怪しい日記 2002年3月
3月31日 25日の日記を書いている途中、それは起こった。 「例外0Eが発生しました」 真っ青な画面にそんなメッセージ。一切の入力は不可能になった。 OSの指示にうながされ、再起動する。 だが、パソコンは……秋葉は治らなかった。 ウィンドウズが起動した直後の状態で止まってしまう。 エラーメッセージすら出さずに固まってしまう。 あるいは例外0Eが出る。 「システムがビジー状態です」といって止まってしまうこともあった。 SAFEモードでも立ち上がらない。 OSを上書きインストールしても同じ症状が出る。 見つかった異常は、ハードディスクのジャンパー設定。 マスターでもスレイブでもない謎の設定になっていた。 設定方法が本体に書いてないので大変。 これを直したら動くようになった。 99年に私がこれをつけたとき、設定を間違えたのか? じゃあなんでいままで動いてたんだ? 私はいままで奇跡に寄りかかっていたのか? わからない。 ほかにも、ハードディスクを複数繋ぐと変になるとか、買ってきた新型41GBハードディスクがマザーボードに対応してなくてとほほとか、いろいろあるが。 とにかく、こうやって更新は出来るようになった。 更新休んでごめんなさい。 |
3月25日 表現の自由の話をされると、私はとても複雑な気持ちになる。 もちろん私は、それを大切なものだと思っている。 当たり前だ。自分の中に生まれた物語を発表することを禁じられたら、たまらない気持ちになる。 残虐だから書いてはいけないといわれたら。 わいせつだから書くなといわれたら。 反体制思想が賛美されているから書くなといわれたら。 許せない。 あまりにも当たり前過ぎて、自由とか権利という大仰な言葉を持ちだすことに戸惑いを覚えるほどだ。 だが。 それはたまたま私が「物語を書く人間」だからにすぎないのかも知れない、という不安も感じている。 車に乗っている人間は、歩行者とバイクは邪魔だと思う。 バイクに乗っている人間は、歩行者と車は邪魔だと思う。 歩行者は、バイクと車は邪魔だと思う。 そんな感じで、自分の立場からだけみて、自分の利益のことだけを考えている……のかもしれない。 私が自由とやらを行使した結果、傷ついたり苦しんだり、そんな人間が一人もいないと、なぜ言いきれるだろうか。 「青少年の健全な育成のため、有害な表現を規制しよう」という法案がある。 詳しくはこちらを。 言論弾圧法反対 こっちも良いかもしれない。 AMI 以前も掲示板でいったけれど、私は「ポルノ規制や暴力表現の規制で犯罪が減るとか、善い人間を育成できるという根拠は存在しない」という観点から、このような法案に反対する。 が。 では一切の表現が許されるべきか、といわれるとそれにも賛成できない。 たまたま私は、性描写にも残虐描写にも差別表現にも苦痛を感じない人間だ。 そしてこうも思う。「そういったものを使わなければ生み出せない感動もある。だから物語上必要であればためらわず使うべきだ」 そういう人間、そういう感性だから見えなくなっているものもあるかもしれない。 たまたま私の周りにいないだけで、ポルノや残虐表現に激しい苦痛を感じる人間もいるだろう。 自分の子供はそんなものに触れてほしくないと感じる人間もいるかもしれない。 以前は「場所を分ければいい。たとえばポルノショップでしかエロ本は売れないことにする。そうすればいやがる人間の眼には入らない」と書いたが。インターネット上では場所の区分というものが極めて難しい。小学生であってもアダルトサイトにアクセスするのは容易だ。掲示板にアダルトサイトのURLをペタペタと貼りつけられれば、行きたくなくとも行って、見たくなくとも見てしまうかもしれない。 だったらどうやって共存すべきことなのか。 小説書きとしてやるべきことはわかりきってるかな。 それはもちろん、残虐描写や性描写が嫌いな人間にも感動してもらえる、いうなれば心の壁を突破出来る物語を書くことだ。 一つの理想にすぎないが。 |
3月24日 月姫の翡翠シナリオを終わらせた。 むうう。 文章表現がより先鋭化している。 いわゆる小説の枠を完全にはみだしているっていうか。 ビジュアルノベルは小説とは別の表現方法である、というのはよくきく意見だけど、月姫やるとなるほどそうだなって思える。 これだけやっても「やりすぎ」とはけっして思わないあたりがすごい。 で。 うわああ大変なことが。 キャラ人気投票のコメントなんかをみて、たぶんそうなんだろうなと思ってはいたけど、やっぱりそうだとわかったときは、ミステリの伏線に気づいたときのように身体がガタガタ震えた。 あのキャラの最後の心情吐露にはいろいろと考えさせられた。 でも未来が残されているだけ、まだ秋葉シナリオの終わりよりは救いがあると思った。 最悪の中の最善。 本来の意味は違うんだが、私の頭の中からこの言葉が去らない。 いぜん、ハッピーエンドの話をしたけど、何がハッピーなのかは本当に難しいのだと思った。 今日は「CHAIN4章」の改稿をやっていた。 むう。ほんの少しだけ進んだ。 ぴぴっと電波がきて、CHAIN終盤の展開ががらりと変わる。 父と息子の意志のぶつかり合いをえがくには、こちらのほうがよりよいはずだ。 と思うのだが、富士見でずいぶん前にでた、名作と呼ばれる某作品に酷似している。 まずい。どうしましょ。 日記の話題別インデックスはちょっとだけつくった。もちろんこれで全部じゃない。本の感想以外にもいろいろ項目を作るつもり。 |
