第2章 逃げたもの出会うもの

 絶叫。かつて自分が殺した者が放ったような。
エリオットは、その喚き声によって、眠りの世界からこちらの確固たる世界に呼び戻された。
「この夢ばっかりだな」
 ぎしぎしと鳴るベッドの上に半身を起こす。
 ああ、そうだよな、それも当然だよな。
 エリオットはそう思った。あれだけの事をやったんだから。
 思わずにはいられない。なぜ殺したのだと。
 命令されたからだ。あたりまえのように、あいつらは言った。「原住民なんか殺しちゃえよ」と。「邪魔なんだから」と。
 そのせいだ。そう思いたかった。けれど、それを止められなかった自分、逆らえなかった自分がいる。
 家として与えられた安アパートの一室を見回す。まだ家具もろくになく、装飾もない部屋ではあるが、そこは平和だった。「血」や「死」を連想させるものは何もなかった。それほどまでに平和な空間。そしてこのアパートの外も、朝から晩まで商売や仕事に勢を出す人々が楽しく暮らしているはず。
 どこにも暴力とか、殺し合いとか、そんなものはなくて……みんな楽しく暮らしている、そんなふうに見えるのに……
 もう二度と自分は、はじめてこの星にたどりついた日と同じ目で人々を見る事はできないだろう。そう思った。
 誰でも経験することなんだろうか? 理想がくずれてしまうことなんて。
 エリオットは鏡の前に立ち、金色の髭を剃りながら思い悩んだ。苦悩の切れっぱしが口からこぼれおちる。
「みんなそうなのかな、あたりまえなのかな……」
 エリオットが自分の手を血で染めることになったのは、あの一回だけではなかった。あれ以来、車に乗って採掘や調査に出かけるたびに、誰か原住民を殺すはめになった。
 相手はただ、自分の住んでいる場所に踏み込んで暴れる「鉄のばけもの」におびえ、武器を手にしただけだと思うのだが、それでも社長は言った。
「仕事の邪魔だ。射殺しろ」
 そして仕事は終わったあとには、いつものように優しく物わかりのいい上司になってくれる。もう、何がなんだか……
 露天商で買った目覚まし時計が金属音を響かせた。
 また、あの会社にゆく時間だ。
 「いっそのこと泊まり込んだらどうだ、アパート代いらんぞ」
 社長はそう言ったが、それだけは御免だった。どんなに善意の人達なんだと判ってはいても、あの会社で寝泊まりすると、恨めしげな顔で死んでいった原住民たちに呪い殺されそうな気がしたのだ。
 鏡を前にして、エリオットは独白する。
「今日こそ、きいてみよう」

「おいマースチンよお、なに変なこと言ってんだよ。あいつらを殺さずに仕事できないかって?」
「そうです」
 煙たちこめるこの酒場で、仕事が終わってから数時間後に、エリオットは社長に疑問をぶつけていた。
 だがエリオットは真剣に言っているのに、眼鏡の奥の瞳には悲壮感に近いものが宿っているのに、社長は首をかしげるばかりだった。しばし、珍獣を見るような目でエリオットの白い顔面を凝視したのち、ふいに笑い出す。
「なにがおかしいんですか!」
「いや、おれに話があるってから、なにかと思ったらそんなことか」
「そんなこと、とは何ですか」
「いや、笑っちまってすまねえ。俺もこの星に来たときは少し驚いたが、すぐに慣れるぜ。あいつら原住民を殺すのは、ただの害虫駆除だってことが判るはずだ」
 害虫? あの人たちは命の重みがないというのか。
「ちがいます。あの人たちだって人間じゃないですか」
 その時社長の目が鋭く光った。アルコールの影響力を、何かの感情が上回ったらしい。
