第2章 約束された情熱
陽がかげった。
それだけ覚えている。
どうしてそんなものばかり見たのだろうと、彼は後になって後悔することになる。
ひとりの少女が、最後に見せようとした表情くらい、全身をつかって表現しようとした何かの感情くらい、どうして見てやれなかったのかと。
だが、とにかくその時彼はその少女を、ただの影としてのみ認識した。
影は、彼の目の前にあるビルディングの屋上から落下し、彼のすぐ前の路面に叩きつけられた。
細長い物体だった。柔らかそうだ。黒く不定形のものが伸びていた。黒っぽい色調の布が、その表面の半分ほどを覆っていた。物体の形は 潰れ、赤い液体が路面にあふれている。
それが要するに何であるのか気づくのに、何秒もの時間がかかった。気が動転していたからでもあろうし、いかに彼の感覚が摩耗していたかという証拠でもある。
「飛び降りだ!」
そう、彼の目の前に落下したのは、世をはかなんで虚空に身を躍らせたに違いない、ひとりの少女の亡骸であった。
朝である。場違いなほどに麗らかな光が、十秒ばかり前まで女の子だったものを照らしていた。むろん、彼以外にもいた通行人はみな驚愕と恐怖と嫌悪に顔をゆがめ、数歩あとずさった。亡骸に近づいてゆく者もいるが、彼はそんな悪趣味なことはできなかった。
彼はこの数十年間の大人としての生活でたっぷりと蓄積された臆病さと事なかれ主義を発露させて、ぎくしゃくとした動きでその場から去ろうとする。
最後に一瞬だけ目をむけた。すると、いままでは身体全体しか見ていなかった自殺少女の顔が目に飛びこみ、視界に焼きついた。彼女の首は奇妙な角度で曲がっていたが、顔には傷一つなく、白いその顔には微笑があった。
そう、微笑。よく見たわけではなかったが、本当に嬉しそうな笑みだった。口から伝った鮮血も、その幸福感にあふれた表情を消し去ることはできなかった。
一瞬、ある種の痛みが彼の、すでに老衰をはじめた脳を貫いた。
若くして死んだ娘への哀惜の念? いや違う、これは。
「時田さんじゃないですか!」
考えをふきとばし、無遠慮な声がかけられた。
振り向くと、背広を着込んだ中年男がそこにいた。会社での同僚だった。十才ばかり年下だが、出世コースに乗っている男で、社内での評価は自分とは比較にならない。
彼はリョウの視線の先を追いかけ、鼻をならす。
「おや、自殺ですか。馬鹿なことを」
とっくに気づいていたに違いないのに、わざとらしいことだ。しかも、眉ひとつ動かさずにそう言う。自分とは別の世界のことであると思っているに違いない。
「ばかなこと……」
「時田さん、急がなくていいんですか? まあ特に忙しい仕事はありませんがねえ、時田さんの場合」
こんな皮肉をぶつけられても不快に思わなくなって、一体どれほどたったろう。自分より若く、何倍に才気にあふれ、しかもそれとを当然だと思っている人間を妬まないようになって。
いつからか彼は、たとえどんな嫌なことがあっても、まあこんなもんだろう、どうせ、などと思ってしまう人間にかわっていた。
だが今回ばかりは少しちがう反応が、彼、時田リョウの心理に生じた。
肋骨の奥に生じた刺。
会社に向かって歩きながら、リョウはその正体について考えていた。
そんなことを柄にもなく考えている自分がいささか気恥ずかしかった。驚きもあった。
甲高いサイレンの音が聞こえてきた。
やはり、精神の変調は現実そのものの変化を意味しないようだ。今日もまた、会社で過ごした半日はリョウにとって「惰性」以外のなにもので もなかった。誰でも出来るような仕事。能力のない社員としての扱い。この国は、どちらかというと年功序列制が残っているほうであるからま だよいものの、実力主義の国ならどうなっていたことか。
