夕闇が迫りつつあった。
白衣にカーディガン、といういでたちのアンジェリークを
長時間放っておくわけにもいかない。
第一声として繰り出すべきカードを探し当てられぬまま
私室のハンガーポールから、皮ジャンをひったくり
ゼフェルは路地に飛び出した。
カギの開いたままの無人の診療所の奥で、裸のハンガーがカラカラ音を立てて揺れていた。
セピアの空気に、吐息が淡い煙を描く。
「‥‥‥のバカ、どこ行きやがった‥‥」
2つ先の角まで走り、四方を見渡したが それらしき人影はない。
念のため、ルヴァの薬局を覗いてみるが、店内を一瞥すると
店主の「あ〜〜〜〜」の声が終わらぬうちに 走り去っていった。
「ゼフェルじゃありませんか〜〜〜〜、どうしました〜〜〜?‥‥‥‥って、
もういませんね、あはは‥‥は‥‥。」
言い終わった頃には、残像さえも裏通りに消えていた。
白いハンカチをはためかせるように、帰巣する鳩の群れが夕空を旋回していく。高く、低く。
その樣を目で追って 視線が着陸した先の、小さな公園
ジャングルジムと、古いブランコ。小さな噴水が水羽をたたむと、その向こうに
――――みつけた――――
アンジェリークだ。
サクサクと踏み締める砂混じりの土に、長い影が伸びて‥‥
それは、一瞬で辿り着きたいゼフェルの気持ちより先に、体を追いこし
アンジェリークは追いかけっこの鬼の到来を知る。
ふわり、と顔をあげて金の髪を揺らす。
追い詰められたはずの狐は、しかしもう逃げようとはしなかった。
少しくすんだ碧の瞳。涙の後の。
この色は、いつか見た。
初めて会った日の‥‥‥‥
あの時と違うのは、今、その瞳が、優しさをたたえて微笑んでいる事。
―――でもって、こいつのほっぺたが腫れてねー事、って言ったらまた怒るだろうな。
「何やってんだよ。」
「あのね、鳥たちや、子供達が 家に帰っていくのを見てたんです。
みんな、あったかい場所へ 帰るんだな、って。
そしたら 私も、私の帰る場所が 恋しくなりました。‥‥‥やっぱり、私‥‥‥」
「‥‥‥帰ろうぜ。」
オレ達の場所へ―――――
噴水の縁に腰掛けているアンジェリークを立たせるために、延ばした指先が冷えた手に触れ
――――パチッ――――
青い小さな火花が散った。ミントの色した、電気の火花。
ミントの刺激が、指先から胸に―――その互いの胸にピリッと走るちいさな電流
いつか、こいつが言ってた。指先で触れただけで、胸が締め付けられる感覚
けれどもっと強く。
ゼフェルはジャンパーでアンジェリークの冷えた体を包み込み、
そのままぎゅっと 抱きしめるのだった。
―――――――――――――
診療所の片付けと施錠を済ませ、アバートの部屋では土鍋がもうもうと湯気をたてていた。
「ふう〜、あったまりますね。ふふっ。やっぱり寒い時はおでん!だと思いません?
どうですか?牛スジのおダシで、昨日から煮込んだんですけど‥‥‥」
「ん、んめーよ。」
「良かった!これ、得意なんです。早く食べて頂きたくって〜」
「あのよー。」
「はひ‥‥‥何れすか?レフェルはま‥‥」
ちくわと格闘しながら、アンジェリークは屈託ない。
「今度の連休、つきあえよ‥‥‥‥オレの、実家。
感謝祭前には帰ってくる。いくら近いつっても、おめーが家族と過ごす最後の感謝祭だからな。」
「ゼフェル樣‥‥‥」
「んだよ、イヤか?」
ぶんぶんぶんぶん!!!
「―――嬉しい、です。」
窓の外の街路樹に飾られた赤と碧の電飾のせいか、熱燗のせいか
湯気のこもった部屋のせいか‥‥‥‥赤い頬のふたりは‥‥‥
感謝祭には、家族と過ごそう。
離れていても、帰っておいで。あったかい場所に。おまえの 還る場所に。
ちいさな炎を灯して、日々の糧と幸せに、感謝を捧げよう‥‥
カルテ13につづく 歯質強化にはフッ化物の適用が有効です。