「……感傷はやめろよ。じゃあ人間の形をしてなけりゃ殺してもいいのか。本物の虫や獣だったら殺していいってのは、どういう理屈だ」
 エリオットは一瞬言葉につまった。
「い、生きてくために必要だから」
「だろ。俺たちがあの蛮人をぶっ殺すのも、一緒だ。ここで働いてるうちに、俺はすぐに割り切ったよ。あいつらは邪魔なんだって。若い頃は誰だって、理想にあこがれるもんさ。でも俺達は生き物を殺さなきゃ生きていけない。その生き物が、たまたま人間みたいな形してるだけだ」
「で、でも……」
 どうしても納得がいかなかった。まだ子供のように見える原住民の戦士が、勇気を振るいおこして「鉄のばけもの」に飛びかかってきた時のことが、エリオットには忘れられなかった。「鉄のばけもの」に乗ったエリオットは、マニュピレーターの先に取り付けられた機関銃で、その少年を血の海に沈めたのだ。
 そんな光景を笑いながら見ていられる人間の神経がどうにも理解できないのだ。
 迷いを捨てきれない若者の表情に、なにか強固な感情を読みとったらしく、社長はうなずく。
 だがエリオットの言葉を認めてくれたわけではなかった。
「どうしても納得できねえっていうんなら、いい物みせてやる。これを見りゃ、あいつら原住民が人間だなんて思う事はなくなるぜ」
 そう言って社長は立ち上がり、勘定を払うと、引きずるような強引さで、エリオットをある場所へ連れて行った。

「どこへ行くんですか?」
「……現実を見せてくれる場所さ」
 謎めいた笑みを浮かべる社長。
 エリオットと社長は、繁華街をはなれ、裏通りにはいってゆく。
裏通りにも店はあった。さびれた酒場……通り過ぎた。小物を売る露天商……通り過ぎた。娼館……通りすぎた。
 やがて、ある大きな建物の前にたどりついた。
 建物には看板がなく、何の店なのかは皆目見当がつかなかった。
 薄暗い店内。社長が二人分の料金を払った。
 カーテンをくぐり、エリオットはその向こうで、社長の言うとおりの「現実」を見た。
 ……まず目に飛び込んできたのは、百人を超える男たちだった。色のついた照明の下、彼らは一様に、エリオットの不快感をそそる薄笑いをうかべていた。
 彼らの前には檻があって、その檻の中に彼らの視線が注がれている。
 檻の中には裸の原住民がいた。
 若い男らしい原住民は、憔悴しきったようすで、コンクリートの上にうずくまっていた。
 もともとは筋骨たくましかったのだろう身体は、げっそりとやつれ果てていた。
 身体にはやはり模様が描かれているが、その模様がよく判らなくなるほど多数の傷が身体中をはしっていた。みみず腫れ、やけど、ひきつった傷跡……
「こ、ここは……」
 かたわらの社長はすぐに答えた。
「つかまえた原住民を見せ物にしてるところさ。面白いぜ、見てな」
 観客たちはただ見ているだけではなく、店の人間から長い鉄の棒をわたされ、その棒を檻にさし入れて原住民を突く。ある者は棒の先に火のついた煙草をつけ、ある者はナイフをくくりつける。火や刃をつきつけられてさらなる傷を負った彼は、うっと小さな呻きを漏らして身をよじった。身体の下に隠れていた茶色い尻尾が露わになった。
 尻尾だ、シッポだぜ、人間じゃねえ、動物だ。
 客たちの間に、そんな囁きが。
 客の一人がバケツ一杯の泥水を原住民にぶっかけた。彼は顔をおおって低い悲鳴を発する。そのうろたえように、客たちは大声で笑いだした。
 なんでだ? なんでこいつらは、ひとがきずついたり苦しんだりするのが、そんなに楽しいんだ?