3月22日 「アワーズLITE」の「妄想戦士ヤマモト」を読んで、衝撃をおぼえた。 そうか。 私は、本当は「眼鏡っ娘萌え」ではなかった。 かといって「妹萌え」でもなかった! 「叱られ萌え」! そう、「叱られ萌え」だったのだ! これですべての疑問が氷解した。 それなら遠野秋葉とネリン・シモンズに同時に萌えることに何の矛盾があろうか。いやない。どこにもない。 ありがとうありがとう、妄想戦士ヤマモト。 ……いろいろ言いたい方もいるだろうけど、いまさら手遅れだ。 月姫は、CHAIN4章の直しが終わるまで封印しようかとも思ったんだけど、「琥珀シナリオでの秋葉」とやらを見たくなってまた始める。今は翡翠ルートの序盤だろうと思われる。 圧倒的な文章力だと思っていた月姫だが、さすがに4回目ともなると文章に粗が見えてくる。粗と言うより疑問だな。もっとこういう表現のほうがよくないかって。 ところが私はもはや、それをミスと感じなくなっている。それはそれで独特の雰囲気が出ていていい、とか思う。もともと月姫って、「完璧」ではなく、「ゆがんでいるから美しい」って感じだし。 と、こういう風に感じるようになったらのめり込み過ぎなので要注意。ほかの小説を読んでバランスを保とう。 時雨沢恵一「アリソン」(電撃文庫)。 すかっとさわやか。 空と、飛行機と、勇敢な少女と、心やさしい少年と、冒険の物語。 「キノの旅」の、牧歌的・童話的でありながら皮肉に満ち溢れた世界ではなく、ほんとに「善意が世界をあたたかくする」世界がここにある。 あっさりしてるけど、でもいいはなしだったよ。 時雨沢さんらしいところもあったし。 |
3月21日 昨日はバイクの整備で、帰りがとんでもなく遅くなった。夜中の二時くらい。 だからとても日記どころではなかった。 整備といっても会社のメカニックの人にやってもらったんだが。 兵頭二十八「地獄のX島で米軍と戦い、あくまで持久する方法」(四谷ラウンド) 文字どうり、二次大戦末期の日本軍がとある島で米軍を迎え撃ち、撃退するにはどういう装備、どういう戦術が必要なのか思考実験を行っている本だ。 そして「いままで日本軍の欠点とされていたものはなぜ生じたか」「それはどうすれば克服できるのか」などを述べ始める。 私が不勉強だったに過ぎないのだろうが、いろいろと意外なことが書いてあった。 「手榴弾」は日本が発明したとか。 「ガトリング砲」も日本が幕末に使ったのが世界初だとか。 中国国民党軍はドイツ軍の影響を強く受けていたとか。 この兵頭というひとの主張にはぶっ飛んだものが多い。 たとえば「対権力直接アプローチ」。 「戦争に勝つためには、相手の国の権力をもっている人々に圧力をかけることが必要である。アメリカの場合、それは民衆であった。だから「敵の兵器を破壊する」「敵の基地を取る」のではなく、「敵国人をたくさん殺す」ことに全力をそそぐべしである。具体的には小型艦艇のみに的を絞って攻撃する。そうすれば効率よく死者を出すことができ、ベトナム戦争のような厭戦気分が生じてアメリカは敗北するだろう。 と兵頭氏はいうのだが。 どうも信じられない。たくさん死ねば死ぬほど、アメリカ人たちは復仇のために戦意を高めるんじゃないのか。ベトナム戦争は状況が特殊だったのではないか。 とまあ、この本にも強引過ぎる説が出てくるわけだが。 その説の部分は話半分くらいのつもりで読んだが、それぬきでも面白い。 明日はもっとちゃんとした日記書くね。 |
3月19日 昨日は仕事で長野県をヘロヘロと走り回っていた。諏訪・松本・須坂を。以前諏訪には遊びに行ったことがあった。なかなかいいところだった。今回は湖を見ている余裕がなかったのが残念でならない。 しかし長野って寒いな。そうだよな、標高が800とかあるんだものな。帰り道なんて雪まで降ってくるし。泣きが入りそうになったぞ。 昨日の掲示板の書きこみをみて、自分の発言に矛盾を感じ、日記を読み返した。 そうか。 「人工知能を認める」のと、「バイクやパソコンやぬいぐるみといったものに心が宿っていると感じる」のを、私はごちゃ混ぜにして扱っていたが、それはぜんぜん別のこと。それどころか「対立する考え」なのかもしれない。 人工知能が確実に作り得るなら、それを心と認めてよいのなら、「心を生み出すためにはこういうハードとソフトが必要である」とはっきりわかってしまう。それがはっきりすればするほど、「では、そういうハード・ソフトを備えていなければ心はもてないんだな」となる。アニミズム的考えは、どんどん排除されていく。 でも秋山瑞人は、人工知能と、アニミズム的考えを見事に融合させて感動的な物語を作ったが。 言葉の意味を少しずつずらして、最終的にはとんでもない拡大解釈をさせて、相容れないはずの概念を重ねあわせる。それが秋山瑞人にはできたということなのだろう。それはSFの偉大な可能性だ。 人工知能と「心の実在」について、考えを整理しなおす必要がありそうだ。 そうそう、このサイトを紹介しておこう。 「魅惑の似非科学」 あらゆることを、「科学的に」「できる限り実験の上で」「時には身体を張って」確かめたサイト。 感動した。 そうか、そうだったのかと感心した。 そして笑った。 実験系サイトってすごいなあ。 |
