怪しい日記
2001年6月分
6月29日 あと340日! 今日はちょっとやばくてびびりまくり! ペンネームCです! なんだか秋口ぎぐるみたいな書き出しだな。 いやあ、今日は自分がバイク便としていかに未熟であるか痛感させられた。いや、何かどでかいミスをやらかしたというわけじゃない。本当のベテランがどれほど凄い能力を持っているか、一緒に走ってはじめてわかったのだ。 彼は決して飛ばさない。むしろのんびり走っている。「おいおい大丈夫か」と思うくらい。だが私より遙かに早く着く。 裏道を熟知しているからだ。それも住宅地を。新宿区の生活道路を。 この時間帯はこの通りはここからここまで混んでいるが、ここからは空いているから、この部分だけこの通りを利用して、あとは住宅地を抜けて、それからこの部分はこの通りを使って。 なんていうことがあっさり出来てしまう。 しかも地図を見てないのに。この人の頭の中は一体どうなってるんだ。 で、「この道をこうやって走ったら、14時57分に着く」とか言って、1分の狂いもなく本当にその時刻についた。 ばけもんだ。私の場合、到着予定時刻に前後5分程度の誤差はあるぞ。それが当然だと思っていた。 いや、私だって2年もやってるんだから、こういうことができなきゃいけないのか……そうだ、できなきゃいけないんだ。バイクはある程度渋滞を抜ける能力を持つが、だからといって裏道を知らなくていいということはない。生活道路は鬼門(だって見通しが全くきかないし、行き止まりや一方通行だらけだし、あと子供がうろうろしてるんだもん。冗談抜きで轢殺しそうになる。パンツが飛んできて顔面に張り付いたことがあったんだもん。あれは死ぬかと思ったぜ)だから、できるだけ使わずにいたんだが。こんなことでは駄目だ。そうだ。 ってなわけで、撲滅委員会に代表される人達がバイク便についていろいろ言っているのでレスを。 なに、十分金持ちだって? 月収30万というだけ聞いたら金持ちに見えるかも知れない。経費を引いて、実質月給20万でもまだそう見えるかも知れない。でもボーナスはないんだよ。だから年で240万だ。これでも金持ちか? 人並みじゃない? (もちろん、私より遙かに稼いでいる人はいる。私の能力は平均より下だ。それが今日のことでよくわかった) それから働く時間も、月で200時間以上。だから時給にすると1000円くらい。経費を全部ひいてしまうと。いや、もちろん本人の努力次第で経費を減らすことは出来る。中古の安いバイクにして、できるだけ壊さないように乗る。そうすれば月5万も6万もローンを払う必要はなくなる。実際、今年に入って急激にふくれあがった月6万のローンが、じわじわとボディブローのように効いてきて……へらさなきゃ。 とにかく時給に換算したら、そんなでもない。大型トラックの運転手はもっともらってるはずだ。タクシーも。あと土方とか大工さんとかも。 この仕事を始める前にやっていたのは警備員。正確には交通誘導員というべき。工事現場で誘導灯を振って片側通行とかやっているあれだ。私がいた会社は制服が真っ赤で、まるでイギリスの儀仗兵みたいだった。赤い制服の警備員は非常に珍しい。 あっちの仕事は日給が8000円くらい。月で16万くらいだな。今より遙かに貧乏に思えるが、仕事はどんなに遅くても19時には終わったし、14時とか15時に終わることもあった。時給に換算すると、驚くべきことにこっちのほうがいい。時間もたっぷりあったし、小説家志望者としてはあのままのほうがよかったかもしれないな。 でも……やっぱりいまのほうがいい。 金の問題じゃなくてさ、時間がないとかあるとかそういう問題でもなくて。 以前の私は、仕事というものを「小説を書くことを邪魔する、敵」だと認識していた。だからいかにして早く切り上げるか、そればっかり考えていた。仕事に精を出す連中のことを蔑視していた。「小説家になりさえすればこの苦しみから脱出できる」そればっかり考えていた。 で、そんなことを考えている間、私はさっぱり小説が書けなかった。 今の仕事は23時ごろにならないと帰ってこれない。警備員時代は19時には家に戻ってこれる。半日で仕事が終わることもある。つまり自由時間は前の仕事のほうがずっと豊富だった。それなのに私は、2年7ヶ月やっていた警備員時代を通じて、たった1本の長編「天使たちの戦場」しか書き上げていないんだ。 (しかも集英社ロマン大賞1次落ちだ。こんちくしょう。この仇はきっととってやる……とか思っているうちにスーパーファンタジー文庫が消滅した。どうすればいいんだ!) 今はこれだけ忙しいのに、あの時代よりたくさん書ける。だいたい2倍半くらいのペースのようだ。 質が上がっているどうかは、まだわからないけどね。 とにかく、あの頃よりは精神的に余裕がある。警備員時代は、パソコンの前に座っても文章が全く出てこないことが多かったんだ。ただ出てくるのは、自分の才能を認めない世の中に対する恨みだけだった。世の中は汚いから滅んでしまえ、あいつもあいつも、それからあいつも、世界が滅んだらみんな死ぬんだざまーみろ、という想いだけだ。純粋に金がなくて何も買えなかったから、というのもあったが、とにかく仕事が苦痛だったことが最大の理由だ。「早く終わってくれ」としか思っていないからミスだらけ。それで怒られて、ますます仕事するのが苦痛になる。そのせいでますます仕事に熱が入らなくなる。どん底スパイラルだ。 で、せっかくの経験を無駄にしていたんだよ。私は何も覚えていないんだ。警備員時代のことを。業者さんたちがどういう会話をしていたか、あるいは同じ会社にいた人達がどういう人格の持ち主で、私と何を話したか。 ここは私がいるべき本当の場所じゃないんだ、そればっかり思っていたからね。 ものすごくもったいない。いまにしてみればそう思う。あの2年7ヶ月の経験はすべて消滅したようなものだ。誰のせいでもない、私が捨ててしまったのだ。土木作業にたずさわる人達の会話はどんなものが多かったのか、彼らはどんな冗談を言うのか、仲間に呼びかける時はどうか、上司に電話連絡をいれるときはどうか。歩き方の特徴は。こういったものを覚えていれば、どれほど小説の人物描写に役立ったかわからないのに。 ってなわけで、今やってる仕事とかを「好きだ」「楽しい」と思えるかどうかは、実は小説を書く上で重要だと思う。「喰うために仕方なく」やってると、目の前にある宝の山を見逃すよ。 今の仕事は楽しい。だからこそ私は小説を書ける。もっと早くこの仕事についていればよかったと思っている。だからできるだけやめたくない。仮に小説家になったとしても、両立できるかぎりはこっちも続けたい。非常に面白い仕事だよ。 いや、くびにならないかぎりは、だけど。今日のことですっかり自信をなくした。 |
6月28日 あと341日ーっ! さて、今日は何を書こうと思っていたが、2ちゃんねるの人達がいろいろ私について書いているのでレスをつけよう。まずは「ペンネームC撲滅委員会」より。