 エリオットの眼鏡の奥の瞳に暗い感情をたたえて周囲を見回した。若者から老人までそろっている客達は、とくに悪魔のような凶悪な面構えをしているわけではなくて、どこにでもいそうな、人のいいおじさんたちだった。エリオットはこの星にきた最初のころ、金がなくて困っていた時にこんな人達に飯をおごってもらったことがあった。道に迷っていた時に親切に案内してもらっていた。
 間違いない。善良な人達だ。それなのに何故。
 すぐ後ろに社長がいることが判っていた。だからエリオットは振り向くのが怖かった。そこに社長が、勝利の微笑を浮かべて立っているのかと思うと。
 これが現実なのか。みんな、この星の原住民をいじめるのが当たり前だと思ってるか。どんなにいい人であっても。
 エリオット、小さな悲鳴を続けざまに上げる原住民の男から目をそらし、首の骨が折れそうなほど強くうつむく。
 心の中で、あまりに恐ろしい考えが頭をもたげつつあった。
 もしかして……もしかして。おかしいのは僕のほうなのかな。
 そう認めてしまえば楽になる、そう判っていた。
 だが……
 迷っているうちに、店員が甲高い声で告げた。
「はいはい皆さん。今夜の出し物はまだこれからですよ。今度は『メス』をいれます」
 その言葉の意味がわかっているらしく、客達はどよめいた。拳をふりあげ、歓声をあげる者すらいた。
 檻の奥の鉄扉が開いて、同じく裸の、原住民の女の子が放りこまれた。身体に傷はないが、どこか動きがおかしい。冷たい床の上に転がされてもまるっきり痛みを感じていないようだった。
「やれ! やっちまえ!」
 耳元で中年男が大声をあげた。エリオットはその男の目を見た。欲望にぎらついている。
 裸の女の子はゆっくり立ち上がった。自分の裸身を、なめるように這い回る数百の視線も、自分が檻に閉じこめられているということも、まるで少女は気づいていないらしかった。
 ふらふらと娘は歩く。赤い薄明かりの中に浮かぶ彼女の、細い裸の身体。原住民の女性には胸の膨らみが四つあることを、エリオットは知った。
 なにかとても嫌な予感がした。悲鳴をあげたくなるほど嫌なものを見るのではないか、という思いがあった。それでも、なぜか、目をそらすことができなかった。
 とろんとした目つきのまま、黒い髪をもつ原住民の少女は、やせ衰えた男の上にのしかかった。
 エリオットの目が細められる。まさか。
「催淫剤をぶちこまれてるんだよ」
 彼の想像を裏付ける言葉を、社長が耳元で囁いた。
「あいつらには薬が良く効くんだぜ。薬なんか飲んだこともない原始人だから免疫がないのさ」
 社長の言葉などエリオットは聞いていなかった。ただ、聞こえてくる生々しい音に、苦しみ、うめいた。なにか肉のかたまりがぶつかり合う音、荒い息づかいと唸りが聞こえた。
 激しく首を振った。右にいる男の顔を見る。左にいる青年の顔を見る。
 みんな、にやついていた。
「どうだ、あいつらが動物なみだってこと、わかったろ。人間らしさなんて、あいつらにはないんだよ。おれも、ここに来てそれが判ったよ」
 社長が、不思議に思えるほど落ちついた声で言った。
 だがエリオットは、この光景を見て、そんなことは少しも考えなかった。ああ、こいつらってケダモノに過ぎないんだ、などということは。
 ただ、胸が苦しかった。熱く、刺だらけの何かが、肋骨の間を転がり回っていた。可愛想で可愛想で、とても見ていられなかった。
 みんなは考えてるんだろうか? みんなは?
 他の奴らがどう思おうと知ったことか。そうエリオットは心の中で呟く。何かの制約がゆるんだ。何か目に見えないものかで作られた糸が、ちぎれ飛んだ。
「やめてくれよぉっ!」
 エリオットは叫んでいた。
「はずかしいと思わないのか! こんなことして! こんなことさせて!」
 言いたいことはいくらでもあったが、これ以上の言葉は出てこなかった。
 客達の視線が、いきなり叫び声をあげたこの金髪の青年に、一斉に突き刺さった。
 それは敵意にみちた視線だった。
 数十の瞳の中に浮かぶ感情は、あざけりだった。
「おい、兄ちゃん。あんまり気取るなよ」
「そうだ。ふざけるなよ」
 声に出してそう言う者達すらいた。
 エリオットはもう我慢がならなかった。勢いよく社長の方に向き直って、もう一度叫ぶ。
「やめさせてください! もう会いたくありません!」
