CHAIN
第一章
一
……プレア、逃げなさい!
その声が胸の中でこだました。
プレアは白い世界にいた。
眼下は一面の雪原。
空は灰色がかった白い雲。
そして周囲は舞い散る雪、いや、殺到してくる雪。時速三百キロで前方から襲いかかり、マフラーを凍り付かせ、ヘルメットのシールドをびっしりと氷で覆う白い敵。
彼女の装備は完璧とはいえなかった。今はもう雪で真っ白になってしまったコート、下半身は分厚いズボン、毛糸のマフラー。ただ雪の中を歩くだけならそれで十分だったろう。だが彼女は今、三百キロで浮遊スクーターを走らせている。何度手で払っても、十秒としないうちにシールドは真っ白くなった。頬や耳はヘルメットで守られ、直接雪はあたらない。だが冷たい空気は容赦なくなだれこんできた。彼女の顔面は悲鳴をあげていた。もはやそこには冷たさはなく、何十本かの針を突き刺されたような痛みがあるだけだった。その痛みすら、無感覚にかわろうとしている。
プレアがもっと高位の貴族なら、個人用バリアを入手することもできただろう。重力制御と電磁力を併用し、セッティングしだいで戦闘用にも宇宙探検用にも使える個人バリア。
それさえあれば冷気など完全にシャットアウトできる。だがプレアのフルネームはプレア・スィル・ノボトニー、つまり彼女は准男爵家の人間でしかなかった。地球人=帝国貴族とはいえ、最下級貴族が手に入れることのできるものには限界があった。ことにあの状況、まさに帝国のすべてが炎の中に崩れ落ちていくような状況では。
白い手袋で覆われた手で、しっかりとグリップを握りしめるプレア。手袋の中にも冷気が忍び込んでいた。濡れてはいない。しかし痺れるような感覚があった。合わせて十本の指すべてが、万力に挟まれたかのように痛かった。
プレアは右のスロットルを開けた。尻の下で咆哮しているミューオン触媒型常温核融合が唸りの激しさを増す。膨大なエネルギーが前後の反重力ホイールに注ぎ込まれる。反重力ホイールは、超流動ニュートロニウムと呼ばれるきわめて高密度の液体を渦巻かせることで空間の歪み=人工重力場を生み出し、その歪み=重力場と惑星の重力場を干渉・反発させることで飛行を行うものだ。
スクーターは、百キロに満たない車体を風圧に歪ませながらさらに加速した。現在の速度は三百五十キロ。
プレアは息苦しさを感じていた。ヘルメットのシールドを上げたい。カチカチになったマフラーを投げ捨てたい。その衝動を強く感じた。そんなことをしたらどうなるか、わかってはいても。
風速百メートルの風がたてる轟音が耳をえぐる。ところどころ森があるだけで目印も何もない地上世界が、シールドにはりついた雪のせいでよく見えなくなる。もともと高速飛行に適していない浮遊スクーターの車体が、横風で流されていく。上半身を慌てて傾け、どうにかまっすぐな進路を保つ。
辛かった。息が苦しく、顔の皮膚がバリバリと裂けてしまいそうだった。
それでもやめることは、止まることはできない。
なぜならプレアの胸には、いまでもさっきの言葉が鳴り響き続けていたから。
おそらくは最後の、父の言葉が。
……「プレア、逃げなさい!」
だから……
彼女はまだ右手のスロットルを開ける。
その時、彼女の眼がそれをとらえた。
丸いバックミラー。これだけは電熱線が仕込まれ、雪の付着は最小限ですんでいる。そのバックミラーに、なにか黒い点が映っていた。
振り向いた。
身体が風にさらわれそうになる。
……点は、目の錯覚ではなかった。
灰色の空と白い大地、いまひとつはっきりしないその境目あたりに、点が四つばかり。
どんどん大きくなっていく。
すでにスロットルは全開状態だ。空気抵抗が大きすぎてこれ以上加速できない。もう少し高級モデルなら人工重力場を前方に展開し、流線型のバリアを創り出して空気抵抗を減らすことができただろう。だがプレアが乗るスクーターにその機能はなかった。
黒い点は刻一刻と大きくなっていく。
点は、いまや箱だった。いや、クルマだ。
プレアのスクーターと同様に反重力ホイールで空を飛ぶ、浮遊車。曲面のまったくない、分厚くごついクルマだ。やはり雪におおわれているが、ところどころのぞいているボディは漆黒のようだ。
その巨大さが、その力強い加速が、その色が、プレアを恐怖させた。
すでにクルマとの距離は百メートルを割っていた。
身体ごとスクーターを傾け、重力偏向を起こしてコーナリング。
しかし逃れることはできなかった。すぐさま別のクルマが急加速して、右からプレアのスクーターを押さえ込んだ。さらにもう一台が左から、体当たりかと思えるほどの勢いで寄せてきた。もう一台は前に回り込んだ。
……囲まれた。
プレアは全身をこわばらせた。
すでに四台のクルマは、石を投げたら届きそうなほど迫ってきている。
だが、どうしてだろう。
どうして殺さないんだろう。
あの人たちは銃を持っているのに。拳銃もライフルも散弾銃もあるのに。レーザー式、火薬式、分子破壊銃、多目的ブラスター、なんでも使いたい放題だったのに。どうして私には撃ってこないんだろう。
クルマをぶつけてきてもいい。こんなちっぽけなスクーター、たちまちひっくり返って地面に叩きつけられる。
それなのにどうして殺さないんだろう、あの人たちが私を殺さないでいる理由なんて何もないのに。
私は……私は地球人だから。
あいつらは、それこそ害虫を駆除するように私たち地球人を殺すのに。げんに大勢殺したのに。どうして私は殺されないのか。
彼女はコートのポケットのボタンに、かじかんだ手をかけた。この中には小型の拳銃が入っている。
理由はわからない。だが殺さないというんなら。
そのチャンスを利用するしかない。
彼女は拳銃を取り出した。両手をハンドルから離すことはできない。片手だけで撃った。わずか二、三〇メートルしか離れていない、右のクルマの座席めがけて。
銃声はきこえなかった。ただ小さな衝撃がプレアの手に伝わってきただけだった。風が鳴る音のほうが遙かに強いのだ。
運転席のガラスで白い火花が散った。
それっきり何事も起こらなかった。
ガラスの向こうに見える、コート姿の男たちは慌てる様子もない。ただこちらに顔を向けている。表情が判るほど近くはないが、それでも「余裕に満ちた態度」であることだけははっきり伝わってきた。
きかない!