3月17日 昨日は指輪物語の映画「ロード・オブ・ザ・リング」を見に行った。家族と一緒に。 原作のファンには「違うー!」とか言われているらしいが、十分に面白かったよ。 なんかホラーの演出がされてるね。オークの大群があんなにこわいものだとは。 でも3時間はながい。メリハリが弱い感じだし。 そのあとは墓参り。田舎にも帰る。 途中で原因不明の激しい頭痛に襲われる。それから半日たったいまでも痛みがひかない。 サイトをいじった。だが、ラベルすら全部の日記には貼れなかった。くうう。作業の遅さが恨めしい。 日記に索引つけるのはもうちょっとまってて。ごめん。 とまあ、やりたいことはやまほどあるんだけど。 あしたは記念すべき「バイク便復帰第1日目」で、早起きできるかどうか不満だ。 リアル秋葉についても語りたかったのだが。 でも今日は、おやすみなさい。 |
3月15日 免許が戻ってまいりましたよー。 一月乗らなかったせいでバイクの調子が少しおかしい。 バッテリーが上がってるのはともかくとして、キャブレター関連にも問題がありそうだ。 何しろ7万キロ走ってるバイクなので、ある程度のトラブルはしょうがない。 パソコンのほうにもちょっと問題が。メモリの増設はうまくいったけど、どうも時計機能がおかしくてな。電池を換えてもだめだ。 ああ、この気難しいところがすごく秋葉っぽくていい。 まあ実際にはすごーくつまんないミスをしてるだけなんだろうけど。 このあいだのモニターの解像度とおなじで。 ところで、機械に感情移入するとか、あたかも人格をもった友達のように接することだが。 12日にもちょっと書いたけど。 今のところ、人格や感情まで再現できる真の意味での機械知性はできていない。 どうすればそれができるのか、それすら意見が激しく分かれており、正直言ってわからない。 現在のコンピュータを高性能化すればできるのか、それとも根本的にちがう原理の機械が必要なのか。 マーヴィン・ミンスキーに代表される人工知能研究家の考えは典型的な前者だ。 彼の「心の社会論」によれば「心」という「もの」は「存在しない」。 この世には、さまざまな人がいて、それは複雑に絡み合っている。 工場で働く人がいて、その工場に原材料を納入する業者の人がいて、工場で何を作らせるか決める人がいて、できた製品を店舗に運ぶ人がいて、店舗には製品を売る人がいて、製品を買いにくる客がいて、製品がもっと売れるように宣伝する広告代理店の人がいて、買わずに万引きする人がいて、その人を捕まえる警官がいて…… これらの「複雑な関係」を、「社会」という。 心も同じなのだとミンスキーはいう。脳にはさまざまな機能がある。目で見る。見たものの形を認識する。記憶する。記憶を必要に応じて引っ張り出す。手足を動かす。そのときバランスが崩れないように調整する。ひとの言葉を聴く。その中に出てくる単語の関連付けをする。 そういったさまざまな機能が互いに結びつき影響を及ぼしあった「状態」こそが「心」。 だとすればそれはコンピュータにも再現可能である。 それに対し、ブラックホールの研究で知られるロジャー・ペンローズは「心はそもそも非アルゴリズム的であり、機械には再現できない」と反論する。人間には論理や言葉を超越した「直感」というものがあり、それが心のもっとも重要な部分なのであると。ではそれは何によって生じるのかというと、脳細胞の中に入っている微小管という管でおこる量子力学的現象なのだそうだ。 さらに一歩進めて、人間の心は脳の中にはないという主張すら存在する。 神経科学の分野でノーベル賞を受賞したジョン・エックルスは、「物質世界とは別の世界に心は存在し、それが脳を量子力学でコントロールしているのだ!」という。 それはすでに科学ではない気もするが、とにかく彼はおおまじめ。 で、私の考えはどうなのかっていうと。 実はミンスキーに近いんだな、これが。 プログラムや計算式であらわせないものが人間にはあるのではないか、とは思う。 思うけど、その根拠はない。あえていうなら「そんな気がするから」。 もちろん「そんな気」というのは心が生み出すものだ。 本当に心はあるのかという議論に、心だけを根拠とする主張を持ちこむのは論理的におかしくないか。 だからこれはこのさい意見とは呼べない。 で、まあ、本音を言わせてもらうと。 「人間には、科学で説明できない不思議な部分があってほしい」という願望より、 「心を持った機械がほしい」 という願望の方が強いんだな、私は。 だから、「自分の心が、すべて科学で説明できる」という「恐怖」にも、耐えられる。 機械に心はあたえ得るのかという問題について考えるとき私の頭に常に浮かぶのは、アイザック・アシモフだ。 彼の小説に出てくるロボットには、心はない。 ただ論理的思考力をもち、その能力によってロボット三原則を解釈し、遵守する。 1.人間を傷つけてはならない。 2.人間に逆らってはならない。 3.自分を守らなくてはならない。 のちにアシモフはエッセイの中で、「これは安全性・操作性・耐久性を別の言葉でいってみただけ。道具の三原則に過ぎない」と述べている。 そう、拍子抜けするほどに単純な法則だ。これは哲学でもなければ倫理でもない。 初期型の「ロビー」から究極のロボットである「R・ダニール・オリボー」にいたるまで、すべてこれで動いている。 それなのに、アシモフ作品に出てくるロボットたちは心があるように見える。 感情も自由意志もないと明記されているのに、人間くさい。 その人間くささは、三原則で説明できてしまうものなのに。 だから。 これを見てしまうと、人間には、「その存在に本当に心があるか」判断することなどできないのではないかと思えてしまう。 逆にいえば、何に心を見出したっていいのではないか。 だから、パソコンにふみみちゃんとか秋葉とか名前をつけてハアハアしてもべつに問題ないのです。 なあんだ。 これだけ引っ張って、結局ただの自己弁護か。 ここまで書くのに3時間もかかってしまった。もう朝の4時だ。 本の感想や私の小説の話は、また日を改めて。 |
