*
「夕べはやんごとなき御方が、突然訪問なされてな。イシュトーもイシュタルも、驚いていたわ」
「……そうか」
「勿論、あたしも驚いたよ?」
「……」
わざとらしく付け加えられた言葉に、 ブルームは憮然、無言で、応える。
ブルームは、イシュタルとユリウスのことに触れない。それに痺れを切らしたのであろう。婉曲であったヒルダの表現は、次第に直のものに変化していく。
「ペルルークの、かの君所有の邸に戻るにも遅い時間であったので、メルゲンに宿泊するように薦めたのだけれど、気がついたら姿を消していてねぇ」
「……」
「イシュタルも、アルスターまで一緒に戻るつもりだったのに…… 護衛も連れず、先に帰ってしまった」
アネモネの花が、巧妙な細工の銀の花器に盛られ食卓を彩る。
華やかな食卓に、贅沢な品が並んでゆく。
ベルーガのキャビア、キジとツグミと子ウサギの肉、フォアグラ、 香料のきいたタン、子羊の挽肉を固めたパン、クリーム入りのパイなどが銀の陶器の皿に乗せられて、次から次に運ばれてくる。
飲み物は、氷で冷やした辛口ワインとシャンパン……。
ヒルダは満足げに舌鼓を打つ。
「よく言うものだ……」
ブルームは不満げに漏らす。食物を運ぶ手が、重たげである。
もし噂通り、ブルームが娘に家督を譲ろうとしているならば、ユリウスとイシュタルが結ばれることなど望んではいなかったはず。
彼の不満げな表情は、噂は真実であることを物語っていた。
一方、ヒルダは悦に入った笑みを絶やさない。
ティニーを見るたび、胸を抉る台詞を投げつける彼女が、穏やかな声色で話しかける。
ブルームに聞かせるための言葉をティニーに向けて発信しているのだ。
「ティニーは今日、イシュタルと話をしたかい?」
「……いいえ。お顔も拝見しておりません」
「あらそう。疲れて自室で眠りこけているのかしらね」
「……」
「ああいったことには不慣れな娘ゆえ、失礼がなかったならばよいのだけど。のぉ?」
「……わたしには、おっしゃっていることがよく……」
知識として、何を指しているのかは分かった。
返答に窮したティニーは、子供らしく首を傾げるしかなかった。
「ティニーには、少し早い話題だったかねぇ」
優越を帯びた声音に、神経を刺激される。
少女らしい潔癖さが、ヒルダの言葉を拒否する。
耳を塞ぎたい衝動を押さえ込む。
手が感情を示す無用な動きをするのを防ごうと、眼前にある料理を切った。
グランベルでも貴重な品であるという、フォアグラの料理。口に運ぶ。
滑らかな舌触りには、脂肪独特の甘味と香りがあった。
フォアグラは、その甘さを生かすために、異種の甘さを使う。ソース。付け合わせに、甘い酒とフルーツ。香りには、さわやかなトリュフを用い……。
常なら、味覚、嗅覚、ともに満足させてくれる絶品だ。
今も、舌と鼻は、その贅沢品を楽しんでいる。
ただ、脳にまで、食することによって生まれる喜びが伝わらない。
ブルームを覗くように見る。
フォアグラは、彼の好物。
苦悶の表情で好物を口に運ぶ。
形式的に咀嚼し、体内に送り込んでいた。時折、ヒルダを視界に入れては、顔を引き締める。妻に、失意の心中を見せたくないのかもしれない。
ティニーは平静を装って、ヒルダに目線を移す。
彼女の視界には、常に夫があった。
ブルームの表情に微かな変化があるたび、勝ち誇ったように口の端を吊り上げる。
ヒルダが、娘イシュタルを后妃にと望むのは分かる。后妃の母となれば、今以上の権勢を誇ることが出来る。
フリージ公妃ではなく、個人として揺るぎない地位を得ることに繋がる。
ヒルダは生まれながらに女王の気質を持っている。
望みは、全ての支配。国も。民も。娘も。息子も。……夫も。
ヒルダは、ヴェルトマーの流れを汲む侯爵家の令嬢であった。
彼女の婚姻は当時のヴェルトマー公、現皇帝アルヴィスの声掛かりによったという。家同士の結びつきを深めるための政略結婚だった。
道具とされたことだけでも、誇り高いヒルダには屈辱だったのかもしれない。
その上、ブルームには、フリージ本国、アルスター、コノート。それぞれに情人がいる。
いずれも、美しくもなければ特異な才能があるわけではない、ごく普通の女だという。それがまた、ヒルダの矜持を傷つけたのだろう。
受けた傷を何倍にもして返そうというのか。
ヒルダは夫に対して、哀しいほどに冷たい。