こんな拳銃じゃあのクルマにはきかない。
そうだよね……
そういうことなんだよね。
プレアは理解した。なぜ彼らが、『地球人』である自分をすぐに殺さないのか。
絶対の自信があるから。負けるはずがない、それどころか一片の不安もないから。
だから楽しんでいる。すぐに獲物を殺してしまってはつまらないから。少しずついたぶって、追いつめて。
窓越しに見える、男たちの顔。
この惑星エンファードの原住民に特有の、緑の色の顔。
そこにはっきりと笑みが浮かんでいるのが見えた。
楽しそうだ。
怖い、そう思った。
……死にたくない。
拷問されて死ぬのはいや。
……あんなふうになるのはいや。
ミニーやサティのようになるのは嫌。
右ではなく、左のグリップを大きく奥にひねった。
それは、飛行機の操縦桿を前に倒す動作に相当した。
フロントの重力制御ホイールが九十度向きを変える。下に向かって疑似重力が発生する。スロットル全開状態のまま。
車体が真下を向いた。そして急加速を開始した。自由落下より遙かに速いペースで加速していく。
プレアの前方、つまり下には、平原ではなく森が広がっていた。
そこにプレアは飛び込んでいった。
二
「まったく、お前はしょうがない奴だな」
父ゲンデの小言を聞いて、マードは頭を下げた。
ここは家の居間。いや、来客がある時には確かにここに通すが、それほど豪華なわけではない。テーブルと椅子が並んでいるだけだ。
そのテーブルを挟んで、父ゲンデとマードは向かい合っていた。
父の、作業着に包まれた身体は細かった。マードが物心ついた時には父はこういう体型だった。友達の父はもっと屈強な体格をしていたので、うちの父さんは弱そうでやだなあと思ったことが何度かあった。
濃い緑色の顔も柔和だった。顎にたくわえられた短い髭も、威厳を出すほどの効果はない。
「ごめん父さん」
あまり本気で反省しているようには見えない態度で、マードは謝った。
「ふん……まあ学校に行かないのはいいだろう。お前はすでに、学校の勉強なんかよりずっと高度な学問と技術を身につけている。偏ってはいるがな。なにしろあんなものを一人で作ってしまうくらいだ。だから授業が退屈に思える気持ちは分かる。だがどういうことだ、おれはマードに、留守を頼むって言ったんだぞ」
「うーん、確かに」
「だがお前は抜け出して、友達と戦争ごっこだ!」
「違うよ父さん。あれは戦争ごっこじゃなくて映画なの。ビジュクラックの『宇宙戦士バル・アミーガン』という話知らない?」
「知らない」
「だからそれを真似して遊んでたの。けっこう気分でたよー」
「お前の冒険好きは相変わらずだな」
「もちろん。いつも言ってるでしょ、いつか宇宙に飛び出して、バル・アミーガンみたいに闘うのが夢なんだって」
「宇宙海賊や、邪悪な宗教団体、地球帝国残党と?」
「そうだよ。父さんも知ってるじゃないか」
マードは笑った。姿勢を少しだけ崩す。
「そりゃあそうだ、そういう映画は戦時中からあった。戦意高揚用にな」
「ふーん」
「だがな、それは仕事をさぼっていい理由にはならない」
「そうそう父さん、その仕事だけどさ。どうして父さんはこんな田舎で機械屋なんかやってるの? 昔は解放軍にいたんでしょ?」
父の顔が曇った。
「その話を誰からきいた」
「いろいろ。ガスおじいさんとか、ゲルディチェ先生とか」
マードは機械屋仲間の老人と、学校の先生の名をあげた。
「おしゃべりめ……」
「ねえってば、どうしてなの?」
「どうやらその口振りだと、機械修理の仕事が解放軍の軍人に比べて劣っている、くだらない仕事だと思っているみたいだな」
「いや、そこまでは言わないけど……」
「おれはな、もともと機械屋になりたかったんだよ。子供の頃から好きだったんだ。そっち系の大学に行って、エンジニアになるのが夢だった。小さな修理工場を持って、そこで家族みんなで仲良く暮らすのが夢だった。革命がどうの戦争がどうのってことに、関わるつもりはなかったんだ」
「じゃあ、どうして解放軍に入ったの?」
父は腕を組んで考え込んだ。
「ふん……そうだな。声が聞こえたから」
「は?」
「声が聞こえたからだ」
「わけがわかんないよ……。あ、そうだ、あれでしょ『正義の声』。悪の地球帝国を討て、という声が聞こえてきて」
「それも映画にあったのか」
「うん」
「まあ、そんなものかもしれんな」
「それじゃ父さんも、昔は映画に出てくる正義の味方と一緒だったんだ」
「まあな。連中ほどかっこよくはなかったと思うがな」
「じゃあ……」
「ごまかすなよ、マード。お前の好きな映画のヒーローは、自分のやった悪いことをごまかすのか?」
「え、それは」
「じゃあ、仕事をさぼった罰はうけるんだぞ。そうだな、ガスんとこの店にいって、これに書いてあるものを買ってきてくれ」
父はメモ用紙を作業着のポケットから取り出し、そこに数行の文字列を書き連ねた。
「え、ガスおじいさんの店って遠いよ。明日にしようよ」
「車でいけばそうはかからない」
「うわ、買い物の量もすごく多い!」
「大丈夫、あの車なら積める」
「うう……だってもう晩ご飯の時間だよ」
「ちゃんとお前の分の飯は残していく」
「そういう問題じゃなくて」
「行って来るんだ」
「うん……」
父はすごんだわけではなかった。もともとすごんでも大して迫力の出る顔立ちではない。本人もそのことを自覚しているのか、この父は滅多に激怒することがなかった。友達からは「父さんにひっぱたかれた」という話をよく聞くが、この父がマードを殴ったことなど一度もなかった。
けれど、マードも最後はこの父に従った。
表面的な迫力とか、恐怖で言うことをきかせるとか、そういうことをさせられたならマードは反抗したろう。事実、そういう教師と大喧嘩をやらかしたこともある。
だが父は論理的に説得してくる。
納得してしまうので、従うしかない。
「はいはい」
その不満げな返事に眉をひそめた父だが、溜息をついただけで何も言わなかった。
三
プレアは森に突っ込んでいく。
ポケットに手を入れた。
視界が白で埋め尽くされた。
白の隙間から黒が見える。
黒はどんどん大きくひろがって。
プレアは、ポケットの中にある装置のスイッチを入れた。
緊急用バリアシステム。