それも、もう十年ばかり前から、どうでもいいと思えるようになっていた。
自分が、新しく入った事務機械の使い方がわからずに首をかしげることも。それを毎月のように繰り返していることも。新人には汚いものを見るような目で見られ、中堅どころの社員は彼から目をそむけることも。
そして、こうして、くたびれた服に包まれたくたびれた身体をふらふらと動かしながら、家に帰ってきて……その家に、誰もいないことも。
マンションの一室。近代的とは言えない設備。いまだに、単なる鍵による施錠法をつかっている。声紋チェックや遺伝子チェックなど使っていない。鍵を回して中に入ると、沈黙と暗闇と、すこし嫌な臭いがただよった。はっきりといってしまえばカビ臭さに似た、不潔そうな臭いだ。ろくに掃除もしていないことがはっきりとわかる。
色あせたのれんをくぐった。家を追われ、軽蔑と哀れみの入り交じった視線を浴びながらこのマンションに来たときに買ったものだ。いまでは、こんなものを買ったことに後悔している。なにか装飾に類するものなど買う必要があったのだろうか。
家具は古びた机と安物の卓袱台、それとタンスくらいだろうか。
本箱は以前置いていたものの、今では本もろとも捨ててしまった。どんな形であれ、空想の世界に逃げ場をもとめることに虚しさを感じたのだ。その気分は決してぬぐい去れない種類の粘液と化して時田リョウの意識にまとわりついたのだ。今はただ、畳の一部が変色し、へこんでおり、本棚の存在を思い出させてくれるだけだ。
手探りで電灯をつけると、切れかけた蛍光灯のちらつく光が室内を照らした。煙草の煙で黄色くなりかけた壁紙が、白い天井が、机の上の写真がリョウの目に入った。
机の上は、けっして乱雑ではない。
だが整頓されているわけではない。ただ単に何も置かれていないというだけだ。読書や書き物の趣味はもうやめてしまったし、家にもってかえるほどの仕事をしているわけでもなかったのだ。玄関ののれんと同じく、彼がまだ何事かに熱意を示すことができた時代の遺物としてのみ、この机は存在するのだった。近いうちに本箱と同じ運命をたどることになるのかもしれない。
彼は机に向かった。意味のある行動ではなかった。彼が行うほとんどの行動と同様、他にすることがないから、という理由だった。
いや。ちがう。これだけは特別だ。
見ているだけで胸の奥に痛みのはしる世界、しかし覗かずにはいられない世界がそこにあるのだ。
惰性ではない。これだけは吸い寄せられるように。
たどりついた机の上。白い木の額縁。写真。その二次元世界には、まだまだ若かったころの彼と、アルバムや夢の中でしか会えなくなった人々が存在していた。
これが儀式であった。毎日、片道一時間半の電車と地下鉄とバスの旅を終えて帰ってきたあと、この寒さのただよう一室で、自分がどんな人間なのか確認することが。もう十年、誰に強制されたわけでもなく続けてきた儀式であった。
自分が、そう、妻も娘も失い、なにもかも馬鹿馬鹿しくなって、ただ定年を待つだけの老いた会社員であることを。
写真を保護するガラスの表面が鏡の役目を果たし、時田リョウの顔を映し出した。
……疲れて、眠そうな顔だ。これが自分であるこというさえ忘れれば、くだらなそうな人生をおくってきた奴だと、そう断定してしまうところだ。
だがこれはリョウなのだ。こけた頬も、胡麻塩頭も、細められた目も、彼自身のものなのだ。
愛想笑いとつまらなそうな表情、それから酔ったときにだけ見せる怒りに近い表情、その三種類の顔しかできなくった親父、これが自分なのだ。
自分の顔から意識をそらし、ガラスの向こうの世界に視点をすえる。
