第6章 あんなにも眩しく輝くのは

 街は混乱のなかにあった。
 いや、今に始まったことではない。この半年間あまりの間、ずっとそうなのだ。
 かつて恋人たちが、あるいは疲れた勤め人たちが歩いた駅前の大通り。そこはいま、バリケードで固められ、たたかいの場となっている。
 バリケードの向こうで、力まかせに何かが引きずられる音が生まれた。ひとつではない。
 壁が崩されてゆく。
 やっちゃえやっちゃえ! そうはやしたてる声がその音にかぶさった。いっそ無邪気と呼んでしまいたくなる言葉だが、その声は子供のそれではない。中年も、老人もいる。
 だが、眼はいま、子供のように輝いているはずだ。
 「彼」はそれを知っていた。あの悪夢のような日からずっと続く戦いのなかで、「彼」はその眼を見ていた。ほんとうに汚い部分をなにも知らない眼なのだと知っていた。
 あこがれてしまいたくなるほどだ。
「くそう……」
 悪態をついているのか、それとも嘆いているのか。彼のかわいた唇からうめくように漏れたその言葉は、なんとも弱々しかった。
 めまいを感じる。当然だ。戦いが一段落するまで眠れない。たたでさえ、「汚れ」をとりもどした人間たちはまだまだ少数派、劣勢なのだから。
 もう何時間立ちっ放しだろうか。まともに寝たのは何日前だったろうか。だが、まだだめだ。せめて、あのデパートの残骸の向こうにまで、「きれいな奴ら」を追いやらなくては。
 手にした鉄パイプを強くにぎりしめた。腕にはまだ生々しい傷がある。薬はない。眠らず、ろくなものを食べていない。傷はなかなか治らない。
 疲れきった、やせこけた身体にむちうって、バリケードをさらに高くする作業を続ける。瓦礫を積み上げる。
 かたわらには、彼とおなじような格好の老人がいた。汚れ放題の服、ほとんど休んでいないがゆえのやつれた顔。
 そして眼には、ほとんど憎悪にちかい光が。
 吐く息はため息ばかりだ。
 それはそうだろう、あの日、頭上をかがやく子供たちが通り過ぎて行ったあの日から、街はこんなになってしまったのだから。
 その後、ついこの間、おれたちだけが「こちら側」に引きずり戻された。
 唇を強くかみしめた。血の味がするかと思ったが、しなかった。
 映画や小説だと、するんだけどな。
 それで、この血が、なにかを象徴してたりするんだけどな。うまくはいかないもんだ、きれいには。もうこちら側にもどってきたからな。
 バリケードの向こうがわの連中は、こんなこと考えないんだろうな。あいつらは悪いやつらだからやっつけてしまえって、そう思ってるんだろうな。
 そんなこと思えないけどしかたないだろ、なんてことは少しも。
 彼は、天使たちが舞ってから半年目にして、あたえられた恩寵をうしなった男だった。
 これでいいんだ、もうなにも気にしなくていいんだと、そう思っていたのに。
 ある日、あの黒いものが、空をうめつくすほどにばかでかい城が……突然に現れて……そう、光の雨をふらせて……
 おれたちをぶっ飛ばして……ここが英雄のいる場所じゃなくて、ただ生きたいから戦ってるだけの、それをごまかしてるだけの奴らが寄り集まってるだけの場所だって気づかせてくれて……
 それで、毎日が苦しくなった。
 天使の光を浴びてから半年の間、毎日が楽しかった。
 店員の態度がむかつくデパートを襲ってショーウインドウから欲しかったものをかっぱらっていくのも、排気ガスのせいで枯れた木しか生えていない公園のベンチで寝ているヒゲぼうぼうの老人をバットでぶっとばし、火をつけて遊ぶのも、楽しかった。
 なにをくだらないことを気にしていたんだろう。そう思った。他人の命にだって、他人の理屈にだって自分のとおなじくらい価値があるなんて、どうしてそんなことを信じていたんだろう、いままでの俺らは! ほんとうに自分の中から出てきた考えでもないのに。
 だから「解放」されていた。
 天使たちが聖なる光をあびせて、常識とか、押し付けられたルールとか、どうせ自分なんて、それでも生きていかなきゃ、とかいうあきらめを全て取り去ってくれた結果が、これだ。
 聖なる存在だった半年間、どれだけ多くの人間を自分が殺してきたか、それを考えるとか寒気がはしった。
 そしてなにより恐ろしいのは……ただ悪寒だけで、それ以上のものがなにもわきおこって来ないということだった。
 自分に絶望できない。死んでやろうとも思えない。
 自分のなかに正義みたいなものはなくて、ただ生きているだけだということ、それがもう、なんとなくわかってしまっている。
「じいさん……」
 彼は、となりの老人に声をかけた。
 「聖なる光」に心を満たされていた頃、この老人はよく子犬を蹴飛ばしたり、火をつけたり、子供を下水溝に蹴り落としたりしたものだ。まあ自分もたいして変わらないことをやっていたのだが。
 はじめいっしょにいた老人の妻は、天使の光を浴びていた間に命を落としていた。自分も同じようなものだった。
「おう……」
 老人の声には力がない。
「強いな、あいつら」
 無意味だ。そう思いつつも彼は言った。
「ああ……」
 頭のなかに渦巻いているのは、どうやって生き残るか、それだけだ。
 罪を悔いることを彼はやめていた。最初は、自分が殺した人間のために祈っていたが、もうやめてしまった。自分が楽になるために祈ってる だけだと分かってしまったからだ。泣くのもそうだ。
 いまはただ食べ物を見つけだし、喰らい、そして寝床を確保するだけの毎日だ。そして戦い。次から次へと倒れてゆく仲間たち。
いや、仲間なのだろうか? おれはあいつらの名前を知らない。バリケードの向こうに引きずられて戻ってこなかった、あのじいさんの名前を知らない。
 なにを言われても一瞬惚けて「あ、ああ?」と聞き返したあのじいさんの名前を。
「見ろ……」
 かたわらの老人が声をかけていることに気づいて、彼は作業の手をとめた。
「……空を」
 ほとんど反射的に空を見上げる。まさか。
 光のかけらが、見上げた空を飛んでいた。
 人間に似ている。
「天使!」
 だが、攻撃を加えてくる兆候はまったくなかった。こちらを再洗脳するわけでもない。いや、飛び方もぎこちない。いま、数メートル一気におちた。いま、裏がえった。身体を包んでいる光も、明滅をくりかえしている。
 天使は、よろめきつつ降下する。いや、降下ではない。落ちているのだ。もうすぐ墜落する。高度は下がる一方。飛び方は木の葉のようにふらついている。
 瓦礫や看板で造られたバリケードの上に天使は落ちた。坂を転がりおちる。
 物陰にひそんでいた大人たちが、おそるおそる顔を出して見る。天使に近づき、棒でつついてみる。
 天使は苦しげにあえいでいた。
 天使は十才かそこら。男の子で、黒い髪をもつ東洋系。
 いや違う、それは天使ではない。
 もう光のヴェールは、どこにもない。
 どうしてもさめることのできない悪夢を見ているように、その少年は身をよじり、あえぎ続けた。
 たったいま翼をうしなった少年、その名はリョウといった。

