* 

 二人はそのまま、衣装についての話をした。
 侍女の二人が装飾品について揉めたこと、通常の半分の時間で満足な仕上がりにするためにどれだけの苦労をしたか、等々。イシュタルが愉しげに語る。ティニーは聞き入り、時々質問を入れる。
 そうこうしているうちに、外界の賑わいの音が量を増していく。

「あ……っ」
 楽しい会話の途中、ティニーはふいに気が付いた。本日の宴の主役を一人占めしていることに。
「……どうかしたの、ティニー?」
「あ、あの、お時間は大丈夫なのですか?」
 客は、ぞくぞくと到着している様子。
 主役たる彼女がいなくては、宴を始めるわけにはいかないだろう。
「余裕はないのだけれどね。でも、少しくらい平気よ。主役はね、主だった客が揃うまでは、それほど必要のないものなのよ?」
「そういうものなのですか」
「ええ。だから、もう少し、話をしましょう」
 イシュタルはティニーの隣に腰掛けた。

「明日の朝は慌しくて時間がとれないだろうし、今夜もそう早い時間には解放して貰えないでしょうから。今、お別れの挨拶をしておこうと思ってね……」
「お別れ……そんな言い方は……哀しいです」
 従姉の口にした言葉が、重く圧し掛かる。
 遠いといっても、同じ北トラキア内でのこと。それほどおおげさに捉えていなかった。
 行動の拠となる場が違えば、姿を遠くから眺め、ほんの一言を交わす機会さえなくなるのだ。
 出立の日は先だからという考えが、その事実から目を逸らされていた。
 だから、重く感じるのだ。別れ。今更ながら。
 以前は旅をした時は、休み休みの行程で十日かかった、
 アルスターとマンスターの間。会える距離だ、イシュタルに時間さえあれば。あるいは、ティニーに行動の自由さえあれば。
 別れという単語に、そのどちらも不足していることを、改めて知らされる。

「……哀しいと思ってくれて、嬉しいわ」
 イシュタルは腕を伸ばし、ティニーの頭部を手繰り寄せた。
 ティニーはされるがまま、イシュタルの中にいた。冷たく滑らかな繻子が頬に心地よい。
「手紙、書くわね」
「わたしも書きますっ、お手紙! 姉様と違って、時間はありますもの。姉様がご多忙で返事が書けないようであっても、わたしは、送りつけます!」
「本当に?」
「はい!あ、でも……姉様が迷惑だっておっしゃるなら……やめます」
「私がティニーからの手紙を迷惑だなんて、思うはずがないじゃない。 嬉しいわ。楽しみにしている」
「よかった……」
「たくさん書いて、送ってね」
「はい」
 イシュタルが、その頭部をティニーの肩に預けにきた。
 身を寄せ合う形になる。
 肩に置かれた従姉の形のよい頭は、思いの他小さかった。
 二人は言葉もなく、互いに身体を預けていた。
 限られた時間の中であっても、それは無駄な時間ではなかった。

「ねえ、ティニー……」
 イシュタルが、躊躇いがちに口を開いた。強い声だが、震えている。
 その視線はティニーにではなく、壁際にある棚に向けられていた。
「……」
 同調するかのように、ティニーも棚を見る。棚には本が並んでいる。
 イシュタルから借りた本も、そこにある。
「ティニー?」
「あ、はい」

  あの本も。
 中の欠けた本も、借りたまま。そこにある。

「私の貸した本は……もう、読んだ?」
「えっと……」
 イシュタルは、ティニーの米噛に手を当てた。
 擡げる頭を優しく持ち上げ、離す。立ち上がり、棚の前に行く。

 今借りている本は、七冊ある。
 中の欠けた思想の本を除いては、三、四通りは読んだ。
 イシュタルは、うち三冊を一見無作為に見える手つきで採った。
 欠けた本も含まれている。
 持った本を見せるように、イシュタルはティニーに向き直った。
 従姉の表情に、感情の色は乏しかった。だけど。
 この本は、読んだの? 何かを、感じ取ったの?
 ティニーはそう問われているような気がした。
「ま……だ」
 小さく、答えて。ティニーは深く腰かけ直した。

 省かれた頁の秘密を訊ねるならば、今だとは思った。
 数頁、抜けていたのですけれど、何が書いてあったのでしょう?
 無邪気な顔で、そう訊けばいい。頭では思った。
 だけど、何故か、何故かできなかったのだ。
 胸に何かが詰まって。喉まで来た言葉を吸い込んでしまったのだ。
 訊ねないほうが、いい……何かが告げたのだ。

「まだ、全部は読んでいません。私には、難しい内容のものも、その、あって……」
「そう……」
従姉は短く言ったきりだった。本を棚に戻す。
「読み終わったら、私の書斎に戻しておいてもらえるかしら」
ティニーの目前に来て、イシュタルは鍵を差し出した。
「あ、はい。鍵……お預かりしてしまってよいのですか?」
「ええ。マンスターには、私の書斎はないもの。時々は中を整理してもらえると助かるのだけど。あまり、他人を立ち入らせる気にはなれなくて」
「わかりました。お任せ下さい」
「そのかわりといってはなんだけれど、中の本は、好きに読んでくれて構わないわ」
「よいのですか? 嬉しいです……」
 立ちあがり、躊躇。後に、固い動作で鍵を受けとった。