そもそも私は「研究」と呼べるほどのことはしてません。 本を読む件にしても、「分析しよう」「参考にしよう」と思って読んでるわけでなく、(一度、プロットを書き出したり、シーンごとのセンテンスの長さ、地の文と台詞の割合などを表にしたりしながら読んだことがあったが、辛いだけだった。もう二度とやりたくない)単に趣味です。 趣味なんだから偏ってるってのは当然といえば当然です。 でも……それだけじゃ駄目ですね、確かに55さんの言うとおりですよ。 「総統暦111年」のアクション描写や銃の描写について「テンポが悪すぎるし、映像が全く見えてこない」とか言われました。 スティーブン・ハンターとかも読んだけど、「おいおい、こんなにあっさり殺しちゃっていいのか。主役が死ぬんだぞ。ここはやはり数ページ使って回想シーンだろ。詩のような独白を入れて」とか思ってしまった。なんかライトノベル的な話の盛り上げ方に身体が慣れてしまったようだ。 総統暦の批判で一番ショックだったのは、「こんなかったるいガンアクションでは、榊一郎には勝てない」って奴です。 くそうっ! くそう! ってなわけで、「こんなに努力しても作家になれない」わけじゃないです。 こんなのは努力してるうちに入りません。プロは私の百倍くらいは……してると思う。たぶん。だからまだまだ全然足りない。 努力と無縁の天才っていう人種もどこかにいるという話だけど、自分がそうじゃないことは最近ようやく判ったから。 あと5年早く気づくべきだったね。 あと53さんの発言ですが。 「眼」という漢字を見た瞬間に誤読して興奮しました。 かなりたまってるみたいです。 |
6月27日 雨が降らなくなったと思ったら、尋常ではない暑さがやってきた。くそっ、6月でこれか。夏はまだ二ヶ月以上続くぞ。これで8月にでもなったらどうなるのだ。 あと342日ー! 体調は少し良くなった。 さて。人の想いというのは何のためにあると思う? おおざっぱ過ぎてよくわからないかも知れないけど……誰かを好き、何かを好きという思いは、何のためにあると思う? 私はかつて、何のためでもないと思っていた。何かを激しく熱く想うということ自体に、至上の価値があるのだと信じていた。その思いによって誰か別の人、たとえば想いの対象に幸福がもたらされるかどうかは重要ではない。いやむしろ、そんなことを考えるのは「想い」という神聖なものを道具として扱うということに他ならず、けがらわしい行為であると考えていた。 私が十代のころ、同人誌に書いた文章をひっぱりだしてみる。するとこんなことが書いてある。 「善も悪も正常も異常も正気も狂気も知ったことか。そんなのは、この色あせた世界から抜け出せない汚い生き物たちに任せておけばいいのだ。想い、ただ熱き想い、それこそが真実」 うん、いまにして思えば立派な電波である。なにしろ自分の気持ちを押しつけるのがこの世で一番重要なことだと言っているのだ。当時書いていた小説の内容も、やはりこの思想に強く影響されていた。純粋に何かを思うことが無条件で肯定される世界。それが奇蹟を起こしてしまう物語。その「想い」に疑問を挟む者はすべて、「現実に汚染された者」として描かれる。 そりゃあ、そんな話、受け付けない人は徹底的に受け付けないだろうさ。 で、だ。 問題は、とっくの昔に「こんなの間違ってるよな」「やられる側にたってみたらたまらん」と思ったはずのこの考えが、なかなか私の中から消えないことなんだな。だからストーカー気質とか太一郎の同類とか言われちゃうのである。いや、私がダブルブリッドの太一郎にやたら甘かった理由の中には「他人とは思えない」というのもあったと思うよ。もう少し難しいことも考えていたけど、でも、ああ、その通りだ。 そのへんのことを再認識させられる日々が続いている。 でも逆に、「想いなんてものはただの道具だ」っていうのも怖いぞ。世の中に一つくらい、「手段ではない、それ自体が大切であるもの」というものがあったっていいと思わないか。まあ、それを「想い」だと信じてしまったことが間違いだったわけだが。 もうちょっとうまく融合させないとね。 |
6月26日 調子悪い…… 急激に暑くなったので調子悪い。 それなのに徹夜しかねない勢いでオウガやっててますます調子悪い。 ああ、これは面白い。でも前作より簡単になってないか。 あのバルマムッサみたいなのが今回もあるのかなあ。わくわく。 あと343日。ああ、ふらふらする。 |
6月22日 体調がどうも良くない。 ついに電波と言われてしまった私です。自分で自分のことを電波系と呼ぶのは平気でも他人から言われるとムッとします。まあそんなもんです。 まあ、あれだよね。夢を夢だとわかった上で割り切って楽しめるのは大人の証拠だよね。それができない、現実世界と結びつけずにはいられない私は、いろいろと問題を抱えているのかも知れないな。精神に余裕を欠いているんだな。 鯨統一朗「九つの殺人メルヘン」(光文社)読んだ。 童話にひっかけて殺人事件を解決していく。アリバイトリック崩し9連発。 面白かったけど、やっぱり一つ一つが極端に短いから、物足りない。こっちに頭を働かせる時間をくれ、とか思った。 あと、すごいオチのつけ方だね。ミステリ部分より童話の新解釈部分のほうが面白いと思ったんだが…… あと347日ーっ!!! ああ、もうタクティクスオウガ外伝売ってるんだ。買わなきゃ。タクティクスオウガは本当に面白かったなあ。 |
6月21日 今日も雨が。なんか時間が戻ったのかと思うほど寒かった。 ええい! まだ348日も残っている! 今週の「しゅーまっは」読んだ? いやあ、ついに藤宮さんに継ぐ眼鏡っ娘が! りかちゃん! 委員長! やっぱり委員長はあの髪型でなきゃ! わかってるねえ伯林(「べるりん」じゃなくて「はくばやし」)さん! 我らメガネスキーの聖地、週刊少年チャンピオン! 日記にいろいろ反響があって面白い。評論を書きたがる人間の気持ちがよくわかった。私は以前、評論というのは、物語を創作できない人間がひがみ半分で行っているみっともない行為だと思っていたが、そんなのはごく一部であって、「評論もまた作品の一種。物語同様、人の心を動かすことができる」んだね。 乙一「君にしか聞こえない」(スニーカー文庫)とかいろいろ買ってきた。この人の小説を読むのは確か初めてだけど、この本は「泣ける」と大絶賛の嵐。期待してるよ! さて。なんか小説のかわりに日記ばかり書いている(そもそも昨日のやつなんて日記じゃないぞ)ので疲れて仕方がない。 最後に一発。 ハッピーエンドについて。 「ハッピーエンドは物語の死である」 これは確か平井和正の言葉だったと思う。この言葉が私の心に焼き付いて離れない。この言葉が正しいとは思わない。あまりに極端すぎると思う。だがそれでも胸の中から決して消えることがない。この言葉をはじめて目にした瞬間、理屈抜きで「そのとおりだ」と思ってしまったのだ。 私が、いわゆるハッピーっぽいハッピーエンドを避ける傾向があるのは、この言葉の影響もあるのかも知れない。 でさ……ハッピーエンドって何だと思う? 主人公が勝利すればハッピーなのかな? 目的を達成すればハッピーなのかな。主人公サイドの人達が幸せになって、敵が滅亡すればハッピーということか。それとも敵までも幸福にしてはじめてハッピーエンドか。 いろいろ基準はあるみたいだけどさ…… どうも私、ハッピーエンドの感覚が他人とずれてるらしいんだよ。 たとえば主人公が死んで終わるような結末は、世の中の人はハッピーエンドとは言わないけど……私は「いや、ハッピーの場合もあるんじゃないか?」と思っている。 だってさ。これは彩院忍という作家さんがあとがきの中で言っていたことなんだけど。 「死ぬから不幸であるとは思いません。死が不幸でしかないのだとしたら、人間はいつか必ず、どんな人間だって死ぬのだから、つまり人間は不幸になることを運命づけられていることになる。それはとても嫌だ。」 そうだよなあ…… だから私は、幸福な死というものはあり得るのではないか、死=アンハッピーと決めてかかるのも恐ろしいことなのではないか、と思ってしまう。 |
