室内に木板を叩く穏やかな音が響いた。
 扉一枚を隔てた先の二つの気配を感じ取った。心臓が凝縮する。
 フィンは咳きばらいをして、ノブに手をかけた。期待や思惑も極力消したにこやかな顔を出した。
「お待ちしていましたよ」
 しかし部屋の前で待つ人物を視界に入れた途端、フィンの表情は停止した。

「……」
「どうかしましたか? お父様」
「リーフ様……は?」
「は? リーフ様? リーフ様が、どうかしましたか」
「い、いや」
「顔色が優れないな。またにした方がいいか」
 怪訝な顔する隣りの男を、ナンナは肘で突き耳元で言った。
「駄目よ! 今日こそは、お父様に報告したいの。グランベルを出るまで、もう日がないのだから」
「まあな……」
「決断は、早いほうがいいの」
「ああ、そうだな」
 男は、やはり自分にはこの女しかいない、と言わんばかりの愛しげな眼差しで娘を見た。
 娘もまた、この人には自分がついていないと、とばかりに母性に充ちた表情を浮かべる。
 過去の苦い思いの蘇生。現在の淡い希望の崩壊。フィンは背筋が氷棒ととって変わったような錯覚に陥った。

「あ、いや……何のようだ、ナンナ。それに……アレス殿」
「まあ、いやだ。お忘れでしたの? 昼間言ったではないですか。大切な話があるから、夜伺うって」
「ああ。忘れていたわけではないが」
 ただ隣りに並んでいる男が、予定とさっぱり違うのだ。
「……アレス殿が一緒とは聞いていなかったがな」
 皮肉めいた口調で言う父に、娘は悪戯ッぽく片目を閉じていった。
「ふふ。でも、年頃の娘があらためて大切な話があるって言ったら、普通はどんな話か分かるでしょう。お父様だって、何となく想像していたのではなくて?」
「さあ……どうだろうな」
「とりあえず、中に入れてくださらない?」
「そうだな。アレス殿も……どうぞお入りください。狭い部屋ですが。ティーシュゼットくらい出しますよ」

 フィンは頬を引きつらせながら、二人を中に入れた。
 ティーシュゼットとは、薄いクレープを砂糖を溶かしたフレーバーティーに浸たして食べるアグストリアの郷土料理である。フィンの亡き妻ラケシスと娘ナンナの好物だった。
 ナンナは、朝に蕾が開くような自然な顔で笑った。
 父が自分たちを歓迎し、もてなしてくれるのだと解釈したらしい。対照的にアレスは全身を硬直させた。“ティーシュゼットを食べていけ”には、“とっとと帰れ”という意味が込められている。それを知っていたらしい。

「……ナンナ、その、またにしようか?」
「ええっ
!? ここまで来て、何を言っているの。アレス!」
 戦場での鬼神のごとき姿からは想像もつかないほどに、気の弱い男だとフィンは思う。確かに、このような男にはナンナのような自立した女が傍らにあり、手綱を握る必要があるかもしれない、とも。
 だが、ナンナにアレスは必要だろうか。……必要ないだろう。
 やはり、ナンナにはリーフがいい気がする。
 幼い頃からともにあり、誰よりも理解できる二人。支えるとか、支えられるとかではなく、並んで生きていける。例え今二人にあるのが友情だとしても、いずれは愛に変わるかもしれない。
 いや、愛に育たなかったとしても、友情で結ばれた夫婦というのも、それはそれで素晴らしいではないか。互いに愛情がない分は、父として自分が愛情を注げばよいのだ、うん。これはどうあっても、アレスとナンナの仲を認めるわけにはいかない。
 フィンはアレスを非好意的な目線で貫いた。
「ほら、アレス。入りましょう」
「ああ。だが……」
「ここを突破すれば、私達、ずっと一緒いられるのよ!」

 ナンナに腕をとられて、アレスは室内に入った。針山に足を踏み入れるかのごとく、恐る恐る……。
「フィン殿は俺達の話の内容、とっくに察しているようだがなぁ」
 アレスの盛大な溜息は室内に響いた。

 フィンが急ぎ侍女に作らせたベルガモットシュゼット。その爽やかな柑橘の香りとミルクの濃厚な匂いが絶妙に絡まり、暖かな室内を満たす。
 室内は、客を歓迎するムードが漂っていた。
 テーブルに飾られた花の側にはうさぎのフィギュアが置かれていた。カットワークの繊細なクロスに、レースのナプキンが用意されている。家庭的なお茶会の、優しい雰囲気だった。
 無論、リーフとナンナを出迎えるために誂えたものだが、アレスが知る由もない。

 だから一瞬、アレスはフィンを歓迎しているのではないかと錯覚することができた。だから、話せた。フィンの鋭利な視線にたじろきながらも、ナンナをアグストリアの后に迎えたい旨を伝えることが出来たのだ。
「話は、分かった」
 フィンは頷いた。それが言葉だけのことであるのは、よくわかった。ナンナは隣りでくすぐったそうにアレスの言葉を聞いていた。父の思惑など、夢にも知らぬような幸せな顔で、一人穏やかな室内に居続けている。
 父と恋人が冷たい世界に移行したことにも気がついていないように。