どこかの公園で、彼の膝に抱かれて笑っている五才の娘。白いワンピース。黒いおさげ髪。緑のカケラが娘の頭のそばに浮いていた。偶然、頭上の樹から舞い落ちた木の葉がフレームに収まったらしい。そう、風が吹いていた。おさげが、いまにも風に揺れだしそうだ。
胸がしめつけられた。
ただ失ったから、という悲しみではなかった。家族をなくした直後、彼は泣いたが、いま感じているような種類の重苦しさは胸のうちのどこにも なかった。このままずっと泣き続けることはないだろうと思っていたし、それでも日常の中を生きていかなければいけないのだと思っていたし。
もう子供でもあるまいし。つらいことがあったって、明日世界がおわればいい、なんてことを考えてられるほど馬鹿ではない。
だが今は。
そのとき突然に、かれは、自分のなかにある感情の正体を知った。
そうだ、過去へのあこがれだ。
自分はあの娘のように自殺することなんか絶対できない、それを悟ってしまったんだ、そして、その事実がたまらなく嫌だった。
あの頃はよかったと思っているんだ。
もうあきらめていたはずなのに……
自分が情けなくなるだけだから、とうにやめていたはずなのに。
残酷だ。今ごろになってこんな気持ちが。
あと二十年若ければ、自分を変えていこうと、なにか自分を包む現実をも変えようと、そう思うことができたはずだ。成功するかどうかはともかく、そう思うことだけはできたはずなのだ。
それなのにこの歳になって。
あの、けっきょく顔も見ず心などしるはずもない自殺少女が、そのねじくれた亡骸が、脳裏に蘇った。
自分がうしなったなにか、という言葉と共に。
机を離れる。
すっぱい臭いが多少しみついた、清潔とはとても言い難いベッドの上に、初老の男は腰を降ろした。
決して飛び乗ったわけではないのに、スプリングが悲鳴をあげた。
「時田さん?」
冷たい声だ。
またこの声を、こんな声を聞くことになったか。安物の椅子に座り、背もたれをきしませながら、リョウは身体を脱力感に浸した。
「時田さん、この間の書類はまだ上がっていないんですか?」
ああそうですよ、あんたたちみたいにバイオ・エザイア式とかいう機械に慣れてないもんでね。わたしゃどうせ古い人間なんですよ。
十年前なら、少なくとも小声ではそう言っていたのだが、今のリョウは頭を下げるだけだった。自分の半分ほどしか生きていないだろうと思われる社員が、少し伸びた前髪を通して軽蔑の視線を送ってくる。それをも、なんの反発を示さずに受けるリョウ。
どうせ、どう反発したところでなにも変わりはしないのだ。
社員が茶をまずそうにすすりながら、隣の社員と噂話をしている。もちろんリョウには目もくれない。
……もうじき戦争だって?
……やりそうだな。いやだよな。
……すぐ終わってくれるといいけどな。
その会話はリョウの耳に飛び込んだが、やはり意識までは刺激しなかった。
おれにとって戦争なんて、ただ生活が苦しくなるというだけのことじゃないか。
いっそすがすがしいほどの破滅なんて夢のなかにしか存在しない。もちろん英雄も。現実世界の戦争なんて、毎日サラリーマンが会社にいってるのとなにも変わらない。
……本当にそれでいいのか。
あの娘、死んだ娘の最後の顔を見る事が出来なかったこと、記憶にとどめてやることができなかったこと、それが虚しく、それが痛かった。すべてはそこにつながっていた。昔の自分なら、せめてあの娘が感じていたものの破片くらいはつかみとれたはずだ。同じような世界にいたから。きれいで正しいものが本当にあると思っていられたから。生きるに値しない、という言葉がリアルに響いたろう。どんなに楽しいことがあっても 嫌なことがあっても明日は来てしまうのだ、生きるに値するかどうかなど関係ないのだ、という世界には、彼女はまだ。
