従姉と話ができない日々、再び訪れた。
 舘には、時々戻っている。顔を見かけ挨拶を交わすこともある。
 だがじっくりと話す時間は持ち得なかった。
 従姉の廻りには、これまで以上に多くの人間が集った。元より早い歩行速度が、さらに増したようだった。空いた僅かな時間は部屋に篭もっているようだった。勉学に励んでいるのだろう。ティニーに割く時間はないようだった。声を掛けることもできない。
 だからもうふた月、まともに会話をしていない。

「あ……」
大浴場で身体の汚れを落とし、自室に戻ろうとした時だった。
サロンを経て、テラスへ向おうとする銀の後姿を目にした。
従姉はドレッシング・ガウンに身を包んでいた。
「……」
 意図せず、一歩後退する。
 イシュタルは人の気配を敏感に察して振りかえった。
 華やかな笑顔を浮べた。ティニーもつられて微笑んだ。
「ティニー!」
「姉様っ」
 花の蜜に引き寄せられる蜂のように、 ティニーはイシュタルに走り寄った。

「久しぶり、になるかしら?」
「はいっ」
「ここのところ、アルスターには立ち寄るだけのような生活を送っていたから……間近でティニーの顔を見るのに、懐かしさを覚えるくらいよ。少しは寂しがってくれた?」
 イシュタルはティニーの顔を覗き込んだ。
「あ、当たり前です。あの、もしかして、今日は時間があるのですか?」

 二人の他には誰もいないサロンに、上ずった声が響いた。
 ティニーと同じく部屋着に身を包んだ従姉が頷く。
 時間があるといっても、多忙な従姉のこと。
 今夜をアルスターの舘で過ごしても、明日、明後日中にはまた別の地に発つに違いない。
 それでも。 眠るにはまだ早い時間。部屋着に着替えていること。廻りに誰もいないこと。これだけ揃っていれば、 イシュタルとティニーの間には時が存在することになる。

「ええ。六、七日くらいはゆっくりできるのよ」
「まあ、そんなに……?」
「……とはいっても、十日中にはマンスターに出立しなくてはならないから、その最終的な支度をしなくてはならないのだけれど」
「え!? マンスターへ?」
「前々から話していたでしょう? 領主として赴任することが決まったって。何故、今更驚くの?」
「いえ、あの……正式な日程は聞いていなかったもので……。 まだ先かなって、何となしに思っていました」
 ティニーは、寂しさに身を任せ、俯いた。
「マンスターは遠いですよね……」
「ええ。以前、ティニーと一緒に行ったこともあったわよね」
「……はい」
「むこうでの生活が落ちつくまで、しばらくはアルスターには戻れないと思うわ。 政務に集中するつもりでいるの。私と離れるの、辛い?」
「辛いです。でも、姉様のお役目ですものね……」
 イシュタルは、ティニーの言葉に笑みを零す。
「そう。マンスターは、元来、豊かな土地。それが、王家が滅して以降、国としての体制がないに等しい状態にある。農作物の摂取量も年々落ちている。それというのも、核となる存在に欠いているから」
「姉様が、その核となられるのですね、これから」
「そうあらねばと思っているわ。帝国やお父様はフリージの公女として支配者の象徴でなればいいと考えているのかもしれない。 あるいは神魔法の継承者として、恐怖の象徴となればいいと考えているのかもしれない。でも、私はそれだけの存在でありたくはないの。きっと私、負けず嫌いなのね」

 それでここ数ヶ月、従姉は職務に忙殺されていたのかと納得する。人が集っていた理由も。
「力で抑えつけて現在あるものを奪い取ることが正しい統治の仕方であるとは、私は思えないもの……」
 何度となく聞いた言葉だった。ティニーは頷く。
 そう。知っていたはずなのだ。
 従姉が形だけの領主とならぬための努力を惜しんでいないこと。
 マンスターのために、出来るだけのことをするつもりでいることを。
 それなのに。
 ユリウスとの時間を作るために、忙しなく動いていると思っていた。それも、母の望みを叶えるために。
 そうしてユリウス皇子との関係が、否応なしに人を寄せているのだと思っていた。
 従姉を見縊っていたのだ。なんと恥ずかしいことだろう。頬が熱い。