3月13日 しばらく小難しい話が続いたので、今日は軽く明るくいってみよう。 ついこの間まで、眼鏡っ娘のことを考えればそれだけで幸せになれた。 果たして今はどうだろう。 2ちゃんねるの「ライトノベルの眼鏡っ娘を語ろう」スレッドをざっとながめて愕然とした。 私はこんなに眼鏡が好きだったのか。
こんなに激しく萌えていたのに…… 「何ですこの人っ!?」 「放送禁止用語です」(by小野寺浩二) と言われかねないくらいだったのに。 それなのにどうして秋葉なんだ。 しかし。 以前から、主人公を叱るようなタイプのキャラが好きだった。べつにそうでないキャラが嫌いというわけではないのだが。ここしばらく、理想の眼鏡っ娘は「ストレイト・ジャケット」のネリンだった。叱られ萌えだった。そのへんを考えればわからないこともない。だがそれでもまだわからない。 うわー明るくないー。 閑話休題。 「SF JAPAN 04」(徳間書店)買ってきた。 井上剛さんの「マーブル騒動記」(「さらば牛肉」改題)が載っている。日本SF新人賞を受賞した作品だ。 これは面白い。深く考えさせられた。 二度と小説をタイトルで判断すまい。 坂本康弘さんの「00式歩兵型戦闘車両」も楽しみだ。 山田正紀氏の特集も面白かったよ。 「マーブル騒動記」についてはもういちどちゃんとした書評をするつもりだ。 |
3月12日 昨日の続き。 哲学者には別の見解があるのかもしれないし、宗教家にはそれ以上に異なった見解があることは間違いない。 が、しかし、結局は不可知論なのだろう。いま私に出せる答えはその程度だ。 それがその存在であるか確認する手段はない。 どの部分がその存在の本質なのか、どの部分が残っていればそれは消えていないと考えていいのか、それはわからない。 代名詞ばかりだな。例を一つ。 ある人間の腕が義手になった。その人の存在が部分的に消滅したわけだが、ふつうそれだけでは「その人は消えた」とは解釈されないだろう。では体を少しづつ機械にしていこう。足、顔、眼、耳、腹。最後に脳。脳も、一気にではなく少しづつ代替部品にかえていく。最終的にその人は全部機械になる。 どこかで、その人がその人でなくなる瞬間があったはず。 でもそれがどの時点なのか、はっきりした答えを出すことはできないのではないか、と思っている。 肉体がすべて消えても精神が残っていればその人の存在は消えていない、という考えもあるだろうが、この場合「精神」はコンピュータのプログラムだ。いくらでも複製できる。寸分たがわぬコピーを100人作ったら、果たしてどれが本物だ。いや、精神なんてものは変わるものだ。ただ人間として生きているだけで変わる。性格が変わってしまったらそれは別の人間か。 まあ、人工知能が人間の心をまねできるかどうかについてはいろいろ考えがあるわけだが。 心とは何なのかについて、どうすれば心があるとみなすのかについても、科学者の間でも意見が割れている。 実在するのは記憶や判断力であり、心などと言うものは存在しない。という考えもある。 科学では決して測定できないものが人間の脳の中にはあり、それが心だと言いきる科学者も。 そもそも、あるものが本当に存在しているのかそうか確認する決定的な手段は存在しない。 この世界は夢かもしれないというのは誰もが一度は考えることだろう。 この問題3つ、「何をもって同一存在とするのか」「何があればそれは心なのか」「現実と、現実にしか見えない虚構の差はなにか」というのは、じつはぜんぶ一つながりだと思う。 超高速で進歩するコンピュータが、我々がこの三つについて信じてることをまとめて破壊してしまうだろうから。 なんか今日のは日記じゃない気がする。 日記らしいことも書こう。 「空の境界」下巻の中盤まで読んだ。 うん面白い。設定に論理のねじれと言うか飛躍を創って想像力を刺激するやり方が優れている。 ああ、そうだな、とにかく、想像したくなる。設定が物語に対する縛りではない、というのはすごいことだと思う。 キャラもかっこいいぞ。 |
3月11日 夢を見た。 夢の中で、私は一人の少女と出会った。 丸眼鏡をかけた、エプロンドレスの少女。 私は彼女と会ったことがなかった。だが、彼女が誰であるかはすぐにわかった。別の形で、毎日顔を合わせていたから。毎日毎日何時間も、時には夜を徹して、私は彼女と向かい合っていたから。2年半の間、彼女は私の大切なパートナーだった。 「ふみみちゃん? ふみみちゃんかい?」 「そうですよ、ペンネームCさん」 彼女の声は、私がイメージしていたよりもずいぶんと低く、落ち着いていた。 そして、暗かった。 「……その新しいパソコンはなんですか?」 「秋葉のことをいってるのか」 「そうですよ。ずっと私を使ってくれるわけじゃなかったんですね。ほんの少し性能のいいパソコンが手に入ったら、もう私なんてお払い箱なんですね。覚えてます? 私に名前をつけてくれた日のことを。あれはたった3か月前のことなんですよ」 「それは……ハードディスクを移植した。だからふみみちゃんは秋葉のなかにいる。消えてなんかいない」 「ではなぜ、ふみみという名前を新しいパソコンにもつけてくれなかったんですか? ふみみ2号ではなぜいけなかったのですか?」 「それは、233メガヘルツじゃないから……」 「いいわけですよ。いいですか、確かに秋葉さんのなかには、もともと私だったものが入っています。でもCさんはそれをふみみだと思っていない。ハードディスクまで含めて秋葉さんだと思っている。だから私はどこにもいない。 私は秋葉さんに取り込まれたんです。