きしむような音が耳にとどいた。
リョウ、無意識のうちに、机の上の透明なシートをひっかいた。机の上にのった茶しぶまみれのプラスチック製のコップを、感情のままにひっくり返してやりたくなる。
だがそうした時のことが予想できてしまうだけに、彼にはできなかった。
知るということがこういう意味だったとは。
やりばのない感情、あの日からずっと胸の奥でうごめき、増殖の一途をたどっている黒いアメーバが、この部屋にあるすべてのものからから目をそむけさせた。
その時、窓にブラインドは降りていなかった。
彼のいる部署はこのビルの二十階にあり、大きな窓からは空の蒼さと雲の白さがはっきりと見えた。彼は当然のごとく窓のすぐ側に席を与えられていたので、ため息を片手でおさえながら窓の外に目を向けた彼は、こう心のなかでつぶやくことになった。
……蒼い。蒼すぎる。
……白い。白すぎる。
決して許しはしないだろう。どんな言い訳もみとめないだろう。たとえ世界中のすべての人々が、仕方がないそれが人生なんだそれが現実なんだと、そう諦観に心をゆだねても。
幼いころの自分自身だけは。
戦争の跡などまるで消えてなくなったこの時代、何度も繰り返されたハイテク化と懐古趣味のシーソーゲームの果てに、やはり電車は電気で動く車輪のついた乗り物になっていた。
急行電車に一時間揺られ、煙草の吸殻だらけの階段を後ろの人波に押されるようにして降りたリョウは、生気のない動きのまま夜の街に踏み込んだ。
明滅するネオン。ホテルと飲み屋。ビルの白い壁。タクシーのヘッドライトがアスファルトの路面を照らし、照らされた路面は黒い液体のように光る。
ここから十五分ばかり歩けば、リョウは自宅にたどり着ける。他に行く場所がないから、というだけの理由で帰る、そんな場所に。
その日、ふだんと違う道をつかったのは、昼間かんじたあの違和感、いや、照りつける夏の日差しのようなあの想いゆえか。
ふだんなら、本屋、ビデオ屋、ゲーム屋、居酒屋、デパートなどが左右に並ぶ大きな道を、レンガの歩道にはバイクや自転車がずらりと並ぶその道を、疲れた足をひきずって歩く。
だが今夜にかぎって、彼は路地裏を通った。
汚れた看板のスナックや風俗店が狭い道に光をぶちまけ、そのなかに違和感なく、古いラーメン屋やら八百屋やらがまじった場所を。
灰色のシミのようなものが、でこぼこしたアスファルトの上に張り付いている。噛み捨てられたガムだ。
ねじれた白い円筒が、茶色い糸屑を吐き出している。タバコの吸殻だ。
彼がそんなものに気づいたのは、力なくうなだれて、黒い泥のような路面を視線でなぞりながら歩みを進めていたからだ。
店の前に立って、家路につく人々を呼び止める黒服の男たち。夜の仕事でない店は、シャッターを閉めはじめる。ネオンに輝く店名をもつ店から、着飾った女の子が出てきた。ずいぶん年の離れた男を連れている。
じぶんは、ここには含まれていない。
リョウ、喧噪にある種の痛みをおぼえる。
あるいは表の道を歩いたほうが、まだましだったかもしれない。
ますます顔をうつむかせる。
だが、ただ見えなくなったというだけで、世界はやはりある。昔はこうすれば消えてなくなったのに。
そんな時……リョウの身に、それが起こった。
あと、彼は顔をあげる。
上げなければいけないような気がしたのだ。
すると、その動きに呼応したように世界がかわる。視線を水平にしたときにはもう、周りの雰囲気がまったく変わっていた。
声をあげる男女はいない。道にはゴミも落ちていない。
あるのはただ、どこまでも続く、沈黙しきった建物ばかり。
ここは……
こんな場所があったのか?
