「少し、休みましょうか。疲れたでしょう?」
「あ、いえ。座って、ただ揺られているだけですもの。疲れるもなにもありません」
 フリージ家紋も華美な装飾もない、簡素な馬車の中。
 小さな空間で従姉と二人きり。二人は若い娘らしく楽しげに語った。
「ティニーは旅慣れていないから心配よ。旅といっても、マンスターを視察するという、ただそれだけのものだけど」
「それだけだなんて。巡る景色全てが、私には珍しいものばかりです。麦畑など、初めて見ました」
 緑を称え、聳える山々。太陽の光線を存分に浴びて輝く、青々とした麦畑。駆け抜けた景色を思い返し、ティニーはうっとりと目を閉じる。
 イシュタルはティニーのその様子を、口許だけの笑みを浮べて見ていた。

「同じ北トラキアでも、砂漠に近いアルスターと違い、マンスター地方は山や緑が多いのですね」
「ええ。父が執着するのも分かる。豊かな地だわ」
「今回イシュタル姉様とご一緒できて、本当によかった。なんて感謝したらいいのか……夢のような時間です……っ」
 叛徒の娘にして、貴重な駒。
 ティニーには常に監視の目が光り、その行動には制約が多かった。
 だから、居住するアルスター以外の地を殆ど知らなかった。
 不満がないといえば嘘になるが、仕方のないことだと諦める事にしていた。
 その時は特別だった。
 長旅の話相手という名目でイシュタルのマンスターへの旅路に同行することを許されたのだ。

「わたし、嬉しくて……ずっとこんな時間が続けばいいのにって、思います。大好きな姉様が一緒なのですもの」
「本当に、そう思ってくれているなら嬉しいわ」
「本当の、本当です!」
「じゃあ、これからは、もっと外に連れ出すようにするわね。ティニーに、色々なものを見せてあげたいもの」
「……お気持ちは、嬉しいのですが……でも、無理はしないでください……」
 楽しい旅。素直に、好意に甘えたいとは思う。
 だが、言わずにはいられなかった。従姉に負担をかけたくはなかった。
「……無理?」
「だって……。あの!今日のことだって……本当に良かったのですか? わたしを連れ出したりして。姉様が、叔母様に叱られるのではないですか?」

 夕刻、温室で花を愛でながら眠ってしまい、その中で夜を過ごした時のことをティニーは思い出した。
 行方をくらましたと思われ、付近の町村にまで探索の手がいったという。
 翌朝、温室より出ると、見知らぬ人に取り押さえられた。舘内より現れたヒルダに、外部へ恥を晒す羽目になったと罵られ鞭で打たれた。
 そして次の日も、その次の日も、そのまた次の日も、温室中で過ごすことを強要された。
 食物も与えられない。温室内には野菜や果物類があった。
 空腹に耐えきれずこれを食すると、意地汚い子だと言われ、また打たれた。
 この時、温室の管理人とティニー付きの侍女は、責任を問われて解雇された。

「わたし、姉様が怒られるのは嫌です……」
 イシュタルは、ティニーのことを考えてくれる。いつも優しい。だから、彼女に迷惑はかけたくなかった。
「平気よ。母は私にだけは甘いから」
 溜息混じりに、イシュタルは言った。
 その手は、トードの聖痕のある左胸に手を当てられる。
「私が、トールハンマーの継承者で、それに……」
 右に、その手をずらす。布と肌の間にある、小さな硬質を握りしめる。
 息を漏らし、続ける。
「……ユリウス皇子の覚えがめでたいから。母の虚栄心を満足させる子供になり得るから、ね」
 どこまでも自己愛の強い女性だと言わんばかりに、イシュタルは自嘲気味に笑った。
「あ、つまらないことを言ったわね。ごめんなさいね」
 弄ぶように、硬質を手の中で転がす。
 ティニーは従姉の手の先にあるのが、紅玉に銀の鎖を絡めたペンダントだということを知っていた。十五の誕生日にヒルダから贈られたものだ。誕生祝いの宴の中、多くの客の前で渡されたという。イシュタルはそれを肌身離さず身に付けている。

 ティニーにも常に身に付けているペンダントがある。
 くすんだ銀の鎖に結び付けられた蒼い石。
 簡素な造りのものだ。両親の恋の想い出の品であり、母の形見でもある。
 優しい気持ちの詰まったもの。触れると幸せな気持ちになれる。 従姉の持つ、高価なだけの品とは違う。 形式上の贈り物を大切にする、従姉の気持ちは理解できない。

「いえ。 わたしでよければいくらでも姉様の話したいこと、話してください。何の力にもなれないと思いますけれど。でも、あの、信頼してくださっているんだなあって、嬉しくなります」
「ティニーは、本当に可愛いわ。年々、ティルテュ伯母様に似てくるわね」
「そうなのですか?なんだか嬉しいです」
「ティニーは本当に、ティルテュ伯母様が好きなのね」
「はい」
「……私もティルテュ伯母様、好きだったわ。愛情に満ちていて……、芯から優しくって可愛い女性。母とは正反対」
「……」

 親が生きて、側にいる。大切にしてくれる。
 それは、大抵の子供が与えられた無条件の幸せだ。
 だがヒルダのような母なら、いらない。
 叔母と母を比較することすら、して欲しくない。