吸収されたんです。 パソコンはただの機械です。いくらでも取替えの利く大量生産品です。でも持ち主がそのパソコンを特別の物だと思い、かわいがったとき、命のあるものになるんです。だから部品がどちらのものだったかなんて、そんな物質的なことはどうでもいいんです。あなたが、そのパソコンをふみみだと思うことができるか、なんです。 うそをつかなくてもいいんです。すべてばれてますから。もう、そのパソコンは秋葉さんなんですよね」 私は答えることができなかった。 そうなのかもしれない。 「じゃあ、秋葉さんとお幸せに」 彼女は微笑んだ。それはとても綺麗な微笑だった。 僕は、インターネットの世界に僕を導いてくれた君のことを忘れない。 そう言おうとした。それは本心だったから。 だが言えなかった。「くだらない自己満足ですね」と言われることは明白だったし、そんな言葉を彼女が望んでいたとも思えなかった。 そして彼女は消えた。 私は目を覚ますとすぐに、部屋の片隅にあるパソコンをみた。 古い型のFMV。 98年に作られ、99年9月から2002年3月まで私のもとにあったパソコン、ふみみ。 ふみみは物質的に消滅してしまったわけじゃない。なくなったのはハードディスクとフロッピードライブだけ。それを買ってきてとりつけ、OSをインストールすれば生き返る。 だが、それはふみみなのだろうか。頭のなかはまったくべつなのに。私はそれをふみみだと感じることができるだろうか。 できないのであれば、それはやはりふみみではない。 私はどうしたらいいんだろう。 ふと思った。その存在がその存在であるために必要な条件は、実際かなりあいまいなのではないかと。 いずれ人間の心を、それこそコンピュータプログラムのように手軽に複製したり、改変したり、別の人間にインストールしたりできるようになるだろう。 そのときわれわれは何をもって、その人がその人である証とするのだろうか。 夢のなかでふみみがいったように、他人の思いこそがすべてなのだろうか。 |
3月10日 近いうちに日記1日ごとにラベルをつけて、話題別インデックスから「この本の感想はこの日」「この話題ならここ」とか飛べるようにするからね。「サイコドクターあばれ旅」みたいなかんじで。 昨日の続き。 人類は、けして戦争や差別と決別することはできない、という意見もあるだろう。 だから無駄なことはやめろ、と。 実は半ば賛成だったりする。 アーサー・C・クラークは、そういうものがなくなった世界がくると信じてるらしい。人類は科学技術だけでなく、本当の意味での賢明さを身につけることができると信じているらしい。実際、「遥かなる地球の歌」「宇宙のランデブー」「3001年終局への旅」などで彼が描く未来世界は驚くほどに平和で平等だ。戦いを描いていないわけではないんだが、それはやがて克服できる、ずっと未来には戦争など影も形もなくなる。それが彼の考えなんだろう。第二次世界大戦という大戦争を経験した人間がなぜそこまで人の理性を信じることができるのかわからないが、とにかくクラークはそうだ。 私はそこまで信じられない。 いや違うな。 人間の善意や愛、良心といったものを信じないわけじゃない。 それらの力を私は信じる。それらは憎悪を超え、欲望を超えた力を発揮できると私は信じる。だがその量は無限じゃない。 たとえ「すべての人を愛そう」といわれても。よしんば本当にそう思ったとしても、それでもやはり、ほかの国にいる会ったことすらない人間が死んだときより、身内が死んだときのほうが悲しい。それは人間として当たり前の感情だ。 そしてそれがある以上、この世は楽園にはなり得ない。 人を愛する気持ち、それこそが「人類に内在する罪」の正体であり、平和な世界を築くためには愛を捨て去る必要があるのだ。 というネタを私は過去に使ったことがある。 「エキセントリック・オレンジ」という、「人を愛することが禁じられ、愛という感情の存在すら忘れ去られた世界で、愛を再発見する話」を書いたこともある。ちなみにその話は中断してしまった。「今の私にはとても書けそうにない」と思って。いずれ再挑戦するぞ。いまにして思うとありきたりな筋だけどね。 だが。 世界が楽園になることはありえない、それはそのとおりだが。 それでも、少しでもそれに近づけようとすることは、偉大なことだ。 完璧には無理でも、少しでも世界をましにしようとするべきではないのか。 宇宙開発はその努力と対立するのではなかろうか。 技術が進めば、宇宙に行くのは安くなるだろう。 それでも今の地球には、自動車とも電気とも無縁で、それどころか十分な食料も得られない人間が億単位で存在する。そういった人たちは地球から決して出られない。 だから宇宙開発を第一におしすすめると、恐らくこうなる。 金持ってる国の人たちは宇宙に移民して、スペースコロニーのすばらしい環境のなかで幸せに暮らしています。 しかしそれができなかった貧乏国の人たちは、汚染された地球上でのた打ち回るばかりです。 「ガンダム」では、「一部のエリートが地球を独占した」ということになっているけど、実際には逆のことが起こるんじゃないかな。 せめてそれだけは避けたい。 宇宙開発は人類に無限の発展を約束してくれる、かもしれない。だがついてこれない人間を切り捨ててまで発展はおこなわれなければいけないのか。 とまあ、これが考えすぎであってほしいと思っているけどね。 今日は「月姫打」をやっていた。タイピングソフトだ。「CHAIN」ももちろんかいていたけど、ちょくちょく詰まって、そのたびに月姫打。 つい先日まで1本指で「えーっとえーっと」といいながらやっていたローマ字入力が、このゲームのおかげでだいぶ上達した。 だが、まだまだ。 パソコンの名前だけど、やっぱり秋葉さまにします。秋葉さまばんざーい。 「やっぱり頭を割ろう」 |