上級貴族が持っているバリアに比べると遙かに性能の劣る安物だが、それでもバリアには違いない。
瞬間的に、ごく瞬間的に、きわめて強烈な人工重力場が発生した。
卵の殻のように、あるいは繭のように。
プレアの身体をすっぽりと覆って。
木の枝と枝の間を貫いて、スクーターが時速数百キロで大地に激突したのはその瞬間である。
プレアにとって、世界は消滅した。
四
マードは防寒用ジャケットとズボン、それから長靴に身を固めて、家から外に出た。
家は村はずれの丘の上にある。
丘の中腹にはガレージがある。ガレージまで降りていく途中、マードは家を振り返った。
四角く白い箱に三角の屋根を乗せた単純な形の、小さな家だった。なにしろガレージの方がすっと大きいのだ。いくらうちが二人家族で、機械屋だから大きなガレージは不可欠だといってもこれはないだろうとマードは思う。
違う、ぼくが嫌なのは家が小さいことじゃない。そうマードは考え直した。
丘から村を見下ろす。
たった数十の家が点在しているばかりだった。一番大きな建物は、学校とくっついた村役場。それですら三階建てどまり。
小さく狭い世界。
この星エンファードとくらべても小さい。そして無限に広がる宇宙……千億もの星があるという銀河系に比べれば本当に芥子粒だ。
このちっぽけな村に閉じこめられていること、どこまでも続いているはずの世界にぼくが行けないこと、それが嫌なんだ。
空を見上げた。
灰色の雲が空を覆っている。
何億もの雪片が舞い落ちてくる。
……あの雲の向こうには。宇宙が広がっていて。
宇宙の向こうには、行ったことはないけど話ではよく知っている、冒険の世界がある。
だから息苦しさをおぼえた。
今の自分にはそこに行く力はないと判ってはいた。父もさびしがるだろう、たった一人しかいない肉親なのだ。
それでも、空を見るたびに心がうずいた。
今の家の仕事も、つまらなくはない。
機械がいじれる。村の人達が持ち込んでくる機械はさまざまだ。洗濯機やテレビもあるが、浮遊車もある。農作業用ロボットや家庭用ロボットもある。核融合炉も、量子コンピュータも、単分子構造材も、ごくたまにナノマシンすら扱うことができる。
それは嬉しかった。実際、父親を見習いをやりながら覚えた技術は身を結びつつある。
……サンドギヌス号は、もうすぐ完成する。
たった一つ、あれさえ手に入れれば。
あればっかりは無理みたいだけど。
マードは深く息を吸った。
冷たい空気が肺の中を満たしていく。
頭も冷えて、気分が落ち着いた。
マードはガレージの扉を開けた。
箱形の無骨な車があった。
巨大なダブルタイヤを履いたトラック。タイヤにチェーンが巻き付けてあるところを見ると、地上車のようだ。
運転席によじ登る。
キーを差し込んで回す。
この車のエンジンはごく原始的な、ミューオン触媒型常温核融合レシプロエンジンだ。
その構造と作動原理は、ディーゼルエンジンによく似ている。違うところがあるとすれば、それは中で起こっているのが化学反応ではなく核反応であるという一点だ。
まず超伝導バッテリーにたくわえられた電力が、ミューオン……別名ミュー中間子とも呼ばれる素粒子を生み出す。その次にポンプが動き、水素吸着合金に貯蔵されていた重水素燃料がシリンダー内に噴射される。ごくごくわずかな量だ。
セルモーターが周り、ピストンが動く。さきほど噴き出したガスが圧縮される。ガスは高温になった。およそ摂氏五百度。
普通なら、重水素は何億度もの高温にならないと核融合を起こさない。この程度の温度ではとても駄目だ。だがそこに奇跡の触媒、ミューオン粒子が混ぜ合わされる。重水素の原子核どうしがもっている電気的反発力を、その粒子は弱めてくれる。
反応が起こった。中性子と、大量の熱をまき散らし、重水素はヘリウムに変化する。ヘリウムガスは急激に膨れあがっていく。その膨張力がピストンを叩き、動力を生み出す。
中性子は危険な放射線だが、シリンダーごとに取り付けられた「強制ベータ崩壊フィールド発生器」によって電子と陽子に分解され、水素原子になって排出される。結局このエンジンが生み出す廃棄物は、ヘリウムと水素がほんのわずか、それだけだ。出力は、同じ大きさのディーゼルエンジンの数倍。そして燃料の消費量はゼロに近い。この車はもう十万キロ以上、燃料補給なしで走っていた。
振動がシートの下から伝わってきたが、マードはすぐにはトラックを発進させなかった。このトラックはマードが生まれるよりずっと前、それどころか帝国打倒以前から走り続けてきた代物なのだ。念入りに暖機運転をした方がいいと、父親から言われていた。
ヒーターを入れて、しばらく待った。
もういいだろう。
マードはアクセルを踏み込んだ。
車はスムーズに走り出す。
この車はとても古い、枯れた技術で作られている。逆にいえば確立された、安定した技術ということだ。不具合はむしろ普通の車より少ない。
……今回も何も起こらなかった。
……父さんは心配してるけど、この車はものすごく頑丈だ。
マードはステアリングを握るながら、そう考えた。
でも、ぼくはこういうのあまり好きじゃない。もっとすごい技術を使った車がいい。父さんは無駄だって言うけど。浮遊車がいい。
マードはそこまで考えたところで首を振って、考えを振り払った。
運転中は集中しなきゃ。
本来、ぼくは運転免許取れる年じゃないんだから。特例として許してもらってるけど、ちょっとでも事故を起こしたらもう駄目だろう。
トラックは丘をくだり、村の外に向かって進んでいった。
ガスの店までは、車でも二時間はかかる距離である。
五
プレアは意識を取り戻した。
視界は、木の枝が埋め尽くしていた。
自分が地面の上に転がっていることに気づいた。大きな針葉樹の下にいるらしい。
スクーターは見あたらない。
どこか眼の届かない場所に転がっているのだろう。常温核融合炉の中身はたかが摂氏千度そこそこ、大爆発などしないはず。
動こうとして、脇腹と足に激痛が走った。
はあっ、と息が口から漏れた。
骨が折れている。
バリアはしょせん簡易バリア、時速五百キロ以上で墜落した衝撃を受け止め切れなかったらしい。
でも、とプレアは思った。
……まあいいわ。バリアがなければ即死していたんだから。
腕に力を入れる。指を動かす。問題なく動いた。