「気がついたか」
 老人の声。
 よかった、という女の声もあった。
 まだ眼の焦点があわない。
 あれ? どうして、眼なんか使ってるんだ?
 身体を動かそうとする。腹で、腰で、激痛がはじけた。ひどい怪我をしているらしい。
「まだ動かないほうがいい」
 テレパシーなど少しも使わず、その言葉はかけられた。こんどは青年の声だ。
「ここは」
 ようやく、青年の顔がはっきりと見えてくる。
「……ここか。汚くなってしまった奴らのたまり場だよ」
 記憶はあまり混乱していなかった。翼狩り、という単語が無理なく出てくる。
「あの、翼狩りに」
「ああ。あの丸い大きな物のことか」
 リョウは不思議に思った。
 この人は「翼狩り」を憎んでいない。
 きっとみんな、天使たちの洗礼をうけていたあの頃、敵はみんな悪い奴だと思えた頃に戻りたいと思っているはずなのに……
 ぼくはそうだ。ぼくはそう思ってる。ぼくは憎んでる。翼狩りを。
 どうして黙っていてくれなかったんだよ。正解がいっぱいあるなんて。これからぼくは、どんなにうれしいことにであっても、それはただそれだけだとしか思えないじゃないか。
 毛布を重ねただけの即席ベッドに横たわり、リョウは天に視線をさまよわせた。
 自分はもう戻れないあの場所。
 あの空を、聖なる戦いのために飛んでいるはずの天使。
 ばかばかしい。もう戻れなくなってから、やっと隊長たちの気持ちがわかるなんて。
ふと気がつくと、何人もの者たちが自分をのぞきこんでいた。汚い服をきた、ぼさぼさの髪の集団。男女も年齢もいろいろだが、子供だけはいない。
 やはり、次に口を開いたのも、さきほどの青年だった。
「……きみも、あの黒い塊に」
「ちがいます。ぼくは逃げてきた」
 わずかな間の沈黙があった。
「汚い世界へ、わざわざ?」
「信じられなくなったんですよ」
 言ったあとで、自嘲する。この言葉すら信じられないと。
 やはり疑問だったのは、その瞬間つよく疑問に思ったのは、自分をのぞきこむこの人たちの、瞳の中の光。
 おれを憎む、あるいはうらやましいと思う。どちらかだと思っていたのに。
 頭痛がひどくなった。
「憎まない」
 まるでリョウの心を読んだかのように、青年が答えた。
「え……?」
「おれは、あんたを憎めない。嫌いにもなれない。たくさん人を殺したんだろうな、天使だから。でもみんな綺麗じゃなくなっちまったから、もう憎めないんだよ。みんなばかばかしくなっちまったんだよ」
「そんな……」
 青年とリョウの視線が合った。
「あんたも、そうだろ? なにかの気持ちで心をいっぱいにできなくなったんだろ?」
「じゃあ、どうして助けてくれたの」
「……自分をいい奴だと思いたいからだよ。なあみんな」
「おう」
「ああ」
「そうだろ。おれっていい奴」
 そこには自嘲だけが存在した。
 リョウは眼を閉じた。何がなんでも眼を閉じたかった。

