カッパドキア〜アンカラ〜イズミール
3日目 3月21日![]() 首都アンカラは350万都市でごちゃごちゃしてた。最初アタチュルク廟に行った。 バスから降りようとすると、現地のガイドさんが、「手荷物の制限があるので、カメラと貴重品だけ持って降りてください」との事。「?」廟なのに???この物々しさは一体何だ? 警備がすごい。 お恥ずかしい話だが、ムスタファ・ケマルについて全く知らなかった。 この廟の位置にしたってアンカラの高台にこ ![]() 丁度警備兵の交代式をしていたが、そこだけ空気が、ぴーんと張り詰めている。 ![]() 廟の入り口に立っている衛兵の傍で写真を撮ったのだが、「近寄るな」オーラが出ていて、かなり離れて写真を撮った。微動だにしないばかりか、眼球さえも静止したままの状態に、私も「きおつけ!!」ポーズになって写真が撮れていた。 彼が左腕を後ろに折っているのは、後のサスペンダーに短刀がささっていて、それをいつでも抜けるように左手で握っていたのだ。 「何故そんなに物々しいの?」廟の護衛なのに・・・・・ ![]() 広いがらーーーんとした廟の中には,中央に黒御影の石棺が一つあるだけ。それもその石棺の中には遺骸は入ってないっていう。この廟の地下の何処かに眠っているらしいんだけれど、真相は謎になっているんですって。ミステリヤス。 それなのに、これほどの護衛が必要なわけー? 「わからないナー」 その後そばの博物館に入り、彼の遺品、トルコ共和国独立までの歴史などが詳しく展示されていた。彼の生前の業績は、国民に尊敬され愛され、トルコの父と慕われた事が死後このような形として国民が祭ったのだ。疑問に思っていた霧が次第に晴れてきた。この魅力的男性についてもっと知りたくなってきた。 ここを出る頃には体は冷え切って、皆トイレに向かって一目散に走った。 帰ってから2年も過ぎた1998年3月29日朝日新聞の日曜版に「100人の20世紀」という、20世紀を代表とする人たちを扱ったページがあり、そこに彼が取り上げられていた。まず彼のことを 「正しい独裁者」と呼ぶ人もいる。史上めずらしい指導者だ。 近代化に遅れたトルコの為オスマン帝国を倒し、政教分離を断行し、強引に民主化を進め、日本やフランスより早く女性参政権を実現した。 酒飲みで、いかめしく、純粋に国民思いの「頑固おやじ」。今も国民の崇敬をあつめ、アタチュルク(トルコの父)、ケマル・パシャ(将軍)などと呼ばれてる。 (どこかの将軍様とは大違いネ) 世界史にデビューしたのは1915年押し寄せる連合軍の前にたちはだかり、英国チャーチルの野望を粉砕した時だった。 と、見出しに近いところにまずは書かれていた。そして詳しく読んでいくうちに 最初はオスマントルコの師団長だった事。 愛国心をたぎらせた人格をもって戦線に於いても身を捨てて当り、連合軍を主導 していた英国のチャーチルをも全面撤退させてしまったこと。 しかし、第一次世界大戦で敗れたトルコに、ギリシャ軍が進入してきたが、自ら国民軍を募り女たちも共に独立の為に戦ったこと。保身第一になっていた皇帝に対しても23年帝政打倒を実現し、23年新生トルコ共和国初代大統領に選ばれたこと。 その上イスラム国家体制も排して政教分離を定め、一夫多妻制を禁じ、女性の参政権を与え、国語もアラビア文字からローマ字に変えて、自ら青空教室を開き教え全国を回って識字率を向上させたこと。 そして、自分が党首である共和人民党の一党独裁をも否定し野党の結成にも尽力をそそいだ。 「ラク」という強い酒を愛した彼も1938年肝硬変で60歳にも満たさず突然現職大統領のままで死んだ。後追い自殺する者も居た。 死後60年経った今もトルコでは抜群の人気で、いたるところで、彼の肖像は飾られている。 一方、イスラム復権波の政党幹部もこう強調した。「良心や信仰の自由は権利だ。私たちこそアタチュルクの目指したものを追求しているのです」 とまあ新聞の内容をかいつまんでみた。 今の世界にはこのような指導者は見当たりませんねえ。 新聞の記事を読んでから、アタチュルク廟が高い丘にあることも,国民を見守って居る様にも思えてきたし、ピリッとはりつめたかたちで衛兵が守る事も、国民がその時代の気持ちを忘れないように、その思いを象徴しているようにも思えた。 死して尚彼は生きているのだと思った。
観光を終えて、空路、イズミールへ向かった。 イズミールは地中海に面した温暖で、豊かな300万都市です。イズミールについたのは10時過ぎていました。(疲れたー) 小さな子供さん大丈夫かな?(ママの腕の中でぐっすり) |