 それだけ言って、エリオットは人混みをかきわけ、店の外に飛び出そうとする。
もうたくさんだ。もう、人間の、こんな嫌な面は見たくない。いじめるのが楽しくて、当然だなんて思ってる奴らと、これ以上いっしょにいたくない。 これからも毎日、そんな連中と仕事するなんて……嫌だ。
「おい!」
 いままでの優しそうな声ではなくて、真剣な怒りをこめて、社長が怒鳴る。
 エリオットは振り向いて、怒気のこめた視線を正面から迎え撃った。
 髭に囲まれた口が、去り行くエリオットにむけて最後の言葉を発する。
「……お前、自分だけ特別だと思いたいんだろ。でもお前も一緒だ。人間はみな一緒だ。俺達は素直で、お前は偽善者なんだよ。ただそれだけなんだよ」
 激することのない、むしろ重々しい口調。けれど、いかなる怒鳴り声よりも強く、その言葉はエリオットの胸を打った。彼はかすかに、苦痛の色を浮かべる。片手で胸をおさえた。
 いつのまにか客たちも、エリオットに敵意の視線を浴びせていた。
 冷たく痛い透明な何かに射られ、エリオットはひるむ。一瞬前まで欲望にぎらつき、血走っていた彼らの目は、いま燃え立つほどの嫌悪、憎悪、敵意、殺意……そんな種類の感情であふれかえっている。
そうだ、こんな感情だ。
 ……自分だけいい子ぶりやがって。
 ……お前だっていじめたいくせに。
 ……他の生き物を殺したこと、ねえのかよ。
 ……その目が嫌だ。お坊ちゃん。
 ……ほんとに他人を見下してるのは、あんたの方だろ。
 幾多の目が、そう叫んでいた。
「や……やめろ」
 かぼそい声でうめくエリオット。この線の細い、眼鏡をかけた金髪の青年には、それ以外なにも言い返すことができなかった。
 次の瞬間、振り向かずにエリオットは走り出す。
 ドアを蹴破るように開け、おびえて走る。
 気がつくとエリオットは、見せ物小屋から相当はなれた場所に立っていた。
 すでに夜もふけ、建物の間から星々がのぞいている。エリオットの知っている星はひとつもない。ああ、それは最初から判っていたはずなのだが。違う星空の下にいることが、こんなにも心細く思えるとは。
 どうして、こんなに……
 いまだ騒がしい人波の中で、エリオットは顔に手をあて、うつむいた。
 こんなにこんなにたくさん人がいても……ぼくには居場所がない。誰一人ぼくのことを……
 それがはっきりわかった。
 社長のいった言葉。ほんとなのかも知れない。
 自分は特別だと思いたい。その言葉、つまり社長のいった言葉の前半、まちがいなく事実。だとすれば後半も。
 嘘なのだろうか。偽善なのだろうか。自分の考えは?
 だがそれでも、ここにいつづける事が苦痛だった。
 ここにいると、周りの数千という人々のざわめきが、すべて罵る声に聞こえてならなかった。
 背後に常に追いかけるものの気配を感じながら、エリオットは走った。
 もう、ラルゴの会社には戻らない。
 どこか、とおい所へ……
 一心にそれだけを願っていた。

 けれど、一ヶ月後。
 エリオットはこの都市ホープシティの、場末の路地裏に、毛布一枚にくるまって転がっていた。なにかの腐った臭いが鼻につく。もうしばらくここで生活すれば、エリオットの身体自身も同じような悪臭を放つようになるだろう。
 なにも好き好んでこんな場所で寝ているわけではない。もう路銀も底をつき、泊まる場所がないのだ。
 社長に反発して、あの会社を飛び出して一ヶ月。あれからいろいろな仕事についた。ホバートラックの運転手。金属加工工場の工員。鉱山のボイラー技師。もっている機械関係の技能を生かせることを何でもやった。
 けれど、どんな職についても数日で、あの見せ物小屋で感じたのと同じような痛みを胸に、その職場を飛び出すことになった。
 同僚や上司は、どこの連中でも、こう言った。
「原住民だったら給料払わんで済むんだけどな。あはは」
「冗談でしょ、あんなのと一緒に働きたくないっすよ」
「そうだな、あいつら字もかけない、棒ふりまわしてまじないを唱えるしかできない奴らだもんな」
「そうそう、今度アークル十四番地に面白い店ができたんですよ。原住民を奴隷にして遊べるんです」
「そりゃいい。一度上下関係ってものを、あいつらにも教えてやらなきゃならんからな。この間も、トラックが一台あいつらに襲われたらしい。とんだ盗っ人だ」