6月20日 あと349日でーす! なんか身体の調子がいまいち。夏ばてにはまだ早いぞ。 新版「歪銀河」のプロットが完成した。すげえ。こんなポジティブな小説書くのは何年ぶりだろ。 さて、昨日の続き。 まあ要するに「人それぞれ。感性の差」で終わってしまいそうな話であって、それは確かにその通りなんだけど、でもいきなりそれで話にけりをつけてしまうのはあまりに発展性がない。ってなわけでもう少し理屈をこね回してみるからつきあって。 さて……人はどちらを望むのか。 「自分を信じ、夢を信じ、はっきりとした信念をもって突き進むキャラか。そしてそれがうまくいってしまう世界」か。 「迷い、悩み、それでも完全に倒れ伏してしまうことができずに、よろめきながらも進むキャラか。そしてそのキャラを、必ずしも祝福はしない世界」か。 この二者択一は、結局のところ「物語は何のためか?」というでっかくて重い問題にからんでくると思う。 逃避文学という言葉がある。職場や学校で、あるいは人間関係で悩んだり疲れたりストレスを感じたりしている時に、「たとえひとときでも、そういうものがない世界に行きたい」という願望が誰にだってある。そういう願いをかなえてくれる存在。避難場所としての「物語」。 いっぽうで現実世界と密接にリンクした物語がある。それは別に現実と同じ場所を、この現代社会を舞台にしている必要はない。過去でも未来でもいい。魔法の世界でもいい。ただ、そこにいる人間たちの心に、作中で起こる様々な事件、そしてそれが解決されたりされなかったりする過程に、現実社会を写し取ろうという意志がそこにあるかどうか、それが重要なのだ。 前者を支えているのは「こんなにうまくいくなんて現実にはあり得ないけど、でも物語の中だからいいじゃん」という考えだ。 後者を突き動かしているのは「いや、物語はただの物語であってはならない。現実世界の暗黒から眼をそらすのはいけないことだ。奇蹟で物事が解決するというストーリーは、奇蹟なんて決して起こりはしないこの世界で、それでも必死に生きている人達に対する冒涜なのだ」という叫びだ。 たぶん、「自分を信じるキャラ」は、前者の考えによって導き出される。「悩むキャラ」は後者の産物だ。 もちろんこれは両極端の話であって、実際には「二つの混ざったもの」「中庸」「折衷案」が多いと思う。いくら「お話だから」といったって、ストーリーやキャラクターの非現実性がある一線を越えてしまうと、読者がしらける。現実に近づけることばかり考えても、読後感のいい物語は生まれない。だから両方の要素を取り入れるのは当然のことだ。 だが、たぶん作者の中には、「どちらかに偏らせたい」という意志があるはずなのだ。 私はかつて、明らかに前者を目指していた。いや、後者というものの考え方があることなど思いつきもしなかった。なぜって私にとって現実世界は、ただひたすら忌避すべきもの、いや蔑むべきものだったからだ。嘘とごまかしがあふれた現実、友情も愛もすぐに消えてしまうこの世界は本当の世界じゃない。どこか別の場所に本当の世界があって、そこでは、そこでだけは信じる心が奇蹟を生む。ペンを握ってノートに向かうその時だけ、私のその「真の世界」をかいま見ることができるのだ! ……いつの頃からだろう。そんな風に思えなくなったのは。 決して眼をそらしてはいけないものがあるんだ、それを見ないでいるのは裏切りだ、と思ってしまったんだろうな。 私にとって、それは「苦悩する人間の姿」だった。誰か特定の個人の話じゃない。この世界のいたるところにいる、あがく者。 実にいろいろなところで、彼らは悩んでいる。試行錯誤を繰り返している。決して奇蹟など起こらない、祈りの届かない世界で、それでも彼らはあきらめずにいる。友人との関係をどういう風に変えていけばいいか。家族をどうすれば愛せるか。あるいは人を好きになるべきか否かについて、あるいは生きていくべきかどうかについて。あるいはもっと大きく、政治や、経済や、環境問題や……そういった人達の姿が胸に焼き付いた。彼らは答えを手に入れることができずに、それでもあきらめることができずに、だからあがいていた。 それなのに、ぼくが「あっさり答えを手に入れ、幸せになってしまう物語」を書く。そんなことが許されるだろうか。彼らはまだそこにいるのに。裏切りだ、これは裏切りだ。そんな風にしか考えられなくなってしまったのだ。 だったらおかしいじゃないか。そう言われたことがある。 「現実世界で苦しんでいる人達の姿を書きたいなら、なぜ小説である必要がある。ノンフィクションでいいじゃないか。彼ら本人にインタビューすればいい。百歩譲ってフィクションを書くにしても、なぜSFである必要がある。未来の宇宙を舞台にしたり、超能力や異星人といった小道具を出す必要がどこにある? 純文学でいいじゃないか?」 理由はいくつかある。 ストレートな表現をされたら、たいていの人は引くから。ノンフィクションとして書いてしまうと、語っているのは私ということになる。私には、人の心を動かせるような、みんなが恐れ入るような酷烈な人生経験もない。人の生き方について何か語れるはずもない。人格的にもそうだ。私なんぞに言われたところで誰が心を動かされるか。でも、物語の中のキャラクターたちは違う。彼らは私とは比較にならないほどの体験を背負っている。それゆえに彼らは何かを言える。言う資格がある。 物語に託さないと伝わらない何かもある。間違いなくある。物語にはそういう力がある。SFにもそういう力がある。 私の力量が伴っていれば、の話だけどね。 いや……私の力量が不足しているからこそSFとして書かざるを得ないのだ、という解釈も可能だ。 またエヴァに戻って恐縮だが、以前読んだエヴァ同人誌「EVE.E 評論誌 再来 エヴァは何に失敗したのか」 (サークル「織人の遊び部屋」1996年発行 著者「高橋田林章一」) の中にこんな文があった。 「シンジやアスカの悩みは確かに我々の中にもある悩みなんだけど、だからといって彼らが癒されたからって我々も癒されるってわけじゃない。だって我々は、母親が化け物に吸収されちゃったわけでも発狂しちゃったわけでもないんだから。エヴァの登場人物たちはシャレにならない悲劇を背負った上であの精神状態なのであって、コミケなんぞで楽しくやってる私達が『彼らと同じ悩み』を持ってるなんて、どのツラ下げて言えるわけ? (中略) エヴァを作った人達の限界でもある。あれ自体は普通の人間でも持ってる悩みなんだけど、それを描くのにどうしても『悲劇の登場人物』を必要としてしまった」 そういうものなのか。 とんでもない悲劇を起こして、人類全体がどうのと話を大きくするのは、つまり力量の不足か。 わからない。私にはまだ答が出せない問題だ。 それから最後にもう一つ。これまでの論旨とは全然関係ないんだけど、私が「悩まない登場人物」を忌避する理由に、こういうのがある。 だって怖いじゃないか。悩まない奴って。何かを信じてる奴って。 「人間は素晴らしい」 「世界は美しい」 「夢は、いつか必ず叶う」 たとえばこう信じてる奴がいるとする。でもさ、これってつまり裏を返せばこういう事だよ。 「もし人間が素晴らしくなかったら、そんなのはほんとの人間じゃないから殺してもいい」 「美しくない世界は、偽の世界に決まってるから滅ぼしてもいい」 「叶わなかった夢には、何の意味もない。全否定していい」 ほんのちょっとしたきっかけで、裏側にいってしまうと思う。実感としてそれがわかるんだ。私はそれが恐ろしくてならない。宗教の人達なんかまさにそうだよ。 なんつうか、長文ウゼエって感じだからもう寝よう。おやすみなさい。 |