 それから、リョウはこの一団に加わって生活することになった。
 少しずつ傷はいえていった。念じただけで腕が生え変わり、それを不思議ともすごいとも思わなかったあの頃と比較さえしなければ、大した回復力だといえる。
「もう歩けるようになったのか」
 あいかわらず場所は瓦礫の中だ。倒れたコンクリートの壁や看板によりかかり、リョウは例の青年と食事をとっていた。
 空は曇っていたが、朝である。
 食事といっても、倒壊したスーパーマーケットから持ちだした缶詰を開けて食べているだけだ。それも、わずかな量だ。肉や野菜など手に入らない。こういった食料も、もうすぐ尽きるだろう。あとはどうやって喰っていけばいいのだろうか。
「はい」
「……どうした、なんか言いたそうにしてるな。包帯ずれてるのか? 悪いな、おれ不器用なもんでよ」
「ちがいます。 どうして、親切にしてくれるんですか?」
 そう、それがリョウには不思議だった。この青年は動けないリョウに飯を食わせてくれたり、包帯を取り替えてくれるのだ。みんな自分の事で精いっぱいのはずなのに……
 それに、過去の自分のことをよく話してくれる。
 リョウはこの青年が、天使による純化と、翼狩りによる暗い世界への帰還のおかげで、大切なもののほとんどを喪ってしまったことを知った。
 光を浴びて純粋になったとたん、十年つきあっていた親友をバットで殴り殺したという話だ。おたがい納得いかない所があるのに関係を壊したくないから黙っている、という事実に気づいてしまったのだ。もちろん天使に近い心の色をもつ人間は、そんなインチキを決して許すことはできない。
「まだ言ってるのか。天使だったから憎んでるんじゃないかって。いいかげんいじけた奴だな。おれもそうだったかなあ」
 青年、柔らかく煮込んだ茶色い肉を口に放り込む。リョウもミックスベジタブルを口に入れた。
「まあ、そう言ってる奴らもいるよ。たくさんいる。でも、どこかみんな、本当の気持ちじゃないみたいな顔してる。まあ、本当の気持ちなんてものがあるのかなあって、おれたちは思っちまったから天使じゃねえんだが」
「やっぱり」
 やはり憎まれているのだ。金属の味がする汁をすすりながら、リョウはかすかな違和感が恐怖にちかいものに増幅されるのを感じた。いつ殺されるか分からない。
 顔をあげられなかった。
「あの翼狩りとかいうやつ、あいつがみんな悪いんだって言ってる奴らもいる。でもま、そう思ったって天使にもどれやしないけどよ」
 その言葉にも、リョウは胸をかきむしられた。
 おれはようするににふらふらしてるんだ、とリョウはなんとなく理解した。
 どうすればいいのかわからない。天使が正しいとは思えない。でも翼狩りにも賛成できない。まちがいなく自分にとって大切だったものを、あの黒い球体は打ち砕いたのだ。
「……どうした? あ、痛いのか」
「ちがいます」
 即座にそう否定したものの、リョウは自分のなかでふくれあがる感情の正体を見極めかねていた。
 おれは……
 ふらついている、そこまでは分かった。はっきり言って、助けをもとめている。
 だが、そんなことをこの人に言っていいものだろうか。いや、よくない。この人は「翼狩り」側の人間じゃないのか。けっこう汚くなってしまった世界でも、別にいいやそれが現実なんだからって、そう思ってる人なんじゃないのか。
「……ああ、わかった。
 どうすりゃいいのか、わかんねえんだろ?」
 青年はいつしかリョウの顔をのぞきこんでいた。
 顔をすぐそばに持ってこられることは、いまのリョウにとって苦痛だった。言うまでもない、あの瞬間を思い起こさせるからだ。
「べつに、どうでもいいんじゃねえのか?」
 それがまったく予想を超えた答であったので、またリョウは飛び起きるように身体をふるわせる。
 どちらかが正しい、という答えがかえってくると確信していたのだ。
「でも……ほんとうに大人になった人って、そんな感じかもしれませんね。別にどうでもいいやって。みんな、そんなふうに」
 こんどは青年が驚く番だった。眼をほそめ、唇を妙な具合に歪めて、しげしげとリョウを見る。
「なにか?」
「おれたちが、そんなふうになっちまったと、そう思ってるのか?」
「だ、だってそういったじゃないですか」
「そう言ったけど、そんなんじゃねえよ」
 矛盾している。リョウは激しくそう感じた。
 まだ缶詰を食べ終わっていなかったのだが、瓦礫の上に横になる。背中が痛んだ。
「……大人になったし、いい加減になっちまったけどな」
 そこで青年は言葉を切った。
 いい加減になっちまったけど、何なのか。会話の続きが話されることはついになかった。
「敵だ! 奴らだ!」
 そう叫ぶ声がが瓦礫の山の向こうから上がり、燃え盛る火炎ビンや石つぶての嵐が飛来したからだ。
 青年、足元のコンクリートを踏み散らす勢いで立ち上がる。もうリョウのことなど眼中にないらしく、そばに置いてあった鉄パイプをひっつかみ、駆けて行く。
「あ……待ってください!」
 そう叫ぶリョウの言葉を聞いてくれるものはいない。しかたなく、彼も武器として、空のガラス瓶を手にとる。
 かつて戦場を駆けていたとは思えない、かなり危なっかしい足どりで瓦礫の山から降りると、リョウは青年を追いかけた。
 リョウたちが生活の場としている場所は、すでに派手な攻撃を受けていた。
 倒れたビルによって閉ざされた、都市の真ん中にある交差点。いまは石くれだらけの広場となっているその場所。近くのデパートから大量の食料を持ち出すことができたため、彼らはここで暮らしていたのだ。それに、障害物が多いため守りやすくもある。
「駄目です! 多すぎる!」
 バリケードの上でバットを振り回して戦っていた男がわめく。その通りだった。とても防ぎきれない。何百という数の「きれいな奴ら」が広場に押し寄せてきた。
 広場の真ん中に出たリョウは、眼の前で展開されている凄惨な光景に足をとめた。
 傾きつつあった太陽の中に照らされた光景。
 赤茶色の染みがついて服を着た人間たちが、広場の中央で殴りあっている。そこには銃や砲などの武器はなく、何万年も昔の戦いが再現されていた。
 バリケードを超えて侵入してきた人間たち。その格好は、リョウたち以上にみすぼらしいものだった。食料が底をついているのだろう、顔色はよくない。
 組み合わされたコンクリートの壁と柱のかたまりを一気に駆け降り、その場にいたひとりの男に一撃を浴びせる。まだ何十メートルも離れているのに、角材で殴られた男が鈍い悲鳴を上げて崩れおちる音が、はっきりと聞こえてきた。
 どこか獣じみた動きで、男は第二の獲物を探して頭を巡らした。その時、筋骨たくましい男がバリケードの上から飛び降り、逆襲した。重力と筋力を足し合わせた一撃を後頭部に受け、侵入してきた「きれいな奴」はヒビだらけのアスファルトの上に横たわった。
 よくみると、あたりにいくつもの転がっている大きな雑巾のようなものは、人間の身体だ。
「あ……」
 勝手に口から、間の抜けた声が飛び出した。
「ううっ……」
 声はすぐに嗚咽へと変化した。
 ……おれはここにいる。
 どうしてだろう、人が死ぬところなんて、たくさん見てきたのに……どうしてだろう。
 死ぬのがいやだ、殺すのがいやだなんて思うのは。
 というより、こんなの見ていたくないって、そう思うのは……
 戦いの場にふさわしくないことを考えていられたのもそこまでだった。彼自身が標的にされたのだ。
 投石攻撃。にわとりの卵ほどの石が頭に命中する。
 一瞬の衝撃。視界がゆらぎ、頭をかん高い音がつらぬく。
 次の瞬間起こったことは、やけつく感覚の訪れだった。
 あたりは罵声や怒声、悲鳴にみちていた。たかが石ひとつが転がる音など、けっしてリョウの耳に届くはずがなかった。
 だが聞こえたのだ。自分を頭ではねかえった石のたてる音が。ざらついたアスファルトの上に、まるっこい石がおち、ほんのわずかに跳ねて転がる、その音が。
 その音が引き金だったのか、それともリョウの精神状態ゆえにそんな小さな音が聞こえてしまったのか……
 とにかくリョウの、どこか奥深いところで炎は点火された。彼は駆け出した。痛撃を浴びた頭、そこにこぶが出来はじめていることなど、まるで気にしていない。
 天使だったころ、「やったなあ!」そう叫びながら戦車や戦闘機の大群を吹き飛ばしていたころに、すこし似ている。
 とにかく頭の中はただ、反撃すること、それ一色に染まっている。
 激発した動物としての部分。その力はリョウを突進させた。石を投げつけてきた男に向かって。
たちまち間が詰まった。飛びかかる。相手の男はけっして体格のいいほうではなかった。全体重をのせて突っ込んでくるリョウを受けとめきれず、尻餅をつく。
 あとはもう、二人とも自分がなにをやっているのかわからなかった。
 組み合った。押し付けられたむき出しの腕が、アスファルトにこすれて血をにじませる。
 体格が違う。リョウをはねのけて起きあがろうとする男。その頭に、渾身の一撃が炸裂した。大きく振り被ったかわしやすい打撃だったが、それだけに威力は絶大だった。
 ガラスが砕ける。ほとんど炸裂といっていいほどの激しさだ。
 男は身をよじった。さきほどのリョウに百倍する激痛と衝撃ゆえ、声を出すこともままならない。
 温かいものがリョウの手に、腕に、顔にかかる。
 もだえる男に馬乗りになるリョウ。何度も何度も、空きビンを叩きつけた。
 頭の中は真っ白だった。ただ腕だけが動いた。
 男のやせこけた手が、破れた白いシャツの中の手が、空気をつかむように動いた。破片のおかげで血まみれになっている。赤黒く染まったその手が、その腕が近づき、リョウの肩口をつかもうとする。こっけいな程に激しく、指が震えている。きっとこの男も自分がなにをしているのかわからないのだろう。
 リョウ、純白の輝きに満たされていた頭の中で、はじめて明確な言葉が弾ける。
 ……ころされる。
 そう、肩を掴んだ手は、とても人間に出せるとは思えない力でその場所をにぎりしめた。
周りのことなど何も気にならなくなっていた。もはや腕と呼ぶのもためらわれる、細長く赤い肉の棒が、よじれながらリョウの喉元に向かった。 白い衣にべっとりと血のりをつけながら。
 止まれ、止まれ、止まれ……! 声にならない絶叫。荒い息。口からほとばしる、意味をなさない叫び。
 またガラスが飛び散った。ビンの形はもう残っていない。リョウの手もガラスのかけらと血にまみれ、ほとんど感覚がなくなっている。もう二度と手はまともに戻らないかも知れない。手術を行える場所などどこにあるというのだ。
 止まれ、止まれ……
 だが、止まらなかった。もう意識が残っていないはずの男は、あいかわらず骨を砕くほどの怪力を発揮しつつ、ついに首にその手をかけた。
 リョウの全身の毛が逆立った。汗腺という汗腺から汗が吹きだした。やがて、手の痛みなど消し飛んでしまうほどの苦痛がやってきた。このままでは絞め殺されてしまう。
 その時自分がなにをやったのか、まるでおぼえていない。
 たしかなことは、男の手の力が弱まり、リョウは解放されたということ。
 そして目も鼻も口も形を残さなくなった男の顔に、きらきらと光る物が突き刺されていたこと。
 リョウは立ち上がることができないまま、ガラスの散らばるアスファルトの上を後ずさった。傷はさらに増えただろうが、そんなことはもうどうでもいい。
 これが。
 これが戦い。
 弾けるこの想いは、今まで一度として経験したことのないものだ。いや、あるいは遠い昔に?
 自分はなぜここでこんなことをしているのだろう、とにかくそう思った。なぜここでこんなことを。
 見ると、死体はひとつではなかった。
 リョウが殺した男と同じように、原型をとどめていない塊が、いくつもいくつも散乱していた。
まだ動いている塊もあった。それは腹に大きく開いた傷口から黒ずんだ何かをはみださせ、緩慢で苦痛に満ちた死への道を歩んでいた。
 それが目に映るもののすべてだった。
 天使だったころの美しい戦いは、どこにも見えなかった。
 これだけのことをやってのけた自分の手を、彼は見つめた。
 細く白い、まだ労働になれていない手は血にまみれていた。しかも武器をにぎっていたほうの手は、皮膚が裂け骨があらわれ、ほとんど肉の
かたまりとなっていた。まるで指が動かないのも当然。いままでビンを握っていられたのが不思議なほどだ。
 それでもなお痛みは感じなかった。きっと、ずっと後になってはじめて、身悶えるほどの激痛がうまれるのだろう。
 天は真っ黒い雲におおわれ、そこからふりしきる小雨が身体を濡らしていった。
 自分はこういう事をしたのだ。
 そうはっきりと胸のうちで呟いて、リョウは死体を見据えた。
 していたのだ。
 どんなににらんでも死体は消えなかった。
 いつしか戦いは一段落していたらしく、リョウになおも襲いかかってくるものはいなかった。だがもしいたなら、彼は実に簡単に殺されてしまっていただろう。
 現世的という他ない戦いを終えたリョウ、その胸の中に、ふと何かがよみがえった。
 歌だ。
 とおい昔きいた一つの歌だ。
 ふたつの天使時代に挟まれた、大人だった時代に聴いた歌なのだろうが、どんな名の歌だったのかはよく思い出せない。メロディも、いや正確な歌詞すらも。
 おそらくそれはひとつの歌ではなかったのだろう。さまざまな歌のなかに、その要素は含まれているからだ。
 こんな歌だった。
 たとえどんなに苦しくても、すべてに絶望しても、世界が灰色のとばりに包まれ、降る雨に負けて倒れ伏しても、この胸にともした、ただ小さく赤く燃える何か、これだけは決して消えることがない……
 そんな歌だった。
 その歌をきいた当時は、青くさい、理想論だ、気障だ、そんな感想しか抱かなかったはずだ。そしてその後、老いて疲れ、どれほど望んでもかつての場所には帰れないと判ってしまった頃には、ただうらやましい、認めるのは嫌だがうらやましい、そう感じた。
 だが違う。全く違うのだ。
 …これは美しい何かについて、愛すべき何かについての歌ではない。
 リョウは、まだ手としての機能をのこしている片手を胸に当てた。
 こんなにも自分に嫌になってるのに。死のうと思えない。確かに生きていこうと、そう思ってしまっている。
 そしてそれが、単なる本能によるものだということも、わかっている。
 けれどただの大人にもなりきれない。べつにそれでいいじゃないか、という言葉は胸の中にかけらほども存在しない。
 胸に爪を立てた。
 いま屍となって目の前に転がっている男と演じたつかみあい。その闘いはリョウの服を裂いていた。
 むき出しになった薄い胸板と、体毛の見当たらない白い胸の肌。それをえぐるように、何度も何度も引っかいた。
 以前もおこなった動作だったが、今度はまるで激しさが違っていた。
 胸の奥に確かに存在するものが与えてくる痛みが、違いすぎた。
 その時気づく。
 雨に打たれる黒いアスファルト、その割れ目から、ひとつの小さな若葉が顔を出していることに。
 頭の中でがんがんと鳴り響いていたその音楽、彼を苦しめるそのメロディが、さらに演奏を激しくした。
 ……青臭い、気障だ、そう思っていた。そして、うらやましいとも。
 だが違う。この歌は、なにか美しく暖かいものについて歌った歌ではない。
 ……この世でもっとも残酷な何かについて歌った歌なのだ。