とても人が住み、日々飯をかっくらい、あるいは金と欲望がぶつかりあっている場所には思えない。
廃虚、いや、積み木の街のようだ。
同じ大きさ、同じ形、まるっきり無個性な、装飾もなければ汚れもない建物が並んでいる。まっすぐ前へと続く道はどこまでも伸び、その果て るところは夜の闇に溶けて見えない。
「あの……」
声をかけるものがいた。
声変わり前の男の子の声だ。
振り向いて、驚く。
自分はここを通ってきたのだ。確かに通りすぎてきたのだ。それなのに。
そこには、つい先ほどまで彼がいたはずの、猥雑ににぎわう夜の町など存在していなかった。
やはり積み木の、あるいは子供むけにブロックで作ったおもちゃの街のような、そんな生気のない建造物が連なっていただけだ。
そして、その、汚れていないかわりに生き物の姿もない路地の真ん中に、ひとりの子供が立っていた。
Tシャツに半ズボン。両方とも明るい色調だ。髪は短く切ってある。年は、十才前後だろうか。
まばたきを繰り返す。
これは一体なんだろう。なぜ、こんな妙なところに迷い込んでしまったんだろうか。
不気味な、そう不気味なところに。
「おじさん……」
男の子が、もう一度ことばを発した。
リョウのしょぼくれた目が、男の子の黒い瞳にすいつけられる。
感じていたとまどいは、瞳の中に吸い込まれて消えた。
「どうして、こんなところに子供がいるんだ」
ほとんど反射的に飛び出してきた言葉。四十年間の生活が彼にこう言わせたのだ。
言ったとたん、熱く固いものが喉につかえた。それは肺の中へ転がり落ち、彼に荒い息をさせた。
こんなことを言ってはいけないのだ。
「おじさん、さびしくない?」
荒い息は熱くなった。
「ああ、さびしい」
少年はうるんだ目をしていた。
どこかで見た事のある目だ。
この目なら、どんなに高く広い澄んだ空も、蒼すぎると感じることはないだろう。無性に、それが羨ましかった。だから、小さな口からすべり出てきたその言葉を、彼は少しも不思議とは思わなかった。
「だったら、こっちに来ない?」
「……」
「こっちに来ない? もう、そこにいる理由はなにもないじゃない」
もう、かすかな呻きすら出てこなかった。言葉に射抜かれた彼は硬直した。
あるはずのない沈黙の町並みのなかで、二人の視線が絡まり合った。
「……そうだな」
なんとなく彼には判っていた。この少年が誰で、自分はどこへ行くのか、という事が。
いや、行くのではない。帰るのだ。
彼はリョウの手を握り、目を閉じる。と、それだけで彼はこの街から脱出し、明るい光が照らすドームの中に移動していた。
ただ一瞬の浮遊感があっただけだ。
これはテレポーテーションだ、まちがいない。
リョウの血がたぎった。脳髄を雷光が灼いた。それは憧憬という名の稲妻だった。自分と手をつないでいるこの子供は「天使」なのだ。自分が、灰色の世界に足を踏みいれる前にそうであったように。
ドームのなかには多数の人々がいた。ざっと百人。みな、子供ばかりだ。五才くらいからはじまって、せいぜい十二、三才までだろう。子供たちはリョウと、そのかたわらの少年の出現に驚かず、ただ満面に笑顔をうかべて、全員で拍手した。
「もどってきたんだね! もどってきてくれたんだね!」
カプセルの中から起きあがる。
ぬるま湯が揺れた。
細い裸の身体が、あまり暖かいとはいえない外気に触れる。
「気分はどうだい?」
金髪の少年が彼を見おろして、こう言っていた。
少年は、白い顔に笑みを浮かべていた。その笑顔には見覚えがあった。苦痛をともなう回想の一部。
「隊長……」
声が出た。自分の喉を震わせ、頭蓋骨を伝わってきた声。
だが、これは?
かん高い声だ。たいていの女の子の声よりも高い。
この声はなんだろう。いったい誰の声だというのだろう。いや、自分はなぜこんなところにいるんだろう。かすかにしか思い出せなかった。かつて歩いていた灰色の道……それはどんな場所だったろうか。
思いだそうとすると頭痛がした。
「ああ、ぼくのことを覚えていてくれたんだね。そうだ、ぼくは旧エンジェルフォース隊長、ベルンハルト・ライヒェンベルクだ。
それから、新生エンジェルフォースの隊長でもある。ひさしぶりだね、トキタ君」
目を見張った。
エンジェルフォース。エターナルチルドレン。それはおさない日の夢のかけら。
では、なかったのだ。
手のとどく場所に、この白い部屋の、金属の壁をもつ部屋の、カプセルを見おろすパイプ椅子の上に、そのエンジェルが。
拳をつくった。強く握りしめた。
鼓動。鼓動の加速。それも爆発的な。
しびれる感覚が、むきだしの全身をはしった。
そのとき彼は、自分の身体のなかにあるみずみずしさを自覚した。
手を見つめる。白い手だった。しわはない。手の甲に体毛はほとんどない。光を微かに反射するうぶ毛があるだけだ。太い血管が浮きでていたりもしない。腕もそうだ。細く、白い。
胸板は薄く、そこにも、壊れそうな細い顎にも、下半身にも、発毛はみられない。
ぬるま湯は冷めはじめていた。
「ああ、君もうまくいったね。ほら、技術者から説明を受けたろう?