よし。
脇腹はともかく足ね。
まずこれを治し……
と、そのとき、蝿の羽音が迫ってきた。いや、浮遊車のエンジン音だ。
枝に遮られてよく見えないが、どうやら連中はプレアの頭上を旋回しているらしい。
……あの連中をまくのが先ね。
プレアはコートのポケットに手を入れた。そこにはクルミほどのカプセルがあった。
取り出す。
手袋を取って、銀色に鈍く光るカプセルを握りしめる。
小声でささやいた。
「……起動しなさい」
カプセルの中身は、プレアの両親が手に入れてくれたC級ナノアセンブラと、その制御コンピュータだった。
制御コンピュータはプレアの音声命令を受け付けると、即座に「Tプロテクト」に関するプログラムを起動させた。
Tプロテクト。地球人はナノマシン・重力制御・超光速の三大技術を「神の力」と称して独占し、他の種族に渡さなかった。そのための手段がTプロテクトである。
コンピュータは、プレアの手の皮膚にナノマシンを送り込み、DNAを読みとった。
量子回路の中を信号が駆けめぐる。
……DNA照合開始。照合終了。地球人プレア・スィル・ノボトニーと確認。プレア・スィル・ノボトニーの人種類別はC、『神の力』使用権限ランクC。使用条件クリア。プロテクト解除。以後プレア・スィル・ノボトニーを使用者と認め、その命令入力に従う。
カプセルの封印が解けた。
カプセルの中身は銀色の液体だった。ナノマシンの集合体だ。あまりに粒が小さいため液体にしか見えない。液体の中に、コンタクトレンズほどしかない円盤が入っている。これが制御コンピュータだった。
プレアはその液体を地面にまく。
「……私になりなさい。そして逃げて。囮になって」
銀色の液体はブルブルと振動した。この状態のナノマシン群には音声で返答する機能はない。S級なら瞬時に発声器官を生み出して返事をするが、それと比較すればオモチャ同然のC級にそこまで求めるのは酷というものだ。
液体は地面に染みこんでいった。
十秒ほど、プレアは待っていた。
早く。早く。
ただそれだけを考え、焦っていた。
やがて地面が盛り上がり、中から一人の人間が這い出してきた。コートとズボンとマフラーを身につけた人間。身長百五十センチと少し。ヘルメットから長い金髪がはみ出している。顔は白く……
プレアと全く同じ姿をしていた。
C級ナノアセンブラとその制御コンピュータは、乏しい能力を振り絞って土中の有機分子をつなぎ合わせ、どうにかタンパク質を合成して人間の身体を創り出したのだ。そのための資料はプレアのDNAと、あらかじめ入力してあった服装データ。もちろんすべて再現できたわけではない。土だけでは人間の身体の材料としては足りない。レントゲンの一つも撮ってみれば異常に気づくだろうし、なにより脳の回路は全くつながっておらず、赤ん坊ほどの知能もない。制御コンピュータが脳のかわりをつとめていた。
それでも、一時的にごまかすだけならできる。
「逃げて! 早く! 行きなさい!」
偽プレアは全力疾走を始めた。すぐに見えなくなる。
やがて頭上の音が移動をはじめた。偽物を見つけ、おいかけてくれたらしい。
……よかった。
ほっと息を吐こうとして、うめく。
緊張のあまり忘れていたが、骨を何本も折っているのだ。
……待っているうちに治療すればよかった。私ってバカだ。これじゃ、父さんたちとの約束を……
暗い考えを拒絶した。
今はなにより生きなければ。
そう思って、別のポケットに手を入れた。そこにはナノアセンブラとは別種類のナノマシン、ナノメディックが入っている。ナノアセンブラのような分子・原子レベルの組み替え能力は持っていない。もっとずっと大きな、細胞レベルの作業に特化したものだ。病気や怪我などの治療に使われる。体内常駐型でもない限り簡単に入手できるものだ。
……ない。
プレアの手はポケットの内側を滑るばかりだ。
……ナノメディックのカプセルを入れておいたはずなのに。
……さっきの墜落で落とした?
どこだ。
別のポケットを探す。見つからない。通信機が出てくる。通常電波と超光速波の両方が送受信できて、ネットワーク端末としても使える代物だ。だがそんなもの役に立たない。携帯食料が出てくる。ナノメディックだけが出てこない。
プレアは急に、全身をさいなむ冷たさをおぼえた。もちろん先ほどからずっと寒かったのだ。周囲は雪だらけで、しかも日が暮れようとしているのだから。だが今までは気にならなかった。うまく追っ手をまいたという安心感があったから。身体に不具合があってもナノメディックさえ注射すればすぐに治ったから。
その保証が、いともたやすく喪われた。
とたんに、世界のすべてが牙をむいて襲いかかってきたような不安にとらわれた。大気が服の隙間から入り込んで肌を刺す。胸が痛くて痛くて、息をするのもままならない。
ナノメディック以外の医療手段を考えてみる。
薬の類は持っていない。帝国貴族の間では、ナノメディックによる治療があまりに普及していたため、それ以外の医学というものは忘れ去られつつあった。プレアは風邪薬を飲んだこともなければ、メスで身体を切られたこともなかった。それどころか薬品など、見たことすらろくにないのではないか。
……骨折した時には添え木をあてる。
その知識は思い出した。
以前、銀河開拓時代を描いた小説を読んだことがある。その中で主人公が、そうやって骨折の手当を行っていた。
だが、それはどうやればいいのか判らない。
這いずった。片手を地面について半身を持ち上げる。手の届くところに枝がない。
ごつごつした幹によりかかって立ち上がった。片足はぶらぶらしている。動かすどころか力を入れることもできない。ずきんずきんと心臓に合わせて痛みをポンプのように送り出し自己主張している。
震える手を枝に伸ばした。
折った。このくらいの長さでいいんだろうか。再び腰を下ろして、足に当てようとする。
どうやって木の枝を固定するのか。
ああそうか、包帯を巻くんだ。
でも、そんなものはどこにもない。
主人公は、スカートの布地を細く切って包帯代わりにしていた。
だが……
プレアは困惑した。
コートもズボンも、人間の手で引き裂けるものではない。シャツも無理だろう。破れるほどもろいのは、それこそくらいではないか。
裸になるの?