「どうしたの?顔が赤いわよ?」
「あの、姉様、ごめんなさい。だって、姉様の綺麗なお顔があんまり近くにあって、その、恥ずかしいかったので……」
 半分はいい訳だが、半分は本当のことだ。
 従姉は三度瞬きをした。口許が緩み目尻が下がる。自然な笑顔だ。
 ティニーの硬く熱くなった身体が、平常の柔らかさを取り戻した。
「まあ、ティニーったら。口が上手いのね」
「だって、姉様……本当にお綺麗なのですもの。目も口も、全部綺麗。だから、あの、あんまり近くにあると、その……女のわたしでも……胸が鳴ってしてしまいます」
「いやだわ、ティニー。そういう言葉を赤い顔して言わないで頂戴な。私が変な気を起こしたら、どうするの?」
「変な、気……ですか……」
 頬に人差し指を宛がう。
 瞳を右上に移行させる。考えているかのような仕草をする。
 イシュタルはティニーの返答を待っていた。
 やがてイシュタルはこらえ切れずに吹き出した。

「やだっ、そこで考え込まないでよ!」
「姉様ならいいかなぁって、少しだけ、思いました」
「ティニーったら!」
「だって、姉様のこと、大好きなのですもの」
「それとこれとは、違うでしょ」
「でも、本当に好きですから」
 イシュタルが好き。これはティニーの真実だ。

「本当に……好き。でもやっぱり、それとこれとは別なのですけれどね」
「あら、それとこれって、なあに?」
「……それとこれは、それとこれですっ」
「……」
「……」
 数秒の沈黙があって、後。
 二人は瞳を合わせて笑った。
 身体を震わせて、身を寄せ合って、笑った。

 どちらともなく足を動かし、テラスに出る。
 雲の合間に見え隠れする月を眺めながら、二人は他愛のない話に興じた。アルスター城舘の灯りの殆どが消え去る時分まで。そうしていた。
 例の本のことについて聞きそびれたとティニーが気付いたのは、寝台に入ってからであった。


 明日、イシュタルはマンスターに発つ。
 九日間、同じ舘にありながら、ティニーがイシュタルと顔を合わせる機会は多くなかった。食事の時間すら共にあることがままならない。イシュタルは想像以上に忙しいと不満を漏らしていた。個人として必要なものの大半は、先にマンスターに運ばれていた。彼女のアルスターでの政務は、すでに後任に引き継がれていた。アルスターで彼女がすべきことは、ごく身近な持ち物の整理と、親しき人への挨拶くらいのはずだった。
 では何故忙しいのかといえば、マンスターへ移り住むフリージ公女に最後のご機嫌伺いをしようというものが後を絶たなかったからだ。
 朝から晩まで詰め込まれた謁見の予定にイシュタルは辟易していた。
「名前にすら覚えのない人と、この後に及んで時を共有しなければならないなんて。仕方がないといえば、それまでだけれど」

 今夜は、イシュタルのアルスター最後の夜だ。
 門出を祝う宴が、盛大に催される。グランベル六公家やフリージ家所縁の貴族など、錚錚たるメンバーが集うという。ティニーには出席する資格がない。

 宴の日。通常なら午後を丸々装いの時間に充てる。
 しかし、謁見の予定が込んでいたため、今日は夕刻からの支度となった。忙しなく従姉を囲む侍女らに弾かれ、ティニーは近くで眺めることもできなかった。

 仕方がないので、一人、自室で過ごしている。
 ホールの賑わいが、位高き人々の来場を告げる声が、閉めきった部屋に侵入する。
 もうじきお祭りが始まるのね。今日はもう会えないのだろうな。
 スカートが皺むのも気にせず、ティニーはソファに身体を弛ませた。
 華やかな夜会の様子を想像するかのように目を閉じる。
 木が金属で叩かれる音。戸の動きを示す軋み。続く、声。
「ティニー……?」
現実に引き戻され、ティニーはそっと瞼を上げた。
「え、嘘、姉様……っ?」
「ようやく身体が空いたわ」

 まるで水の女神。ティニーは感嘆の息を漏らした。
 イシュタルは川の流れるを思い起こさせる、艶やかな青の装いであった。肌の露出こそ控えめだが、 しなやかな身体の線が強調されるよう仕立てられたドレスであった。
 流した銀の髪は、白い小さな花が散らされていた。
 寒色の宝石が填められた銀の装飾品が、ドレスの青に映えた。
 胸元に輝く紅石だけが異彩で、異彩であるがゆえの調和を奏でていた。

「おはよう、かしら?」
「違いますっ。ちょっと、考え事をしていて。ぼんやりしていただけですっ」
「そう? どちらでもいいけれど、ね」
「……そりゃあ、 このまま寝入ってしまいたいなぁって、少しは思いましたけれど」
「ふふっ。正直な娘は好きよ」
「じゃあ、正直に。姉様、今日も綺麗です、とっても綺麗」
「ありがとう」
 見つめあい、微笑みあい、幸せだった。
 イシュタルが自分のために貴重な時間を使ってくれる。
 ティニーは無邪気に嬉しがった。

 

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