏は隣の奴が腐りだし、冬は凍り付いてしまうベッドだ。
 一緒に寝ていた奴は動こうとしない。本当に凍死してしまったのかも知れない。十分にあり得ることだった。最初の一週間で死んでしまうものが全体の三割もいるのだ。いや、ただ単に気を失っているのかも知れないが、同じ事だ。一時間後までに集合できなければ、反抗心ありと見なされて殺される。
 助けよう、起こそう、とは思わない。
 他人に関われば、それだけ自分の命も縮む。ここに来てからの半年間で、エルンストはそれを悟っていた。
 「カイコ棚」から降りる。下はむき出しの地面。かちかちに凍り付いている。そこに、真っ赤に晴れ上がった足で降りる。もちろん裸足だ。もはや冷たいとも感じない。
「起きろっ!」
 入り口から、SS監視部隊員の怒鳴り声が聞こえてくる。
 カイコ棚がずらりと並ぶ宿舎内。ひとつの明かりもなく、ドアの取り付けられていない入り口からは星明かりだけが差し込んでいる。あまりの暗さによく見えないが、もそもそと多くの囚人達が起きてくる。エルンストと全く同じ緩慢な動作で身を起こし、カイコ棚から降りて……途中で力つきたのか、軽い音を立てて転げ落ちる者もいる。もちろん誰も助け起こそうとはしない。
 カイコ棚から降りた囚人達は、みな同じ顔つきだった。つまり顔中の肉という肉が削り落とされ、眼だけがぎらぎらと光っているのだ。かつては存在しただろう知性と教養と理性は、まるで残されていなかった。
 彼らは手をぶらりと垂らしたまま入り口から出ていく。
 まだ太陽は顔を見せておらず、東の地平線からわずかな光が漏れているばかりだった。
 その暗がりの中を、囚人達は歩いていく。
 彼らだけではない、宿舎は凄まじい数だった。このダッハウ収容所はドイツで最初に作られ、すべての収容所のモデルとなり、現在もなお最大規模なのだ。現在、五万人が収容されている。彼ら全員が同時に宿舎から追い立てられ、広場へと歩いていく。垢と土ぼこり、そして固まった血で汚れた縦縞の囚人服を、冷たい風に震わせながら。
 凍り付いた地面の上に長く伸びる、囚人達の影。その中に、他の影とは比較にならないほど機敏に動く影が混ざっていた。
 限りなく黒に近い灰色のコート。ヘルメットの下からのぞく灰色の眼には何の感情も宿っていない。手に持っているのは銃身の短い銃……短機関銃だ。コートの襟に輝く「右向きドクロ」の印を見れば判る、この者達はSSドクロ部隊。囚人達を監視し、必要に応じてアインザッツを行う。
 そのドクロ部隊の男が、短機関銃を左右にゆっくりと振りながら囚人達の間を抜けていく。それだけで十分な脅しになった。囚人達は動かない足にむちうって、急ぎ足で広場を目指した。
 たどりついた広場では、囚人達が整列を開始していた。
 エルンストもふらつく足をひきずって列に加わる。
 前の男……背が高いだけにやせているのがより一層目立つ、もちろん丸刈りの、手足が奇妙にひょろ長い男……の動きが怪しいことに、エルンストは気づいた。まっすぐ立っていられないようだ。身体が傾き、崩れそうになっては元に戻す。そんなことを繰り返していた。
 ああ……エルンストは確信した。こいつ殺されるな。それは同情でも悲しみでもなかった。ただの事実の確認だ。
 案の定、通りかかったドクロ部隊の男は、背の高い男に鉄拳を見舞った。
「がっ」
「動くな! そう教えたはずだっ!」
「げっがっ」
「立てっ!」
 男は立ち上がろうとするが、途中で尻餅をついた。力がまるで入らないのだろう。当然といえば当然だった。これだけの寒さに加え、慢性的な飢餓状態……一日に支給される食料は、千二百キロカロリー程度でしかない。
「立てと言っているのがわからんかっ」
 ドクロ部隊の男がブーツで蹴りつけた。木の枝が折れるような音。たまらず転がった男に、二度目、三度目の蹴りが飛んだ。
 男はもう動く力もなく、ただ横たわっている。
「こいつはもう使えんな」
 ドクロ部隊員の呟き。
「おいっ、貴様ら。こいつを運べ。お前と、そうお前だ」
 エルンストも指された。
「はいっ!」
 即座に答えて、倒れている男の身体を持ち上げる。いくらやせているとはいえ人間の身体は相当重いが、ここで倒れるようなことがあれば、自分もこの男と同じ運命をたどる。
「や、やめ、やめて……」
 自分の運命に気づいたのか、運ばれていく男は呻きをあげた。
 だがもちろん、エルンストは何もしない。一片の同情も見せることはできない。運ばれていく者の耳元で何事か囁いただけで銃殺された男もいたのだ。
 広大な広場を横切り、豚小屋のようなバラックが並ぶ中を進み、収容所の敷地の端にやってきた。二重の鉄条網、その端々に立つ監視塔。
「もういい、そいつを渡せ」
 エルンストは言われた通りにした。
 いつの間にかドクロ部隊員が増えていた。一人小型カメラを取り出した者がいる。銃殺の記録をとる必要があるのだろう。
 男は最後の抵抗を試みた。どこにそんな力がと不思議に思えるほどの早さで跳ね起き、口を大きく開け、まともな言葉にならない叫びをあげながら走る。
 銃声。足を打ち抜かれた。転がる。
「祖国と、総統と、国家社会主義的世界観の名に於いて!」
 ドクロ部隊の男は規定通りの文句を叫ぶ。
「アインザッツを行う!」
 連続した銃声。這いつくばった男の背中と腰に、赤黒いシミがいくつも生じた。
「死体を処分しろ」
 そう言ったきり、ドクロ部隊の男たちは振り返りもせずに去っていった。
 もちろん、処分するのはエルンストたち囚人の仕事である。
  
