氷舘の銀姫

 

 大理石の像。鮮やかな色を咲かせる花壇に、たわわな果実が眩しい公家専用の果樹園。
 砂漠付近に位置するにも関わらず、存分に綺麗な水を放つ噴水。
 優雅な曲線を描くビロード張りの家具に、白金の時計。銀の食器……。
 北トラキアはフリージ領アルスター。フリージ公家の者が住まう舘がある。
 そこは、本国のフリージ城に勝るとも劣らぬほど華美な場所。
 贅沢が存分に詰め込まれた城舘だ。ありとあらゆるものが揃っている。
 だが、欠けているものがあった。
 純粋な想い、家族の絆。……愛の煌き。
 フリージの女大公は、胸元を彩る石に手を当て、思い返す。
 罪の日々。死してなお彼女を捕らえ続ける、銀色の公女のこと……。

「イシュタル様って、本当にお綺麗よね」
 アルスターの城舘でのティニーの生活は何不自由なかった。
 十分な食事と質のよい衣服を与えられ、貴族の娘として相応しい教育も施されている。
 ごく普通に生きることが難しい時代。
 自由に外を出歩くこと。そして。己の将来を選択する権利。
 フリージ大公の姪にあたるティニーが持たぬのはそれだけだった。端からみれば恵まれた境遇だ。ティニー自身は己の境遇を、幸福だとも、不幸だとも、考えていなかった。考えないようにしていた。

 半囚人のような生活も、物心ついた時より続ければ、慣れてしまうもの。
 平坦な毎日の中に、それなりの愉しみも見い出せた。
 口さがない娘たちの噂話も、ティニーの小さな愉しみの一つであった。
 庭先の花を愛でるフリをしながら。テラスで茶を飲むフリをしながら。噂に興じる侍女たちの言葉に耳を寄せる。 
 ティ二ーは、今日も自室のテラスに座りこむ。
 真下には裏庭に咲く季節折々の花を手折りながら、話の花に水を撒く侍女らがある。
 彼女らの話題の中心は、イシュタルであった。
 メルゲン城での晩餐会に出席するため、昼に出立した従姉の姿を思い返しながら、ティニーは話を聴く。

「昔から人形のように綺麗なお顔立ちで、先が楽しみとは言われていましたけれど。最近、色艶を増しましたよね。身体つきも娘らしくなって。今日のお召し物も、素晴らしくお似合いでしたわ」
「あたしがあんなの着たら、まず服に主役を盗られちゃう」
「私だったら胸が余って、腰がキツイと思う」
「イシュタル様、顔もスタイルもよろしいものね。ああ、羨ましい」
「容姿だけでなく……なんていうのか、存在感というのかしら。それも凄いのよね。そこにあるだけで、人の目を惹きつける」
「ええ。さながら、大輪の華……」
「ユリウス皇子に見初められるのも、当然よね」
 イシュタル自身は宴を楽しむ性質ではない。
 だがその艶やかな姿は、あるだけで灯かりの代わりとなり得るほど眩しいものである。

 十七回目の誕生祝いを終えたばかりのイシュタルは、グランベル一の美姫の名を欲しいままにしている。
 名門フリージの第一公女という身分に、彼女自身の魅力と人気。
 夜会や各種式典への招待状はニ年前の社交界デビューより毎日、束と送られてくる。
 イシュタルはいつも、これを溜息混じりに処理している。
 ティニーは従姉の苦悩を思い返し、一人、笑う。