この雪の中で?
ぞっとした。
でも命には変えられない、と思った。
コートを脱ぐ。セーターが表れた。それも脱ごうとして、プレアはハンカチの存在に気づいた。ハンカチの一枚くらいは持っていないか。
コートをまた羽織って、焦りながらポケットをまさぐると、チェックの布が現れた。ハンカチだ。
指先に痛みの走る手で、苦痛にあえぎながら身体を折って、骨に添え木をあてようとする。
ところが長さが足りない。うまく結べない。しっかりと固定できない。少し身体を動かすと布がゆるんでしまう。これではとても添え木の役を果たさない。
……主人公はあんなにうまく、あっさりと手当をしていたのに。
何度も何度も繰り返した。
どうしてこんなに冷たいんだろう。身体から生命力そのものが吸い取られていくんだろう。汗が出るのに。暑いはずがないのに額には汗が浮いて、ヘルメットの中の髪が汗の臭いに浸されて。それなのに痺れるような寒さが全身を痛めつけて。
一体何度失敗しただろう。自分が、テクノロジーの庇護なくしては何一つできない人間なのだと、嫌というほど思い知らされた頃、ようやくプレアは布で足をしばることに成功した。
だが、それだけのことだった。
痛みは消えないし、骨がつながるわけでもない。骨折を治すには温めればいいのか冷やせばいいのか、それすらプレアは知らない。ナノマシンなしで怪我と向き合ったことがないから、どれだけの時間をかければ骨がつながるのか、それも判らない。
とりあえず、木の幹をたよりにもう一度立ち上がった。
ううっ、ううっと、何度もうめき声を上げながら、プレアは太い木の枝を折った。
そうして作った即席の杖を突いてみる。体重をかけてみた。少し曲がったが、折れない。
彼女はよろよろと歩き出した。
すでにあたりは真っ暗だった。
雪はやんでいたが、空は雲に覆われ、星一つ見えない。もちろん、三つある衛星も。
ポケットには懐中電灯もあった。それを使えばずいぶん視界はよくなったろう。
だが、使うべきか。あの連中がまだこの当たりをうろうろしているんじゃないか。灯りをつけたとたん「いたぞ」という叫びが上がって、木々を薙ぎ払い浮遊車が突っ込んでくるんじゃないか。そして自分も父や母のようになるんじゃないのか。そう思うと、とても使う気にはなれなかった。
だから彼女は黒一色に塗り潰された世界を、ゆっくりと、杖で前方の足場を確かめながら、片足をひきずって歩いていった。
それでも転んだ。
とっさに手をついた。しかし折れている方の足を下敷きにして倒れてしまった。悲鳴を押し殺す。
また立ち上がった。今まで以上に遅い速度で歩いていく。
そもそも自分はどこに行こうとしているんだろう。プレアはぼんやりと考えた。
わからない……
ただ、ここにいたらまずい気がする。
あの連中、反乱軍にすぐ見つかるような気がする。
だから、だから逃げなきゃ。
そうだ。スクーターを見つけないと。
杖の先が何かに当たった。
片ひざをついてその「何か」の形を調べる。
つるつるしている。大きい。
スクーターだ!
プレアは喜び勇んで懐中電灯を出した。光量を最低に絞って、「何か」を照らす。
……愕然とした。
光の中に浮かび上がったのは、ヘッドライトとレッグガードの破片をまき散らし、フレームをむき出して転がっている、スクーターの残骸だったからだ。
駆け寄ろうとして激痛に倒れる。
ズボンを泥と霜柱で汚しながら這いずって、スクーターをのぞき込む。
外装が割れているだけではなかった。ハンドルが曲がっている。もともとあんな高速を出すようには作られていないのだ、仕方ないだろう。
全体重をかけてようやく起こす。
ダラダラと何かが漏れていた。
光が暗いせいでよくわからないが、燃料ということはないだろう。冷却水かオイルか。
ささったままのキーを回した。
ライトが点灯しない。
血の気が引く思いでセルモーターのスイッチを押した。
何も起こらない。エンジンは始動する気配も見せない。どこか電装系がいかれているらしい。確かに核融合炉の故障よりは直しやすいだろうが、どのみちプレアには修理できない。
メカの知識などないのだ。
さらによく見れば、前の反重力ホイールが微妙に歪んでいることもわかった。これでは仮にエンジンが動いたとしても、肝心の呪力制御がまともに行われないだろう。
つまり。
プレアは懐中電灯を落とした。身体から力が抜ける。
つまり、これはもう飛べない。
自分は、歩いて逃げるしかないのだ。
どこに逃げればいいのか、どこに逃げれば反乱軍の追っ手が来ないのか、それも見当がつかないというのに。
怖かった。
肉体の痛みを遙かに圧倒する恐怖を、プレアはようやく感じた。
自分はたった一人、この敵対的な世界に放り出されたのだ。人間はもちろん機械も、自分を助けてなどくれない。
仮に歩けたとして、それでどうなる。いつか食べ物はつきる。足の折れた人間には狩りもできない、どんな植物を食べればいいのかも判らない。まして今は冬だ。人里に行かなければ飢える。だが人里には、異種族たちがいるのだ。反乱を起こした平民や奴隷たちが。
……あれから二十年経った。眠っている間に、ますます状況は悪くなったかも。連中はこの星を完全に手に入れたかも。
もしかして他の星に行っても同じかも。
もうこの星には。いや銀河には、地球人は私ひとりしかいないのかも。あとみんな、血に飢えた反乱軍たちだけ。
プレアは身体を丸めた。暗闇から顔を背けた。この闇の中に、敵が潜んでいそうだった。次の瞬間にも、銃を振りかざした反乱軍が飛び出してきそうに思えた。
だから眼を背けた。固く眼をつむって、膝を抱えて、呟いた。
「……嘘よ……これは嘘よ……きっと夢よ……夢よ……夢よ……ぜんぶ夢よ……何かの間違いよ……夢よ……」
眼が熱かった。頬を涙が濡らしていった。
彼女は自分の言葉を信じたかった。
彼女にとってほんの少し前まで、世界は平穏そのものだったのだ。彼女の家には平民の召使いがたった一人いるきりだったが、その召使いは主人の言うことをよく聞く立派な平民だった。父と母は一番下っ端の貴族で、財産だけでは食べていくことができず、レストランを経営していた。そこの客には平民も下級貴族もいたが、みんな自分の分をわきまえて、争い事を起こさずに食事をして、楽しくお喋りをして帰っていった。従業員の平民たちも同様だった。平和だった。