 それを聞いたエリオットは即座に激発した。
「なに言ってんですか! 原住民たちは、そんな家畜みたいなものじゃありませんっ! トラックを襲ったことだって、人間たちのひどい有り様に復讐したんです! 当然です!」
 次の瞬間、職場の空気は凍り付いて。
 そうだ、いつもそうだ。だからエリオットはまた仕事を変えなければならなくなった。俺は俺の生き方でいく、そんなことのできないエリオットは、爆発したら最後仕事をやめる他なかった。
 爆発するまでの期間が、しだいに短くなっていった。
 そんな生活を続けて金もつきたし、さあ、どうするかな。
 どこへ行っても、人間たちは、みんな原住民のことを馬鹿にしてるし。
 どんなにお前だって同じなんだって言われても、忘れられないのだから仕方がない。あの夜、薬にやられて同族を組み敷いた、あの黒髪の、やせた身体の少女。彼女の身体の下で、鎖につながれた原住民の若者が、どんなに悲しげな表情をうかべていたか。
 そう、あれは、あの瞳は、いままで二十五年間生きてきたなかで、一度として見たことのないほど、痛々しい輝きを宿していた。
あれが当然だって言うのか。
 いや、駄目だ。どんな理由があっても、それだけは納得できない。
 なにかに突き動かされるようにエリオットは立ち上がった。ろくに飯を喰っていないので、ただそれだけの動作で疲労感が全身をつつむ。身体がけだるく、妙に手足が冷たく感じた。
 この街にはやっぱりぼくのいるべき所はない。
 そう思ってエリオットは、このホープシティの外壁の門にやってきた。
 門には検問があった。
「出してくれ」
「歩きで、どこへ行くんだ?」
「外へ。あとは特に考えてない」
「冗談だろ。一人で外へ散歩かい? しかもあんた丸腰じゃないか。そんなんじゃ原住民に捕まって丸焼きにされて喰われちまうよ」
 そう、そう言われている。本当かどうかは判らないが、原住民は地球人を喰うという噂があるのだ。あいつら鉄のつくり方も知らない野蛮人だから、当然そんなこともするだろうなあと、街行く人々は噂していた。
 たとえ本当だとしても、あいつらがそれだけ僕たちを憎むようになった理由を忘れるな。みんなみんな僕たち地球人が悪いんだ。
 よっほど、そう言ってやろうかと思ったが、どうせ無駄だろうと思ったエリオットは反論せず、ただ、これだけ言った。
「どうだっていいじゃないか。ここは、自由の星だろ」
 その言葉に含まれた毒の強さを感じとって戦慄したのか、それともエリオットの捨て鉢な目つきを見て言葉の無意味さを悟ったのか。いずれにせよ検問の男は、「かってにしな」と、エリオットを通してくれた。
 街を包む城壁の外。そこはまだ、農地だ。
 小麦が一面に広がり、葉をそよがせている。その畑のはるか向こうには、牧場がある。遺伝子工学でつくられた、もっとも効率よく育成できる食肉用家畜、アール牛がのろのろと歩きながら草をはんでいる。
 もちろん、みな文明世界からもってきたものだ。この星の自然からそのまま恵みを得ようなどと考えるものはいないらしい。
農地で作業機械に乗って働いている男女が、浮遊機械に乗って農薬をまいていた男が、足をひきずって歩いてゆくエリオットに目をとめた。が、話しかけてくる者はいなかった。
 歩く。ただひたすらに。
 小麦畑が途切れ、牧場に入った。
 どこまでも連なる柵。品種改良された草と、ぶくぶく太ったアール牛。ところどころにある家やサイロなどの建物。
 それらすべてに目もくれず、歩みを止めることなくエリオットは進み続けた。何時間でも。
 喉が渇き、胃が鳴った。身体の節々から無音の叫びが放たれるようになった。
「だからなんだって言うんだ」
 声にならない言葉を自分自身に叩きつけるエリオット。
 日が登る。照りつける太陽の輝きが、くっきり黒い影を地面に残す。エリオットは影をともなって、なおも歩く。歩きつづける。
 明日こそはきっと。きっと。
 少しずつ薄れてゆく意識。
 どんなに歩いても歩いても決してたどりつくことの出来ないあの遥かな地平、あの向こうに、汚くない世界が広がっているんだ。きっと。
 そんな夢想が彼のなかでふくらみ続けていった。
 どれほど歩いただろう。
 太陽が沈み、また登った。
 あたたかい匂いをはなつ大地に倒れこみ、死んだように眠るエリオット。土色のコートが本物の土にまみれた。朝の光が彼の白い頬をつつく頃、また彼は起き出して、遠い場所をめざす。