6月19日 あと350日。まだまだ。 上遠野浩平の「紫骸城事件」(講談社ノベルズ)が面白かった。前作「殺竜事件」はかなりショボかったので期待せずに読んだのだが、「うん、うん、これだよこれ!」とかなんとか、読みながら何度もうなずいた。 魔法世界を舞台にした推理小説だ。 なるほどなあ、というのが読後の印象だ。あんなあからさまなヒントを見落としてしまうとは。私のバカ。 などということを思ったのだから、ちゃんとミステリしてる。ただ、一つ矛盾を感じたけど。 今日は何の話をするか。悩む主人公がどうのとかいう話の続き。 「自分を信じる」というのはエヴァのシンジが「悩みすぎ」だったことへの反動だろう、というこうひんさんの意見について。 アムロやカミーユだって悩まないわけじゃないが(エヴァの1、2話あたりを見たとき、私はかなり強くアムロっぽさを感じた)、まあ思考の大半が悩みで占められているキャラはシンジが最初だよな。青年漫画なんかのキャラにはいただろうが、アニメではいないだろう。 シンジについては正直いってあまり語りたくない。なぜって、私は昔エヴァ信者だった。しかも「シンジ=自分」とかいってて、「庵野さんはぼくのことを理解してくれているんだ!」とか喜んでエヴァを見ていた、あの最終回だって大絶賛していた、一番関わりたくない種類の。封印したい過去のひとつである。ああ、ありとあらゆる詭弁を駆使してエヴァを弁護していたあのころ。 今では「シンジがそれほど苦しんでいたとは思わないんだけどな。アスカのほうがよほど救いを必要としているよ」とか思ってるが。 うーん……エヴァに対する反動ねえ……まあ、それはあるのかも知れないな。エヴァの前にヒットしていたアニメというと、やはりセーラームーンとかになってしまう。あれは自分を信じ、愛を信じれば奇蹟は起こるという話だからな。つまり振り子のように、右に左にかっちんかっちんと。 まあ、シンジみたいに、悩むこと自体が目的となっているかのようなキャラはさすがに行き過ぎだよな。悩むのは、あくまで手段というか、安全装置だ。シンジに共感するのは、「ああ、自分みたいな奴が他にもいる」ということで安心したい人くらいだろうな。私はそうだったよ。だから私としては彼に成長なんぞしてほしくなかった。もし彼が立派になっていたら「裏切ったな!」と金切り声で叫んでいたことだろう。そういう需要はけっこう大きかったんじゃないか。もちろんそれがいいことであるはずがないけど。 結局のところは、「どういう人間に、その物語を受け取ってほしいか」という問題なんだと思う。 「がんばればうまくいく。祈れば奇蹟は起こる」という話を読んで、素直に「よし、俺もがんばろう」と思える人間相手にはそういう話がある。だが「そこまでうまくはいかないだろう」としか思えない人間だっているのだ。そういう人間のためには、全く別の種類の話が必要だ。まっすぐなキャラクターに嘘臭さを感じてしまうのは、たぶん受け手である私サイドの問題なんだろう。 もう遅いので続きはまた明日。 |
6月17日 はっ。ゲームのやりすぎで原稿が。 PSOは時間を際限なく吸い取っていく悪魔のゲームじゃよー。 もうそろそろ、「タクティクスオウガ外伝」も出る。ああ、楽しみだなあ。ハード(ゲームボーイアドバンス)ごと買わなきゃ。でも携帯ゲーム機であれだけ長時間かかるシミュレーションは……まあスパロボとかもあるしな、可能ではあるだろう。ワンダースワンほど眼が痛くはならないらしいし。 そろそろ楽園迷宮を新人賞に送る。だから今月の終わりには削除される。読みたい人は今のうちに保存しておいて。 でも、今日読み返してみたら、あれってすごく誤字脱字誤変換が多いね。「制作が間違っていた」とか「ぼくの汁限り」とか。 汁ー! あと352日で点数復活! 明日からまた頑張ろう! 2ちゃんねるの麻生俊平スレッドで「ペンネームCうざい」×1000というコピペ大爆撃が始まった。実に困ったもんである。あれじゃ他の人、普通に麻生俊平の話がしたい人に迷惑だろうが。やるんなら撲滅委員会でやれ。 まあそれだけでなく、私に関するちゃんとした意見もあった。いわく「主人公が悩むのにこだわりすぎるけど」。 うんそうだね、確かにこだわる。アニメ版トライガンの終盤が好きだったり、ザンヤルマやミュートスが好きだったり……「08小隊」が好きだったり。 「僕は本当に正しいのか? 僕にそんなことをする資格があるのか?」と悩み、罪悪感や自己嫌悪、無力感に苦しみ、その中であがく人間が好きだ。大好きだ。その人間が少年であればなおいい。 逆に、確固たる信念を持っているキャラクター、答えが出てしまった人にはどうも興味がもてない。みんながカッコイイと賞賛する、「0083」のアナベル・ガトーを好きになれない(いや、はっきり言ってああいう人は嫌いだ。ああいう人がいるから戦争がなくならないんだ)のはそれが理由だろう。 なに? それだったらザンヤルマでは佐波木ではなく遼の肩を持つべきだって? とんでもない。遼は確固たる信念を持っているじゃないか。あいつは悩んで答えを出しているわけじゃないように見える。答はすでに彼の中にあって、それを再確認するために悩んでいる。あの「不殺」の信念の強さは、ほとんど宗教的ですらある。 悩み迷っているのは佐波木くんの方だよ。本人がそれを隠そうとして、わざと断定的な物言いをしているだけだ。 もちろん、どんなに悩みながら罪悪感を感じながらやろうと、あるいは自分が正しいと確信しながらやろうと、「やったこと」は、「やったこと」だ。その結果誰かが死んでしまったら、それはもう取り返しのつかないことだ。悩みながら殺したから罪が軽くなるとは私だって思わない。また、むしろ悩むことによって決断が遅れ、死者を出してしまうこともありうるだろう。 だが、今の世の中……特に富士見とかのいわゆるライトノベルでは、「自分を信じる」「信念を貫く」「夢をどこまでもおいかける」ことが、あまりにも無条件で賞賛されすぎている、そんな気がする。 純粋に何かを信じるのは危険だ。「自分を信じる」のは良いことだけど、それが暴走したら宗教だ。電波だ。 だからそれを中和するために、正反対の極論「自分を信じるな。迷え。疑え。悩め」をとなえる作家が一人くらいいてもいいんじゃないか。そう思って小説を書いている。 まあ……もしかしたら、悩んでいる少年と自分の姿を重ね合わせて悦に入っている、ナルシシズムの産物なのかも知れないけどね。 |