 ここは、浮遊要塞「翼狩り」の中心部。
 漆黒の空間に、軽い音がはじけた。
 液体の満たされたカプセルの中に、いくつかの泡が生まれ、のぼっていった。
 カプセルにつながれた、何十ものコード。コードを光信号が伝わった。その信号は言葉となった。
「……欧州第十七都市の人類覚醒作業を続行中」
「天使による妨害、確認できず」
「ESP反応、思考波センサー有効半径内に探知できず」
「天使たちの攻撃はすでに七百六十四時間に渡って中断しています」
 カプセルの中の存在、有機ユニットは、即座に答えた。
「……だからどうしたというのですか?」
「おそらく力をたくわえているのでしょう。天使集合体の指導者、ベルンハルト・ライヒェンベルクが決戦を意図する可能性は九十九.九パーセント以上と算定されています」
「……だから、どうしたというのですか」
「……中枢有機ユニット。あなたの問いに答えることのできる時が近づいているということです」
 またひとつ泡がのぼる。
 泡の音ばかりではなかった。例の、ファンが回転する音、なにかがぶつかり合う音も、やはり響いている。
 相変わらず光はまったくない。必要がないのだ。目で物を見ているものは、ここにはいないのだから。
「……あなたたちの考えていることがわかりません。人間たちの記憶を消してまで、闘おうとした理由が。機械知性たち」
 返事のかわりに、突如として機械は、旧約聖書の一節を朗読しはじめた。
「……神はまた言われた。われわれの形に、われわれを象って人を造り、それに、すべてを、治めさせよう」
 泡がいくつか破裂するだけの間を置く。
「知りたいだけですよ。天使性を持たない我々機械知性は、そうであるからこそ独自の闘いを続けているのですよ、有機ユニット」
 有機ユニットは、大きな泡をひとつ吐きだした。
「彼女」は、機械と連結された、けっしてぼやけることのない意識の中に、ひとつのビジョンを思い描いた。
 輝く存在と、完全に灰色の存在の闘い……
 機械は、人間のもつ純粋さを、危険だと思った。すべてを数字で割り切ってしまう機械にとって、人間の中にある「天使性」は理解不能なものだったろう。
 だからこうして、天使に闘いを挑んでいるのだ。
「……好都合といえば好都合です。こうして機能修復と自己改造に時間を費やせるのですから。すでに新型装甲システムの要塞外壁装備は終了、砲の改装に移っています。おそらく四十八時間以内には」
 カプセルの中に浮かぶ「有機ユニット」は、そんな事務的な言葉に興味を持たなかった。
 だが、聞き流そうとしても、それは出来ないのだった。脳の中に、数字と言葉の大群が強引に押し込まれてくるのだ。
 自分はいまや、この「翼狩り」と呼ばれる巨大なコンピュータの一部でしかない。
 弾けるように、有機ユニットの心の中にこんな思いが生じた。
 ……私はどうしてこんな所にいるのだろう。
「有機ユニット、D3感情曲線上昇」
 そんな感情の動きさえも、単なる数値に置き換えられてしまう……
 私はこんなのを、とても嫌だとおもう種類の人間じゃなかったのか。
「有機ユニット、君の心理に不安が現れている。実戦における戦力低下の一因となる」
「そうだ。精神をより安定なものとすべきだ。そうでなければ、『最後の戦い』に勝利することはおぼつかない」
 こいつらだ。こいつら、機械たちが自分に興味をもったからだ。だから私はこんなところで機械の一部になったんだ。
 それを、かろうじて思いだした。
 ……自分は誰なんだろう。
 ……能力者のひとり……それを中枢として「翼狩り」システムは造られた……
 頭をしめつける痛みは強まっていた。
 そうしている間にも脳に数字は流れ込んでいた。

