ひとりごと (2002年)

 中学生の時、授業の一環として映画「秘境ヒマラヤ」をみた。あの葬送もそうだったが、過酷な環境に生きる人の姿が印象に残っていた。1972年10月18日にカンジロバ・ヒマール(パトラシ・ヒマール)のカンデ・ヒュンチュリ(6627m)を初登頂後、11月下旬にカンジロバ・ヒマール北側のラングー・コーラ(ナムラン・ルンバ)を遡行し、12月に冬の奥トルボを継続横断した。奥トルボのテンキュー村付近から慧海師はチベットに越境したのだろうと言われていたので、この辺りからだろうとしか思わず、極寒のその地を歩いていた。年月が過ぎ1993年1月に”慧海師越境峠を確認”と大々的に新聞報道されたがやはり、そうだったのかとその時は思った。そんな事で再びトルボを思いはじめた。 

河口慧海日記が発見された  (2004年)

 約100年前に記された、『河口慧海の日記発見』と2004年12月24日に新聞報道され、日本ネパール協会関西支部第49回関西ネパールロビー(大阪府私学教育文化会館 2005年3月5日)で、
クン・ラから『北東』にチベット側を下って行けば池を過ぎ、その日の内にネーユに至り、クン・ラもしくはクン・ラに隣接する峠を慧海は越境したと報告された。
 慧海師自身が著した西蔵旅行記 博文館 明治37年刊。同改定版 山喜房佛書林 昭和16年刊。Three Years in Tibet 1909年刊の3冊すべてに越境した峠からチベット側を『北西』に下ったと書かれていた。

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