6月16日 色々あって疲れた。新鮮で楽しかったけどね。でも頭の左側が痛い。これは何の病気だ。 ってな感じの不調があると、私はずっと昔友人と交わした会話を思い出す。 私「頭が痛いな」 友人「(微笑みながら)それは頭が腫瘍なんだよ。お前の頭は90パーセント腫瘍だ。たまに耳から耳ダレが出てくるだろ?」 私「歯も痛いぞ」 友人は「(にこやかに微笑みながら)きっと歯がガンなんだよ」 私「ぼくは何者なんだよ、頭は90パーセント腫瘍で、歯はガンで……」 友人「生ける屍」 こんな友人を持って私は幸せです。 ここを紹介しておこう。 「BOOKS by 麻弥」 書評系サイト。ものすごい量。それなのに分析が浅いというわけでもない。いや、分析というより感性の産物なんだけど。鋭い。こういうのを読んでしまうと、最近すっかり更新されてないうちの書評とくらべて、「ああ恥ずかしい」と思ってしまう。 いや、そりゃうちは創作系サイトであって書評はおまけだけどさ。 あ、ちがうな。「創作国家」だった。 ここのサイトが行った「リンクについてのアンケート」もきわめて興味深い。これはすごい資料だ。 書く書くといっておきながら小説書いてない。 いやあ、夢伐戦記がどうもねえ。やっぱり、このへんが書いてて面白くなかった(自分で読んだかぎりでは、読者にとってもちょっと面白さに欠けると思う)のが投げ出した原因のようだね。ぜんぜん乗ってこない。「こんなつまらんもの書いてどうするんだ」とか思う。 まあ、それでも書こう。 この5年間で私が小説書きについて学んだことはいくつかあるが、その中では一番大きいのは技術ではなく、「とにかく最後まで書こう。どんなに駄作だと思っても投げ出さずに完結させよう。完結した駄作は未完の傑作より尊い」という決意だから。 完成した傑作であればそれに越したことはないが、たとえ凡作・駄作であってもその後の改稿で生まれ変わる可能性はある。また、自分以外の誰かにとって傑作である可能性もある。大いにある。だからおそらく、完結した駄作は未完の傑作より尊い。頭の中にしか存在しない傑作より尊いことは言うまでもない。読者にとってはそうとばかりは言い切れないのかも知れないが、小説家志望の人間にとって、この言葉は真理だ。 たったこれだけのことを理解するのに私はたっぷり5年かかった。やれやれだぜ。 理解できなかったから、私の元には「最初の一章を書いただけ」とか「数ページ書いただけ」とか、どうあがいたところで新人賞には送れない代物ばかりが転がっているのである。 さて、あと353日! |
6月15日 雨がきつい。 でも捕まらなかったからいいや。 なんか……自分がマジで犯罪者になった気が…… 今日はもう眠いので、ちょっとだけ。 まあ小説を書くのにもいろいろな経験が必要だよな。 しかし昔の私は「経験を積むこと」を拒絶していた。当時の私にとって無知は美徳であり、知ることはけがれだった。 仕事に行くとか、学校に行くとか、友達と遊ぶとか、女の子と話すとか、そういう俗世間のことを経験すれば心が汚れてしまい、純粋な感性が喪われてしまうから、本屋にあふれているような無象無象の作家どもと一緒になってしまう。そういったものに触れず、ただひたすら純粋さを保つのだ。そうしたら心の中に高次元世界からの声が響く。それこそがあるべき小説の姿。小説とは作者が考えるものではない。そんなのは、心の真なる力が摩耗した似非小説家の言い訳にすぎない。どこか別の世界ではほんとうに冒険が繰り広げられているのであり、ぼくに必要なのはそれを見ることのできる眼を手に入れることだ。俗世間の出来事に汚染されていない人間だけがその眼を持っているのだ。だからぼくに友達がいないのも、彼女ができないのも、学校の勉強ができないのも、すべて良いことで、それこそぼくが選ばれた人間である証拠なのだ。 などということをマジで信じていた時代があった。 いろいろあって、今ではこういう考え方のことを「アホか?」とか思ってるわけだが、どうやら今でも、私のなかにはこの考え、つまり無知=美という考えが残っているらしい。かけらだが、確かに。ここ数日、それを痛感させられている。 困ったもんである。 困りつつも、あと354日! |
6月13日 腰の痛みがとれないのでマッサージ屋に行った。 金ばかりかかって、あまり良くなった気がしない。 もうすっかり年寄りの身体じゃ。 さて。いろいろと歪銀河の科学考証(亜光速で移動する艦隊どうしの戦闘)について問題提起をされた。 ふーむ奥が深い。 ところで私は、こないだ掲示板で、「10光年先に敵艦隊を発見しても、それは10年前の姿。じっさいにはすぐそばまで来ているのかも知れない。だからその情報はあてにならない」という趣旨のことを書いた。 そのへんについてもっと詳しく計算してみたら、実に興味深いことがわかった。 10光年離れた星の敵艦隊が、光速の99パーセントで地球に向かって発進したとしよう。 それから10年間、われわれはその事実を知らない。知るすベがない。ものすごく高性能の望遠鏡で見ていたとしても、わからない。 10年経ってようやく、「あっ、今出航したぞ。こっちに向かっている。大変だ」とか気づくわけだが、そのときには敵艦隊はすでに全行程の99パーセントを進み終えており、地球まで0.1光年の距離にある。あと0.101年つまり37日くらいでやってくるだろう。 で、その後どうなるのか。艦隊がこちらにくる途中の姿はいつ、どんな風に見えるのか。 ちょうど中間地点、つまり地球から5光年の距離まで艦隊が進むのに5.05年かかる。それから光が地球まで届くのに5年。つまり「敵艦隊はいま、地球と敵惑星の中間地点にいます」という映像が見えるのは、艦隊発進から10.05年後なのだ。 なんと。「艦隊発進」が見えてから、わずか0.05年しか経っていないのに、その間に5光年進んだというのか。そう、そのとおり。実際には光速の99パーセントなのに、見かけ上の速度は光速の100倍! 光に近い速さで飛んでくる物体は、光速より速く動いて見えることもあるのか。もちろん「見かけ上の超光速」はこの後も続く。全体の9割を進むのにかかる時間は9.09年。それから1年後に光が地球に届く。つまり艦隊発進から10.09年後に、その映像が見える。 やっぱり見かけ上の移動速度は光速の100倍だ。そう、考えてみれば、「艦隊が発進」という光景が映像に届いてから0.101年で本物の艦隊がやってくるわけで、見かけ上の速度が超光速なのは当然なのだが、こうやってあらためて計算してみると興奮した。 昔、ブルーバックスの「SF相対論入門」とかそういう本のなかで石原藤男博士が「観測者と移動物体の位置関係によっては、見かけ上の超光速運動というものが起こりうる」とか書いていたけど、それはつまりこれのことか。いや、その艦隊のドップラーシフトを調べれば、実際の速度が光速の99パーセントに過ぎないことはあっさり判るんだが。 ああ、生かしたい。これを生かしたい。 でも小説のどこにどう使えっていうんだこんなもん。 光に近い速さってのはいろいろやっかいだね。 なんかこんな話を10代の頃にもしていた気がするな。それも毎日毎日。 おとといの話の続きをしよう。 といってもだいたい言いたいことは言っちゃったんだけど。 じゃあ今日はテーマの話でもするか。 私はテーマというものが、昔は大嫌いだった。「この作品のテーマは何?」というのが、この世で一番嫌いな質問だった。 「小説というのは作者が作るモノじゃないんだ、キャラクターが自分で心を持って動き回って、その結果物語が生まれるものなんだ。それなのにテーマだって? しょせん現実世界のけがれた人間にすぎない私ごときのメッセージのために、あの美しいキャラたちを道具としてもてあそぶというのか? キャラクターは作者の道具にすぎないというのか? 馬鹿な! そんなことが許されていいはずがない!」 そんなことをことあるごとに主張していた。