 何日つづいただろう。
 食べる物もなくて、地図もなくて、ただ、「ここから逃げたい」、それだけを思って歩き続けた数日の時。
 ある時エリオットは、まだ昼間だというのにその場に倒れ伏した。
 金魚のように口を開閉するエリオット。
 腹が減って、というより、カロリーが足りなくて、もう動けなかった。かぜをひいた時のように、身体がだるい。
「そうか、そうだよな」
 エリオット、胸の奥の、震える思いを言葉にして吐きだした。誰も聞く事のない言葉。
「やっぱりぼくも人間なんだから……きれいな世界にはいけない、のかな」
 そうだよな、そうだよな……
 どうせ……
 そこまで思って目を閉じた。
 やがて自分の上を渇いた風が通りすぎていって、風がやんだ頃には、自分はもう生きた人間ではなくって。
 ……けれど、そうはならなかったのだ。
 死は訪れず、その代わりに、なにか硬い冷たいものでつつかれた。
「……おまえ、なにしてる? こんなところで」
 浴びせられた声も冷たかった。
 目を開けると、いきなり、茶色い顔をした娘の顔が視界いっぱいに広がった。
 自分をのぞきこんでいる娘。額をはじめ、顔にはカラフルな模様が描かれていた。瞳のかたちも、少しエリオットたちとは違う。間違いなく原住民だった。
 原住民の娘が、自分をのぞきこみ、首筋に石槍を突きつけている。
 そんな現実を認識したとき真っ先にエリオットが感じたのは罪悪感だった。助かった、という歓喜ではなく、命を他人の手に握られているという恐怖でもなくって。
 白く細い顔がひきつった。
 娘の顔や瞳の輝きは、野生動物のそれを連想させるものだったから。獰猛さは感じられても、ずるさ、きたなさ、そんなものとは無縁におもえたから。こんな綺麗な瞳、こんなにも凛然とした表情……ダメだ、ぼくは見ていられない。自分が、あまりと言えば汚いものに見えたのだ。
「おまえ、こんな所で何をしていた。答えろ」
 娘はもう一度詰問する。ぶっきらぼうな口調ではあるが、いままで見た原住民のなかでは、いちばんと言ってもいいほど地球語がうまい。
 エリオットが一瞬答えにつまると、石槍に力がこめられた。
「寝てた……」
 かぼそい声でこたえるエリオット。陽光がまぶしい。目を薄く開け、娘を見上げながら言った。
「寝てた? 馬鹿な」
「ほんとだよ。歩き疲れて、腹も減って……それで、まあいいやって」
 目を閉じたまま、エリオットは答えた。本当のことだった。
 故郷で帰りを待っている者がいるわけでもないから、このまま生きていても汚いインチキな生活を送るだけだよなあと思った瞬間、「もうどうでもいいや」という考えになってしまっている。
 石槍がどけられた。代わりに、娘の手が伸びてくる。手には二つの袋があった。
「水と食べ物」
「くれるの?」
 無表情さをたもったまま、小さくうなずいた。
 その動作が地球人のそれと同じ意味であることを確認もせずに、エリオットは袋をひっつかみ、口を開いてかぶりついた。とにかく身体が勝手に動いていたのだ。
 生きているのが馬鹿馬鹿しいと、どんなに思ったところで、身体が食べ物を求めることは変わりないらしい。
 水には妙な臭いがついていたし、食べ物も干し肉と木の実だけだった。だが、うまかった。喉を鳴らして胃袋に流しこむ。
 大きくため息をついた。
 実に現金なことに、ただ空腹から自由になっただけで、あれほど重苦しく絶対的なものに思えた厭世感が、ずいぶん弱く薄いものになっていた。
 世界への憎悪にかわって、疑念がわいてきた。
「あんた……どうして、私のことを助けるんだ? 敵だよ。地球人だよ。それなのに、なぜ」
 エリオットの言葉が耳に入ると、すぐに娘はうつむき、草のまばらに生えた大地を凝視して、ぼそぼそと言った。
「……大地の声が、そうしろと言っている」
「大地の声?」
「そう。大地は教えている。生きるもの、みな友達。飢える者あれば施し、救え。苦しむ者あれば、身をなげだし救え。我らドロパの民は大地にしたがって生きている。逆らうこと、できない」
 決然とした口調ではある。けれど、なぜこの娘は、これほど断定的な言い方をしながら、こっちの目を見ながらしゃべらず、そっぽを向いているのだろう? どうして、拳が小刻みに震えているのだろう?