このまま親の家を継ぎ、店のオーナーとして生きて行くか。それとも、ほんの少しだけ格が上の貴族に嫁ぐことができるか。果たしてどちらだろう、そういう人生が自分の前に広がっている。
そう思っていた。ずっとそう思っていたのだ。銀河のあちこちで反乱が起こったと聞いても、この星の領主ロールヴァーゲ様が犯罪者を厳しく取り締まり始めたと聞いても、それでもプレアには関係のないことだった。自分と、自分の両親と、それから店には関係のないことだったから。
それが突然壊れた。「解放軍」と自称する者達が武器を振るって街で大暴れを始めた。兵士たちはそれを鎮圧したが、何度も潰しても「解放軍」は現れた。店に爆弾が投げ込まれて、プレアとよくお喋りをしていた老婦人が亡くなった。
彼ら自身は「革命」と呼んでいた「反乱」は、たちの悪い流行病のように次から次へと平民達の間に伝染した。
それはプレアにとって異常な光景だった。昨日まで「准男爵様、おはようございます」と礼儀正しく挨拶をしてくれた人達が、「プレアお嬢さん。ホットケーキはまだうまく焼けないんですか? そんなことじゃレストランは継げませんよ? あ、ごめんなさい。でも楽しみにしてますよ? うまく焼けたら読んでくださいね」と朗らかに会話していた相手が、ある日突然、こう叫び出したのだ。
……「貴族たちは敵だ。階級制度を倒せ。全種族に平等を。自由を。革命万歳! 帝国を倒せ!」
そして貴族を殺す。集団で取り囲んで襲う。武器を奪う。また殺す。プレアたちは店を捨てて逃げざるを得なかった。兵士たちも多くが反乱軍側についてしまった。
プレアたち貴族と、貴族に付き従う平民たちは、要塞化された街に逃げ込んで救援を待った。
だがそんなものはどこからも来なかった。やがて、立てこもる人々の中で疑心暗鬼が膨れあがっていった。こいつが反乱軍に通じている、という容疑をかけられ、プレアが犬の散歩につきあったことのある老人が拷問にかけられて殺された。「反乱軍と話し合おう、話し合って向こうの要求をある程度認めるしかない」と言った貴族が「敵に洗脳されている」と疑われ、やはり殺された。長年忠実に仕えてきた執事が心配でやせ細った主人に「これをお飲み下さい」とワインを差し出した途端「貴様反乱軍のスパイだな。毒を盛ってわしを殺す気だな」と射殺された。
そんな出来事が、閉じられた街の中で次から次へと生じた。
それでも救援はやってこなかった。
超兵器バトル・ビーイングを持っているはずのロールヴァーゲ伯爵軍は反乱軍を退けることができず、それどころか次々に拠点を奪われ追いつめられていった。他の惑星から正義の艦隊がやってきて反乱軍に鉄槌を下してくれると言う貴族もいたが、どうやら事情は他の星でも似たりよったりのようだった。無敵のはずの帝国艦隊が反乱軍の艦隊に大敗し、銀河中心部の工業宙域を喪ってしまった、という悲報すら伝わってきた。
プレアは街の通りに出ることすら嫌になった。そこにはいつ見ても死体が転がっていて、あるいは恐怖を紛らわそうと召使いを虐待する貴族がいて、貴族同士が「お前の怠慢と無能がこんな結果を生んだんだ」と罵り合う光景が繰り広げられていた。
世界の終わり。
プレアはそんなふうにすら感じた。
……よく覚えている。
その中で、私が絶望せずにいられたのは両親のおかげだと。
反乱のせいで、ほとんど唯一の財産だったレストランを奪われた。多くの友人と親戚を喪った。目の前で友人が死んでいくのを見せつけられたことすらあった。
それでも両親は微笑みを忘れなかった。テーブルの前で黙って泣いているプレアに「ちゃんと食べないと元気が出ないよプレア」と言ってくれた。プレアが泣き出すと、時間をかけて慰めてくれた。
そしてあの日。反乱軍がこの星系の九割を掌握し、領主ロールヴァーゲの館に迫り、その一部隊が、ついにこの街の防衛システムを突破した。街を覆う電磁・重力複合バリアが紫色の火花をまき散らして破裂し、そこから大量の装甲兵と戦闘車両が、轟音をあげてなだれ込んできた。
それからあと街の中で何が起こったのか、反乱軍がどれほど残虐に貴族たちを殺したのか、それはプレアは知らない。見当は付くが、知らない。直接見ていないから。
その時プレアは、両親とともに地下にいたから。
プレアの両親は、持ってきたナノマシンの大半を使い尽くして、家の中に深い地下室を作っていた。そこに、冷凍睡眠装置を据え付けた。人間を仮死状態にする装置だ。
「……プレア。ここで私たちは眠るのよ。何十年も何百年も。反乱が鎮まって、私たちが平和に暮らせるようになるそのときまで」
母親は地下室の暗がりの中でそう囁いた。
そんな日がくるの、このまま帝国は滅びてしまうんじゃないの。プレアはそう思ったが、とても口には出せなかった。
そして、プレアたち三人は眠りについた。
冬眠状態が解除され、眼が醒めたのは、たった二十年後のことだった。冷凍睡眠装置が故障したのだ。国が揺らぐほどの混乱の中で、コネも財産もない下級貴族が粗悪品をつかまされたのはおかしな話ではなかった。
いや、地下室を発見されず、あの世で眼を覚まさなかった幸運を神に感謝するべきだったのかも知れない。だがとてもそんな気にはなれなかった。廃墟と化した街をうろついているうちに、たまたま通りがかった車に発見されたのだから。やはり世界は反乱軍が支配しているままで、父と母はすぐに殺された。
「プレア、逃げなさい!」
ただそれだけの言葉を残して。
そして自分一人だけ逃げてきた。
たった一人で。
すべてを置き去りにして。
「嘘だ……嘘よ……みんな嘘で……きっと眼をあければ、ベッドが転がり落ちて眼をさまして、バーグマンが呆れた顔で『痛くはないですか』といって、それからそれから、お母さんとお母さんと一緒にご飯を食べて、お父さんはたまに調理場に見回りに行くからいないときもあって、とくに朝ご飯はホットケーキがおいしくて、わたしも焼こうとするんだけどぜんぜんうまくできなくて、ホットケーキが、ホットケーキがうまく焼けなくて、ホットケーキがうまく」
そこで言葉が切れた。
自分を騙すことに、プレアは失敗したのだ。
眼を開けた。
相変わらず、暗い。懐中電灯が森の一角を照らしている以外は真っ暗といっていい。
プレアは何度も何度も、眼を閉じたり開いたりした。
