*カルテ9 98.6.24

      「あら〜、可愛らしい看護婦さんが入ったのねぇ〜。先生の奥様でいらっしゃるのかしら?」
      「いえ‥‥まだ、そういうわけじゃ‥‥。あのっ、婚約者の(ポッ)アンジェリークです。
      よろしくお願いしますねっ。」
      「‥‥‥‥おい。」

      年輩の常連患者と歓談中のアンジェリークの腕を掴んで
      死角の消毒コーナーに連れ込むゼフェル。
      「どうかしたんですか?何だか、怖い顔‥‥。」
      「おめー、何考えてんだよっ、患者にいちいちペラペラ余計な事しゃべってんじゃねーや。
      ‥‥ったく、こっぱずかしーぜ。」
      「ごめんなさい‥‥‥。」
      ここは、ゼフェルの仕事場。男の聖域なのだ。ゼフェルの意向に逆らったり、
      仕事の邪魔をしてはいけない、と、自らに言い聞かせていたはずだったが、
      つい、うれしくて口が軽くなってしまったアンジェリーク。
      ――――反省してんなら、いーけどよ‥‥
      しかし、少々様子が変だ。
      「はずかしいんですね。私みたいなちんちくりんと、って思われるのが、
      ゼフェル様はイヤなんですね‥‥。」
      パタパタと涙が白衣にしみをつくる。
      「なっ‥‥何バカ言ってんだよ、ンな事思ってねーよ。泣くなッ!
      ‥‥‥おめーは、その‥‥‥だ――っ×××!」
      ナースキャップの金髪を抱きかかえて、何かを言おうとするのだが、
      自分でもイヤになる位、こんな時には上手く紡げない「言葉」
      手先の器用さの何分の1かでも、言語中枢に回す事ができたらいいのに。
      「そんな事‥‥思ってねーから、泣くな。な?」
      ご機嫌を治すための、砂糖菓子みたいなKissを1つして、放り出した仕事に戻った。

      ―――――――――――――――――――

      ――――ふぁ‥‥‥。
      月も半ば。
      新しい生活には慣れたが、ゼフェルの手助けどころか足を引っ張りまくりのアンジェリーク。
      毎晩    書棚から医学書を持ち帰っては、遅くまで勉強しているのだが、
      疲れた体と頭脳にはなかなか浸透せず、寝不足ばかりが積もってゆく。
      「ダメダメ、こんな事じゃ。しっかりしなくっちゃ。」
      あくび涙を指で拭い、頬を手のひらで「ぺしぺし」と叩いて、診療室へ向かう。
      「うふっ。今日は『リュミエール』のコンサートに行くんだもの。
      とっても楽しみ。ゼフェル様と2人であの曲を聴けるんだわ。」
      ルヴァにもらったチケットの日付。
      あれから、不承不承、ゼフェルは同行を約束した。
      結局、アンジェリークの喜ぶ顔にはかなわない、といった所。

      そして    夕刻。

      少し早めに受付を締め切ったので、初診で来たこの患者が最後だ。
      「あー、コイツはちっとばかり深ぇな。痲酔すっか。」
      「はい、痲酔の注射します、少しチクッとしますけど、がんばって下さいね〜。」

      少々深い窩洞だったが、神経は取らずに間接覆髄で済みそうだった。
      15分程で、スムーズに今日の分の治療が終わる。
      「はい、終わりましたよ。お口をゆすいで下さいね。」
      診療台の背板を起こし、器具の片付けを始めるアンジェリーク。
      注射器から使用済のキシロカインカートリッジを抜き取り
      ディスポーザブルの注射針をねじって外す。
      針先にキャップをしようとした、その時、
      ―――――チクッ!――――
      「あっ、痛‥‥‥。」
      ラテックス手袋の指先を、33Gの極細注射針は易々と突抜けて、
      内側に赤いドットを滲ませた。
      「バッ‥‥‥バカ!刺したんか?あれ程気を付けろって‥‥チクショー!
      おい、テメー何か妙な病気持ってやがったら、ブッ殺すぞ!」
      退室しかけた患者に悪口雑言をわめき散らしながら、すばやくアンジェリークの
      グローブを引き剥がす。
      手首をひったくるように掴むと、レバーを全開にした水道の下に放り込む。
      跳ねた水しぶきが辺り一面に飛び散るのなんかお構いナシだ。
      驚いて呆然としている、その手の主に替わって
      青ざめながらテキパキと消毒薬を使って作業を進めるゼフェル。

      「(まだだ。まだ完全じゃない。コイツにもしもの事があったら、オレは‥‥‥)」

          カルテ10につづく   予診表の既往症は正確に記入して下さい。



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