よく覚えている。 「テーマなんてものは読者が勝手に感じ取ればいい。作者が入れる必要なんてないし、そんなものを入れるのは、物語に対する冒涜だ」 そこまで言い切っていた。 それから10年。私は、今は小説の中にテーマを入れている。必要不可欠だとは思わないけど、あったほうがいいと思っている。それが小説の目的だ、とまでは思わないけど。まあ目的の一つではあるんじゃない? でも。私は判るんだ。かつての自分の気持ちが。今でも「それはそれで正しい」と思う。 矛盾はない。どこにもない。 なぜなら現在の私は、テーマというのは「作者のメッセージ」ではない、そうであってはならない、と思っているから。 いろいろな小説を読んで「なにか、ただ面白かったとかそういうのじゃない、『ああ、人間っていいなあ』とか『こういう時にこういう決断のできるキャラクターってかっこいいなあ』とか、『人間というのは本当に卑怯で残酷な生き物だけど、それでも、人間に絶望するのはまだ早いな』とか、もう少し複雑な何かが伝わってきたなあ」と思ってしまったことがあるから。 その「何か」は、どこから伝わってきたんだろう。そう考えた。 かつての私が主張していたように「読む人が自分で考えた結果」だろうか? そりゃまあ、最終的にはそうだろうが、そう考えさせる種みたいなものが私の中に転がりこんできたことは確かだ。 じゃあその種を投げたのは誰だ。作者? いいや。作者の顔はこの物語の中には見えなかった。もし見えていたら、うざったくて読んでいられなかったはずだ。お説教は嫌いである。 じゃあキャラクター? おおむね正解だけどまだ完全じゃない。特定のキャラクターに感情移入することで、そのキャラの主張とか信念が私の中に流れ込んできたことはある。でもそれは別に、もっと大きな声が聞こえたことがあるのだ。 この声は誰の声だ。 ふと気づいた。物語全体の声だ。一人一人のキャラクターだけでなく、物語全体が何かを伝えてくることは、作者に命令されてメッセージを伝言するではなく、物語がみずから語ることは、確かにあるのだ。 そう気づいてしまった。ある意味、気づくのは恐ろしかった。でも気づいてしまった以上、私はもうテーマを否定できなくなった。 こういう種類の話を私も書きたい、「なにかが響く話」を書きたい、作者の自己主張ではなく、キャラクターの叫びではなく、しかしなにか形のあるものが伝わってくる物語を。 そう思ってしまったのだ。 だから私の負けだ。 忘れるところだった。 あと356日! |
6月12日 「うごうご榊くん」にライバル意識を燃やす私。私もバイク便という仕事がいかに「歪んで異様」であるかについて話そう。 ああ、歪んでいるとも。 本屋で本を買ったとき、ついレジのお姉さんにペコリとおじぎをして「お預かりします!」と言ってしまう。あそこの本屋にはもう行けない。 異様だ。歪んでいる。 白いVFRを見るたびに身体が硬直し、「あと357日。357日で時効」などと呪文のように唱える。まるっきり逃亡中の犯罪者。 異様だ。歪んでいる。 私はVTR250に乗っているのだが、ドカティM400が近くを走ってると「ニセモノですいません」と顔を伏せてしまう。ホンダ乗りのプライドゼロ。 異様だ。歪んでいる。 菓子の袋などを見ると、ついつい製造元の住所を確認して、どうすればそこにいけるのか考えてしまう。 異様だ。歪んでいる。 本屋で「天からトルテ!」と「ザ・拷問術」を一緒に買ったら、店員のお姉さんは明らかにひるんでいた。 異様だ。歪んでいる。 ああ、かくも業ふかき職業バイク便よ。 さて。 「歪銀河」。歪銀河は三角関係の話でもあったんだ。 主人公ミュールが戦いの中で出会った男性(天才ギル・アーマー乗り、アルチュール・オズボーン)がいて、故郷でミュールの帰りを(人工冬眠などの手段で)待っている男性が(メカニック、クルト・シュタイナー。当時私はジャック・ヒギンズを読んだことがなく、この名前は偶然の一致で……と言っても世の中通らないんだろうね)いて、ミュールの心がその二人の間を揺れ動く。 どうも、その揺れ動き方にインチキくささを感じたんだ。ってなわけでプロット練り直してみたら、全く原形をとどめなくなりました。テーマからキャラから、後半の展開から、ラストまでぜんぶ、とにかくぜんぜん違う話。 すいません。これ、まるっきり書き直す必要がありそうです。 「夢伐戦記」を終わらせ次第とりかかりますが……やっぱり夏以降になると思います。お待たせして申し訳ありません。 昨日の日記は好評だったらしい。 ああいうの好きなんだ……じゃあ明日あたり続きを書くよ。 |
6月11日 さて。あと358日!! くっ、まだ1週間しか経ってないのか! 以前こうひんひろみさんが掲示板で「明るい話を書きましょうよ。苦しいこと辛いことは現実世界にたくさんあるから、せめて物語の中だけではハッピーに」という趣旨のことを発言していた。 うーむ、そんなものか? と首をかしげた記憶がある。 まあ確かに、私の書く話は暗いのが多いな。ショートショートだって失敗とか破滅とか死で終わるのが多い。長編は言わずもがなだ。夢伐戦記だって明るいとは言えないぞ。あれはところどころにギャグを入れるからこそ背景の陰鬱さが際だつ、というのを目指している。いや、それがうまくいってるかどうかはよくわかんないが。いや、ひとつだけ、どこをどうやっても暗くできないのがあるけど。 どうして私は暗い話が好きなんだろう? 分析してみよう。私は「せめて物語の中だけではハッピーに」と思っていないのだろうか? たぶん思っていないんだろう。ああそうだ、思ってない。 私はもっとひねくれている。落ち込んでいる時や悩んでいる時に、「明るい話」を読んだりしても、別に気分は明るくならない。むしろますます落ち込む。ああそうかい幸せだね勝手にしな、けっ。とか思う。イライラするし、疎外感をおぼえる。そういう時は逆に、やたら暗くてみんな死んだり狂ったり、努力もすべて水泡に帰して……とにかく夢も希望もないような話を読みたがったりする。音楽なんかもそうだな。一時期の筋肉少女帯とか。 いやしかしだ。 本当に落ち込んでいる時はそうだ、という人はけっこういるみたいだぞ。私ほどあからさまじゃなくてもだ。 「努力したって無駄さ。どうせ失敗するに決まってる」とか思っている人に、「そんなことない、努力すれば夢はかなうさ」と言ったところで、その言葉は果たして届くだろうか? たぶん無理だと思う。むしろ二人の間に壁が出来るだけなんじゃないか。相手の言い分をある程度認め、相手の気持ちをわかって、こちらから一歩か二歩歩みよる必要があるんじゃないか。たとえばこうだ。「確かに努力しても失敗するかもしれない。夢なんてかなわないかも知れない。奇蹟なんて起こらないかもしれない。そういうのはすべて虚しいことなのかも知れない。でも、それでも……だからって何もしないでいるのは、それ以上に虚しいことなんじゃないか?」 少なくとも私の場合、そういう風に言われないと心に響かない。自分とはまるで関係ないところで発された、自分には向かっていない言葉だとしか感じられない。根本的に自分の考えと違うものをぶつけられても、「ああそうか、この人は私とは違う世界の人間なんだな。お互い不干渉でいきましょうや」と思って、それっきりだ。自分でもそんなものは書きたくない。別に読者を論破したいわけじゃないから。 だから。私は小説を書くとき、「でも、それでも」を用いる。 まずテーマを否定する。努力しても無駄だ。人はわかりあえない。愛なんて自己欺瞞だ。罪は消えない。人間なんてクズだ…… 主人公の敵にそれを言わせるか、あるいは主人公自身がそれを悟るようにするか、それは場合によりけりだ。両方いっぺんにやることもある。そして主人公をどん底まで叩き落とす。そしてその上で「それでも」とやる。 私の小説が暗いのは、前提条件を造り出すためなんだろう。ただの光より、闇のなかでまたたく光のほうが眩しいし、人が求めるのはたぶん、そんな光だろうから。 「歪銀河」を読みたい人がいるらしいので、アップしようと思って読み返していた。 うわっ。さすが6年前の作品だけあって、今の私なら絶対書かないような文章がゴロゴロ。 いいのかなあこんなんで。昔書いた小説を今読み返すと、全体に強い「現実味のなさ」を感じるんだよね。 |