真っ暗な世界も、壊れたスクーターも、敵意に満ちた森も、足と肋骨の痛みも、決して消えることがなかった。
「……」
もう、彼女は「嘘だ」とは言わなかった。
……逃げるしかない。あきらめちゃだめだ。たとえどうやって逃げるのか、どうやって生き延びるのか見当もつかなかったとしても、それでもあきらめちゃだめだ。
……プレア逃げなさいって、そう言ってくれたんだから。
彼女は杖をついて、ゆっくりと、しかし着実に歩き出した。
最低光量の懐中電灯で足もとだけを照らし、歩き、歩き続けた。
まず、歩かなきゃ。逃げなきゃ。
あの囮がそんなに長く、あの連中を騙し通せるとは思えないから。そして移動して、山の中に潜んで、怪我の回復を待とう。回復したら、この拳銃でどうにかして宇宙船を手に入れよう。あるいは密航するか。そして他の星、もっと田舎の、もっと誰もいない星へ。
そんな、計画とも呼べない夢想が成功する可能性がどれほど低いか、わかっていた。
だが、うずくまって泣いているよりはましだ。そう思った。
とにかく歩き続けた。
腹が減ったらスティック状の携帯食料をかじった。
さらに歩き続け……
夜が明ける頃、倒れた。
六
ガスの店は「ベセイン市」にあった。ここも大して大きくはないが、マードのいる村と比較すれば軽く百倍の人口がある。
市内に入った。除雪された路面には浮遊車が並んでいた。
少し道が混んでいる。こんな時には我が物顔に夜空を滑る浮遊車がうらやましくなる。
大きな街道沿いに、その店はあった。
「総合機械 ガスの店」
そう書かれた輝く看板を掲げた店だ。
駐車場にトラックを入れて、ドアを開ける。
中は、ある意味マードにとってなじみ深い光景だった。機械だらけなのだ。
核融合エンジンの点火プラグやプラズマ保持コイル、ミューオン噴射ノズル、そんなものが並んでいる。会社とグレードごとに分かれて並んでいる。それぞれを比較した特性表がある。超流動ニュートロニウムが瓶に入って置かれている。天井からは浮遊スクーターのエンジンがぶら下がって値札がついている。レース用と思われる、カラフルな浮遊バイクが展示されている。車ばかりではなかった。別の棚に並べられているのは、どうみても小型宇宙船用のナビゲーションコンピュータだ。ロボットの腕や足もある。
かと思えば、とある棚にはとにかくあらゆる種類のスパナ、レンチ、ドライバーが並んでいる。マードの眼から見て異様なものもある。なぜなら銀河にはいろいろな種族がいる。指が五本であるとも、腕が二本であるとも限らないのだ。
それらさまざまな品物の前を、客がうろうろと歩き回って物色していた。
ここはマードの父親がやっているのと同じ種類の店、機械屋だった。マードの父は機械修理や改造のために必要な部品を、おもにここで買っている。ここの店主はとにかく顔が広く、メーカーに直接発注するよりも早く、安く手に入れてくれる。特殊な注文には、工房で作るという形で引き受けてくれる。
「いらっしゃい……おお、マード君か」
レジカウンターの向こうにいた禿頭の老人が笑った。
「ガスおじいさん、おひさしぶり」
「ゲンデの奴はどうしてる、元気か?」
「父さん? 元気みたいだよ。まあ、ちょっと安い値段で修理を引き受けすぎて、経済的にはあんまり元気じゃないけどねー。だからさあ、ちょっとオマケしてくれないかな、いろいろ買いにきたんだけど」
メモを見せると、ガスと呼ばれた老人は神妙な顔になった。
「ほう。こりゃすごい。よっぽどでかい機械……こりゃ大型浮遊車と、建設用の重ロボットかな」
「うん。村長の息子がスポーツカー買ったって言ってたでしょ、あれのエンジンを載せ替えるんだって」
「なに、あのどら息子が? 自分の金で買ったわけでもないのに、そんな高等な改造に手を出すか。ゲンデはやめさせなかったのか」
「うん、お客さんだから」
「全く、あいつは……で、こっちのロボット用の部品は。かなり特殊なものだな。あえて磁性流体アクチュエーターを使わないのか」
「うん、理由は説明してもらったけど……」
「まあいい、ゲンデがそう言うなら、メーカー純正なんかよりそっちのほうがよほど信用できる。いますぐ在庫を調べようじゃないか」
「ぼくもついてっていいかな」
「かまわんよ。ゲンデの話を聞かせてくれ。こっちに来て一緒に工房をやらんか、という話はどうなった」
「ああ、あれね。父さんは『そのつもりはない』ってさ」
ガスは大げさに呆れた。
「なんと、まだあんな村に引っ込んでいるつもりか。いやすまん、マード君の故郷をバカにするつもりはなかった。いや、わしはあいつの技術と見識がもったいないと言っておるんじゃ。まったく奴には覇気というものがない。とてもじゃないが、バトル・ビーイングを装着して帝国兵を薙ぎ倒した猛者とは思えん」
その言葉はマードの胸の奥にあるものを叩き、爆発させた。
「え! 父さんがバトル・ビーイングを着てたの!?」
「なんだ知らなかったのか」
「うん、解放軍の一員だったとはきいてたけど、だってバトル・ビーイングって、ごく一部の選ばれた超エリートしか着られないんでしょ」
「エリートというのとは少し違うが、まあ超人だけが許された武器だな。お前の親父はとんでもない奴だったよ、軍人もなんでもないのに、あれだけ戦えたんだから」
「ねえねえっ、もっとその時の話をきかせてよっ」
「わかったわかった。まあこっちに来なさい」
七
時間を忘れて、まさしくむさぼるように、マードは昔話をきいた。
もう帰らなきゃ、父さん怒ってるよ、と気づいて、あわてて車に飛び乗った。もちろん、必要な部品と機械はちゃんと買って積み込んだ。そこまで忘れはしない。
行きよりも急いで、マードは車を走らせていた。すでに市から出た。あたりは畑と森ばかり。ごくまれに人家があるだけ。舗装もそされていない道路が延びている。曲がりくねって高低差もあり、見通しはよくない。
……すごかったなあ。
ハンドルを握る手が震える。もちろん寒さのせいではない。夜になって気温はさらに下がったが、運転席はちゃんと暖房されている。
興奮のためだ。
すごかったなあ。父さんが昔はそんな強かったなんて。妹を殺されて正義に目覚め、無敵の鎧バトル・ビーイングを装着して帝国軍を片っ端から叩きのめす! たった一人で領主の城に乗り込んで、そこにいた悪のバトル・ビーイング使いと一騎打ち! かっこいいなあ!