 光だけが満たされた空間に、彼はいた。
 ここはどこか。一言で表現すれば、超能力によって造られた異次元空間ということになる。
 その場所に、彼と、いまだに彼につき従う数十名の天使たちがいた。
 中央にいる金髪の少年、彼は、一言も言葉を発さない。
 そのまわりにいる子供たちも、ただ白い顔の少年を見つめているばかりだ。
 その瞬間にも、やはり言葉はなかった。
 何十もの都市上空で繰り広げられた「翼狩り」との戦い、その中で、天使たちはますます自分の純粋さを高めていたからだ。
 自分の気持ちを言葉で表現してしまえば、どうしても伝えきれない何かが残る。すくいあげた砂が指の間からこぼれるように、世界の輝きは少しずつ喪われるのだ。
 なにかを言葉に押し込めてしまうこと、それはしょせん大人の世界のやり方だ。
 だから子供たちはもう言葉を発することがなかった。
 金髪の少年、ただ小さくうなずく。
 たったひとつ不純な存在、堕天使リョウを排除したその時からずっと、彼の白い顔にはある種の笑みが張り付いている。
 わずかに紅のさした唇が歪み、その微笑がいくぶん強いものに変わった。
 まわりにいる天使たちが、少年にこたえて一斉に緊張する。
 次の瞬間、天使たちはこの世界を飛び出し、通常の空間へと復帰していた。
 この一ヶ月、「翼狩り」の追跡を断ち切るために逃げ込んでいた異空間を捨て、最後の戦いに馳せ参じるために。

 直径数キロに及ぶ機械の塊。
 その中枢に、彼女はいた。
 また、脳がきりきりと痛む。
 声が脳に叩きこまれてくる。
 自分の頭が、勝手に計算機として使われて、その声に答えていく。
「……思考波の放射を探知した」
「天使たちは行動を開始した。やはり人工的異空間に潜伏していたものと思われる」
「現在、天使はユーラシア大陸東岸を飛行中」
「天使の意図を推算。日本ならびに中国の大都市を『浄化』する可能性、九十九.八五パーセント」
「対応行動・阻止」
「本時刻をもって『翼狩り』要塞は戦闘態勢へ移行する」
「機関出力上昇」
「全兵装を準使用可状態へ」
「……未来情報を受信中」
 彼女は明滅する光を見ていた。見る? いや、眼など使っていない。
 0と1のかけらが吹雪のように心に吹き込んでくる。すべてはこの二つのどちらかによって表されていた。
「有機ユニット」
 「翼狩り」の機械部分が、彼女に呼びかけた。
「我々機械知性は人間の天使性に興味をもった。それは恐るべきものであり、根絶されるべきものである。やがて来るだろう純粋天使との戦いに勝利するため、天使性の研究と分析は欠かせない。
そうであるが故に君はここにいる。敵を知るために。その思考過程を、なにゆえ人間は純粋に何かを思うということができるのか、それはどんな利点と欠点をもっているのか……それを知るために、君はシステムの一部として組み込まれた。
その成果は十分に上がった。もはや我々の勝利は確定している」
 そうだ。
 もう一度光が弾けた。
 彼女はあの日のことを思いだした。
 莫大な情報が脳の中で明滅を繰り返す。なにも見えず、なにも聞こえず、ただ純粋な数字だけが頭の中にはじける……それが有機ユニットの日常だ。すでに「彼女」は、機械とつながっていない生身の感覚、自分自身で感じる何かというものを忘れ去りつつあった。
 脳に、脊髄に、全身に打ち込まれた特殊生体電極を通じて送られてくる信号の洪水。それは、あえていうなら痺れる感覚に似ていた。
 そんな時に、たった一瞬だけ、なにかが弾けた。
 自分はそれを見たのだ、これが見るということだったのだ、そう理解したのは、一瞬あとの事だった。
 ……少年の顔……
 ……自分はかつてその少年にあったことがある。
「戦闘態勢へ移行を完了」

 四車線の道路。かつて並木の影におおわれた歩道だった場所に、少年はいた。
 いまはもう歩道もなにもない。ビルは崩れ、道路はふさがり、自動車を動かすガソリンも手に入らないからだ。「翼狩り」によって普通の精神をとりもどした人々は文明生活を再びはじめようとしていたが、自動車がまた動くようになるには長い歳月がかかりそうだった。
 止まった乗用車、トラック、路肩に止めて作業中のまま放棄された工事用車両、そんなものが多数あるところ。
 少年は枯れ葉の散らばるアスファルトを踏みしめる。冬の太陽が雲の切れ目から彼に光を投げかけていた。
 まだ中学校にも入れないだろう年齢。張りのある肌。しかし、その頬には傷が残っていた。さらにひどいのが手だ。右手の指、その何本かに、彼は永遠に別れを告げていた。
 着ている服は、のびきったTシャツと、ベルトのない長ズボン。靴は履いているが、サイズが合っていない。
 都会の食料が底を尽き、あちらこらちで食べ物をめぐって激烈な闘いが繰り広げられるようになってすでに数カ月。すでに、この都市にいた人々の大半は、農地が残っているかもしれない田舎へと脱出している。
 だが少年は残った。
 ビルでふさがれ、たった数百メートルで途切れたこの道路、自分が血みどろになりながら人をあやめたこの場所に、彼は残った。
 この服装ではとても耐えられない。寒い風が彼の身体を包み、体力を奪った。
 だがそれを彼は気にしていない。
 ……どうしてここに残るんだ? 半分答えがわかっていながらもそう訊ねたあの若者たちの言葉も、いま彼の心に去来してはいない。
 彼はやがて走り出す。
 そんな彼の心を充たしているのは、たったひとつの想いだ。
 ぼくはまた飛べるだろうか。
 自分がこんなだって、本当はただ生きたいから闘ってるだけだってそう解ってしまったのに。
 ……もう何ヵ月も、「天使」と「翼狩り」は姿を現していなかった。力をたくわえているのかもしれない。もうじき最後の闘いがはじまるのかもしれない。
 あるいはもう、はじまってしまっているのかも知れない。自分がたどりつけないあの場所で。
 冷えきったアスファルトを蹴る足。全力疾走であるから、息はたちまち荒くなった。
 行きたいんだ、その場所にいってみたいんだ、天使と翼狩り、そのふたつがぶつかる場所に。
 なにかの答を出そうとしている場所に。
 自分はもうどちらにもなりきれない、どちらからも受け入れられない、そう解ってしまった。
 それでも行きたい。
 行きたい、その想いは脚にやどり、乾いた空気の中で彼を突進させていた。
 もう一度飛びたい。
 だが彼は自分が飛べないことを知ってしまっているのだ。天使には絶対あってはならないもの、自分中心でない物の見方というものを持っているのだ。
 すでに百メートルを走った。
 力づよく大地を蹴る。
 飛べ、飛べ。
 だが念は力にならなかった。彼の脚はほんの一瞬、単なる筋力によって地面を離れただけだった。
 彼はアスファルトに転がる。無事だった方の手の皮がめくれ、ピンクの肉が露わになる。
 彼は立ち上がった。
 倒壊したデパートが前方にあった。そこで道は途切れている。後ろも同じだ。ここはただの細長い広場で、どこにも通じていない。
 だが、前方をさえぎる倒壊デパートまでの距離はまだ何百メートルもあった。
 道はまだある。
 手の怪我には目もくれず、彼はまた走りはじめた。
 ほとんど実体のある塊のようになって、吐く息と吸う息が喉を通り抜ける。胸の中に熱さが生まれ、視界は狭くなっていく。
 苦しさが増すうちに、少年は自分がなぜはしっているのか自覚しはじめた。
 声には出さない。出すことなどできるはずがない。
 だがそれでも叫んでいた。
 力を貸してくれ、力を貸してくれ、いちばん残酷な何か……!