その数時間後
 作業棟
 
 エルンスト・アズマは白熱電球の黄色い光の下、紙コップの製造器を操作していた。
 まるで同じ作業をえんえんと繰り返す。
 ああ、なるほど、別に珍しいものではない、工場労働者なら誰でもやっていることだ。
 けれど普通の労働者と違うのは、どれほど働いても一マルクも貰えないということ。
 そして作業棟の中を歩き回る、短機関銃を構えた男達の存在……
 立ちっぱなしの労働を一日に十時間やらされ、さらに朝昼の点呼にそれぞれ二時間かかる。もちろん点呼の間は身動き一つできない。姿勢を崩したり喋ったりすれば、待っているのはアインザッツだけだ。そんな生活を送っていながら、支給されるのは「パン」という名前の「埃の塊」、「スープ」という名前の「枯れ葉が浮いたお湯」だけ。
 毎日、何百人もの人間が死んでいった。冬は凍死、夏はチフスやコレラで。エルンストが入ってから半年で、同じ宿舎の仲間は半分以上入れ替わった。
 仲間? いや、とんでもない。彼らは仲間などではないのだ。むしろ逆だ、隣の奴が死ねば、周りの者は安心する。その間だけは、ドクロ部隊の眼がそれるから。自分はアインザッツされずに済むから……
 「お前は今日死ね、俺は明日だ!」
 かつてソビエトの強制収容所では、こんなスローガンが叫ばれていたという。それは現代の第三帝国でも何らかわりがないのだ。
 はす向かいで作業していた男が倒れる。糸の切れた人形そのものの動きだ。ドクロ部隊の男がやってきて、罵声を浴びせながら蹴りつける。だが何度蹴られても、男は声一つ立てず、動こうともしない。
「ちっ、死んでやがる……おい、そことそこ! 運べ!」
 今回はエルンストは指名されなかった。
 死んだ男が運び出されていく。何事もなかったかのように作業を続ける。
 エルンストの頭の中に、たった今死んだ男はいない。朝の点呼で死んだ奴の事も、もう覚えていない。朝起きたら冷たくなっていた奴のことも。
 ただ、ただ一つ、彼の心を占領していたのは。
 ……復讐してやる。
 ……そうさ復讐してやる。
 アルベルト・アズマ! もうお前のことを兄なんて思わない。裏切り者! 姉さんを殺した奴! 必ず殺してやる。
 そしてこの世界を……姉さんが生きるのを許さなかった世界を……叩き潰してやる!
 そのために、僕は生きなければ。
 どんなに苦しくても……死にたくても……
 絶対に死ねない。生きて、ここから出て、力を手に入れてやる……必ず、必ずそうするよ、姉さん。
 だから耐えられた。どれほど辛い強制労働にも、ひどい食事にも。零下二十五度の寒風の中で立ち続けることも。周りの人間達が死んでいくのに助けることができない、その状況にも。
 姉さん……
 ぼくは姉さんを守るって、そう決めていた。でもできなかった。守れなかったんだ。だからせめて、あいつを殺すよ。ねえさん、ねえさんは最後に何を思ったの。何を祈って死んでいったの。仇を討って、と言いたかったの。きっとそうだよね、きっとそうだよね。


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