あくまでスクリーンの中、小説の中の存在だった宇宙活劇の主人公が、現実にいたのだ。それもこんなに身近なところに。
うーん、でも、なんかピンと来ないんだよな。どうしてそれが、あんなになっちゃったのかな。
まあいいや。なんか明日からの生活が楽しくなった。
ずっと閉じこめられてるような気がして、友達と遊んでる時だって「これは本当に楽しい訳じゃない、気をまぎらわしてるだけだ」とか思ってて、サンドギヌス号を作ってる時だけが本当に楽しくて、そのサンドギヌス号もあと一歩の所でどうしても完成させられなくて……
……だから苦しかった。
……でも、明日からは違う。
……現にヒーローがいるんだもん。
……ぼくだってああいう風になれるはずだ。現実とお話は別、なんてことはない。
あ、もうこのへんまできた。
あとちょっで家に着くぞ。
その時マードは、何かが道に転がっているのに気づいた。
なにか動物? いや、あれは。
ブレーキをかける。
たまたままっすぐな所で、ずいぶん手前から発見できた。だから止まれるだけの距離はあった。普通なら。だがトラックは重い機械を積んでいる。制動距離は空荷状態よりも遙かに伸びていた。砂利の上を滑った。
「うっ」
懸命にハンドルとブレーキを操作した。車体を斜めに滑らせ、その「転がっている何か」を回避する。
道を外れ、トラックは森に飛び込んだ。樹をへし折って止まる。
だが、轢かずに済んだ。
マードの眼には、ヘッドライトに照らされた「転がっている何か」は、人間にしか見えなかったのだ。これが見間違いで、倒木のたぐいだというなら滑稽だ。しかし、マードは自分の勘を信じた。
飛び降りて、「何か」に歩みよる。
やはり、人間だった。
うつぶせに倒れている。
バイク用のヘルメットをかぶっている。ヘルメットの後ろから金色の長い髪がはみ出していた。雪と土にまみれたコートを羽織っていた。大事そうに、木の枝を抱えている。おそらくその枝は「杖」のつもりなのだろう、その人間は足の骨を折っていた。
そして、完全に失神していた。
マードは恐怖を覚えた。コートを着ようがなんだろうが、野外で寝ていたら凍死する気温だ。
……もしかして死んでいるの?
マードはその人間を抱え上げた。父親と一緒に仕事を手伝ううち、体力もついた。ヒーローになるためには身体も強くなければいけないんだと、毎日秘密の特訓もしている。だから人間一人を抱えたまま運転席によじのぼるのは、そう難しいことではなかった。
助手席に座らせる。
ヘルメットを脱がせる。
その時初めて、マードはその人間が女性であることに気づいた。丸顔で、小さな鼻と垂れ目の、柔らかい印象をあたえる女性。いや、マードとほとんど同じくらいの年齢に見える。十五歳といったところか。たった一つ違うのが「色」だった。マードたちのような緑色の肌と髪ではなかった。髪は淡い金色。そして肌は、白かった。
違う種族だ。なんていう種族だろう。
「あ……息してる」
よかった。胸をなでおろした。
ヒーターを全開にした。たちまち真夏のような気温になる。
だが、このくらいがちょうどいいだろう。
雪のようだった顔に、少し朱がさしてきた。
額の温度を確かめる。といっても種族が違うのであまり意味はない。さっきよりは体温が上がった、ということだけは判った。
なんていう種族だろう。見たことないなあ。
どの種族ともちょっと違う気がする。
いや、そんなことどうでもいいや。どうして倒れてたのかな、この怪我はなんだろう。いや、それもどうでもいい。
それにしても……なんだか肌の色が変だけど、でも……美人だな。っていうか、かわいい女の子だな。
いや、そんなことでもなくて。
手当てしなきゃ。足の骨折もそうだし、体温が下がりすぎてて危険だ。風邪とか肺炎とかになってるかも。倒れていたのは、他になにか病気があったからかも知れない。
でもぼくにはできない。
まだ医学の勉強まではしてない。なんでもできなきゃいけないんだ、と思ってはいるけど……よし、連れて帰ろう。村に帰って、お医者さんに見せよう。
少女に毛布をかけて、マードはトラックを発進させた。
……なんだかわくわくしてきた。
負傷し、命の危険にさらされた眠れる少女。それを救い出す勇敢な少年。うわ、そのままお話の一場面だよ。
ちょっとかっこつけすぎかな。
でもいいや。
困ってる人を助けるのがヒーローっぽいのは本当だもんね。
そう思ってマードは、寝息を立てている少女の横顔にちらりと視線を向けた。