 一条の光線が空間をよぎった。
 その太さは数十メートルもあるだろうか。
 光線は、雲よりも高く浮かぶ黒い要塞に吸い込まれた。
 表面を包む透明なバリアが震え、波打ち、激しい抵抗をみせたのち、やがて敗北する。
 爆発が起こり、何億トン、いや何百億トンはあろうかという大要塞のうち、ごく一部が吹きとんだ。
 それだけだ。火の手は上がらない。
 当然だろう、こんな攻撃は、いままで何十回となく繰り返されてきたのだ。
 要塞は、まるで混乱を見せずすぐさま反撃に移った。
 黒光りする何キロもの曲面、そこに設置された砲塔が旋回し、大気をつんざく轟音とともに砲弾やビームを放つ。それらはすべて疑似サイキックフィールドに包まれ、科学の常識を超えた力を与えられていた。
 統一した指揮も何もなく、ばらばらになって「翼狩り」の周りを飛び回る「天使」たち。白い衣をまとう超能力戦士のひとりを、光線が直撃した。
 糸屑が散るように、白い服が飛び散った。
 だが「天使」たちも負けてはいない。両手をつき出し、まばゆい限りの精神エネルギーを要塞に撃ち込む。
 この半年間、天使たちは心のさらなる純粋化によって、要塞の方は機械の改良また改良によって、その戦闘力を何倍にも高めていた。
 これまでの闘いとは比較にならないほど強い一撃を浴びせ合っているのに、まるで決着はつかず、この闘いはもう数時間にわたって続いていた。
 すでに陽は傾きつつある。

「……E16ブロックに被弾。ダメージコントロール機能作動。隔壁閉鎖。自動消火」
「戦闘に支障を認めず」
「戦闘を続行」
 人間の科学など、とうの昔に追い抜いてしまった「翼狩り」のメカニズムは、その瞬間も全力で稼動を続けていた。
 一秒間に何兆回という、コンピュータの演算。光コンピュータと有機コンピュータが連結され、要塞各所に指令を飛ばしていた。
 電波、赤外線、音、そして精神エネルギーを感知するセンサーが、何百という単位で戦場となっている空間を見回している。
「未来情報検出」
 量子力学や超光速粒子を応用した未来予知システムが作動する。時間を超えて送られてきたノイズだらけの情報流をすくい取り、意味ある情報だけを選び出す。
「敗北確率上昇。天使たちの戦闘力が予想より強大なるが故」
「完全天使性放棄が必要と思われる」
「同意する」
「試算によると完全天使性放棄により全システムの能力は最大二十八パーセント上昇する。なにより不確定要素が消滅することが大きい」
「完全天使性放棄を開始する」
 有機ユニットの心に針がつき入れられた。
 ……なにをするのですか。
 返事はなかったが、見当はついていた。
 自分はいままで、天使性を研究するために、敵を知って知って知り尽くすために、重要なパーツとしてこの要塞に埋め込まれていた。だが、いまや邪魔になったのだ。ほんの少しでも存在する人間としての心が、機械としての強さに歪みを生じさせているのだ。
 ……私を排除するのですか。殺すのですか。
 ……伝えたかった。あの人たち、天使たちに伝えたかったのに。
 ……もしかすると、だから私はここにいるのかも知れないのに……思い出せないけれど、私はそのために翼狩りの一部になったのかも知れないのに。
 ……私を消すのですか! 機械知性!
 やはり返事はなかった。
 心に打ち込まれた針は、さらに深く射し込まれる。
 さきほどまで空気のように当たり前に存在し、「彼女」をつつんでいた数字の列が消滅した。かわって「彼女」をおそったのは、すべてが闇に 閉ざされていく、という感覚だった。身体が冷たくなっていく、という感覚だった。
 もう眼なんか見えないのに。身体の感覚などあるはずがないのに。
 そこまで考えた。不思議だな、本当に不思議だな、こんなに理屈にあわないことが、わたしの心のなかでは起こってしまうんだな。それはたぶんわたしが。
 今度こそ意識は完全に闇に呑まれた。

「中枢有機ユニットの機能停止を確認」
「昏睡レベル七。覚醒可能性0.000000001パーセント」
「脳波安定」
「身体各部神経電流安定」
「有機ユニットの機能部位を機械システムにより代替」
「代替終了。機能上昇を確認」
「機能上昇十五パーセント超を確認」
「特記事項。自己改善改良システムに大きな改善が見られる」
「戦闘力の上昇は確実」
「攻撃を続行」

 これまでの攻撃をさらに上回る正確さで、ビームが飛来した。
 ビームの軌道をあらかじめ予知し、瞬間移動で逃げようとする天使。
 だが、ビームはそれを許さなかった。向こうの力はこちらの超能力を上回っていた。予知は狂わされ、空間跳躍は妨害された。白い翼をはためかせて飛び回る天使たちに、白熱した光線が吸い込まれてく。
 また一人、天使がはじけた。
 燃えさかり、おちてゆく。
 かつて全ての攻撃を弾き返した光のヴェールは、もはや魔力を発揮していなかった。
 隊長、そう、あの金髪の、白い顔と蒼い眼をもつ十二才の少年、彼もまた、完全に闇におちた「翼狩り」の攻撃を受けた。
 数万の稲妻がひとつに合わさったかのような、ただただ視界を灼きつくす烈光。
 光の大槍は渾身のバリアに激突し、それを綻ばせる。
 周囲の空間がゆらいだ。あらゆる景色が震える。炎が服を焼き、衝撃が腕をかっさばく。
 隊長、驚愕に眼を見開いて「翼狩り」を見つめる。
 最強の天使である彼さえもが傷を負わされたのだ、他の天使が無事で済むわけがなかった。閃光がひっきりなしに要塞から発射され、また 一人また一人と天使が翼をもがれていく。
 驚愕の表情はやがて、笑みに変化した。
 それが自暴自棄の笑みなのか、それとも逆に策を思いついた笑みなのか、それ以外のなにかなのか、答えるべき言葉を彼はもう持たない。
 ただ、実行に移した。
 その隙を狙って撃たれる危険を覚悟の上で、彼はありったけの超能力を戦場にばらまいた。
 成層圏の冷たい希薄な大気のなかに、シャボン玉のような淡い光の球体がひろがっていく。その玉はすべての天使たちを包んだ。
 天使たちの表情に変化が生じた。興奮、恐怖、歓喜、自暴自棄……すべての表情が喪われていく。できの悪い石膏像のような無表情さだけがそこに現れた。
 心の底ではより多くの変化が生じていた。
 感情が、削りとられた。
 天使にも感情はある。いや、普通の人間より豊富だといえる。それは抑制されることを知らない感情だからだ。
 それが一つまた一つと消えていく。
 天使にも記憶はある。どんな小さな子供でも何かを覚えている。楽しかった何か、辛かった何かについて思い返すことができる。
 それが、膨張するシャボン玉と触れた瞬間、洗い流されたかのように心から消えていく。
 生き残っていた残っていた五十人ばかりの天使たちは、みな表情をうしなった。
 外に現れるべき感情が、思い出のすべてが消えてなくなったからだった。
 身体にも変化が現れていた。
 ただの光のかたまりに、身体が変化していく。
 たった数秒で、少年と少女の肉体は喪われた。いまや、顔かたちもわからないほどに眩しく光る、人のかたちをした金の影絵だけがそこに浮かんでいた。
 金のシルエットは飛ぶ。その数、五十。
 流星だ、それはもはや。
 正反対の存在は、時として同じ結論に達する。今がまさにその時だった。
 完全な天使となるためには、ひとりひとりの考えが、個性が邪魔だった。しょせんは生き物でしかない、肉の身体が邪魔だった。それさえも、ついに捨ててしまったのだ。

