<笑顔の願い>

 リーダリアは北。雄々しきカナン王国。王宮の南に位置する、神聖なる空気漂う白亜の建物の群。それが<風の神殿>。
 半年程前、風の神殿は人が住めるまでに修復された。そして、正統なる後継者を迎えた。最高責任者となったのは、十七歳の少年。二年前、国民の圧倒的な支持を受けて即位したセネト王の従弟マルジュであった。彼もまた多くの人に望まれて、このカナンに来た。
 戦の加害者であり被害者である国に、必要な存在であった。
 心の拠り所である神に祈りを捧げる場。国内の福祉を統括する組織。五王国各地より特に素養ある信者を集め、高位の神官・魔道士たるよう育成する。治らぬ傷……心、身体双方……を抱えて訪れる人間に、出来る限りの癒しを与える。高い魔力を持った人間の集う神殿は宗教的な部分だけでなく、医療機関としても、王国最大の組織であった。
 だから、国王も王妹も、熱心に彼を求めた。月に二度手紙を送り、彼が王宮魔道士として住むリーヴェに、三月に一度は直に訪問した。結局はマルジュが折れる形で、カナン入りは果たされた。

「他にいないんなら、しかたないだろ」
「姉さんに、乳飲み子を抱えたまま行けなんていえないし……」
「いいよ、行くよ。行けばいいんだろ!」

 勿論、嫌々なのは形だけ。
 祖父の心を受け、風の最高魔法ウインダーガストを手にした時より、彼には風の神殿を引き継ぐ意思はあった。
 マルスに戻らず、リーヴェに留まることを選んだ時、カナン入りはすでに考えにあった。リーヴェは、マルスよりずっとカナンに近い。……それだけが理由ではなかったが。
 それでも、カナン入りを決意するまでに二年が掛かったのは、思わぬ地位を戴いてしまったこともあったが、何より、王女メーヴェの結婚にあった。グエンカオスとの決戦より半年、王女は婚約者リュナンと式を挙げ、神の祝福を受けた。

 結婚式を挙げた直後にカナンに行ったら、まるでリュナン王子の隣で幸せそうに微笑むエンテを、見ていたくないから、みたいじゃないか……?
 横から掻っ攫おうと思って傍にいたって思う奴が、一人や二人、いそうじゃないか?

 余計なことを考えたマルジュは、従兄妹たちの熱心な誘いに首を縦に振ることができなかった。式より半年ほど経過したころには、これまで散々突っぱねてきた誘いに、自然に頷くことができなくなって、つい断わってしまっていた。

 そこでもう一歩、踏み込んで誘ってくれたら、頷く!
 そこで諦めるなよ、根性ないな……っ。

 結局彼は、王女……今は王妃……の式から一年もリーヴェで生活をしていた。
 無愛想に断わるたびに、諦められたらどうしようか、とすら思っていた……。
 嫌々という形で始まったカナンでの生活は、多忙で責任も重く、投げ出したくなることも何度となくあったけれど、充実感はあった。
 形式上はカナンに必要な存在だから、それだけの理由で熱心に彼を求めた従兄妹たちとの関係も良好であった。
 言葉にすることはなかった。言葉にする必要もないと思っていた。
  マルジュは今の生活が気に入っていた。セネトのこともネイファのことも、大切に思っていた。

「マルジュさま……」
「んー、何だよ」
  神官長の略装ともいえる藍のマントを敷布にし、魔道書を枕代わりにして寝転んでいたマルジュは上体を起こし、伸びをする。殆ど癖と言ってもいい、ぶっきらぼうな返事をする。相手の確認もせず。

「あの、ごめんなさい……」 
 カナン城の南にある、多数の小尖塔で飾られた白大理石貼りの雄大な大会堂を、一般的には風の神殿と称する。そこには日に五百人ほどの人が出入りをする。しかし、邪神の祭壇へと続く道であり、カナンの聖剣を奉った神殿には無条件に入ることできるのは、ごく限られた人間だった。
 大会堂の中央部の地下にある真実の風の神殿。
  その最奥に、出入りを許されるのは、神官家の人間とマルスの時から神殿に仕える最高位の風神官……それから、カナン王族だ。身内といっていい人間がたまに訪れるだけの地下神殿は、マルジュがマルジュらしく、つまり子供っぽく我侭にあれる場だった。
 マルジュは、一人になりたい時、ユトナ神に祈りを捧げると称して地下に降りていた。神官長の務めから一時的に解放され、昼寝や間食など、怠惰な時間を過ごす。
 日々、お偉方の接待や人前での修業、指導など、十七という実年歳には不相応といえる業務に忙殺されていた。たまに……というには頻繁であったが、個人の時間を持つことくらいは構わないはずだとマルジュは思っていたし、周囲の人間も黙認していた。従兄セネトなどは、たまに酒などを持ち込み、政務とは関係のない話をしたり、並んで昼寝をしたりする。国の最高峰にいる若者たちの、つかの間の休息を咎める者はいない……。もっとも重臣間の派閥諍いが熾烈を極めたここふた月、セネトは公式、非公式ともに、一度も風の神殿を訪問していない。