6月10日 今日は休みの日らしい一日を送っていた。 部屋を片づけ(ようと試みて挫折)、洗濯(の途中で投げ出したくなり)し、それからあとは本読んでゲームやって。ちょっとだけ原稿書いて、さらに同人誌の編集もやって。 オフライン版LOOPの編集はもうすぐ終わる。ああ、次はもう10周年か。長いようで短かったなあ。 なにか特別企画を考えないとなあ。 月姫のシエル先輩シナリオ、すごくいい。 とくに「罪」に関する話は、これまで様々な物語のなかで何度も何度も、それこそ1万回くらい語られてきたことなんだけど、それでもやっぱり胸を打つ。 エース桃組で連載開始された「鋼鉄の少女達」(しけたみがの)という漫画がけっこう面白い。二次大戦くらいの文明をもった異世界で、「屑鉄の少女たち」と呼ばれるおちこぼれ部隊が旧式戦車に乗って必死に戦う。 軍事+萌え。私もなんかそっち系の書いてみるかな。戦闘機ものなら一応ネタがあるにはある。架空の世界を舞台にしているわけじゃなく、史実の二次大戦に限りなく近いんだが……「ベルリン上空50000フィート」という話。宇宙ロケットを発明して火星に行きたかったのに戦闘機の整備士になってしまった男と、その幼なじみで、友人のロケットで火星に行こうと思っていたのに戦闘機に乗せられた男の物語だ。 駄目だ萌えがない。 さーて。 点数復活まで359日でーす!! |
6月9日 5000ヒットを達成したこのサイト。いや、人口5000人を超えた我が国。カウンタつけて以来110日。それで5000ヒットということは45ヒット/日。最近は60ヒット/日くらいだから、このままいけば9月の頭には10000ヒットを超えるはず。うーむ。 目標は「うごうご榊くん」の1000ヒット/日を抜くことだ。 遠大すぎる目標である。 さて、人口5000人突破記念でなにか企画をはじめよう。ふだん書いてる小説とはまた別に。 二次創作。うーん、これはやらなきゃと思っている。「アイボリーの罪人」いい加減に書かないとなあ。書くと言ってから1年4ヶ月。ああ。 詩。そんなもん書けん。 絵。それが描けるなら最初っから載せてるわい。 PBM(読者参加型小説のこと)。オフラインのほうで何年かやってみたが、あれはすごく大変。面白いけど、もうやだ。 設定。 これだな……これが一番手っ取り早い。 ってなわけで「資料館」を作る。明日にでも。ペンネームCの小説に関する設定が載せられる。とりあえず、「楽園迷宮」世界の年表などを。「総統暦」でもいいんだけど。それから用語辞典・人物辞典とか。すでに発表された小説のものだけでなく、まだ書いてない奴の設定も。 設定マニア乞うご期待。ただの資料ではなく、そこから物語が想像できるような、読み物として楽しめるものにしたいと思ってる。 さて、今日は電車で移動していたので、もちろん捕まらなかった。 点数回復まであと360日!!! |
6月8日 昨日は留守にしていた。だからカウントダウンなし。 けっして「早くも捕まった」というオチではない。 いや、そのほうがネタにはなったと思うけど、さすがにネタを提供するためにつかまるほど芸人じゃない。 どうでもいいけどさ、うちの会社の某氏はこのカウントダウン見て「宇宙戦艦ヤマトみたい」などと言う…… もしもし、歳がばれますよ? いくら最近ゲームになったっていったって、「あと363日」とか「14万8000光年」とかそういう数字に反応するのは年寄りだろう。 でも私も反応するんだよな……ヤマト世代じゃないのに。 というわけで、今日もやるぞ、 免許が奇麗になるまであと361日!!! また大量殺人が起こった。 私は、昨今の凶悪犯罪に関してマスコミが言うことは、どうも信用できないと考えている。 だからまたテレビが適当に「これが原因だ」と決めつけるのが予想できて、うんざりしている。次は何だ? この犯人は少年じゃないな。だから今までのやり口は使えない。やっぱり精神病か? それとも学校教育? 宮崎の時も、酒鬼原の時も、バスジャックの時も、それから新宿ビデオ屋爆破の時も、私は思った。 ああ、また私たちが巻き込まれる。私たちの好きなモノが「原因」といわれて規制される。 被害者に同情するより先にそんなことを思ってしまう私は、たしかに不人情な人間なんだろう。 でもさあ、「原因はアニメだ」「原因は教育の歪みだ」「原因は家庭環境だ」って……人間の行動には、そんなにはっきりした理由があるものかなあ。私は中学の頃、授業中に泣き叫んで暴れだしたことがあったけど、それはなにか原因があったわけじゃなく、ただなんとなくだよ。もちろん間接的な原因はあるかも知れないけど、そんなのはいくらでもこじつけられることで、結局のところそれが事実なのかどうかなんてわからない。 だから、殺人にだって明確な理由があるとは限らない。人間は、ただなんとなくで人を殺せる生き物だと思う。 すべての出発点としてそれを意識しておく必要があると思う。その上で、自分の中にあるそういうものを抑制しようと努力するべきだと思うな。私はそうしたい。自分が電波系であることがよくわかっているから。 とかなんとか、「私には犯人の心が判る!」みたいなことを言ってしまうのも、マスコミのありがちなパターンなんだけどね。 |
6月6日 たった一日で、撲滅委員会は免停スレッドと化してしまった。みんなけっこう免停の知識いいかげんなのね。講習を受ければ減るけど、1日で済むとは限らないよ。30日→1日、60日→30日、そして90日→45日だよ。さらに恐ろしいのが、免停の回数を重ねれば重ねるほど、「次に免停になるまでの点数」が減るということだ。普通の人は6点違反しなければ免停にはならないが、私にはもともと持ち点が2点しかなかったのである。 とりあえず今日はつかまりませんでしたーっ! 点数が元に戻るまで363日!!!! これからも、家に帰れる日は毎回カウントダウンするぞ。 今日は雨が降っていた。今までは私は「雨はやだなあ」と思っていた。だが、考えを変えた。雨は素晴らしい。雨の日は白バイが姿を消す。雨ばんざい。あと363日間雨が降り続いてくれれば私は嬉しい。 でも東京は壊滅だな。 昨日、今日と、新人の研修をやっている。 捕まるような奴が何を教えられるというのだろうか、と思いつつも、できるだけがんばってみる。 過去何度か指導はしたことあるけど、やっぱり緊張する。人に教えられるほどうまくないよ私は。地図の見方、走り方、すり抜けの仕方、接客態度、電話の応対にいたるまでじーっと見られる。気を抜けない。内心常に焦ってる。気を抜くから捕まるんだと言われそうだが、適度に気を抜くのは安全の秘訣だと私は思っている。だが「手本にならねば」と思っていると抜けない。おかげで今日は昼飯が食えなかった。ふだんはどうにかして時間を作って立ち食いするんだが。 |