ティニーや亡き母に対するように、あからさまな残忍さでもって当たるわけではない。夫に対して。
表面はあくまで慇懃だ。物理的に傷をつけるような真似もしない。
ただ精神を傷つけて、悦ぶのだ。
ブルームは相手にしないことで、これに応える。
妻でも母でもない憐れな女を見下すことで誇りを守っているのかもしれない。
そしてその態度が、ヒルダの傷をさらに深める。攻撃性を高める。
愛のない夫婦。
ティニーにとって政略結婚は、他人ごとではない。
仕方のないことだと、疾うの昔に諦めてはいた。
だけど、ブルームとヒルダの関係を間の当たりにするたび、そんなのは嫌だ、ここから解放されたいと、心が泣く。
豪華絢爛な食事の最後、デザート。
モモ、ブドウ、ナシなどの果物が運ばれてきた。
ヒルダの悦にいった言葉、ブルームの感情を押さえた相槌を耳に入れながら、白い果実を口に入れた。
甘くて、美味いと思うことができた。
これを食せば、この氷の場から解放される。
その気持ちが、果物の甘味を最大限引き出していたのだ。
*
息を吐く。
文字を追う目を、上げる。空の赤が、瞳に辛い。
ユリウスとイシュタルの睦みから、早ひと月。
家人の中でも、二人のことについての話は薄くなりつつある。
ヒルダもミレトスへ、ブルームはコノートへと戻った。
イシュタルも舘にある時間が少ない。 ユリウスのアルスター訪問もあの夜きり。
新しい情報がなく、そして進んで吹聴する人間がいなければ、噂というのは自然途絶えていくものだ。
本を読むのも、久しぶりだった。ここひと月、 本を開いても、文字を見ても、読むことは殆どできなかった。
思考が別に取られるため、文節を追っても内容が理解できなかったのだ。
本を読むことだけではない。
数日前まで、家庭教師による授業も殆ど身に入らなかった。
イシュタルとあの日以来、まともに会話の時間を持てなかったからだ。
従姉は忙しい身。
ひと月といえば、顔を見かけることがなくとも、不思議ではない期間だった。
マンスターに行っているのかもしれない。
あるいは、ミレトスへ、コノートへ。
あるいは……バーハラに……。バーハラに……。
舘には度々帰ってきているようだった。
だが、ティニーと共に過ごす時間はなかった。
時間がない故なのか、それとも彼女が共にありたくないと考えたからなのか。気にかかっていた。
噂が薄れていくにつれ、従姉と顔を合わせる機会が多くなった。
一昨日はようやっと、共に昼食をとる時間が持てた。
従姉に嫌われたかもしれない、避けられているのかもしれないという不安が、杞憂であったことを知った。
一つ、心の荷が降りた。思考が正常な生活に戻り出した。
本を読むこともできるようになった。
普通に食事をして、日常の会話を交わす。
互いの健康を気遣い、近況を報告する。
冗談に笑い、嫌いな食べ物を前に、渋い顔をする。
ささやかな時間を楽しんだ。
並ぶ食事は、食が細く脂質類を嫌うイシュタルに合わせての、ごく簡素なものであった。だがその食事の、なんと美味だったことか。
席を立つ時、思いきって従姉に耳打ちした。
「あの時、あの、見ていたんです、ごめんなさい。ユリウス皇子とのこと……」
「でも、あの、皆が知っていたの……。それは、わたしじゃあ、ありません。わたし、誰にも言っていませんから」
それだけ告げると、従姉は小さく笑った。
「ヤダ、そんなことを気にしていたの? ああいった話は自然と広まるものよ。例え……が広めなかったところで……」
「え?」
従姉の声は次第に萎んでいき、肝心な部分は聞き取れなかった。
誰が広めたのか、知っている口ぶりだった。広めた誰か。
聞こえなかった。だけど、誰かがいたとすれば。一人しか浮かばない。
やはり今日も、読めそうにない。
ティニーは諦めの息を吐き、読みかけの本を閉じた。
ここひと月、思考の大半をイシュタルのことに使った。
正確には、嫌われたのではないかという不安が脳内を支配し、思考力を奪っていただけだ。
不安は薄れた。思考力が、回復した。
今度は大好きな従姉を理解するために、考える力を行使する。
*
「……が広めなかったところで」
一昨日の従姉。喉に詰まったような声。今も耳に染みついている。
イシュタルの母、ヒルダ。
もし、噂を流した人間がいたとすれば、彼女だろう。
だとしたら、何故だ。
夫の屈辱感を煽るため?
