「何も、訊かないのか……?」
 公女は下界を見ぬよう目を閉じ、男の胸甲を震える手で掴んでいた。
 低い声を耳元よりかけられて、伏せていた顔を上げた。
「え?」
 竜騎士と公女は言葉もなく上空にあった。竜の背にある。
「……訊いても、よいのですか?」
 竜騎士はただ苦笑することでこれに答えた。自分が誰なのか。何のために彼女を助けたのか。質問されて、全てに答えを返せるかといえば嘘になる。

「私は、貴方の手を取ったのです。信じて、共に来るようにと告げた、貴方の手を……ですから……」
「全面的に俺を信じると言うのか?」
 目を見開き、竜騎士は腕の中にある小さな娘を見た。
「……信じなくてはいけないと思っています」
 命運を握るのは、見知らぬ他人。幼い娘が不安でないはずがない。小刻みに震える身体と不均衡に気丈な表情で、公女は竜騎士を見ていた。
 仮に竜騎士が彼女に害を成さんとするものであっても、半裸で腕の中に収められ、空を翔 ぶ状況ではどうすることもできない。諦めの気持ちもあるのだろう。せめて、運命を自分の手で選び取ったと考えたいのかもしれない。竜騎士は、彼女の張り詰めた心が少しでも弛むよう、話せる部分は自発的に話すこととした。 彼女にとって、敵でないことは確かなのだ。

「俺は、ターラの義勇軍に雇われた傭兵だ」  
「ターラ義勇軍……」
 フリージの役人が警戒していた、市民による反帝国勢力。
 竜騎士の言葉は、公女が予想……否、淡く期待していた通りのものだった。男が、それ以外のものでなければいいと祈っていた。 公女は軽く息を吸い、吐き出した。

 腕の中の硬い人形が、体温を持った少女になったのを確認した竜騎士は微かに笑んだ。
「少しは、気が休まったか?」

「……はい。でも……」
 公女を油断させる為の嘘でないとの確証はない。身代金目当ての賊や人買い、フリージのターラ占拠を快く思わぬ者の手という可能性もある。
 公女は竜騎士の優しき笑みより視線を外した。
 首を斜め後方にやり、南西の方角、遠く目を凝らした。ターラの城壁が、薄く小さく見える。

「うん? でも……?」
 続きを口にしていいものか、迷った。竜騎士を疑う発言を、したくはなかったのだ。
「どうした? 言ってみろ」
 言葉のかわりに公女は進行方向とターラを交互に見た。竜騎士は言った。
「もう少し山荘に近い……奥まった場所に、義勇軍の他の者が待機しているからな。まずは合流する」
「あ……」
 信じるといいつつ、疑ってしまったことを申し訳なく感じて公女は俯く。
「えっと、あの……ごめんなさい」
「いや、気にするな。俺も言葉が足りなかった」
「あの、それはやはり……私を助け出すために潜伏している……ということなのでしょうか」
「ああ」

 先に公女を囲っていたのは、重装騎兵を中心とした中隊だった。
 フリージの軍事編成は、約30人を1小隊とし、2から4集まり、中隊とする。120人前後の中隊は、山道を移動する限度である。
 しかし、山中に潜伏できる人数というのはさらに限られる。計画の漏れや情報収集のミスは即失敗に直結し、貴重な戦力をみすみす捨てることになる。彼女の救出は難解で危険な作戦だったのだ。本来は。
「危ない橋を渡ろうとしていたのですね……」
「そうだな。公女は辛い体験をさせたが……結果として、義勇軍の精鋭が失われずに済んだ」
「……」
 辛い体験。その話題から離れようと、公女は先から思っていたことを口にした。

「貴方は、私がターラを出る時より……上空にありましたよね」
「ああ。進路や幽閉先の情報はあったが、偽報という可能性も、全くない訳ではなかったからな。不測の事態というのも、あり得る。だから、追尾していた……。それにしても、気が付かれていたとは。俺もまだまだだな」
「肉眼では何か、翼あるものが翔んでいる、くらいにしか見えませんでした。飛翔の速度や動きが、トラキアの竜騎士を想起させました。フリージの者には判別できなかったと思います」
「……そうか」
 今度は、竜騎士が話題を外す番だった。