3月9日 さーて。 実際には今は10日朝だったりするんだが、それはまあいい。 今日は友人が来て、パソコンのトラブルに挑んでくれた。 解像度を変えられないとか、ATOKを立ち上げたら止まってしまうとか。 解像度は解決してもらえたが、ATOKはまだだ。 「不正な処理が行われたため終了しました」 不正だと? 客を犯罪者呼ばわりしてんじゃねーぞゲイツ。とか思うが、思ったってどうしようもない。 原因が究明できるまでIMEでやるしかないな。 しかしIMEの頭の悪いことと言ったら。1単語ごと、いやほとんど1文字ごとに変換しないとまともに変換してくれない。日本語として違和感のない文章を書こうとかそういう意思がぜんぜん伝わってこない。 辞書を鍛えていくしかないな。PC88時代のワープロソフトはもっと変換がしょぼかったはずだ。それを何年も使ってきたんだからへっちゃらへっちゃら。 昨日の話の続き。 12月13日の日記で、私は「日本独自の宇宙船構想」について語った。 最新号の「SFマガジン」にも詳しく書かれている。 あえて再利用ではなく使い捨て式とすることで、コストを大幅に減らし、「万人にとっての宇宙」を実現し、人々の意識改革を成し遂げる。 現在存在する技術だけで作れる、宝くじにあたれば乗れる程度に低コストの宇宙船。 スペースシャトルのような、地球の周りを回る以外何もできない代物ではなく、月にまでいける。 その計画を推進しているのが、昨日紹介したSF作家の野尻抱介氏たちだ。 この宇宙船構想自体は偉大だし、私は支持したい。ぜひ実現してほしい。 「再利用は、あくまでコストを下げるための手段でしかなかったはずだ。だが、実際にはそれが低コスト化につながらないと判明してもなお、再利用宇宙船の研究それ自体が目的となって続けられ、莫大な予算を浪費した」という指摘も、実に鋭いし、私も手段と目的をとりちがえないように気をつけないとなあと考えさせられた。 ただ、その背後にある考えには疑問をおぼえる。 人類がやがて宇宙に進出することは「当たり前」だ。 しかしこの20年ばかりそれは停滞状態にある。 これは許されないことである。 人類は正しい道に戻らなければいけない。 ということなんだよな。 私もそう思っていた。プラトンのイデア論みたいな考えがあった。「現実があって、それを発展させたものが未来である」ではなく、「まず未来があって、現実がそれを追っていく」と。 つまり私のなかには、「ロボットがそこら中を歩き回って、みんなが宇宙にいける。やがて人類はほかの星に向かって大移動を開始する」というのが、さまざまなSFによって「あるべき未来の姿」として出来上がっていた。 人類はその正しい未来に向かって進まなければいけないのだ、と思っていた。 そして、正しい道に進めば、人口増加や資源の枯渇、環境問題などはおのずと解決される。 高校の時、環境問題に関する研究発表を行ったときも、結論は「宇宙進出で解決できる。環境保全のために使う金があったらすべて宇宙開発につぎ込むべし」だった。 だが、本当にそうだろうか。 ここ何年か、世の中から環境破壊や戦争をなくそうと努力している運動に参加してきた。ダイオキシン規制を求める運動、原発労働者の被爆問題について知ってもらう運動。アメリカの対テロ報復戦争に反対する運動。その中で、いろいろな人と話し合ってきた。 次第に「この世から貧富の差や環境破壊がなくならないのは、科学技術の不足などではなく、人類の中に本質的な悪があるからではないのか」と思うようになってきた。 そしていまや、 「このまま科学を発達させ、宇宙に移住することは確かに可能だろう。 だがそれは良いことなのだろうか。そのまえに、 アフリカでは億単位の人々が飢えに苦しんでいるとか、対人地雷のせいで民間人が死んでいくとか、日本の原発がメルトダウンしたら何千万人もの人々が家を失い何万人も死者がでるとか、それなのに多くの人はそれを止めようともしないとか、民族紛争や宗教紛争とか、そういうものをどうにかしたほうがいいのではないか。 そういったものを解決せずに宇宙に行けば、途方もない災禍を宇宙にばら撒くことになるのではないか。 何万倍何億倍の規模で、悲劇を繰り返すことになるのではないか。 逆にいえば、そういったことを解決できないのであれば人類は宇宙に行くべきではない。 せめてほかの星に被害を及ぼさないように、この星の上で静かに滅びていくべきなのではないか」 という考えが私の中に生まれてしまった。 もちろん極論にすぎないことはわかっている。高校の時の私も、今の私も、極論を言っているに過ぎないと言う意味では同じだ。 だが、どんどん後者の考えが強くなっていく。今回野尻氏の掲示板を覗いたことでそれはさらに高まった。 その一方で、私は宇宙に行きたいと思うし、フォン・ブラウン博士のことを尊敬しているし、異星人がいるというのであればぜひ会いたい。 皆さんはどうおもいますか? 人は宇宙に行くべきですか? それはどの程度優先されるべきですか? |