「お父様も喜んでくださるわよね?」
 ミルクを一口含んで。子供の頃の屈託のない顔に戻って、ナンナが言う。
「……」
「お父様?」
「……私の」
「え?」
「お前は、私の気持ちは考えなかったのか」
 アレスならば竦みあがったに違いない厳しい目線を真っ向から受けても、ナンナは堂々としたものだった。ただ、静かに青灰の瞳を曇らせた。
「お父様の気持ち、ですか……」
「そうだ」
「やはりお父様は、私とアレスの仲を認めたくないのですか?」
「当然だろう」
「お父様の気持ち……考えなかった、といえば嘘になります。反対されるかもしれないとの危惧はありました」
「ナンナっ
!?

 その言葉に、アレスは過剰に反応した。
 今日の今日まで、考えもしなかったのだ。
 自分と恋人の間には、何の障害もないはず。あえていうならば、従兄妹同士。血が近いというくらいで。
「では何故、彼を選んだのだ」
「アレスが好きだからです」
「ナンナ……」
「どうせならお父様にも喜んでもらいたい。でも、反対されても気にすまい、と決めていました。私は、お母様ともお父様とも、別の人間なのですから。自分で自分の道を選び取りたいと思います」
 ナンナは背筋を伸ばして、優雅に微笑んだ。

 恋人のしっかりした様を受けて、ようやくアレスも恋人の父と向き合うことができた。
「ナンナは俺が必ず幸せにする。約束する。だからナンナを俺にくれ」
 言いながら、アレスは身を乗り出した。フィンはテーブルに飾られたガーベラを保護するために手を伸ばす。アレスに非難の目を向ける。
「フィン殿。何故なのだ。何故そのようにかたくなに反対するのだ。確かにアグストリアは向こう数年間、諍いがやむことはないだろう。ナンナに健やかな幸福を与えるには、時間がかかると思う。だが、それはレンスターとて同じことのはずだ。大切な娘をいつまでも親元において護りたい気持ちは想像できる。しかし、娘を永遠に自分の手で護ることは敵わないだろう。ナンナを護る役目、俺に譲ってはくれないか」
「……認めるわけには、いかないのだ」
 フィンは首を振る。

「だから、それは何故!? 俺が、娘を任せるに値しない人物だからか?」
「もういいわ、アレス。ありがとう」
「ナンナ……だが。お前だって、父親に祝ってもらいたいだろう。俺だって、フィン殿を父と呼びたい」
「私はね、本当にいいの。貴方と一緒にいられればそれで。お父様にはお父様の事情があるのだから。無理に認めてもらおうとは思わない。そのかわり、私は私で、好きにする。いいじゃない。親の反対を推しきって、遠くの国で暮らすの。駆け落ちみたいで素敵だわ」
 ナンナはソファに置かれたアレスの手に、自らの手を添えた。
 ひんやりとした手がアレスの熱しやすい感情をも冷ましてくれる。

「駆け落ちの先が母の故郷で、しかもその国の王妃になる。おまけに兄まで一緒にいく。これ以上もないっていうくらい堂々とした駆け落ちになっちゃうけれど」
「そうだな。だが、いいのか」
「いいの」
 優しくしっかりものの恋人は、もの哀しく微笑む。
 彼女にとってフィンは自慢の父のはずだ。
 ごくたまにしか許されない二人だけの会話の時ですら、ナンナの口からフィンの話題が出ることは多い。言葉の端々から、愛情がにじみ出るような恋人の態度には、不毛と思いつつも嫉妬心を呼び起こされたものだった。
 しかし、こうして父娘が対峙しているところを目の当たりにした今。フィンをナンナが語るような立派な父親とは思えない。

「ナンナ! いい加減にしないか!! 私はお前のことも考えて言っているのだぞ」
「お父様こそ、いい加減にして下さいっ!」
 フィンは立ちあがり、机を叩きつけた。水挿しが倒れ、水が絨毯の色を濃くする。
 ナンナも負けじと立ちあがって、父に目線を近づけた。
「これまで育ててくれてありがとう。でもね、娘がいつまでも自分の思い通りになると思ったら、大間違いよ。私はお父様の『物』じゃあないの! 本当に、私のことを考えてくださるんでしたら、認めてくれたっていいじゃないですか、わ・た・し・が! 大好きなアレスとのことを!!」
「それは、駄目だっ! 先のことを考えたら、お前の選択がどれだけおろかな事か分かるはずだ! こんな男を夫に選んで……嘆かわしい。お前は男を見る目が無さ過ぎる。もっと他に、いい相手がいるだろう」