「瞑想のお邪魔、してしまいましたよね」
「あ……っと、ネイファか」
  紫銀の静かに波を打つ髪。不安げに揺れる紫紺の瞳。白の巫女服に身を包んだか細い少女。幾何学文様を施された重い扉を抑え、半分身を隠すように覗くのは、王妹にしてマルジュの同い歳の従妹、風の巫女ネイファだった。

「また来たのか」
 苦笑しつつ、立ち上がる。
 誰がどう見ても、自主的な休憩をしているようにしか見えない場面を見てすら、ネイファは言う。清楚な巫女姫は皮肉など言わない。本当に好意的すぎる解釈をしている。それがマルジュの良心を刺激する。
「あの、やっぱり、お邪魔でしたよね……」
「そんなことないよ」
 本心。ネイファはマルジュにとって、家族のようなものだった。言葉がなくても、用事がなくても、一緒にいることがあたりまえのような。セネトも同様であったが、セネトには『邪魔だった?』などと聞かれると、『邪魔だよ!』と声を荒げてしまう。ネイファに同じ態度で接すれば、たちまち身を縮め、地上に上がってしまう。だから、しない。年上に囲まれてきたマルジュにとってネイファは、護るべき妹であり、傷つけてはいけない存在だった。
 ネイファと二人でいる時のマルジュは、カナンに来る以前の彼を知る人が見たならば、別人かと紛うかもしれないほどに、穏やかで素直な態度をとっていた。

「ネイファが来てくれるのは嬉しいよ。色々と、助かっているしさ」
「本当ですか? 少しでも役に立てているなら、嬉しいです」

 ネイファは頻繁に神殿に出入りしていた。昼に限れば王城内にある彼女の宮殿よりも、風の神殿にいる時間のほうが長いくらいだった。
 彼女は政治的なことに関わろうとはしなかった。兄セネトが、彼女に汚い世界を見せたがらなかったからだ。
 カナン王城を取り戻して二年。ゾーア帝国時代の膿を出し尽くし、本来のカナンがおぼろげながらに見える状態にまで蘇らせた。清い手段だけで出来ることではない。ネイファにだって、それはわかっているはず。人の出入りの激しい神殿にいれば、あることないこと、耳に入ってきてしまうものだ。何も知らないフリをしているのは、彼女の兄に対する深い気持ちの現れのように、マルジュには思えた。本当は兄の傍にいて支えになりたいのだろうに、気持ちを抑えて、神殿に来るのだ。兄を想えばこそ。
 ……それを考えると、笑顔を作るのが難しくなる。声に抑揚がなくなる。ネイファに冷たい態度をとってしまう。だから、考えない。マルジュは首を振った。

「もっと、自信を持つべきだよ、ネイファは……ここにいる誰もが、君がここにいることを望んでいるのだから」
「はい……ありがとうございます」
「なんなら……ずっと」
「……ずっと?」
「……何でもない」

 ずっとここに住んだっていいんだ。
 マルジュは言葉を飲み込む。

 風の神殿には、高位の風魔法を操る神官たちが住まう。ネイファとて、神殿に住む資格は当然ある。
  神に祈りを捧げ、国内の福祉を統括する。五王国各地より集まる信者を迎え、傷ついた人間の身体と心に、癒しを与える。人が人らしく生きるために、物理的な援助を行なうのが王室の役割だとすれば、人が人らしくあれるように、精神的な部分の救い手であるのが神殿。
 高位の回復魔法を扱えるネイファの能力は、風の神殿でいかんなく発揮されたし、風の巫女である彼女がそこにいるというだけで人々を励ますことが出来る。神官長であるマルジュよりも、平易に人の心を掴むことができる。
  ネイファが神殿に住むことを望んでいる人間は多い。聖竜の巫女は太古より神殿にあるものであったし、人を越えた力が通常の空間で生活することを望まない人間も多く存在する。

「変な、マルジュさま」
「そうかな」
「最近、言いかけたことをやめることが多いです」
「……」

 以前は口にしていた。ここに住めばいい。ネイファのために建てられたガスティア宮より、風の神殿は人の出入りが多く、物を揃っている。王宮との行き来も容易い。セネトとも、もっと会うことができる。聖竜の巫女としての彼女への畏怖を目の当たりにすることもない。そう。古の慣わしに従い風の神官長と巫女姫が結びつくことが望まれていると知るまでは、口にしていた。ネイファに対する好意も、言葉にしていた。
 ガスティア宮よりも、神殿のほうがネイファにとっていい。 風の神殿がもっとも、彼女が傷つかずに住む場所だと思っていたから。
 ずっと傍にいるのできないセネトにかわって、自分が小さな従妹を護ろうと思っていたから。  