6月5日 「ペンネームC撲滅委員会」より抜粋。
90日免停は講習を受ければ45日になるはず。だから実質的には45日免停。今の貯金で喰いつなげないほどの期間ではないし、その間は他の仕事(うちの会社はバイク便業務以外にもいろいろ行ってます)につくこともできるかも知れない。去年60日喰らった時は人手が余っていたらしいので、ずっと家にこもって「楽園迷宮」書いていたが。 そうはいっても笑い事じゃないよ。 これだけしょっちゅう捕まるのは、私の運転に致命的な問題がある証拠だ。いろいろうちの会社の人達に訊いてみたんだが、「ネズミ捕りで捕まった」という人はたくさんいるが、私のように「黄色い線を横切って捕まった」「一時停止義務違反で捕まった」などという間抜けはいないらしい。私だけだ。つまり根本的に観察力というか注意力がないのだ私は。 これを直さないと、今にとんでもない事故をやらかすぞ。 捕まるだけですむならまあいい。交通違反で死刑になるなんて話は聞いたこともない。 だが事故ったら死ぬ確率は大だ。 まだ(検閲)も(削除)も(自粛)もしていないのに死ぬなんてまっぴらである。 ってなわけで、心を入れ替えて、緊張感をもって走ることにした。これまでの私は、あまりにもだらけすぎていた。 具体的に何をするのかというと。 カウントダウンをする。 ペンネームCの点数が回復するまであと364日 さあ、このカウントダウンが止まるとき、それは私が誓いを破った時だ。 その時は、委員会の総力をあげて私をあざ笑ってくれ。頼む。 とりあえず、今日はもう寝よう。 ああ、でも…… シエル先輩が私を呼んでいるよお。 あとセガガガもまたやりたくなってきたよお。 夢伐戦記も書かなきゃ。 まーちの第3話なんかオチまで決まってるのに…… |
6月4日 捕まったーっ!!!!!! 白バイの馬鹿野郎! 黄色い線の馬鹿野郎! そして、そして、私の大馬鹿野郎! まだ1点残ってる。免停ではないはずだ。でも。 ああ、7ヶ月間無事故無違反だったのに(転んだことはあるが、警察を呼ばなければそれは事故じゃない)! あと5ヶ月で点数が元に戻ったのに! すべてやり直しだ。 一年……できるだろうか。あと1点で90日免停という絶望的状況で、1年間堪え忍ぶことができるだろうか? この仕事をやりながら無違反というのは、想像以上に辛い。 とにかく、一時停止と黄色い線は気を付けよう。あと転回禁止も。スピードはもうしょうがない。守りようがない。守ったら死んでしまうルールなんておかしい。 頑張ろう。この仕事を失いたくない。現に無事故無違反の人はいるんだ。人間に不可能なことではないはずだ。 |
6月3日 とりあえず、今でもやりたい、やり続けたい、解き終えたいと思っているゲームをリストアップしてみよう。 月姫。 ガンパレード・マーチ。 あとはPSOも一応はそうだな。 とりあえず今日は、午前中はガンパレやって夜は月姫をやった。 ガンパレ。相変わらずキャラが見づらい。なんでポリゴンにするかなあ。世の中には私のようなポリゴン嫌いもいるのだ。人間はやっぱりドット絵チビキャラだよ。それが一番いい。しかもだ。普通のポリゴンを使ったゲームみたいに、自分の後ろなりなんなりでカメラが固定されていればいいのに、そうでなく空間にカメラが固定されているもので、前に進むと自キャラはどんどん小さくなって画面の奥に引っ込む。だから自分がどこにいるのかわからなくなる。そういう小さなイライラがだんだん集積されてプチッといくんだ私は。疑似人工知能(群体AIとやら)でキャラが動くところなんかは、技術的にはすごく面白いと思うんだが…… それから、戦闘も戦術性があって面白いよ。パワードールみたいで。ただ、本当のパワードーラーに言わせれば「まだまだ甘っちょろい」そうだけど。 それから月姫。ようやくアルクェイドのトゥルーエンドを見た。 くそっ。 完璧だ。 私が素晴らしい物語を読んだときには、だいたい三種類の反応を示す。三種類ではなく三段階というべきかもしれない。 第一段階。この話を読んで良かった。 第二段階。こういう話を私も書きたい。 第三段階。私には、一生かかってもここまでの話は書けないかも知れない…… 三つ目のやつにぶちあたってしまうと、しばらく立ち直れない。 月姫は二と三の間くらいだ。 5本あるシナリオのうち一つをやっただけでこうなのだ、すべてを見たら一体どうなってしまうのだろう。 あとは同人誌の編集もやっていた。あまり進まなかったが。 疲れがたまっているようで、このページを書いている途中で寝てしまった。もう仕事に行かなければいけない。 |
6月2日 コールド・ゲヘナのラジオドラマを聴いた。一応私は三雲ファンなんだけど、ゲヘナはあまり好きじゃないんだ。 バーンの声がすごく意外だ。声ではなく演技もそうなんだが、すごくけだるそうな、斜に構えた感じの……あれがバーンなのか? 怠け者を装ってはいても、実は熱血漢&正義漢で、しかもその演技はけっこうバレバレというのがバーンだと思っていたが。 他のキャラは、まあ、あんなもんだろ。 肝心の内容だ。つまらないわけじゃないが、台詞がすごく説明的だ。「デッドリードライブが一瞬で三機も破壊されたわ!」とか「氷の中のドラゴンが解放される!」とか、キャラが状況を説明してくれる……不自然すぎるぞ。 しょうがないんだけどね、音しかないんだから。でもやっぱりロボットバトルを音だけでやるのは辛いよ。 「ゲーム批評」が「よみがえれセガの魂」とかいう特集を組んでいるので、久々に買ってみた。 |
6月1日 さて。今日は晴れだったが妙に疲れた。また千葉県に行かされたぞ。どうせ千葉県なら松戸のバンプレストとかの仕事は入らないものか。それが入らないんだよなあ。ゲーム会社はまれにあるんだが……アニメ会社にもたまーに行く。サンライズに行ったときは興奮したな。サンライズ前の商店街は「アニメタウン」とかいって、街灯にモビルスーツのレリーフがくっついてるんだよ。すごいぞ。もう一歩押し進めてモビルスーツのブロンズ像をそのへんに立てるべし。期待してるぞ。 この仕事の何が面白いって、やっぱりいろんな所に行けることだ。たった一日で、証券会社に行き、漫画雑誌の編集部に行き(同じ漫画雑誌でも、ジャンプの編集部とヤングアニマルの編集部では雰囲気が全く違う。後者はびっくりするほど整頓されており、全体が落ち着いた雰囲気である。いっぽうジャンプのほうは……修羅場ってる感じだ。いつ行ってもそうである)、テレビ局に行き、羽田空港に行き、工場に行き、バンダイに行き、帝国ホテルにまで行ってしまう。こんな仕事他にあるか。 今までで一番凄いと思ったのが、スペイン大使館に荷物を届けたときだな。あまりにも無警戒なので逆に驚いた。スペイン大使館は教会を思わせるデザインの古めかしい建物だった。 あとは某宇宙漫画の大家の原稿を運んだ時だ。 こういう貴重な体験ができるかぎり、私はこの仕事を決してやめないだろう。 面白いサイトを紹介しておく。 「サイコドクターあばれ旅」 本職の精神科医でありSFファンでもある人物が作ったサイトだ。 ここはすごく勉強になる。人間や人生について深く考えさせてくれる。しかも面白い。 |