きみは子供にもどった。技術の発達で、それが可能になったんだ。完全に年老い、腐ってしまった者を清純な子供に戻すことが。すばらしい発明だ」
疑問もあったが、一瞬のち、わき起こる歓喜がすべてを押し流した。
「……おれは」
肉体調整カプセル、彼を子供に戻した魔法の小部屋の中にたたえられていた水が、彼の喜びを代弁した。
水が自然に飛び跳ね、水滴が空中を流れる。喜びのかけらが、ありえるはずのない不思議なちからを呼び起こし、重力と慣性の法則を無視して水をおどらせる。
「これは!」
「そう、超能力、天使の力だ。君はそれを取り戻したんだよ。願いがかなってよかったね。もう君は飛べない自分を憎むこともない。純粋すぎる人を羨むこともない」
隊長がかけてくれた祝福の言葉は、リョウの耳に入らなかった。残してきた世界への未練も存在しなかった。
ただ彼ははしゃいだ。水しぶきをあげ、まったく意味のわからない歓声をあげ、おどりあがるほどの勢いで。まわりに誰がいるか、自分が周りからどう見えているか、そんなことはすこしも気にしていなかった。
「再び戦争がはじまる。天使たちは呼び戻された。さあ、ともに戦おう。あの時の言葉、いまなら思い出せるはずだ」
リョウ、あらためて隊長の顔を見る。
そしてうなずいた。
隊長もうなずき返す。満面に笑みをうかべていた。
「さあ、戦おうよ。ね」
得意げな笑い。
おれは帰ってきたんだ。
意識を集中する。
刹那、科学を超越した力がその場にはじけ、ニュートン力学を嘲笑し、空間秩序を翻弄する。
基地の中、新生エンジェルフォース全員が集うホールにいたはずのリョウは、草原地帯に立っていた。
風が後頭部をなでさすった。
……ぞくぞくした。
……いったい何年ぶりだろう。
……なにかがここにある、確かにそう実感できたのは。
仕事に疲れた人々が詰まっているビルとビルの間を抜けていく風、そんなものでは決して味わえない感覚だ。
これだ、これが風なのだ。いままで風だと思っていたのは、ただの空気の移動だ。通勤が旅ではなく、ただの移動であるように!
緑の海がわずかに揺れていた。
それは風のせい。風はこの八月の草原に、ほどよい涼しさをもたらしていた。草、草、そしてまっすぐに伸びる樹、どこにも陰惨さの影はない。
だがそれでも、確かに戦いははじまっているのだ。
そしてその戦いを自分たちは動かしている。
ほかの人間、ただの歯車でしかない奴らには決してできない形で、おれはここにいるんだ。
脳の片隅を電光が駆けた。
敵だ、敵がいる。彼にはわかった。理屈ではない。どんな理屈も関係ない。そんなものを気にするようでは天使にはなれない。
同時に、テレパシーと透視能力で敵兵力の接近を観測していた索敵班警戒班から通信が入った。もちろん、その通信というのもテレパシーによるものだ。
……警戒班より隊員99。敵兵力、連隊規模。ポイントF564、速度100で北東へ移動中。わが隊を発見している兆候なし。
撃破せよ。
地図が頭の中に転送されてくる。
……警戒班、了解。
返事をして、リョウ、目を鋭く光らせる。
隊長ほどではないにせよ、彼はそれなりの美少年であった。いまにも壊れそうな美少年の美は、年を経るうちに本当に壊れてしまうことがよくあり、彼もまた枯れ果てた垂れ目の親父と化していたのだが、いまの彼は失ったものを完全に取り戻していた。かつて以上の精悍さ、目の 輝き、つんと上を向いた鼻と引き締まった口を。
そんな彼は緊張を顔にはしらせ、瞬間移動する。
彼は、敵部隊の目の前に出現した。
なるほど、たしかに連隊規模の戦車・装甲部隊だ。ホバーで移動する戦車や装甲兵員輸送車が列をなしている。数は百両ほどか。
ふん、弱すぎる!