 彼はトラキア王子の配下にある竜騎士、名をディーンと言った。
 トラキアは己が国の利のために、フリージのターラ占拠を快く思っていない国である。身元を明かせば警戒されることは必然だった。
 代わりに竜騎士はターラの現状について語り出した。
 重い税金。我が物顔で地を踏みにじるフリージの役人の横行。近頃では闇司祭の姿も見られるようになり、子供狩りが始まるという情報もある。市民が耐えかねて立ち上がり、義勇軍を結成し……。
 公女がよく知る話もあったし、知らぬ話もあった。闇司祭のこと、子供狩りのことは、初めて耳にする話であった。
「豊かな都市ターラは、このままでは、いつしか消え去るだろう」

 淡々と述べられた竜騎士の言葉は、先の男の欲望以上に、公女の身を竦み上がらせた。
 父が全てを捨てて護ろうとした地、彼女を育て育んだ街がなくなる。それが事実としてある。
 ターラは、ルテキア、メルゲンといった都市が付近にあり、谷口にあり……と、地理的に商業都市として在れる条件を満たしている。だが、これまでターラが商業都市として発展してこられたのは、地の利のみによるわけではない。北トラキアは、温暖な気候ゆえに、農業生産力が安定している。自然、余剰物資が出る。この余剰を金銭ないしは別地域の余剰物資と換える。余剰があることこそが、商業の発展に繋がるのだ。
 しかし、フリージは余剰の存在を許さない。
 ユグドラル大陸で商業都市として名を馳せている街といえば、ターラの他にミレトスが上げられる。裕福な二都市は、事実上帝国の支配下にある。巣ごと奪い、余剰を許さず……そうして、現在ある蜜を吸い取っているのだ。それでは先の発展は望めない。 十年、二十年……百年先。大陸の未来を視野に入れれば、商業の発展は最重要課題の一つ。  大陸の商業の中心となるべき都市の未来を奪い、先を担う子供の未来を奪い。帝国は、背後にある暗黒教団は、先など求めていないのであろう。
 愛して止まないターラの為に、世界の未来の為に、出来るだけのことをしたいと公女は思う。だが、彼女はこれまでで、散々無力さを思い知っていた。外を歩くことも許されず、自分の身を護ることすらできない。今日のことは、その一つにすぎない。自信を持てと言われても、無理なことであった。

「私ごときに、何が出来るというの……」
 フリージは、公女がターラ解放運動の盟主となることを畏れていた。
 ターラ義勇軍は、危険を侵してまで、彼女をフリージより救出せんとした。
 公女は、自身にそれだけの価値があるとは考えられなかった。

「立ち上がることができるだろう、ターラのために……」
 竜騎士は公女の呟きを捉え、事も無げに言った。 言いながら、手綱を繰り、騎座による扶助を与えた。
「でも私は……きゃっ」  
「下降する。口を開くな。舌を噛むぞ」
 竜は下降を開始した。地上へ向かう。竜騎士はターラ解放のための有志が在る場所を目指した……が、一つのことに、思い当たり、竜の進行方向を、やや西に傾けた。


 存分に生い茂った草と、自然の光を遮る木。近くに流れる川の水が動く音、微かに鳴る。
 辛うじて、足の踏み場を見つけた竜が、地上に足をつける。
 竜騎士は公女の身体を抱え、竜よりに降る。
「義勇軍の方は……?」
「ここよりやや東にある橋の付近で待機している。ここで待っていてくれるか」
「……? それならば、私も一緒に行きますが……?」
 公女は首を傾げた。竜騎士は苦笑する。
「……その姿で、皆の前に出る訳にはいかないだろう」
「……あっ」
 公女は赤面し、留め具も布地も諸所足りぬ衣を手で庇った。

「義勇軍には、俺の妹がいる。応急手当ての道具一式と替えの服くらいは持ち合わせているだろう」
 彼女の衣服は存分に荒らされて、血と埃が付着していた。顔にはガラスの破片によってつけられた傷があった。狭い空間で暴れたために、そこここを打ち、擦り、肌の色も変わっていた。何もなかったと言っても、信用されないであろう姿だった。
「一人では、心細いか……?」
 公女は消え入りそうな声で首を横に振った。
「……あの、大丈夫です……」

  心細くない訳ではなかったのだが、無理を言うわけにはいかない。竜騎士は、彼女の不安に満ちた心中を察して付け加える。
「そう遠い場所ではない。すぐ戻る」
「は、はい……っ」
 見透かされたことに対する恥ずかしさで、公女はさらに顔を赤らめた。