  ネイファが風の神殿に頻繁に出入りしているだけで、カナンの民は二人の婚姻を期待する。例え別棟であっても神殿に住むとなれば民の期待は高まり、いずれはその身勝手な望みを退けることはできなくなるだろう。ネイファは嫌とは言わない。ただ、一人隠れて涙を流す。きっとまた、笑えなくなる。それだけは、あってはならないこと。

「でもネイファだって変だよ」
「何がですか?」
「いつまでたっても僕のことを、マルジュさまって呼ぶ」
「皆さん、そう呼ばれていますけど?」
「ネイファは従妹だし、カナンの王女殿下だろ。僕を敬称で呼ぶ必要なんてない」
「……でも」
「でも、何だよ」
「マルジュさまは、マルジュさまですから」
「……ネイファのが、変だよ」

 マルジュは一途に自分を見上げる従妹の頭部に手をかけた。そして風の魔法を極弱く唱えつつ、その髪を混ぜた。

「ちょ、え……マルジュさまっ!?」
「ほら、変だろ」

 背を押して、水鏡の前に連れて行き、頭を軽く抑えて覗かせる。
 そこには、 豊か過ぎて雲のような、と形容できてしまう髪のネイファが映った。しかも、マルジュの仕業により、解れた糸のように四方に飛び散っている髪がある。普段、ネイファの髪は整髪料と侍女たちの努力により、軽く波がある程度にまで落ち着いている。日によっては、ストレートといってもいいくらいにまで真っ直ぐな状態になっている。
 マルジュは風と手の動きにより、折角保っている髪を本来の彼女のものに戻してしまった。

「酷い……変です」
 髪を抑えつつ、ネイファは言う。
 ネイファは自身を美しく見せることにさして関心がない。折角可愛らしい見た目をしているのに、勿体無い、やりごたえがないと彼女づきの侍女が話しているのを聞いたこともある。……だが、髪に関しては別のようだ。
「少し、失礼します」
 そう言ってポーチより櫛を取り出し、マルジュに背を向けつつ、髪を梳いた。
 二度、三度と、 櫛を通せば、出会ったときのように豊かな紫銀の髪に戻った。先のように、真っ直ぐには遠い状態であったけれど、綺麗といっていい髪だった。
「……やっぱり、変ですね」
「……別に変ってことはないと思うけど。初めてネイファに会った時は、こんな感じだっただろ」
「わたしの髪、もともとは変ですから」
「はあ? 何で、変じゃないよ」

 ネイファの表情の曇りを見て、マルジュは些細な悪戯が彼女を傷つけたことに気がつく。
 だが、なぜ傷つくのかは、わからなかった。

「綺麗な髪じゃないか。ふわふわしてて、可愛いよ」
「……マルジュさまは優しいから、そう言ってくださるけど……」
 髪を一摘みして、ネイファは息を吐く。
「真っ直ぐな髪に、憧れます……ティーエさまのような……」
「ティーエ王女か……」
「ティーエさまは、とても綺麗です……」

 ティーエは確かに、綺麗な女性だったと思う。金茶の髪をなびかせ、剣を振る姿には、神々しさすら感じた。
 間近で見る機会は殆どなかったけれど、美人との誉れが高い。
 カナン王女として、伝説のレダ王女に対して敵対心を抱いている?
 ……澄んだネイファに限って、そんなことはない。
 彼女が物事に対して執着を見せるのは、セネトに絡んだ時だけだ。
 セネトとレダ王女は幼馴染。密かに長く想っていた相手なのだと、セネト自身の口から聞いたことがある。
 だからか、と息を吐く。ネイファの想いが叶わないのは、髪のせいでも、彼女自身に魅力がないわけでもない。血の繋がった兄妹、というだけのことだ。セネトは誰よりもおそらくは初恋のティーエよりも、婚約は時間の問題と噂されるエストファーネよりも、ネイファを想っている。男女の愛という形ではなくても、存在する他者の中でネイファを一番に愛している。そして、その事実がネイファの気持ちを兄から離さない。彼女の現状を不幸だと決め付けるつもりはないけれど、他の男を愛したほうが彼女は幸せになれる、とは思う。

「……わたし、バカみたいですね。髪型を少し変えたって、彼女に近づけるわけではないのに」
 俯き、胸を抑えてネイファは呟く。
  ティーエへの嫉妬。自覚はないのかもしれない。ティーエのように兄に恋をされたい。願望は漠然としすぎて、自覚はないのかもしれない。痛々しいネイファの姿から、マルジュは目を背けて言う。
「僕はティーエ王女をよくは知らないけれど、ネイファはネイファだし、無理に近づくことないと思う」
 こんなこと、彼女自身、きっとわかっている。
 月並みな言葉しかでない自分が情けない。
「……ネイファは、可愛いよ。そのままで十分に魅力的だ」
「それは、身内の贔屓めです」
「違っ……」
「でも、ありがとうございます。嬉しい」

 ネイファは笑顔を覗かせる。少しの哀しさとはにかみを含んだ、不自然ではない笑顔。
 この数年間で、ネイファは強くなった。ちゃんと笑えるように、なった。マルジュは、その事実が嬉しかった。

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