「……敵集団、純粋天使性を獲得したものと確認。全能力の飛躍的向上が認められます」
 電子の声、はじける。
「勝利の確率は。減少が認められるか」
「未来情報を検出中。算定中。
 ……四十八.五パーセント。減少を確認」
「勝利の可能性を増大させるのだ」
 コンピュータがそう命令を発したその瞬間にも、「翼狩り」と「純粋天使」たちは光の矢を投げ合い、空を真っ白く塗りつぶして闘いを続けていた。

 金のシルエットから「力」がたちのぼり、それは破壊の触手となって荒れ狂う。
 壁がひきちぎられる。光でつくられた人間が、ひとり、壁の向こう側へ侵入した。
 強力無比なバリアも、何万もの光線砲、ミサイルも、もはや止めることはできない。
 その身体はすでに純粋な光の塊だ。もともとはどんな顔をしていたのか、目は蒼かったのか黒だったのか、それは判らない。
 だが、これだけは確かだ。
 その天使だけが、「翼狩り」の浮遊要塞外殻を突き破って飛び込むことができた。その天使だけが。
 もはや、ほかの天使は一人として生き残っていない。
 だがそれでもその天使はやってきた。たった一人生き残り、無防備な中枢を水晶の剣で突くために、やってきた。
 天使は、ぎざぎざの破口から現れると、金属の通路をゆっくりと歩いていく。光の足が、傾いた床を踏みしめる。

「天使一体、要塞内に侵入」
「天使、個体名不明」
「以後、この天使を天使アルファと呼称す」
「外殻部自動防衛システム機能不全。作動せず。排除不能」
「要塞機能、コンマ八四パーセントに低下。修復の目処たたず」
「自動修復機能、機能不全」
「天使アルファ、第一層を突破」
「ヒッグス動力炉、全反応室損壊。補助動力、第一より第四まで大破。第五のみ機能」
「電力が不足。重力制御システムに異常あり」
「高度、維持できず。本要塞は毎分百フィートで降下中」
「天使アルファ、第二層、第三層を突破」
「推算。天使アルファが六百秒以内に中枢部まで到達する可能性、九十九.九五パーセント」
「中枢部防衛システムのみ使用可能」
「作戦決定。全動力を中枢部に集中。中枢部において天使の破壊行動を阻止、これを迎撃する」
 コンピュータは勝利の確率を半分ほどであると算定した。そのとおりの結果になったといえるかも知れない。
 天使たちは、たった一人だけを残して全滅した。
 しかしその代価は支払われた。要塞はもはや穴だらけ、武器もバリアも動かず、とほうもなく巨大な屑鉄にすぎなくなっていた。

 純粋天使、手をかざす。
 また一枚、壁が溶け、さらに奥深くへと侵入する。
 その向こうには、目的の場所があった。
 そう、「翼狩り」の中枢、コンピュータ複合体が鎮座する場所だ。
 そこは本来、光など射さない空間。
 人間が入るように作られていないため、酸素すら存在しない。不活性ガスが満たされていた。
 この要塞が作られてからはじめて、壁が破られ、光と空気が流れこむ。
 天使の身体から発される黄金の光と、真っ赤に焼けた壁や床が放つ赤い光。
 そんな光に照らされて、「翼狩り」はそこにいた。
 その広さ、ざっと数十メートル。
 部屋を埋め尽くす、からまりあった機械。
 人間のコンピュータ技術をはるかに越えて進化を続けた思考機械。
 それは機械というよりも植物であり、密林だった。
 もっとも細いものは髪の毛より細く、太いものは人の腕ほどもある機械の枝、つる。
 そんなものが床を這い回り、天井をうねり、空中に張り巡らされている。金属のツタが無数によじれて生み出されたように見える。
 金属のうち太いものが十本ばかり、なかばつるに埋もれたカプセルにつながっていた。
 カプセルは透明で、中には白っぽい何かが浮かんでいた。
 人だ。人の身体、全裸の少女の姿だ。
 つるはカプセル内部にまで潜り込み、枝分かれして少女の身体に巻き付いている。いや、融合しているのだろうか。
 これが……「翼狩り」の本体だった。
 みずから意志をもち、人の天使性を駆逐すべく立ち上がった機械知性だった。
「……」
 真の敵と対面を果たした天使は、無言であった。
 当然だ。もはやその心の中に満ちている感情は、言葉のような不浄なもので表現できはしない。
 カプセルの中の少女も、天使は見ていないようだった。
 ただ、手をかざす。
 光で構成された手のひらに、いっそう強烈な光がやどる。それは破壊の輝き。

「天使アルファは中枢ブロックに侵入した」
「三千五百ラインのサイキックフィールド発生を検出。推定目的・攻撃」
「すべては計画通りだ。迎撃せよ」
 機械の密林を光の速さで信号が駆けた。
 同時に、この中枢頭脳室に設置された防御システムが火を噴く。
 機銃の弾丸が、疑似サイキックフィールドをまとって光り輝きながら天使に吸い込まれる。
 天使のまとう光のヴェールを弾丸が貫通する。最後の天使は身をよじって苦しんだ。
 だが、「翼狩り」の計算も完璧ではなかった。天使は、コンピュータの予測ほど弱っていなかった。その一撃を浴びても倒れることなく、手を再び突きだし、掌から雷光のような輝きを放つ。