 アレスは言葉を飲みこんだ。散々な言われようにぐうの音も出ない。
「私は、アレスがいいの!」
「どこがいいんだ、こんな男の!」
 もはや今のフィンに、戦場を駆ける経験豊かな槍騎士としての風格はない。
 ナンナもすでに、王族の気品が滲む優しき恋人ではなかった。そこにいるのは、分からず屋の父親と、強情な娘である。
「確かにねぇ。アレスは優柔不断だし、女癖だって良い方じゃなさそうだし、育ちのせいだから仕方が無いけれど、気品だってないし……」
「ナンナ。俺のこと、そんな風に思っていたのか……」
 アレスは、呆然と呟く。この女、本当に俺に惚れているのか? そして、俺は本当にこの女でいいのか? 自問する。しかし、一瞬沸いた恋人への疑念も、続く言葉にかき消される。

「でもね、好きなの。愛してしまったのだから、仕方が無いでしょう」
「ナンナ……」
「我侭を言うな。私は、お前の幸せも考えているのだぞ」
 フィンの言葉に、ナンナは露骨に顔をしかめた。
「我侭? 私の幸せの為に? ご自分の、心の安定のためでしょう? 私、お父様が思っているよりずっと、お父様とお母様のこと理解していたのよ。お母様そっくりの私が、エルトシャン様に生き写しと言われるアレスと一緒になると、お母様とエルトシャン様が結ばれたような気がするのでしょう。馬鹿みたい」
「え……? そうなのか……?」
 アレスとて、叔母ラケシスが、父を愛していたという噂を耳にしたことはあった。だが、下らぬ噂に過ぎないと思っていた。まさか、このような状況下でナンナの口から出るとは思わなかった。

「なっ、私は、そんなことは……っ」
「無いと、言い切れまして? では、反対するどんな理由がありますの? いっつも、私の事なんか放っておいて、リーフ様リーフ様。私のすることに干渉なんて、滅多にしないじゃないですか。どうせ、アレスと付き合っていることだって知らなかったのでしょう。それなのにこと結婚に関して、頑固に反対して……おかしいですわ」
「それは……」
 フィンが口篭る。

 実は、アレスも不思議に思っていた。
 フィンと子供達は親子の繋がりが薄いように見える。同じ軍にいても、フィンとナンナが二人で話しているところなど滅多に見なかった。アレスは、ナンナから聞くまでニ人が親子だと知らなかった。
 だがナンナは父を慕っている。そしてフィンの誠実で鳴らした人柄……。アレスは、フィンの態度を、親を早くに亡くした軍の若者らへの配慮なのだと推測していた。

「反対する理由、良ければ聞かせていただけないか。俺に至らぬ点があるというのなら、出来得る限り努力させていただく。誰よりもナンナの為に、フィン殿の祝福が欲しいのだ。それとも、本当に俺達を見るのが辛いのか……?」
「違う! くだらぬ推測でものを言うな
!!
「では、何故だ」
「……」

 フィンの娘の行動への無頓着ぶりが、本当に関心がないことから来ているにせよ、周りへの配慮にせよ。
 リーフのことならいざ知らず、娘のすることを、にべもなく反対するようには見えなかった。
 前者なら誰と恋愛しようが結婚しようが放っておくだろうし、後者なら、娘の幸せを願い、祝福するだろうから。
 フィンは、しばしの沈黙の後、口を開いた。

「……アレス殿には、恋人がいただろう。従軍していた踊り子。あの娘はどうしたのだ」
「リーンか……」
 痛い所を突く。アレスは顔を歪める。
「彼女とは、色々あって別れた。今愛しているのは、ナンナ一人だ」
「信用できないな。すんなり王位を継ぎ国民の支持を得るには、身分違いの恋人は邪魔だからな。その点ナンナなら、ノディオン王女の娘。しかもラケシスに生き写しのように似ている。妻として連れかえれば、エルトシャン王の時代を知る者は喜ぶだろう。エルトシャン王とラケシス姫が帰ってきたと錯覚して。エルトシャン王の人望をそっくり自分のものとするには、ナンナはさぞ都合のいい王妃だろう。あの踊り子も、弄ばれるだけ弄ばれて、いざとなったら捨てられるとはな。可哀相に」
「何様のつもりだ、貴様……っ」
 アレスの全身が怒りに加熱された。これまで散々言われても、ナンナの父だからと押さえていたのだ。今、自制心という名の箍が外れた。
 アレスは、その拳をフィンの腹部に打ち入れるべく、拳に力を入れた。
 しかし突き出された拳は、空を切る子気味のよい音によって止められた。

「見そこないましたわ、お父様! 最低っ!!
「痛っ……」
 ナンナが父を平手で打ったのだ。
 フィンの頬に、手の形がくっきりと残っていた。
「ほんっとに、もう、どうでもいいわ。お父様のことなんて! アレス、行きましょう」
「待て、ナンナっ
!! 話しは終わっていない!」
「私の話は、終わりました」
「私はお前達の結婚など、認めないぞ」
「お父様に認めてもらわなくとも、結構です」
 ナンナは父を睨みつつ、恋人の手を取った。
「さようなら、お父様」

 部屋に入った時と同じように、半ばナンナに引きずられるように、アレスは部屋を出た。
「……あ、ああ……」
 力を放ち損ねたアレスの右拳は、未練だと唸っていた。

NEXT

FE創作の部屋