自分の無力さを思い知った数十年間、たまりにたまっていた鬱憤が、言葉にならない叫びとなって放たれた。
もうどうだっていい、こまかいことはどうだっていい。
その激情をぶつけられた当の戦車連隊は、反応がひどくにぶかった。
もう四十年もの間平和は続いており、国民の大半は戦争を知らなかった。それは兵士とて同じこと。「天使」とよばれる超能力者が敵軍にいたこと、それを経験として知っているものは、この部隊には一人としていなかったのだ。
とある戦車の内部で、戦車長は粗い画像のテレビ画面に映った黒い影にとまどいをおぼえた。顔が当惑と混乱にゆがむ。
画面には、機甲戦支援コンピュータの算出した各種データが並んでいる。距離、大きさ、移動速度、推定機種、推定火力……データは異常なものだった。
人間と同じ大きさ? 時速百キロで空中を移動?
はぁ?
……推定機種、天使?
しかも、望遠カメラに連結したモニターに映っているのは、間違いなく、光のヴェールをまとった丸腰の少年。十才かそこらの、彼が家に置いてきた息子と同じような年の子供だ。
一瞬、判断をくだすのが遅れたのは仕方のないことだった。
その遅れが、彼にすみやかな死をもたらした。
たった一人で百両におよぶ戦闘車両群に飛び込んできた「天使」が、両手から光線をはなち、彼の乗る戦車を吹き飛ばしたから。
砲塔がもぎとれ、火を噴いて、その戦車は草原に転がる。
他の戦車群の応射がはじまった。対人用の榴弾を装填し、主砲から閃光を次々に放つ。
低速弾ゆえの重低音が、緑の戦場に轟いた。
だがそれは、ただ単にやかましいだけで、何の役目も果たさなかった。黒い髪の少年がその身体にまとう光のバリアが、砲弾とその破片をことごとく跳ね返してしまったからだ。
十発、二十発、三十発……飛来するオレンジの火の弾は、かん高い音とともにはじかれる。
そう、戦車砲ごときで天使を倒せはしないのだ。
「おれを、倒したけりゃ……」
笑いがこみ上げてきた。自分は強いと確信した瞬間、無性に笑いたくなった。衝動に素直にしたがい、かん高い笑い声を砲声にまじらせて、彼は両手を振るった。
すると、一瞬の閃光が矢継ぎ早に放たれ、戦車の群れは次から次へと撃破されていく。
「水爆でも持ってこい!」
胸を、すずしさを感じさせるものが一瞬のうちに通り抜けていった。
カタルシス。言葉を知っていたなら、きっとそう表現していただろう。
ホバー戦車の高速性を生かし、背後に回り込もうとした車両もあった。いかに伝説的な強さをもつ「天使」とはいえ背後からの攻撃にはもろかろう、なるほどそれは当然の考えであった。
だが、通じるはずもないのだ。三百六十度の視界を持ち心すら読むリョウに、そんな作戦が通じるはずもないのだ。
天使はすべてを知っていた。
素早く身体をひねる。
小さな手を突き出す。手のひらに爆発的な閃光が渦巻く。
と、そこに、吸い込まれるようにして砲弾が飛び込んだ。受けとめたのだ。むろん、弾道が彼には判っていたのである。
そのまま手を軽く振る。それは本当に、友達に挨拶をする時のような力の入っていない動きだった。
それだけで砲弾が軌道を逆行した。
必殺の一撃をそのまま返されて、戦車は火を噴く。砲塔はまたも吹き飛び、百万ドル以上の価格をもつ戦闘車両は、そのまま金属製の火山と化した。
全滅必至を悟った残存戦車隊は盛大な土ぼこりを舞い上げて逃走。速度は二百キロを超え、三百キロを超える。
護衛すべき兵員輸送車はこれほどの高速は出せない。しだいに距離がはなれていく。任務を放棄してでも助かろうというのだ。
だが、空間をも超越する奇跡の力が、それを無意味にした。