「ティルテュ伯母様、ティニーを心の底から愛していたわよね」
「はい。母様は、何もしてあげられないかわりに愛情だけはいっぱいあげるって、そう言って、よく抱きしめてくださいました……」
「私……正直、ティニーが羨ましい」
「え……?」
 三度、瞬きをする。あまりに意外だったため、聞き間違いだと思った。
 ありとあらゆるものを持っている従姉が自分を羨むなど、ありえない話だから。
「驚くようなことかしら」
「驚くというか……その……。だって、姉様は……」
 才色兼備でならしたフリージ公女。神魔法トールハンマーの継承者。 彼女ほど恵まれたものはそういないはずだ。
 ティニーは、彼女が羨ましかった。能力や美貌が、ではなく……。
「何でも持っているように見える?」
「……はい」
「そうね。物理的、能力的には恵まれているわね。奢るつもりもないのだけれど」
「本当のことです!姉様は綺麗で、頭がよくて、優しくって、何でもできて……それに……」
「それに?」
 続きを言っていいものかと、逡巡した。

「……」
 長い沈黙によって先を促され、ティニーはしぶしぶ音にすることにした。
「自由、ですから……」
「……」
「あ、でも、あの!だからって、わたし……その、今の生活に不満があるわけではないのです!
大好きな姉様と……それは姉様、お忙しいからずっと一緒にはいられないけど、でも、姉様が近くにいてくれて、 わたしのことを見てくれて、 イシュトー兄様も優しくしてくださいますし……。
衣食住の心配もいらないし……。本当に、これ以上を望むつもりはないのです!」
「そう……」

 詰問されたわけではない。
 それなのに。
 不満があるのではない、自由など欲していないと、身振り手振りをあわせて矢継ぎ早に言ってしまう。
「私にまで、無理を言う必要はないのよ?」
「無理なんて、していません」
「そう」
「はい」
 嘘の出口である口許に、自然手が伸びてしまう。
「それなら、いいけれど……」
 イシュタルは、ティニーの手首を優しく掴んだ。
 本当に?
 問わんばかりに顔を覗き込み、視線を合わせようとするイシュタル。
 逃れようと、ティニーは視線を外に流した。

「姉様……」
 緑を眺めたままで、ティニーは問うた。
「あの……姉様がわたしなどを羨ましいと思うのは……何故ですか?」
 母ティルテュから、愛されていたから、という意味だろうか。今は亡き、優しい母から。
 イシュタルもヒルダから愛されたいのだろうか。あれほどに冷たき母親でも。

 またもや、沈黙が訪れた。
 車輪と土が接触する音、御者が馬を鞭打つ音。
 そして、互いの息遣い。
 楽しい語らいの時間にはさして気にならなかった音が、耳を騒がす。
 重苦しい空気が、狭い空間を満たした。
 ややあって、イシュタルは口を開いた。抑揚のない声で言った。
「ティニーが……自然と備え付けているから……かな」
 従姉の言葉の意味がわからない。“何を”備え付けているというのか。
 視界に従姉の姿を戻す。表情を覗う。
 だが、見えなかった。顔はある。表情が、存在しない。
「うちの母様はね。何でもくれる。形だけは、優しくしてくれる。だけど……」
 だけど、何? 聞こえない。
「だから、わからないの」
 何が、わからないの?
 聞きたかった。だけど、できなかった。
 追求してはいけないと思ったのだ。胸の中で、そう告げる声があったのだ。
「無条件に愛されて育っていれば、あるいは、私も……」

 馬車が揺れる。
 音を立てて、走る。
 従姉の声は、次第に小さくなっていく。
 外の音は、次第に量を増す。
 イシュタルは視界を外部に向けた。
 そうして。移りゆく生きた絵画を、見詰めていた。
 大好きな従姉の冷たい横顔は、ティニーの心臓を捕らえて放さなかった。

*

 この時のイシュタルは、ティニーの知る、優しく燐とした公女の印象と離れていた。
 輝かしい彼女には不似合いな、泣き言のようにも聞こえた言葉。
 印象と離れていたから、多分、記憶の輪から外れていた場面……。

 ティニーは頭を抱えた。
 やはり、イシュタルはヒルダを愛している?
 そうかもしれない。どこまでも利己的、愛を注いでくれぬ母。
 それを承知の上で、それでも母親として、愛している。
 首を振る。
 その要素があることを、完全には否定しない。だが、それ以上に。
 イシュタルは……ヒルダの愛を欲しているのではないだろうか。
 ティニーは母親から愛された育ったから、自然に備え付けている。羨ましい。従姉は、平坦な口調で言った。
 ヒルダの愛情が欲しいというより、母親から愛されることで得られる“何か”をこそ、イシュタルは求めているのかもしれない。

 目の前にある本に意識が寄った。
 あの夜、イシュタルがユリウスと結んだ夜。読んでいた本だ。
 頁を捲る。
 無残に引き千切られた頁に行き当たる。
 この頁には、何が書いてあったのか。
 そこには、従姉の求める“何か”の答えが書いてあったのではないか。気に掛かった。
 今度、訊いてみよう。そう考えた。
 だけど同時に、決して訊ねてはならないことのようにも思えていた。


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