*カルテ13  98.11.24

       ストライプに切り取られた朝日が 低く部屋に差し込んで、瞼をノックする。
      羽根布団の中でしかめっ面のゼフェルは
      さながら地面からうっかり顔を覗かせたモグラの様相で。
      ――実際、地下にある診療所には朝日もパンをねだる小鳥の声も届く事はなく――
      彼を地上に引っ張り出した天使は、そろそろやってくる時刻。

      週末の駅のホームで名残りを惜しむ遠距離恋愛の恋人にするように、
      一度ぎゅっと布団を抱きしめて。それから‥‥
      しぶしぶ
      ゼフェルは起き出した。
      あと5分、寝ていても良かったのに。

      小憎らしい太陽の顔を拝むべくブラインドを上げると
      窓枠にはうっすらと白い縁取りが施されていた。
      ゆうべ降った雪の名残り。
      窓に額をくっつけて、通りの向こうを見渡そうとすると すぐに吐息ですりガラスになる。
      ‥‥ほうっ。
      わざと吹くような唇の形に、頬の粘膜にぴりっと痛みが走る。
      「――――痛ぇ。」
      まだ半分寝惚けた状態で、ドレッサーの引き出しから軟膏(オ●テクサー:B●e)を取り出し、
      指先でアフタ(口内炎)に乗せると 広がる甘ずっぱいレモンの味がゆっくり意識を覚醒させる。
      ―――あー。メシの後に塗りゃ良かった‥‥。

      「おはようございまーす!」
      ドアを開けるなり、元気なあいさつのアンジェリークは
      「‥‥よぉ。」
      珍獣を見るような丸い目をして、それからにっこりと笑った。

      クロワッサンにシーザーサラダ
      「ああ、オレ今日はコーヒーは‥‥」
      「え?」
      「ん‥‥‥いや、‥‥‥ミルク入れてくれ。」
      「なんだか、今日は色々と珍しいですね。どうかしました?」
      あれ程寝起きの悪い人が、起こす前から起きてるし、いつもはブラックなのに?
      マグカップを受け取って一口。
      薬と混ざって妙な味になる。心の中で思いきり眉間に皺を刻むが、表向きは事も無げに
      「たまには気分変えてみてぇんだよ。」
      ――女に振り回されて胃を悪くした挙げ句の口内炎なんて、カッコ悪くて言えっか。
      「へんなの!」
      日溜まりのようなくすくす笑いを見ていると、薬の味のコーヒーすら悪く無いと思えてしまう。
      恋の病の方はかなり重傷らしかった。

      ――――――

      蒼い薔薇。
      そんな形容がぴったりだと思えた。
      治療を終えて、説明を受けている患者は、同性のアンジェリークから見ても眩しいような美しさで。

      「‥‥‥‥で、‥‥‥‥だからよ〜」
      「まあ、そうなんですか?」
      「‥‥‥‥が、‥‥‥で、‥‥‥だったりしてな〜」
      「あら、おほほほほ‥‥‥」

      最近、ようやく再び器具に触る許可が降りた。
      離れた消毒コーナーで片付けをしながら、聞き耳をそばだてるアンジェリーク。
      ―――なんだか‥‥
      入っていけない2人の世界って感じじゃない?
      ちょっとゼフェル樣、他の患者さんと態度違うみたい。‥‥‥嬉しそうな顔、しちゃってない?
      そりゃ、あの人綺麗だけど‥‥でもでも、そんな事、ないよね?―――
      ぱさ。
      カルテを手に取って見る。
      同じ年。―――なのにあの人、大人っぽいのね。
      この住所は、確か高級住宅街―――お嬢様。そうよね、お上品な感じ。私とは‥‥違うわね。
      隠れる必要もないのだが、何故か物影から伺い見るような格好になる。
      指、長ーい。足首、細ーい。胸‥‥‥
      うつむいて、己を顧みる。
      ―――ゼフェル樣も、やっぱりああいう人が、好きなのかしら‥‥‥
      だんだん心許なくなってくる。
      そんなアンジェリークの心境も知らず、ユニットでは楽しそうな会話が続いていた。

      ―――そりゃ、ゼフェル樣の事、疑ってるわけじゃないわ。
      そうよ、いつだって、お互いの気持ちは通じ合ってるはずだもの。
      信じて‥‥いるもの。

      「たまには気分変えてみてぇんだよ。」

      えええええええ?
      突然蘇る今朝のゼフェルの言葉。
      そんな‥‥そんな‥‥そんなあぁぁぁ

      ―――――――――

      「で?心配になっちゃったって訳?」
      「そんなんじゃ‥‥‥ないけどー。」
      昼休みに、友人エマの勤務先に泣き言を言いに訪れたアンジェリークだが、
      頼りのエマは、あきれ顔。
      「だって‥‥‥だってね、最近ゼフェル樣、あんまり‥‥‥してこないの。
      前はね、ダメって言っても、なんか、一生懸命、迫ってきてたんだけど、
      この頃は軽いキスするだけで、妙にあっさりしてるんだもん。
      もしかして、私って、魅力ないのかなあ‥‥‥。それとも、もう愛想つきちゃったのかなあ。」
      先日のちょっとした喧嘩から、はや2週間。何事もなく。
      なにごとも、ないのだ。それはそれで問題らしい。アンジェリークにとっては。
      「‥‥‥‥アンジェ。自分でダメ出ししといて、ホントはしたいの?したくないの?
      どっちよ。男の立場で考えてごらんなさいな。今まで我慢してるってのは、
      それだけあなたの言う事尊重してるんでしょ?」
      「う‥‥‥うん。」
      「それだけ大事にされてるんだったら、自信持っていいんじゃないの?」
      笑い飛ばされて、何となく気分が晴れたらしいアンジェリークを送りだし、
      一人残ったナース控え室で エマは親友の婚約者に同情を禁じ得なかった。
      ―――必死で我慢して、平静を装っているんだろうに、あのお子樣相手には暖簾に腕押しね。
      でも‥‥‥いいわ、そこまであの子を大切にしてくれる人なら、大事な親友任せてあげる。

      帰る道すがら、アンジェリークはエマに言われた事を反芻していた。
      ―――私は、ゼフェル樣と、今以上の関係に、なりたいの?
      「ああ、寒い。早く帰ろうっと。」
      焦らなくても、いいよね。私達は、私達だもん。
      でも、エマの言う通り、ちょっとは男の心理学も、勉強した方がいいのかも。
      ごめんね、無理させて。ごめんね、大好き。
      「だいすき‥‥‥。」

      「ゼフェル樣!」
      「ったく、この寒いのにどこ行ってたんだ?こんなに冷たい手して‥‥‥」
      ゼフェルの熱が、手のひらから流れ込んでくる。
      「わたしは、ゼフェル樣のものですからね。」
      「なっ、何言ってんだ、いきなり‥‥‥‥バカ‥‥」
      抱きしめて、キスをして。

      「んんっ‥‥レモンの匂いがする。どうしてですか?」
      「‥‥‥‥なんでもねーよ。」
      また一つ、アフタが増えそうな予感がゼフェルを襲うのだった。
       

          カルテ14につづく  ほ乳瓶に乳酸菌飲料等を入れて長時間飲ませるのは齲歯のもとです。



      1998.11.24 ROM /個人で楽しむ以外の転用、複製及びHP上での使用をしないで下さいね。