ユリウスは朝日が昇ると同時、裏門より出た。
 馬の嘶き、一つ。
 神経が高ぶり、ついぞ眠りにつけなかったティニーを刺激した。
 目にしたくはなかった。大好きな従姉が、かの皇子を見送る所など。
 それなのに馬車の気配を察して、ベッドから出てしまった。そうして、窓辺に立ってしまった。
 ティニーはカーテンと窓をほんの少し開けて外を見た。

 朝陽を浴びる皇子は、まだまだ子供に見えた。
 薄着にショールを纏っただけのイシュタルは、普段よりも大人びていた。
 皇子は、迎えの馬車に乗り込んだ。
 走り出す、止まる、引き返す。馬車。
「忘れ物をした」
「え、何をでしょう?」
 馬車より半身を乗り出した皇子は、美しき恋人を手招いた。
「ユリウス様……?」
「これを、な」
 軽いくちづけを贈る。イシュタルは静かに受け取る。
「……では私は今度こそ帰るが……近いうちに、バーハラに来てくれるな?」
 頷くイシュタル。
 銀の髪に隠れて、ティニーからは表情が見えない。
「待っている。ではな」
 名残惜しげに恋人の頬に手を触れると、ユリウスは完全に車上の人となった。
 走り去る黒と紅の中間色。
 角を曲がり完全に姿を隠すまで、イシュタルは馬車を見送っていた。

 ティニーは、カーテンの隙間からイシュタルの姿を見ていた。
 射し込む朝の光は、柔らかに輝く。
 花壇を彩るとりどりのグラジオラスが、露に濡れている。
 ティニーの愛するものが、もっとも美しく見える時間帯。
 その中にあるイシュタルの立ち姿は、いつもと同じく、綺麗だった。

「……!?」
 イシュタルはグラジオラスの花を前に、口許を歪めた。そして、足を前に突き出した。
 花を一つ、踏み付けたのだ。 夕べと同じ、感情の薄い顔で。
 そうかと思えば、如雨露を持ち出して、手ずから花に水をやり出す。
 やはり、気持ちの見えない顔で……。

 ティニーはその不思議な従姉から、目が離せなかった。
 イシュタルがふいに顔を上方に向けた。
 しまった、と思った時には遅かった。
「ティニー……っ!?」
「あ……」
 目線がかち合った。 ティニーは口の動きから、己の名が呼ばれたのを察した。

 ティニーは、カーテンを完全に閉めた。
 咄嗟のこととはいえ、 これでは見てはいけないものを見ていました、と白状したも同然だった。
 花に水をやっているところを見ていただけではなく、その前の恋人との睦みごとも見ていたのだと、言ったようなものだ。
 行動の過ちに気が付いたものの、カーテンを開ける勇気はなかった。 ティニーはベッドに戻り、掛け布で全身を覆った。

 姉様。怒ってらっしゃるかもしれない。
 いやらしくもわたし、ずっと覗いていたのだもの。ああいうもの見られたら、きっと恥ずかしいって思うもの。
 嫌われるかもしれない。どうしよう。

 従姉が怒っていないように。嫌われないように。
 ティニーはただそれだけを願い、皆が起きる時間が来るのを待った。

*


「イシュタル様の美貌なら、当然よね。 お傍に仕えるものとして、鼻が高いわ」
 使用人たちは感嘆の息を洩らしながら、イシュタルのことを話す。
 普段のティニーならば幸せな気持ちに浸りながら話に耳を傾ける、大好きな従姉の話題だ。
「ユリウス皇子のご寵愛を受けるなんて! なんと、素晴らしいことでしょう」
「容貌だけでなく、家柄や能力……どれをとってもイシュタル様なら、不相応ということはないものね」
「ええ。后妃といえば、グランベル女性最高の地位。イシュタル様にこそ相応しいわ。ヒルダ様も、お悦びになるでしょう」
 だが、今日は違った。
 耳を塞げども入ってくる情報に、頭を悩ませていた。

「……皇子が、イシュタル様を求められて……」
「イシュタル様も、これに応えて。昨夜とうとう……」
 昨夜の出来事から、今後の展開まで。
 噂好きの下女も、滞在する客人も、憶測し、邪推し、口に上らせた。
「世継ぎの君の恋人が、下級貴族出身の一将軍。王女たるイシュタル様の恋人が帝国の皇子か。いいのか……?」
「そうね。でもブルーム様はイシュトー様を世継ぎにとお考えなの? やはり、神魔法の継承者たるイシュタル様にフリージを継がせたいのではないかしら」
「イシュトー様には砂漠近くの荒れた地メルゲンを与え、イシュタル様を北トラキアでも指折りの豊かな地マンスターの領主として任命する。ブルーム様のお考え、垣間見えるようではないか?」
「それでは複雑でしょうねぇ。このまま順当にいってイシュタル様が后妃となられたら」
「でも、きっとヒルダ様はそれを望んで……」
「だけど、ブルーム様は……」
「そうなればイシュトー様は……」
 邸中が、ユリウスとイシュタルの話で持ち切りだった。

 何故、皆が知っているのだろう。
 わたしは、誰にも言っていないのに。
 ティニー付きの侍女までが、頬を上気させ、従姉の恋愛話を聞かせる始末だった。

 姉様、わたしが言いふらしたって、思うかもしれない。
 どうしよう。どうしよう。
 ティニーは生きた心地がしなかった。

 朝食の時間。イシュタルは現れなかった。
 夜会の翌日、昼ないしは夜まで眠りこけるのは、貴族社会では一般的なことだ。
 しかし、イシュタルには珍しいことだった。
 昼食にも、姿を見せなかった。
 食事の時だけではない。邸内にあるはずなのに、 朝から夕まで、とうとう一度も姿を見なかった。

 そして晩餐。
 二人揃ってアルスターに滞在することは稀な公爵夫妻と食事をとる。
 ヒルダは本日の昼過ぎに、入舘した。
 メルゲンまで来たついでに夫の顔を見に来た、とは本人の弁。
 常は会話の少ない夫婦。だが、今日は違った。
 妻ヒルダはやたらに饒舌であり、夫ブルームはいつもにまして言葉少なだった。 妻の言葉に不必要に身動ぎし、相槌を打っている。

 ヒルダは娘と皇子のことに、直接は触れなかった。
 口から出るのは、隣接する話題ばかりだった。
 息子のこと。マンスターのこと。バーハラにある別邸のこと。
 昨夜、メルゲン城での夜会のこと……。

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