「万一のことがあったら、声を上げろ。直ぐに駆けつけるから」
「はい……」
 公女は俯いた。そして、顔を上げた。
「あ……あの……っ」
 詰まるような声に、背を向けた竜騎士が振り返った。
「うん?」
「……先に……」
「どうした」
「先に貴方は……」
 訊ねたかった。公女自身はそれだけだと思っていた。だから竜騎士を引きとめたのだと。向かうべきところに向かうまでの時を稼ぎたがっていたというのが真実だが、彼女にその自覚はなかった。
「……貴方は、おっしゃいましたよね。ターラの為に、立ち上がればいいと……」
「ああ。民もそれを望んでいるだろう」
「義勇軍の方々が貴重な戦力を、私を助け出すために無駄にしようとした。フリージも、私が義勇軍へ身を投じ、ターラ解放の為に立ち上がることを警戒していた……。私は無力です。自分の身すら満足に守れないほどに。それなのに皆が私に期待を寄せ、あるいは畏れを抱く……どうして、なのですか……?」

 身を庇う腕に、力が加わる。
 あのまま竜騎士が来なかったらと想像すると、四肢が震える。光ある未来を信じて、生き続けることが出来たかどうか。それすらわからなかった。今日生きることに耐えられても、明日には、十日後には、一年後には、死という安息を求めていたかもしれない。

 竜騎士は少女の気持ちを、状況を察した。だからこそ、努めて簡単なことのように言った。
「リノアンがターラ公女だから、だろう」
「……確かに、私はターラ公爵の娘です。でも、それだけです……」
「それこそが、重要なことだ」

 フリージの手より救い出された今。公女がターラの指導者として立つことは決定事項である。公女に拒否する権利はない。それゆえに彼女は怯えているのだ。力ない、何もできないかもしれない自分に。
「今のターラに必要なのは強力な指導者ではない」
 結局、この娘に自由はない。
 腕の中にすっぽり収まるほどのか細い少女に、竜騎士は憐憫の情を抱いた。
 せめて、自らの意思で運命を選んだと思っていて欲しかった。
「ターラ市民の反抗勢力は、俺が所属する義勇軍だけではない。大小、ターラ各地に散らばっている。市を護るために立ち上がろうとも、手段がなく、気持ちだけの反抗に終わっているものも多いはずだ。小さな力も集まれば、大きな力となり得る。ターラには象徴となるべき人間が必要なのだ」
「象徴?」
「ああ。ターラのために戦おうという人間が集うべきところだ。極端な言い方をすれば、いるだけでいい」
「いるだけで……何もしなくてもいいと。そうおっしゃりたいのですか?」
 公女は、ターラの為に何かがしたいと思っていた。生れ育った地、父が命をかけて護ろうとした街の為に。

「ターラの為にあろうという考えを持って立ち続ける……それを、何もしないという言葉で片付けてしまっていいものかと思うが……」
 出逢ったばかりの男の言葉を、公女は静かに聞く。
 竜騎士の紡ぐ事実が終わっても、耳ではまだ、その言葉を聞いていた。

 フリージ軍は、二人の行方を血眼になって探しているはず。進軍のままならない山道のこと、奥地まで探索の手が伸ばすには、ある程度の時間は必要だろう。だが、潜む約50人の有志と共に、探索の手を逃れて山を降るには、時間はいくらでも欲しい。
 長い沈黙。
 木々の葉が摩擦と互いの息遣いだけが、やたらと強調される。
 時の消費に対して、竜騎士に焦りがなかったのではない。ターラにとって、何より少女にとって、無駄な沈黙ではないと判断したから、待ったのだ。
 やがて、公女は口を開いた。
「無力な私でもターラのために出来ることがあると……そう言ってくださるのですね」
「今のターラに、リノアン以上の適任者はいない。リノアンにしかできないことだ」
「わたし、ターラのためにありたい……」
「では、ターラの未来を守るために立ち上がる……できるな?」
  公女は頷いた。竜騎士は微笑んだ。
「では、お前の身は俺が護ると約束しよう」
 公女を護る。それは竜騎士にとって、主命であった。そのために彼はここにいる。当然のことが、口をついてでてきただけであった。それだけであった。
 公女にとって、その言葉はターラのために戦う人間の言葉であった。
 ターラに必要な人間を護る、雇われた者が契約内容を口にしているにすぎない。
 それだけなのだと考えた。瞬間だけ胸をよぎった甘さをかき消し、そう考えるようにした。誠意には誠意、約束には約束で返したいと思った。だから口にした。

「それでは私は、ターラが公女リノアンを必要としなくなる日まで……立ち続けると約束いたします」
 公女は右手を差し出した。竜騎士に。
「ああ、約束だ……」
 竜騎士は彼女の小さな手を握り返した。
 少女の解放される日が、一日も早く訪れることを願いながら。


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