「人脈を増やすことも大事だからたまには出席するけれど、本当はあまり好きではないわ。時間が勿体無いって思っちゃうの」
 招待状の束に“一応”目を通しながら、イシュタルは苦笑する。
 彼女はマンスター領主となることが内定してから、社交界からさらに足が遠のいているようだった。
 ただでさえ少ない個人の時間を、修学に充てているのだ。
 よい領主として立つために、形だけの領主にならぬために。
「今日はまあ、イシュトー兄様の招待だから出席するけれどね。噂の恋人の品定めを……もとい、紹介をしてもらわないといけないから」
「まあ、姉様ったら」
「だって、興味あるわよ。私の姉様となる方かもしれないのだから」
「実はわたしも、興味あります。お兄様の選んだ方……」
「しっかり見てくるわね。ティニーに報告するためにも」
「はい。楽しみにしています。メルゲンには、お一人でいかれるのですか?」
 当然、護衛の者は何人かいる。同伴者はいるのか、の意だ。イシュタルは首を振った。
「ラインハルトは今、フリージ本国だから……」
「それでは、お寂しいですね」
「そうね」
 イシュタルの守人であるラインハルトはここ数ヶ月、ヒルダ配下に新ゲルプリッターを編成するという任についている。常に従姉の傍らにある姿がないことをティニーは物足りなく感じていた。
「でも、ラインハルトにとっては栄誉なことだから」
「そうなのですか」
「ええ。だから、仕方のないことだわ」
 イシュタルはそう言って、重い息を洩らした。
 ティニーはそれを、守人が離れていることに対する寂しさの表れだと判断した。

「……今日の宴にはね、母様も見えるそうよ。たまには親子二人、豪奢な装いで夜会を楽しむのもいいでしょうって手紙と衣装を寄越したわ……」
 躊躇いがちに、口が笑う。続いて目許に、優しい微笑みが零れる。
 母ヒルダの話をする時のイシュタルの表情は、いつも、硬い。
 あの母親だから無理もない話だが、イシュタルはヒルダが嫌いなのだろう。ティニーは漠然と思っていた。しかし今日のイシュタルの顔は、心なしか柔らかかった。
「……でなければ、こんな堅苦しい格好、ごめんだわ。着飾ることは嫌いではないけれど、ただ、費やす時間があまりに長いのよ……」
 数度の湯浴み、香の焚き込み。若い肉体をきつい下着で締めつけ、絹のイヴニングドレスを纏う。
 輝きの銀髪を多くの飾りを用いて高々と結い上げる。キメ細やかな肌を引き立てるように、丹念な化粧を施す。。
 夜会の準備には、半日を軽く費やす。イシュタルはその時間を惜しむが、ティニーには嬉しい時間であった。夜会のある日、ティニーは時間の許す限り隣にあって、磨かれていくイシュタルの姿を眺めていた。
 今日はいつもに増して、装いが豪華だった。ドレスはヒルダから贈られたものだという。
 イシュタルは髪や瞳の色に合わせてか、寒色系の清楚な装いを好んだ。
 知的で涼やかな雰囲気になり、それはそれで素敵だった。

 その日は、大胆なカットのバラ色のドレスだった。
 バラ色は、イシュタルの白肌に混じった淡いピンクを引きたてた。
 開かれた背中や胸元は、彼女の若い色気を存分に引き出した。
 同じ装いを他の娘がしても、中味が負けてしまうことだろう。
 イシュタルだからこそ、より美しく見える。そんな装いだった。
 絆の浅そうな親子であっても、母は母。 さすがに母親が見立てたものだとティニーは関心した。

「でもわたし、姉様が綺麗な格好をしているのは、嬉しいです。見ていて、楽しくなります。とってもとっても綺麗なのですもの」
「ふふ、ありがとう。でも……ティニーも、そうねぇ……もうニ、三年したら、私の苦労がわかるのではないかしら」
 そう言ってイシュタルは、ティニーの頭を撫でた。
 長い時間をかけて、芸術的なまでに輝かしいイシュタルが完成した。

 それからイシュタルがメルゲンへと立つまで。僅かだが、時があった。それを二人だけのお茶の時間に充てた。
 二人を隔てるものは、健やかな香りに包まれて立ち上がる湯気のみ。
 ティニーは従姉の完成された艶姿を、独り占めすることができた。

 幸福で、安らげる時間。アルスターでの生活は哀しいことも少なくなかった。
 それでも、従姉と過ごせる時間があるから前を向いて生きていられる。
 だから、不幸だと感じないでいられる。
 綺麗で優しい、三つ年上の従姉。
 ティニーはイシュタルが大好きだった。

 

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