朝がそう遠くない、夜。
燭台の微かな灯りを頼りに、ティニーは本を読んでいた。
人の心を、状況や行動から解析するという内容。
イシュタルの蔵書のうち一冊。イシュタルはティニーに、読書を奨める。空いた時間があれば、与えられる知識以外のものに目を向け、考える力を養うべきだというのだ。
ティニーのフリージでの位置は微妙だ。
ティニーの母ティルテュは叛徒シグルドの軍に身を置いていた。
公式にはヴェルトマー公子や父であるドズル公子と同様、人質とされていたことになっている。だが実際は、自らの意思で軍に在籍していた。それは公然の秘密であった。
一門の姫であると同時に、叛逆者の娘。それがティニーなのだ。
やがてフリージの姫として、利ある相手に嫁がせようという目論みがあるのだろう。
ブルームはティニーに公家の娘として恥ずかしくだけの作法、教養、魔法技術を習わせた。だがそれは、貴婦人として必要になる程度だ。
歴史、算術、語学、思想……。
これらはティニーの立場ではさして必要のないものである。
だがイシュタルは、自分のために学ぶべきだと言った。
知識をつけることは、好きでも嫌いでもなかった。 だが、イシュタルが好きだというのなら自分も好きになりたいと考えた。そうして奨められるままに本を読み、従姉の話に耳を傾けるうちに、学ぶことが楽しいと思えるようになっていた。
イシュタルの奨める本は、表現は平易だが内容の深いものばかり。幼いティニーでも、物語を読む感覚で知識を増幅させることができた。
今日もまた、時間を忘れて本の中に入り浸る。
今読んでいるのは、人の心を解析する本。入門的な内容だ。
目に見える行動と、そこから推論される心の動きを究明する。その熟考された結論を纏めた本だ。
さまざまな状況に人間がどういう行動を示すか、そこに働く心理の不思議を解明しようとする……。
最初は言葉を理解するだけで精一杯だった。ただ、文面を吸収しているだけだった。しかし、読み進めるうちに。自分や周囲の人間に置き換えて考えるということを、覚え出す。
自然。答えを求めるように、頁をめくることになる。
一頁、ニ頁……十頁。手が、止まる。
「あ……?」
文章の流れと、構成の不自然さに首を傾げる。
ここの数頁、切り取られている……?
いや、切り取られているという表現は適切でない。
残されている紙の感じからして、引き千切られた、と考えるほうがしっくりくる。
前にも似たようなことがあった。
あれは、思想の変遷をまとめた文献。幸福に関する記述。
数頁が同じように抜けていた。
あれは、劇の台本を元に書き下ろしたという物語。第三幕が丸々除かれていた。
何故かしら……。
改めて、疑念が湧く。
一冊、ニ冊なら首を傾げるだけで、素通りしてしまえる。
だが近い時期に三冊も同じ状態になっているとなると、原因を追求せざるを得ない。
イシュタルの本なのだから、イシュタルによって取り除かれた頁と考えるのが妥当であろう。
だが、何故? 汚れや、不慮の事故によって、省かざるを得なかった?
それとも……自分に見せたくない頁だから、引き千切ったのか。
切り取られているというのなら、そうかもしれない。
だけど。
一枚づつ破られたと窺える、不揃いな跡。
そこからは、何らかの苦い感情が滲んでくるようだった。
ではイシュタル自身が、その頁の内容を不快に感じた?
目を通さぬだけでは足らないほど、存在を削除せねばならないほどに?
内容に興味を覚えた。大好きな従姉のことだから、知りたいと願った。
だから、尋ねようと思った。
「姉様……早く帰ってこないかしら」
本の中より現実に戻されたティニーはテラスに出た。
月の位置を見る。
「もうそろそろ、戻られてもいい頃よね……」
*
しばしティニーは空を見上げていた。
大きな月と、散る星。
今宵の空は闇というより、濃い青のスクリーンといった方が相応しい。
月明かりに照らされた花々を愛でながら、従姉の帰還を待った。
アルスターの気候は穏やかで、年間を通しての気温差はさほどない。 だが、さすがに夜になると冷え込む。鼻に指を置く。氷のようだった。
一旦部屋に戻ろう。そう思い、室内に足を一歩踏み入れた時。馬の嘶きが耳に入った。
姉様だ!