 ティニーは出窓の前に移動し、少し戸を開けた。
 夕の空気と外音の、出入り口を作る。
 外を見ながら、ティニーは言った。
「姉様。今日は、大勢のお客様が見えるのですね」
 部屋から見えるのは、裏口だけ。裏から運び込まれる多量の酒樽を見やる。
「……ええ。ありがたいことなのよね」
 イシュタルは息を吐いた。本を置き、ティニーの隣へ移動する。
「叔母様、張り切っているようでしたね。宴の準備。叔父様も……」
 ここ五日ほど、珍しくも、ブルーム、ヒルダ共に舘に在していた。
 送別の宴のため、馳走の手配や会場の配備・装飾、招いた客に漏れがないか、等。朝から晩まで走りまわっていた。
「ええ。お母様が張り切るから、お父様も張り切る。お父様が張り切るから、お母様も張り切る……のね。きっと……」
 口許が笑う。
 手は、胸元の紅石を弄んでいた。ヒルダからの贈り物である。
「盛大な催しより……私は、内々の送別会のほうが、ずっと嬉しいのに……」
 抑揚ない呟きが心の悲鳴のように聞こえるのは、気のせいではないのだろう。

 覗くイシュタルの横顔には、気持ちがない。
 だが、ティニーの目には物欲しげに映る。
「姉様……あ、の」
「ん?」
 ティニーは話題を変えた。
「あの!今日は、沢山の方がいらっしゃるのですよね。六公家の所縁の方や、フリージ国内の貴族」
「ええ」
「イシュトー兄様も見えられるのですか?」
「その筈よ。凛々しき恋人を伴ってね」
「では、ラインハルトも出席なさるのですか?」
「ええ。ご自慢の妹君を同伴するそうよ」
 イシュタルの顔に明るさが戻る。そして他の参加者の名前を挙げ出す。
「他には、ミューラー卿、ラルゴ卿、ケンプフ卿……」

 ティニーはイシュタルの口から、恋人の名前が出るのを待った。
 だが、参加者の名が六公家の人々にまで及んでも、イシュタルの口からユリウスの名は出なかった。
 恋人の門出。かの皇子は出席しないのだろうかと、気になった。
 熱心な求愛の言葉と、絶対零度の瞳。同時に想起される。
「ええと、その……」
 逡巡。口にする。
「あの……方は……いらっしゃるのですか?」
 イシュタルは、瞬きの回数を増やした。
「……ユリウス様がいらっしゃるかどうか、訊きたいのね?」
「……その、はい」
 頬を染めて、俯くティニー。イシュタルは、さもおかしそうに肩を奮わせた。

「ティニーも気になるのね。侍女たちにもさんざ訊かれたわ」
「ご、ごめんなさい」
「あら、謝ることではないわよ。恋人のことを訊ねられて悪い気持ちになる女の子っていないと思う」
「そうなのですか。悪い気がしなかったのなら、よかったです」

 恋人、という単語を口にして、ぎこちなく微笑むイシュタル。
 本当にまんざらでもなさそうだった。
 恋の話に興ずる侍女たちの姿と較べて、思った。

  だから余計に、分からなくなった。
 ヒルダのために、ヒルダから愛されるためにユリウスと恋仲になったのだと思っていた。
 だが、違ったのかもしれない。考えすぎだったのかもしれない。
 あの夜の、愛の全く感じられなかったやりとりは、気のせいだったのかもしれない。
 始まりには愛がなかったとしても、共にあったり、肌を合わせたりしているうちに、本物の愛へと変化した可能性もある。

「ユリウス様には、招待状は差し上げたのだけどバーハラでの行事もあるから、どうなるか分からないとおっしゃっていたわ」
「いらっしゃるとよいですね」
「ええ。あの方は、いつも突然ですから。もしかしたら、今夜も見えるかもしれない」
 愉しそうに、イシュタルは語る。恋に浸る少女に類似した姿だった。
 やはり、姉様はユリウス皇子がお好きなのだ。
 安堵の意識とともに、ティニーは思った。
 ヒルダのためではなく、自身が好きなのだ。だから愛を受けたのだ。よかった、と。
 ユリウスがイシュタルを真に愛しているかは、分からない。垣間見ただけ。それでもティニーには、偽りの愛情を向けているように思えてならなかった。
 それでも。……それでも。
 ティニーの嫌悪するヒルダ。あの母の意に添うように、ユリウスの愛を受けているというより、 イシュタル自身がユリウスを愛しているから愛を受けたのだと考えるほうが、ずっと幸せだった。
 だから、言った。
「姉様は、ユリウス様を愛していらっしゃるのですよね」

 すぐさま肯定の言葉が返ってくると思っていた。
 そうあって欲しかった。
「……」
 だが、そうはならなかった。
 ティニーの言葉を耳にした途端。イシュタルから表情は消えた。
 しばしの時間をただ流した後。
 口許だけに笑みを浮べて、彼女は言った。
「……ユリウス様は愛していると、言ってくださるから」
「え……?」
「愛したい。愛せたらどんなにいいか……そう思っているの」
 では、現在。姉様は、ユリウス様を愛してはいないの?
 愛してくれるから、愛そうとしているだけなの?
 ティニーの疑念に満ちた瞳を避けるように、イシュタルは身を反転させた。

「もうそろそろ、行かないとね。一応主役ですから。手紙、待っているわ」
「あの!」
 去ろうとする従姉の背中に、ティニーは最後の問い掛けをした。
 勇気を振り絞って。喉に絡みつく、不快感を制御して。
 訊ねた。ずっと思考を占めていたことを。
「姉様は、叔母様から、愛されたいのですか?」
 イシュタルは半身だけ、ティニーを向いた。
「もう、遅いわ……いらない」
 白に限りなく近い微笑を浮べて、イシュタルは言った。
 そして扉を開け、外に出た。逃げるように。

 いらない……?
 ヒルダからの、愛情が?遅いって……?
 ティニーは返す事のない鍵を手に、イシュタルの後姿を見送った。

 これが、“優しくて、大好きな従姉”と交わした、最後の会話であった。

NEXT

FE創作TOP