「あら〜、可愛らしい看護婦さんが入ったのねぇ〜。先生の奥様でいらっしゃるのかしら?」
「いえ‥‥まだ、そういうわけじゃ‥‥。あのっ、婚約者の(ポッ)アンジェリークです。
よろしくお願いしますねっ。」
「‥‥‥‥おい。」
年輩の常連患者と歓談中のアンジェリークの腕を掴んで
死角の消毒コーナーに連れ込むゼフェル。
「どうかしたんですか?何だか、怖い顔‥‥。」
「おめー、何考えてんだよっ、患者にいちいちペラペラ余計な事しゃべってんじゃねーや。
‥‥ったく、こっぱずかしーぜ。」
「ごめんなさい‥‥‥。」
ここは、ゼフェルの仕事場。男の聖域なのだ。ゼフェルの意向に逆らったり、
仕事の邪魔をしてはいけない、と、自らに言い聞かせていたはずだったが、
つい、うれしくて口が軽くなってしまったアンジェリーク。
――――反省してんなら、いーけどよ‥‥
しかし、少々様子が変だ。
「はずかしいんですね。私みたいなちんちくりんと、って思われるのが、
ゼフェル様はイヤなんですね‥‥。」
パタパタと涙が白衣にしみをつくる。
「なっ‥‥何バカ言ってんだよ、ンな事思ってねーよ。泣くなッ!
‥‥‥おめーは、その‥‥‥だ――っ×××!」
ナースキャップの金髪を抱きかかえて、何かを言おうとするのだが、
自分でもイヤになる位、こんな時には上手く紡げない「言葉」
手先の器用さの何分の1かでも、言語中枢に回す事ができたらいいのに。
「そんな事‥‥思ってねーから、泣くな。な?」
ご機嫌を治すための、砂糖菓子みたいなKissを1つして、放り出した仕事に戻った。
―――――――――――――――――――
――――ふぁ‥‥‥。
月も半ば。
新しい生活には慣れたが、ゼフェルの手助けどころか足を引っ張りまくりのアンジェリーク。
毎晩 書棚から医学書を持ち帰っては、遅くまで勉強しているのだが、
疲れた体と頭脳にはなかなか浸透せず、寝不足ばかりが積もってゆく。
「ダメダメ、こんな事じゃ。しっかりしなくっちゃ。」
あくび涙を指で拭い、頬を手のひらで「ぺしぺし」と叩いて、診療室へ向かう。
「うふっ。今日は『リュミエール』のコンサートに行くんだもの。
とっても楽しみ。ゼフェル様と2人であの曲を聴けるんだわ。」
ルヴァにもらったチケットの日付。
あれから、不承不承、ゼフェルは同行を約束した。
結局、アンジェリークの喜ぶ顔にはかなわない、といった所。
そして 夕刻。
少し早めに受付を締め切ったので、初診で来たこの患者が最後だ。
「あー、コイツはちっとばかり深ぇな。痲酔すっか。」
「はい、痲酔の注射します、少しチクッとしますけど、がんばって下さいね〜。」
少々深い窩洞だったが、神経は取らずに間接覆髄で済みそうだった。
15分程で、スムーズに今日の分の治療が終わる。
「はい、終わりましたよ。お口をゆすいで下さいね。」
診療台の背板を起こし、器具の片付けを始めるアンジェリーク。
注射器から使用済のキシロカインカートリッジを抜き取り
ディスポーザブルの注射針をねじって外す。
針先にキャップをしようとした、その時、
―――――チクッ!――――
「あっ、痛‥‥‥。」
ラテックス手袋の指先を、33Gの極細注射針は易々と突抜けて、
内側に赤いドットを滲ませた。
「バッ‥‥‥バカ!刺したんか?あれ程気を付けろって‥‥チクショー!
おい、テメー何か妙な病気持ってやがったら、ブッ殺すぞ!」
退室しかけた患者に悪口雑言をわめき散らしながら、すばやくアンジェリークの
グローブを引き剥がす。
手首をひったくるように掴むと、レバーを全開にした水道の下に放り込む。
跳ねた水しぶきが辺り一面に飛び散るのなんかお構いナシだ。
驚いて呆然としている、その手の主に替わって
青ざめながらテキパキと消毒薬を使って作業を進めるゼフェル。
「(まだだ。まだ完全じゃない。コイツにもしもの事があったら、オレは‥‥‥)」
カルテ10につづく 予診表の既往症は正確に記入して下さい。