*カルテ10 98.8.11

      「あの〜、まだ洗わなきゃダメですか?指先が冷たくて、痛い‥‥」
      狂ったように消毒をしていたゼフェルは、仕方なく手首を放し
      深いため息をついた。

      受付で待たせておいた先程の患者を再び招き入れると、
      了承を得た上で採血をする。
      アルコール綿で揉みほぐした耳朶をランセットで穿刺し、
      検査機関提出用のろ紙に血液を染み込ませた。
      速達で郵送したとして、結果が出るのはいつになるだろう‥‥‥

      「ああっ、もうこんな時間!急いで着替えて出かけなくっちゃ、
      コンサートが始まっちゃいますよ〜ぅ。」
      冷えて赤くなった指先に息を吹きかけながら、
      アンジェリークは至ってお気楽に ゼフェルを急かす。
      ――――ま、今更ジタバタしたって、しゃーねーか。
      受付を閉めて振り返ったゼフェルは、
      こちらに向かって歩いてくるアンジェリークが、その場にゆっくりと崩れ落ちるのを
      モノクロームのコマ落としで見ていた。
      「アンジェ―――――ッ!!」

      ――――――――――――

      「あーあ、残念。コンサート、もう終わっちゃいますね‥‥‥。
      あのね、リュミエールの『睡蓮』って曲、
      わたしが診療所で初めてゼフェル樣に会った時も、その次の時も、いつも流れていたの。
      ‥‥あの時‥‥‥最後の治療の日にも、ね。
      もう一度、二人で聴きたかったな、あの曲。」
      有線放送のBGMで流しているヒーリングミュージックなどに関心はないので
      ピンとこなかったのだが、『睡蓮』は、そういえば近頃よく耳にした。
      透明感のあるハープの、幾重にも重なる静かな水紋を思わせる調べは耳に心地よく、
      嫌いではなかった。
      「‥‥そっか。そんなら‥‥明日CD買ってやっから、それでガマンしろ。
      今日は、ゆっくり休め。」
      アンジェリークにブランケットを掛け直しながら、
      静かにゼフェルは言った。

      ――――――――――――

      「過労‥‥かよ。」
      「そ。寝不足続きだったって言うし、しっかり休んで〜、栄養のある物食べれば、
      すぐ治るでショ。」
      倒れたアンジェリークを抱えて駆け込んだ顔見知りの内科医は、
      点滴の指示を出しながら、事もなげに言った。
      脱力しつつ、そこから程近い新居のベッドに有無を言わせず押し込んだ。
      ―――どうせならもうちょっと違う状況で使いたかったが。

      余程疲れていたのだろう、しばらくすると、小さな寝息が聞こえはじめた。
      もうすっかり日も暮れた。
      なんだか、呼吸する事を忘れていた気分だ。咽が乾いた。
      洗面所で頭から水を被り、顔をあげると
      薄暗い鏡の中に、17才のゼフェルが居た。
      「けっ、何やってんだよ、じれってー奴だな。
      アイツの事、好きなんだろ?とっととモノにしちまえばいーじゃねーか。」
      確かに、17才だったなら情熱のままに突っ走っていた事だろう。
      17才の、少年であったなら。
      苦く笑って、鏡に飛び散った水滴を拳で拭う。
      ――――クッ、臆病だって言いてーのか、このオレが?
      ‥‥‥あいつを
      アンジェリークを。
      絶対守ってやるって、決めたんだ。
      透き通ったガラスみてーに、キラキラしてるあいつのココロ。
      壊してえ‥‥‥壊したくねえ
      オレは、あいつを――――

      部屋に戻り、ひとつ深呼吸すると、受話器を取った。
      ――はい、リモージュです。
      「夜分すいません、ゼフェルです。じつは夕方、アンジェが倒れて‥‥いえ、大丈夫です。
      軽い過労だそうで‥‥はい。‥‥‥そうです。
      ‥‥‥で、今アパートの方で寝てるんで、今日はこのままこっちで‥‥はい。
      ‥‥‥はい。それじゃ。失礼します。」
      ふ―――っ。
      受話器の向こうで、アンジェリークの父親は、静かに、少し寂しそうに言った。
      娘をよろしく頼む、と。

      夜も更けた。
      飲みかけのウィスキーのオールドファッショングラスをキッチンに片付け、
      ベッドルームに足を踏み入れた。
      静かにしたつもりだったが、ひと眠りしたアンジェリークは物音に気付いて目を覚ました。
      「ゼフェル樣‥‥」
      「まだ疲れてっか?今夜は、このまま泊まってけ。親父さんには連絡しといたかんな。」
      ベッドに入り、金の髪を指で梳きながら、そっと語りかける。
      「ホラ、寝ろって‥‥。」
      触れているかどうか分からないくらい、そっと唇を重ね合わせたまま
      ふたり、眠りの淵に落ちていった。

      売り切れて注文したリュミエールのCDと「異常なし」の血液検査結果が届いたのは、
      同じ2日後の事だった。
       

          カルテ11につづく  長期の指しゃぶりは歯列不正(開咬)の原因になります。



      1998.8.11 ROM /個人で楽しむ以外の転用、複製及びHP上での使用をしないで下さいね。