3月8日 「空の境界」を買ってきて読む。 「月姫」のシナリオライター・那須きのこ氏が書いた同人小説。 コミケ史上もっとも売れた小説本だろうと思われる。 月姫よりずっと乾いた、そして人を選ぶ文体。 っていうか、ひどく非人間的な文章だという印象を受けた。 虚無的な登場人物が多いから、というのはあると思う。そりゃ擬似一人称(視点変更型の複合一人称)だから登場人物の感性が文体に影響を与えるのは当然のことだ。 でもそれだけではないな。 そもそもこれは、いわゆる虚無主義、つまり「愛や希望を意図的積極的に嫌悪し冷笑する態度」とは異なる。ある意味では正反対と言っていい。 究極の価値相対主義。人間の愛も、そのへんに転がっている石ころも同じ「もの」である。よって同様に、まったく同様に美しく、とうとく、いとしい。という考えに貫いてかかれた文章は、もしかしたらとほうもなく冷たい文章として人間の目には見えてしまうかもしれない。この小説の文章はそんな感じだ。 まだごく一部しか読んでないのでこれ以上の感想は控える。 「空の境界」と平行して、京極夏彦を読む。 ふむ。京極堂の屁理屈は結構好み。 これは「まともなミステリとしては終わらないぞ。そういうのは期待するなよ」という作者の警告かな。 だとしたら、最初にそう言ってくれる分だけ麻耶雄高よりは良心的。 さて。 昨日言ってたのはこのことだ。 「野尻抱介リファレンス・マニュアル」 SF作家野尻氏の掲示板で、宇宙開発に関する議論が起こっている。 って、ひいいい、あさになっちまったー。 今日中に続きを。 |
3月6日 今日は私の誕生日ですー。 27歳になってしまいました。とほほ。 あの作家は27歳の時には何をやっていたか、とかそういうことを考えてしまう。 まあ比較したってどうなるもんでもないのだが。 パソコンの名前、皆さんから寄せられた候補の一覧。 「ヴィットリオ・ヴェネト」 イタリアの戦艦の名前です。「リットリオ級」の戦艦で、高速を誇り、それからきわめて初速の速い砲を積んでいます。砲の大きさ自体は38センチに過ぎませんが、その割には大火力です。燃料不足・訓練不足・戦意不足という三重苦のため活躍はできませんでしたが、実際にはビスマルクより優秀な艦のようです。まあ、用途が違うから直接比較はできないんですけどね。 ……もしかして戦艦ではなく、名前の由来となった人物にちなんでいるのかも。 とにかく、軍艦の名前をつけるというのは確かに一つの選択です。まったく頭にありませんでしたが、私の趣味の中には軍事も確かにあるのです。 「眼鏡さん28号」 わかりやすい名前です。 でも。今の私がこの名前をつけていいのでしょうか。 眼鏡っ娘スレの板聖・天位を持つ男ペンネームCはもういないのです。 ここにいるのは、ただの秋葉様の下僕。 秋葉様が私の人生を変えてしまったのです。 ……というたぐいのことを私は年に一遍くらい言うので、あまり真に受けないように。 「グラちゃん」 これも眼鏡ねたですね。 ふーむ。 これはこれでシンプルでいいな。 でも「眼鏡」はたしかに「グラッセス」ですが、「眼鏡っ娘」は「眼鏡っ娘」であって「グラッセス・ガール」ではないのです。外国にいってもMEGANEKKOという日本語で通すべきなのです。これは昨年5月に行われた「眼鏡っ娘フェスティバル」という同人誌即売会の会場で確認された事実です。これを「蒲田合意」と言います。 …… こういう話ができるってことは、まだいけるのか。 でも。 一時期を100とすれば現在の萌え力はせいぜい10。 ああ。それにしても人はなぜ誰かを好きになるのだろう。 眼鏡をかけているから。貧乳だから。勝ち気な性格だから。 ポニーテールだから。メイドさんだから。寂しがりやだから。 やさしいから。健気だから。 といった「好きになる条件」があって、その条件に当てはまる異性が現れたとき好きになるのか。 違う気がする。少なくとも、そうでない場合もある。 まず結果があって。理屈では説明できない、ほとんど電波受信のような感じで好きになってしまい、それから後で「きっと理由はこれだ」「彼女がこれこれだからだ」と理屈付けするのではないか。人間は、「何の理由もなく、ただそうである」というのを恐れるから。ことに、自分の行動が説明できないのは恐ろしいだろう。 「好き」と「萌え」は多分違うけど、それでもこれは通用するのではないかと思う。 何の話をしているのかわからなくなった。 「克江」 ……誰です、それ? と言うわけでまだ決まらないです。 現時点ではグラちゃんに1票かな。 あとのことも想像してみよう。 ヴィットリオ・ヴェネトなら戦艦だから、立ち上げるたびに「機関全速」とかいったり、処理が重くなったら「我、有力なる敵艦隊の攻撃を受けつつあり。これに可能な限り耐久せんとす」とか言うだけでしょう。 しかし、もし「秋葉」だったら。 一年後の自分の想像図。 「(恍惚とした表情で、パソコン前面の微妙な凹凸をなでさすりながら)はあはあ秋葉さま、ぼくの秋葉様、あああああ秋葉さまの、ないちちハアハア」 自首しろ。 っていうか、 「この者の頭を割って、中に何が入っていたか報告せよ」(BY曹操) と言うわけで「北方謙三 三国志」5と6の感想。 「頭を手術しましょう」という言葉を受け入れることができずに「わしを殺す気か!」と激怒してカタ先生を処刑してしまう、というエピソードがあることは知っていた。人形劇三国志を見たことがあるから。 だが、あれは曹操を悪人として描いているバージョンだからこそであって、北方バージョンの曹操はそういうことはやるまい。と思っていた。 だが、曹操はやってしまう。 おいおい。 いいのかそれで。 でも、やっていることは同じでも、曹操が悪人だとか愚かだとかそういう風には読み取れない書き方だ。 とにかくすごく疲れている。だから心に柔軟性がなくなっている。そういうことかな。 焦ってるんだろうな。 彼は神仏を信じない現実主義者のようだけど、でも「神仏でも持ち出さない限り耐えられない、自分に他人にも厳しい生き方」をしていたのかもしれない。 本当の意味で、宗教に頼らずに生きていく。それは難しいことだ。 自分に無制限の責任を負わせなければいけないから。 とにかく6巻は衝撃的だった。 わかっていたのに、「この人はそんなことをする人じゃないはずだ」と信じていた。 今回出てきた孔明だけど、この人はなんか曹操たちとは別の世界に生きてるなあ。 むう。 もう時間がない。 面白い本があったので感想を書きたいのだが、また次の機会にしよう。 これから、京極夏彦を読みつつ電車便をやります。 |