ティニーは反射的に振り返る。
一台の馬車が、裏門の前で止まる。フリージ家の紋のない馬車。
イシュタルを乗せた馬車ならば、部屋に面した道は、通過するだけ。停まらず正門に向かうはず。
姉様では、ないのかしら? では……誰?
深夜、裏門の前に止まる馬車。それも馬車の造りや御者の格好からして、それなりに身分のあるものを乗せているように推測される。
ティニーは手摺りの陰に隠れるように座り込んだ。
心の器が音を出す。
ややあって、馬車よりニつの人影が現れる。
……!
一人は、知らぬ男だった。遠目、暗がり。目を凝らして観察する。
顔立ちは幼く、小柄。少年といっていい年頃だ。
連れの娘の手を引く仕草や豪奢な装いからして、相応に身分のあるものだと想像できる。
そして、連れの娘。
男に手をとられ、舞うように地に降りた少女。
ティニーのよく知る人物。
薄闇の中にあっても、見間違えようはずもない。イシュタルだ。
「きゃ……っ」
地に足をつける瞬間。高いヒールのためか酒が入っているためか、イシュタルは体勢を崩した。
片膝をつき、庭と路の境界である柵に手をかける。
抱えていた装飾的なポーチを溢す。
少年はポーチを拾い上げた。
馬車は全てを心得ているかのように、再び闇の中へと消えていく。
イシュタルは一人立ちあがり、ドレスについた土を払った。
その様を楽しげに眺める少年。イシュタルは彼の視線に顔を伏せ、身体を庇うかのように腕組みをする。
少年は、無言でポーチを突き出す。
「ありがとうございます……」
イシュタルはポーチを受け取ろうとぎこちなく両手を伸ばした。
指先が滑らかな革に触れた時、少年はポーチを持つ手を高く上げた。
「あ……っ」
少年はポーチに代わり、自らを飛び込ませた。腕より解放された少女の身体に。
二人の背丈はさほど変わらない。
唇が触れ合わんばかりの位置に、二人があった。
金銀を品よくあしらった革の箱が、微かな音を立て、地に落つる。
少年の右手はイシュタルを抱き寄せ、左手でイシュタルの耳を弄る。
左手はやがて、耳から首筋へ、そして開かれた胸元に移行した。
二人の話す声が風に乗り、ティニーの元へと運ばれてくる。
音の少ない時間だからこそ、聞こえる声。
夜の独特の明かりに照らされた男女の睦みは、ティニーの知らぬものだった。
耳を塞ぎたくとも、塞げない。目を離そうとも、離せない。
寒さに凍りついたように動けない。
ティニーはその場にあって、身体に入る情報を受けるしかなかった。
*
「や、あの……っ」
「ん?」
「ユリウス様、私は……っ」
イシュタルが、少年の中でもがく。
ユリウス様……?
では、この少年が伝え聞くグランベル帝国の皇子ユリウスだというのか。
イシュタルと恋仲という噂は聞いている。
だが、イシュタルの口からユリウス皇子のことを聞いたことは殆どなかった。単なる噂だと思っていた。
「お、おやめ下さい……。お願いですから、あの……こういったことは……っ」
「嫌か……。では、止めておく」
少年……ユリウスの腕が落ちる。
イシュタルは解放された。
それでも。互いの吐く白が重なる距離にある。
離れたいのなら、離れろ。離れられるのなら、離れてみろ。
言わんばかりだった。
「……」
イシュタルはしばしの逡巡の後、一歩、下がる。
手を伸ばせば、届く距離。
ユリウスはイシュタルを、その視線で縛り上げた。
イシュタルは再び地に落ちたポーチを拾い上げ、強く抱き寄せた。
さらに一歩、下がる。
ユリウスの眉が下がり、目が細められた。口許が微か上下する。
微笑もうとしても、できない。やり切れない。
そんな哀しみを湛えた表情をする。
だが、何処か不自然に見えた。ティニーには。
ティニーのいるテラスからでは、少年の顔は左半分しか見えない。
だから、そう感じるのかもしれない。
しかし。
「イシュタル……は……」
沈黙の後、発せられたユリウスの苦しげな声。
「イシュタルは、私が嫌いか?」
「……とんでもございません。 グランベル帝国の次代を担うユリウス様を嫌うなど、どうして出来ましょうか」
「私が、皇太子だから、か……」
自嘲気味に笑う。
ティニーは、一層の寒気を覚えた。