ある程度防音されているはずの戦車内に、エンジンが地面に空気を叩き付ける音が轟然と響いていた。大声で叫んでも決して聞こえないほど大音響だ。いや、操縦している彼らにはそもそも叫ぶ余裕などなかった。
これほど、これほど強いとは。
その思いが、戦慄が胸を満たしていた。身体はこわばり、何年も訓練を受けてきたはずの軍人たちが子供のように震えていた。エアコンは全開で回っているのに、額を、背中を、軍服の下を汗が流れた。座席のクッションにまで染み込んでしまうほどの汗だ。
そのとき、なにかがはじける音。
光輝く人影が眼の前に出現する。
もう一度閃光がひらめいた。
あるいは、この戦車の乗員は幸運だったのかもしれない。苦痛もなければ、その人影が天使であると気づくこともなく死を迎えたのだから。
わずか五分後、いっさいの戦いは終わっていた。
榴弾の破片が散乱している。水素燃料に引火して燃え続ける車両の残骸。何十という数だ。戦車隊を支援すべく現れたヘリコプターも、なにが何だかわからない融解金属のかたまりになって草原に転がっている。あちこちで草が焦げ、火の手が上がっていた。
煙たなびくこの草原に、人の姿はもうない。天使だけが立っていた。
激しさを増した風に、黒い髪が揺れる。
「任務完了! ぜんぶやっつけたよ!」
叫ぶその顔は歓喜に満ちていた。
いまの彼には、むかしの自分がまるで分からなかった。これほど圧倒的な力を、これほどの楽しみをなぜ自分が捨ててしまったのか、まるで 理解できなかった。
戦場で死したものたちは、当然その場に思念の名残を残す。かぼそい悲鳴を、リョウのテレパシー能力は感知していた。
……かえらなきゃいけないんだ……ここでしぬわけにいかないんだ……待ってるんだから……
……ありえない。ばかな。ありえない。あんな子供にやられてしまうなんて。『天使』だなんて。
……うそだうそだ、おれはまだ死んでなんかいないんだ。
まじりあったその想い。だが真剣なはずのその心の声を、リョウは笑いとばした。大声をあげて笑った。
そんなくだらないことにとらわれている大人たちが馬鹿に思えてしょうがなかった。
そんなことにこだわっているから、あいつらは飛べないんだとはっきりわかったのだ。
エンジェルフォース基地は平原にある、コンクリートの建物の集合体である。周囲を囲む高い壁もなければレーダー設備もなく、周囲をまもる飛行場や高射砲陣地もない。
防御設備など不要なのだ。ここで任務につく百名の新生エンジェルフォース隊員こそが、どんなレーダーよりもどんな対空砲より完璧な防御を約束してくれるのだから。
基地というよりも学校に似ている。生徒数わずか百名の小学校だ。これで後は鉄棒やシーソーさえ用意すれば完璧である。
体育館もある。正確にいえば、小学校の体育館そのものの造りをした建物が。
原型となった体育館と同じように、その建物も集会場として使われることがよくあった。いまもまた、ここにはエンジェルフォースの全員が揃い、隊長の話をきいていた。
緊張感はあまりなく、リョウの耳にも、平気な顔で友達と話すものたちの声がいくつも飛び込んでくる。
リョウも、ほとんど聴いてはいなかった。それよりも、この後に食べるお弁当が気がかりだった。元気いっぱいに戦った直後の十二才の少年の身体は、アルミの箱に入った食事を大量に流し込まれることを要求していた。
おなかがすいた。いっぱい食べたい。今日はどんなのだろう。
そう、彼はすっかり忘れていたのだ。自分がつい数分前、家族もいれば友もいる生きた人間たちを、まるで積み木を崩すように大量虐殺したことを。
天使だから。