それとも、望みが叶いそうだという現実を認識するため?
そんなささやかな満足のために、娘の気持ちを考慮もせず、話を流したというのか。
いくら相手が皇子とはいえ、うら若き少女の初めての情事だ。心の奥に秘めておきたいのではないだろうか。望んでの関係だったとしても、意の伴わない行動だったとしても。
自分なら、家人は勿論だが、親にも知られたくないと思う。
いや、親にはさらに知られたくない。
親の前ではいつまでも清らかな乙女でいたいから。
三人での晩餐。
ヒルダの勝ちを誇るような態度を思い返す。
噂の根源であるというのは、ありそうな話だった。
噂を広めるだけでなく、ユリウスとのこと自体、仕組んだのかもしれない。そこに考えがおよび、身を震わせた。
ここ数ヶ月、従姉の守人ラインハルトの姿がないのは、ヒルダの命であるという。
ラインハルトは、イシュタルと恋仲な訳ではない。
だが、イシュタルがもっとも信頼し、身近に感じている男ではある。
皇子の恋人に仕立てようという女の付近に、他の男の影があることは好ましくないはずだ。
ひと月前のメルゲンの宴。イシュトーの主催だった。
だが、華やかな装いを贈り、出席を促したのは誰であった?
それより以前。ヒルダは本国にイシュタルを招くことが、度々あった。
従姉はその度に顔をしかめ、こちらの予定も考えずに、と文句を言った。 だが結局は、時間を捻出し、グランベルへと赴いていた。
その時から情人となること、いずれは妃として立つことを目論んで、ユリウスにイシュタルを目通しさせていた可能性は高い。
全ては立身のために。
ティニーは身を掻き抱いた。
母の招きに応じて本国に向かうイシュタル。
引き離されたラインハルトのことを語るイシュタル。
噂を広めたのは母だというイシュタル。
切なげな、複雑そうな微笑が脳裏を過る。
従姉は聡い。全てを承知して、諦めの気持ちもあって、ユリウスの愛を受けたのかもしれない。
だから、あれほど感情の薄い顔で、事務的な処理をするかのごとく、愛を受けていたのかもしれない。
ヒルダの望みを叶えようとして。
親の前ではいい子でいたい。傍にいて欲しい。 愛し、愛されたい。
その気持ちは分かる。
自分とて、大好きだった亡き母が、もしも強く望んだとしたら……考えられないことではあるが……好感の持てぬ相手でも愛そうと努めるかもしれない。
ヒルダは客観的に見ても、決していい母親ではない。
彼女はティニーやブルームに対してだけ、冷淡なわけではない。
イシュトーにも極めて冷たい態度で接している。
だが同じ子供であっても、イシュタルにだけは優しい顔も覗かせる。ほんの時折、ではあったけれど。
時々は優しく見えるから、好きなのだろうか。あの母親を。
そういえば、ヒルダの娘に対する気持ちについて、従姉自身が語ったことがあった。
今より一年ほど前になるか。従姉と共にマンスターへ赴いた。
その馬車内での会話だったか。
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