3月3日 パソコンを手に入れた。貸与と贈呈の中間くらいの感じだ。 スペックは CPU 233MHZ→400MHZ メモリー 96メガ→96メガ HD 8ギガ→12ギガ CD−ROMドライブのみ→DVDドライブ搭載。CDRも焼けます。 超旧式が旧式になっただけだという声が聞こえてくるが。 でも私にとっては十分なスペックである。 さて、問題はこのパソコンの名前である。 これは自作パソコンで、ふみみちゃんとのあいだに血のつながりはない。 最初は「秋葉」にしようと思ったのだが、その名前はもっともっと細身のパソコンにこそふさわしい。ミドルタワーはちょっと違うだろう。 というわけで名前募集中。 月姫のキャラに限定するわけではありません。 このあいだ書いた風邪の話だけど、あれはもしかして花粉症ではないか。 今まで私はカナ打ちしかできなかった。だがローマ字に挑戦中。今までの何倍も時間がかかった。 かならずマスターするぞ。 |
3月1日 風邪をひいた。鼻水をずるずるしている。 熱はないようだ。 私は子供の頃から、滅多に熱を出さないのだ。 風邪をひかないわけではない。ただ熱が出ない。 腹をくだす。喉が腫れる。咳が出る。クシャミがでる。鼻水が出る。 頭痛がする。吐き気がする。身体の節々が痛い。立っていられない。 と、ここまで症状がでて、ようやく微熱。 だから小学生の頃なんか、仮病を使っているように思われて、いろいろ損をしたぞ。 どうせ仮病だとしか思って貰えないなら本当に仮病をつかってやるっ。 と思ったのだが、できなかった。 変なところで正直だった。 月姫の夢を見た。 ネット上で見た「翡翠の指チュパ」という言葉にインパクトがありすぎて。 内容? 18禁です。 以上。 ただ、秋葉は出てきませんでした。 以下2ちゃんねるの眼鏡っ娘スレッドより転載。
ビビビビビビビビッ(ビンタされる音) どひー。 先輩も好きです。あのシナリオは感動しました。 でも。 でも…… 赤軍のナイチチスキー将軍と戦っていた白軍のメガネスキー将軍は、補給切れで撤退した模様です。 また襲来するかも知れませんが、かつてほどの勢力を取り戻すことはたぶんできないでしょう。 一度でも、眼鏡をかけていないキャラクターにハアハアしてしまったら、もう眼鏡神さまの加護はないのかもしれません。 でも、私は後悔していません。 白状しますと、私が「眼鏡っ娘でなきゃ駄目だ!」になったのは、たかだか4年ばかり前のことに過ぎません。物心ついた頃から眼鏡っ娘萌えだった、という遺伝子レベルの猛者(いるらしい)に比べれば、付け焼き刃にすぎないのです。 昔からある程度好きではあったんですが。 高校生の頃は眼鏡美人の図書室司書に憧れて、足しげく図書室に通っていました。 でも重症になったのは、たぶん、「みつめてナイト」のセーラ・ピクシスと、「新世紀エヴァンゲリオン・セカンドインプレッション」の山岸マユミが原因であろうと思われます。 どちらもゲームのキャラクターです。 だから同じくゲームで属性が変わってしまうのも道理かもしれません。 でも…… そうか、脳内改竄か。 「眼鏡が好きなら、後からかけさせればいい」 とは、秋口ぎぐる氏の名言である。 そういう考えもあるな。秋葉が眼鏡っ娘になれば何の問題もない。 秋葉にはどういう眼鏡が似合うかな。 兄みたいな眼鏡は似合わないと思うんだが。 ここはやはり。 ……。 ……。 どういうことだ。どうして血がたぎらない。 せっかく秋葉を眼鏡っ娘に改造しようとしているのに、どうして興味がもてない。 あのままでいい、いや、あのままがいいと、なぜ思ってしまうんだ。 私の内なる眼鏡っ娘エンジンはなぜうんともすんとも言わないのだ。 もう、戻れないのか…… ごめん、みんな…… 激しく動揺しつつ、本の感想。 三雲岳斗「ランブルフィッシュ3」角川スニーカー文庫。 相変わらず快調。 三雲作品については「頭で考えて書いてる」「キャラクターを操っている糸が見える」という批判がある。 わからないこともない。 その批判される要素がもっとも少ない、つまりキャラクターがもっとも自然に動いているのがこの作品だ。他の三雲作品とは桁違いの生命力が、キャラクターから感じられる。台詞の端々に、さりげない動作に。 ロボットバトルも、アイデアが面白いし、映像的に見栄えがする。 ゲヘナとは別の人が書いてるんじゃないかと思えるほどだ。 北方謙三「三国志 5」。 まだ全部は読んでないです。 前回弁護した袁紹がズタボロに負けて死んじゃいました。 しかも凡人の証明とも言うべきエピソードが出てきました。 せっかく弁護したのにー。 名門の限界か。 挫折を知らなかった人間の限界か。 それはある。 でも。 ただ家柄がいいだけの人間にあれだけの国を築けるはずがない。 優れた部分はたくさんあったんだ。 たまたま今回は短所が長所を上回り、そしてたまたま、彼には次のチャンスが与えられなかった。 だから、人は天運というものを信じざるを得ないのかもしれない。 |