「では、ただのユリウスだったなら……嫌うのか?」
「……そんなことは、ありません」
「いや、皇太子だからでもいいな。それでも、お前が好いてくれるのなら」
「……私は……」
「イシュタル。私は、お前の全てが欲しい。お前の気持ちが知りたい」
「……」
「先日、バーハラで想いを打ち明けた後。お前は逃げるように、アルスターへと帰ってしまったな」
「逃げるだなんて。予定の日が来たので、戻っただけです……」
「そうか。その後も、私の招集には応じてくれなかったな。イシュタルに逢うために、さして好きでもない夜会にも顔を出した。だが、逢えなかった」
「マンスターの領主となることが決まりましたので、その準備に追われていました」
台詞を、抑揚をつけて読み上げるユリウス。
対してイシュタルは、淡々と答えていく。
「今宵もお前の兄が主催だというので、遠くメルゲンまで小さな宴のために出向いた。まあ、逢えただけでも、その甲斐はあったと思うべきなのだろうな。これ以上を望んではいけないか」
「……お送りいただけたこと、感謝いたします。 フリージ公女として歓迎いたします。ですから、どうぞ正門にお回りください」
「……フリージ公女でなく、イシュタルに歓迎してもらいたい。私の気持ちは知っているはずだろう」
「……」
「遠く北トラキアまで出向いた。お前に逢うためだけに。だから、せめて先日の答えをくれないか。 私の気持ちは変わらない。イシュタル、愛している」
「ユリウス様……私、私は……」
「イシュタルは私をどう思っている?」
ユリウスは距離を縮め、恋しい人の顔を覗き込む。
イシュタルは顔を逸らせた。
花壇にある花々に、そしてティニーに、表情を見せることになる。
姉様……どうして?
どうして、そんな顔をしているの?
男女の恋の駆け引き。
グランベル帝国の次代皇帝と、帝国屈指の名門フリージ家の姫。
身分こそ大陸最高の組み合せであるが、男女であるには変わりないはず。
幼いティニーは物語でしか、それを知らない。
だから、いや、だからこそ。不自然だと思ったのだ。
絵物語そのものに恋を語るユリウスを。
感情の無い顔で恋を受けるイシュタルを。
おかしいと感じた。理屈でなく、何かがおかしいと。
「私は……ユリウス様を……お慕いし……て」
一つの音を吟味するように、イシュタルは口にする。
相手から表情を隠し、事務的な処理をするように、求愛への返答を紡ぐ。
「……イシュタルっ!」
返答を皆まで聞かず、感極まったといった雰囲気を作り。
ユリウスはイシュタルの細腕を掴んだ。強引に引き寄せ、愛しい少女の頭部を自らの胸に押しつける。
「ユリウス様……」
「イシュタル。私は嬉しい。大切にするからな」
「……はい」
短く答えて、イシュタルはユリウスの背に手を廻す。
「私は、幸せです……」
その言葉に満足したように、恋の達成に興奮したように、ユリウスはイシュタルを抱く腕に力を込める。腕の中にある、征服した銀の少女を眺める。
「幸せなのは、私もだよ。これから、二人でもっと幸せになりたいな」
甘い言葉を耳元で囁く。
一際強い、風が吹いた。
草花が揺れ、ざわめく。
ユリウスの豊かな髪が、弄ばれる。
片手ではイシュタルを征服したまま、ユリウスは一方の手で、自らの髪を押さえた。
……!
その時、ティニーには見えた。
月の光も届かぬほど。ユリウスの顔が、暗く、醜く、歪むのが。
背筋が凍るほどの絶対零度の瞳。
腕の中の人形を……見下している。
愛しさ? 憎しみ? 違う。中味の存在しない虚空の顔だ。
それが、虫の手足をもぎ取る時の子供を想起させる表情になる。
そして。玩具を手にした子供のような顔になり。
やがて、恋しい人を見詰める瞳へと戻っていく。
愛って、こういうものなの……?
ただ、寒くて怖くて。二人のやりとり、見ていたくなくて。
ティニーは這うように、部屋の中に戻った。
視界の端は捕らえていたのかもしれない。
だけど、見ない振りをした。
恋人同士が身を寄せ合い、裏口から邸の中へと……。
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