2日目 3月20日
今日はアンカラからカッパドキアへ向う為朝8:00ホテルを出発した。(ねむーいョー)空はどんよりしている。トルコの首都アンカラは窓から見た限りでは、土っぽくって、埃っぽいように感じる。
観光バスはベンツで、乗用車以外もあるんだーと初めて見たバスに感心した。
出発すると300`以上をバスは走りに、走った。車道の舗装はけして良い状態ではなかったのでその分疲れが増し、時々トイレ休憩以外は走り続けた。
車からは楽しめるような景色も無く、荒涼とした風景が続き「牧草かな」と思った所は麦畑だといった。手入れもしていないような畑だった。
ガイドさんの説明では、トルコは農業国で、自給率100%だといっていた。それにしてもトルコのパンは美味しくって、なにもつけなくてもいい。この旅行はパンばかり食べていた。
バスの窓から道路に面した所に時々人が見えるが、どういう訳か皆子供も大人も男性ばかりだった。しかしバスの高さから、民家の土塀の中を垣間見る事が出来たが、そこには女、子供の姿があった。
イスラム世界の生活習慣など、日本人のように八百万の神から始まってなんでもかんでも受け入れている民族は、すぐには理解できないかもしれない。
カッパドキアに着いて入ったレストランは石をくりぬいた岩肌のままだったが、とてもいいムードだった。ここカッパドキアには世界中から人が集まり、私達日本人一行の隣には、聞いてみたらドイツからのご一行様だった。

食事を終えて外に出ると、お婆さんたちが綿のスカーフにレースで縁取りを編みながら売っていた。そうこうしていると、赤ちゃんを抱いた女性や女の子供達が来て、出来上がっているスカーフを観光客に売り込んでいた。
カイマクル(地下都市)
カッパドキアで最初の見学はカイマクルだった。
入り口付近には簡単に並べただけのお土産やがあった。店員は見当たらなかったが、私たちが行くと急に売り子のお兄ちゃんが出てきて、売りとしているらしい「ナザール・ポンジュ-」を「10コデ100エン、10コデ100エン!!」と日本語で連呼していた。
「これから狭い所に入っていくのに買えないよー」だれも買わなかった。思ってる事はいっしょです。
「ナザール」とは恨みのこもった視線のことで、「ナザール・ポンジュ-」は邪悪な視線からの災いを避けるお守りで、大きさはまちまち。大きなものは1cm〜1m位まであり、大きいものはホテルの入り口などに掛けてあった。
地下都市に入るとすぐに通路は狭く下っていった。キリスト教徒はアラブ人から迫害され隠れ住ん だという事だった。15000人が住んでいた時があったと聞いて驚いた。
通路は全長30kmあり、地下8階まであるとのことだった。
通気口が大きく縦抗になっていたり、家畜を入れておく場所、葡萄酒を絞ったくぼみ、パンを作った石、食堂、教会と、都市としての機能をそなえていたが、侵入者が来るやいなやほとぼりが冷めるまで、この地下都市に潜り込み暫くそこで生活していたのだろう。
今は真っ暗な地下都市に小さな電球こそあったが、その頃にタイムスリップして想像してみると家畜の匂いや、密閉された中にいる事を想像しただけでゾーとした。
 
もし見つかっても、進入を防ぐことが出来るように、通路の途中には丸い大きな石を内側から蓋が出来るようになっていた。(開けーごま!!)って合図したら「ごろごろ」と開きそう。
襲った侵入者達は、集落に居るはずの全ての家畜や人が忽然と消えていて、さぞびっくりした事だろうと思った。
ウルチヒサール
ピンク色の岩肌の美しい谷間が続き、尖った岩山があった。そこにはいくつもの窓のような開口部が見えた。
「ガイドさんが何だと思いますか?」といったが、カッパドキアの岩肌によく見られた。これは鳩の巣で、そこから鳩の糞を取り肥料に使っているといっていたが、集めるのも足場の悪い大変な作業だと思った。
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高さ30メートルもある、しめじの親分みたいな奇岩 |
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とんがりの部分が地表でその下は侵食からかろうじて残った部分 |
風と水が作り出したカッパドキア
カッパドキアはアナトリア半島の中央に位置しています。
この地方に二つの火山があり、何千年の昔爆発を起こし、周辺は火山灰が固まって出来た凝灰岩と表面には硬い玄武岩で覆われました。
軟らかい凝灰岩は雨や、川、風によって浸食され,峡谷となりました。
カッパドキアはローマ帝国と中国を結ぶ約6500`の通商路が通っていました。
商人だけでなく、ペルシャ、ギリシャ、ローマの軍隊もこの道を通りました。
それらの旅人達は新しい宗教思想を伝えました。
西暦前2世紀にはユダヤ人の集落が存在していたようです。西暦33年この地方からもユダヤ人がエルサレムに来ていました。
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ギョレメ野外博物館
ギョレメはキリスト教徒が4世紀頃から住み始めた。9世紀頃から多くの洞窟教会、修道院が出来、ビザンチン時代になると400以上の教会があったとのこと。
今は、そのうち30ほどの教会が公開されているが、侵食によって外の部分が崩壊し、中がむき出しになっているものもあった。
内部は鮮やかなフレスコ画で装飾してあったが、撮影禁止だった。
フレスコ画も、その時代によって表現方法もいろいろあった。ある岩の中にはたくさんの四角い窪みがあり何かと思ったら、それは墓だった。
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雨などの浸食で教会内部が露出してしまった。聖ヨセフ教会 |
ギョレメの観光が終わる頃夕方となり少しあたりが薄暗くなってきた。バスはおみやげやの近くで待っているはず。
急ぎ足でバスの所に来たが、そこではじめ姪の裕子がいない事に気が付いた。妹と顔を見合わせ、二人とも真っ青になった。
誰に云う間もなく二手に別れ捜し始めた。そんな時はろくな事を考えないものだ。みやげもの屋の近くにいた筈だったので奥深い暗い店を一軒一軒のぞいて回ったが見つからない。
店を覗くと髭を生やしたおっさんたちがすかさず売り込みにかかってくる。
「それどころじゃないのよ!!日本の女の子見なかった?知らない?いなくなったのよ」と夢中で聞いた。日本語で。尋常でない様子に彼らもどうして通じたのか「見なかったよ」とトルコ語で答えた。
「かみかくし」「ひとさらい」の言葉が頭の中で、信号の赤ランプのようにぱかぱか点いたり消えたりした。泣きたくなった。居なくなったらどうしようという気持ちも打ち消すこともできないまま駆けずり回った。
見てきた岩山の間を、居るはずがないと思いつつも走り回った。
一回りしてもう一度元のところにもどってみたら妹も戻っていた。顔は見つからないて云っているのに「いた?」って聞いてたが、首を横にふった。
又違う方を捜しに行ったが見つからない。時間がとても長く感じた。
そうこうしているうちに裕子はひょっこり姿を現した。本当にホッとして涙が出そうになったが、妹は人目も気にせず裕子を怒っていた。心配の深さがそうさせたのだと思い、なだめたが本当に私もがっくり疲れた。
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