 エリオットはすぐに疑問の答えを出した。
 ああ、そうだ。このひと、自分に嘘ついてるんだ。
 本当は、助けたくなんかないんだ。よくよく見れば、それがわかる。
 下向いて震えているのは、今にもわめき散らしたいのを、泣きながらつかみかかりたいのを、必死の思いでこらえている、その感情のあらわれなのかも知れない。
 うつむいたその顔。目をこらせば、睫のあいだに滲んだ涙すら見えるかも知れない。
 それほど、耐えがたいほどに。
 エリオットは確信した。この人は、地球人の事を心底嫌っている。おそらく憎んですらいるだろう。それなのに、すべての生き物は尊い、そんな考えに導かれて、ぼくに食べ物をくれた。
 なんという、凄い人なんだろう。
 ごく素直に、なにか痛みに近い感覚が胸の奥からこみあげてきた。
 ひるがえって地球人たちはどうだ。いくら理屈で、人間は平等だ、人権だ、平和だ愛だと言ったところで、じっさいやってる事はなんだ。ぼくは知ってる、ぼくは知ってるんだぞ。
 この星だけが特別ってわけじゃない。今の時代が特別ってわけじゃない。昔からそうだった。人間が空を飛べなかった時代から今までずっと、平和や愛を説く者は数多くいたが、どんな高潔な精神性も、罵られ弄ばれる「下等民族」「下層階級」をなくすことはできなかった。
 金の髪の若者の中で、なにか強固な考えが形成されはじめていた。
「……きみ」
「なんだ、地球人」
 とつぜん目つきをかえ、急にけわしい顔になってそう問う娘。一言つけくわえる。
「あの煙くさい街に、すぐ帰れ。ここはお前達の汚していい場所ではない」
 エリオットは、その言葉をきいてますます決心を固め、こう言った。
「もう戻りたくない。君達と一緒に暮らしたいんだ」
 娘の表情がいっそうこわばった。すぐに激した言葉が吐き出される。
「なにを馬鹿な! ふざけるな」
「ふざけてなんか、いないよ」
 エリオット、草と土の上に転がっていた身体をゆっくりと起こしながら、一語一語区切るようにして話しはじめる。
「本気なんだ。どう話せばいいのか、それはよくわからない。つまり、なんというか、ぼくは、ううん、地球人の中にも、地球人のことが嫌になった奴がいて、どうしても逃げだしたいって思ってる奴がいて、たとえば、ぼくがそうだっていうこと。判らないかな、判らないだろうな。だから……」
「もういい、だまれ」
 相変わらずの口調で、娘がいった。
 場違いなほどの麗らかな日差しの下、浅黒い肌をもつ、半分裸の娘は、妙な透明な物を顔にのせた、頭のおかしな地球人の青年をじっと睨む。
 あまりといえば、真剣な眼。
 その瞳の奥にあるものを本能的に悟って、思わず息を止め、だまって娘の視線を真正面から浴びてしまうエリオット。
 言葉はいらない。言い訳も能書きを聞きたくない。きっと、そう言っているのだ。
 ただ、その瞳だけを見つめて。
 立ち上がったエリオットと、ヤックにまたがった褐色の肌の娘は、十数秒間におよぶ凝視をつづける。
 娘の黒い瞳は、さんさんと輝く太陽光を照り返していた。
 人間の目とは違う瞳のかたちをしていた。かといって犬にも猫にも似ていない。放射状にひろがるこの瞳に、なにか生物学上の意味があるのだろうか? 専門外のことなので、エリオットにはわからなかった。
 そう、この目は不思議な鉱物だ。黒いスターサファイアだ。
 その凝縮された闇に吸い込まれ、エリオットは視点を固定した。
 何度か、弱い風がその場を吹き抜け、草がそよぐ。髪が揺れる。
 ややあって、娘は言いはじめる。
「お前の眼は、腐っていない。他の地球人たちとは違う。よいのだな、二度とは帰れぬ、よいのだな」
 そう言ったのだ。唇を噛みしめ、頬をひきつらせながら。
 エリオットは微笑んだ。そして問う。
「それも、大地の意志?」
 娘は、また大きくため息をついて。
「ちがう。わたしが思ったんだ」


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