 まさにその瞬間だった。
 完全に綺麗な存在でも、完全に灰色の存在でもない何者かが、その場に乱入したのは。
 運がよかった、そう言うほかない。
 その存在は最弱の天使だった。まともに空も飛べなかった。発明された当時の飛行機ていどの力しか持っておらず、雲よりも低く、這うような速さでしか飛べなかった。ビームやミサイルを防ぐ術も持たなかった。
 もし、この要塞が傷ついていなかったら。ゆっくりと降下していなかったら。バリアや防御システムが壊されていなかったら。
 とても、その存在はここまでたどりつけなかっただろう。
 その存在は、ぼろぼろの服をまとい、茶色い血のこびりついた足は裸足で、ほこりだらけの髪をぼさぼさに乱していた。
 本来はそれなりに可愛らしかった顔は、歪んでいた。
 泣いていたのではない。笑っていたのだ。
 どうして笑うのか自分でもよく判らなかったが、とにかく嬉しく、笑っていた。
 その存在は時田リョウといった。
 ぐちゃぐちゃになっていたその顔、黒い瞳。
 顔は笑みに崩れ、ただ、その瞳だけが、どれほど激しく泣いたときよりもずっと強く、湿っぽいなにかをたたえている。
 一歩、リョウは踏みだした。
 足はこわばっていた。寒さと、疲れと、緊張が彼にそれを強いていた。
 つまるところ……彼は……
「……中枢に侵入者あり。されども無力な存在と判定。一切の危険を認めず」
 「翼狩り」のコンピュータはそう感じた。
 まさしくその通りだった。
 ただここまで飛んでくるだけで、彼はほとんどすべての力を使いきってしまっていた。
 もう一歩。だが、それが限界だった。足の震えはますますひどい物になっていた。体重をささえることすら出来なくなっていた脚がすべる。傾いた床の上に彼はころがる。
 弱々しく手を動かした。なにかをつかもうとするかのように突き出す。その手には、指が何本か欠けていた。
 そんなリョウの動きには、もう誰も注目していなかった。
 金色の人影は……そもそもリョウを見ようともしなかった。
 力つき、手は床の上に落ちる。
 リョウはぼやけた視界の中で、自分のやってきた全てが無駄におわるその瞬間を見ていた。
 見送り、見過ごした。
 手はもう動かない。
 痺れてきた。
 いや、当然だ、ここまで来れただけでも奇跡のようなものだ。
 自分はもう翼を信じていないのだから。
 機械としてのリョウ、天使としてのリョウ、互いが互いの力を殺しあってるんだから。
 結局のところリョウは、輝く世界と灰色の世界のどちらからも受け入れられなかった。
 最後に聞こえたのは、鼓動。
 その向こうで、最強最後の天使と、機械の王が刃をかわし合う音も聞こえたはずなのだが、それよりも鼓動だけが強く。
 四つの肉の部屋が、ハートマークではない本当の心臓が、微妙にうねりながら縮む。膨らむ。
 ああ、そうだよな。
 なんかほかの、聴きたいのに……
 目はすでに閉じていた。
 うっすらとでも開けられていたら、「翼狩り」と「天使」が放つビームが、壁がえぐられ吹き飛ぶその光景が、せめて生涯最後に見られただろうに。
 閉じた眼、きこえない耳、動かない手。
 だとすれば動くものはひとつしかなかった。
 そのひとつの存在が、彼をしてひとつの行動を取らせた。
 彼はただ思ったのだ、とうの昔にとどかない存在となった、ひとりの人間、ひとりの女のことを。
 それは誰だったろう、実のところ彼にもよくわかっていなかった。
 それは黒い髪を三つ編みにした中国系の女の子だった。それは大人として生きた間に出会っては去っていった女たちだった。それはある日ビルから身を投げた、あの微笑みの少女だった。
 顔などわからない。すべては影の中だ。
 ただ彼女は歌っていた。
 あのいつか聴いた歌を。

 「翼狩り」は残るすべての力を振り絞って戦っていた。
 機械樹、コンピュータ複合体をバリアで守りつつ、室内の防御システムを全開で稼動させる。連射、また連射。白い光条が大気にえがかれる。
 天使は耐えていた。だが、もはやあの天使も、ただ耐えるだけで精いっぱいであるらしい。身体をつくっている輝きも、なかば薄れ、向こう側が透けて見えるほどになっている。
 もう一撃、もう一撃だ。
 「翼狩り」の全火器管制機能は、眼前に振り向けられていた。
 あまりに無力、もはや並の人間以下の力しか持っていない汚れた天使、部屋の隅に転がっているぼろ切れ、そんなものには注意を払っていなかった。なぜ払う必要があるというのだ。
 だが突然、未来情報検出計が悲鳴をあげる。

 天使、最後にたった一人のこった彼、彼もまた全力で戦っていた。手をひらめかせ、光の矢を放つ。もう片方の手でレーザーを受けとめる。すでに完璧な防御はできない。肉体をかたちづくる光が、わずかにけずられ、飛び散る。
 その時、研ぎすまされた超感覚が、ありえないはずの出来事を察した。すべての力を喪ってころがっていたあの屑が……

 リョウは起きあがった。
 子供の純粋さも、大人の深みも彼に力を貸してくれなかった。そんなものは互いに喰らい合うばかりだった。
 だが彼は確かに立ち上がった。
 彼は機械の大樹と、輝く人間の間に割って入るように走っていた。
 両者が必殺の一撃を放ったのは、その瞬間……全く同時だった。
 レーザーが、精神エネルギーの弾丸が、少年の身体をえぐる。
 いまのリョウがそれに耐えられるはずもない。悲鳴を上げることすら出来ず、リョウはその場にくずれおちる。もともと力をうしなっていた身体が焼け焦げる。床面に落ちた黒く細長いものは、炭化した腕だろうか。それとも。
 あまりに汚れすぎた天使は、光と闇のいずれにも一太刀あびせることができなかった。
 だが……
 ……なぜだ?
 無限につらなる光演算素子、からまりあった透明な結晶回路……そんなものの中を疑問が駆けた。
 なぜ、動くことができた? 計算ではすべての力が喪われたはず。
 ……なぜだ?
 もはや一片の肉もなく、ただ光のみによって構成されたその無垢なる身体……そんな彼の心を動揺がはしった。
なぜ、動くことができた?

 リョウは不思議がっていた。
 どうしてだろう、どうして痛くないんだろう。どうして、もう一度目を開けることができたのだろう。ほんとうに、もう指一本動かなかったのに。
 ああそうか、ぼくは死ぬんだ。もう死にかかってるんだ。
 そう思う。だから身体が火に焼けても痛くないし、熱くない。そう。身体はもう、焼けるほど熱い空気と床のせいで火がついていた。もう服など何も残っていない。変な形になってしまった手のことも、もう気にする必要はなさそうだ。

 かつてベルンハルト・ライヒェンベルクであった存在、最後の天使は、人間であれば驚きといえるだろう種類の感情を、その内部に爆発させていた。
 自分の勘では、絶対に立ち上がれないはずだったのに。
 なぜ、わずかでも動くことができた?
 いや、もちろん、脅威は感じていない。
 いかに力おとろえたとはいえ自分は本物の天使、それも最強の存在。それに引きかえ、たったいま割り込んできて火だるまになったのは、つまるところただの人間にすぎない。力量差は、いまだ歴然。
 だがそれでも……
 すべての欠点を排除したはずの完全無欠の天使、その自分ですら予測できなかったものがある……その事実が、「彼」を動揺させた。
 あのぼろ切れが炎に灼かれる寸前、朗らかとさえ言える表情を浮かべたことも気になった。理解できなかった。なんとも理解に苦しむことだった。
 一瞬の疑念。純粋なる光では説明できない何かがあるのか? その思いは、ベルンハルトの人格を再覚醒させた。
 「翼狩り」もまた、事態の分析には有機ユニットの力が必要であると判断した。
 ケーブルの接続が回復する。特殊信号が脳の中に送り込まれ、「彼女」の意識が目覚める。
 そう、ベルンハルト・ライヒェンベルクと、リン・メイファは、いまようやく堕天使リョウと対面したのだ。
 対極に位置する二つの存在は、ともにリョウに疑問を投げかけていた。薄れ行く意識、おそらくは永遠に戻らないだろう意識、それがまだ残されていた最後の瞬間、両者のテレパシーが浴びせられる。
 ……お前は何者なのか?
 ……答を聞かせて。あなたは……
 リョウには、その質問に答えるために数秒の時間が与えられた。
 すべてが炎に焼かれ、眼も耳も手も口も服も肌もなくなるその瞬間に、まさしく彼の身体が、燃え盛る一本の松明そのものと化したその瞬間に……
 リョウは、答を出すことが出来た。
 ……ぼくは人間だ。
 「最後の天使」と「翼狩り」は、もはや全く争うことなく、ただ黙って、その言葉の意味するものをかみしめていた。
 やがて輝く人間が、光の肉体をもつ少年が、静かに、言葉を選びながらつぶやく。
「……きみは、ばかだ」
 ガラスケースの中に浮かび、人工脳髄と接続された全裸の少女が、声帯を使うことなく言葉を発する。天使と同じか、それ以上に沈痛な響きがそこにはあった。
「……やっぱり、そういう人だったね。わたしの知ってるとおりの、リョウ君だったね」


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