長い廊下を歩きながら、深呼吸を一つ。
 リーフは、間もなくフィンの部屋の前に到達する。
 これまで自分を護り育ててくれた、家族同然のフィン。そのフィンに大切な報告をしなければならない。

「リーフ様?」
 これまで、色恋関係の話など、一度たりともしたことがなかった。どんな顔をして驚くだろうか。いや、聡いフィンのことだから、恋人との関係、とっくに察知しているかもしれない。
 そして、今日の話の内容も……。

「あの……リーフ様?」
 リーフは自身の胸の高鳴りで、周りの音をかき消されるほどに緊張していた。だが、可愛い恋人のか細い声は、当然耳に届くのだった。
「何だい、ティニー。不安そうな声をして」
「リーフ様こそ、不安そうなお顔で、黙りこくってましたよ」
「え、そうだった? ごめん。あらためて婚約の報告、だなんて、何だか緊張してしまって」
「それは、わたしも同じです」
「そうだよなぁ、やっぱり」
「あの、リーフ様」
「ん?」
「本当に、わたしでよろしいのですか?」
「え、何が?」
「その、……リーフ様の妻になるのが、です」
「はあ? 僕には、ティニー以外の人なんて考えられないよ」
「でも……フィン様は、わたしなどが王妃になることを認めてくださるかしら」
「あ、それは大丈夫だよ、心配しなくても。フィンは頑固なところもあるけど、結局僕には甘いんだ。第一、ティニーなら、性格といい、家柄といい、申し分ない筈さ。僕には勿体無いお嫁さんだって言うかもしれない」

 ティニーは、言葉を詰まらせた。
 切なげに瞳を瞬かせる。苦い思いを振り払うかのように、続ける。
「そうだとよいのですが……ですが、レンスター家の家臣の方は……」
「心配性だな、ティニーは。それとも、僕とレンスターに帰るのは嫌になった?」
 暁の瞳を見開き、ティニーは大きく首を振った。
「そんなことはありませんっ! わたし、リーフ様とずっと一緒にいたいですっっ」
「うん。僕もティニーと一緒にいたい。フィンに報告したらさ、早速お披露目しような。あっと、その前に君の身内の方にも、正式な挨拶をしないといけないか。あれ、普通はそっちが先なんだっけ」
「普通はそうかも知れませんが、兄はわたし達の付き合いは知っていますし……ドズルもフリージも、従兄弟達には事後承諾で構わないでしょう。ですから、こちらが先で問題ないと思います。それにこの婚姻に支障があるとしたら、やはり……」
「ん? 何?」

 次第に小さくなっていく恋人の言葉。後半は殆ど聞こえなかった。リーフは首を傾げた。ティニーは、不安を振り払うかのように首を振って、他の質問をした。
「リーフ様は、その、わたしとのこと、フィン様やナンナ様は……?」
「ああ。ナンナは、特に話したことはなかったけど、いつの間にか知っていたみたいだ。まあ、僕も彼女がアレス王子と親しい付き合いをしていることは、あえて聞かなくても噂や雰囲気で解ったから、おあいこなんだろうけどさ」
「リーフ様とナンナ様は、本当に仲がよろしいですものね。二人でいるところを見ても、胸が痛まないのが不思議なくらいに。自然な幼なじみ。私も、欲しかったです」
「うん。ナンナは友達として大切だよ。ティニーと同じ線上で比較できないくらいに。フィンもだけど……」
「分かっています。わたしだって、兄様とリーフ様を比較したりはできませんから。それでフィン様は……わたし達のことを、どう……」
「うーん。どうだろうなぁ。気恥ずかしくてあえて話題にしたことはないんだけど、ティニーとのこと。ただ、フィンに限って色恋関係の噂話には加わらないだろうから人から聞いた、ってことはないと思うんだ。でも、雰囲気とか僕の態度とかで、何となくわかっているかも知れない。ナンナが言うには、僕がティニー好きなのって、見ていて恥ずかしくなるくらいに露骨だそうだから」
「そ、そうなのですか? 兄も、わたしがリーフ様を好いているのは、あからさまに顔に出ているって言っていましたが……」

 言って、二人は顔を見合わせた。互いの顔が朱に染まっていることを認めて、二人で笑いあった。
「わたしたちって、少し恥ずかしいですね」
「ああ……でも、いいよ。僕がティニーを好きなのは、本当だから」
「ありがとうごさいます。わたしもリーフ様が大好きです」
「うん」

 二人は、無粋な廊下に甘い空間を作り上げた。
 リーフは思わず恋人の手を握ってしまってから、辺りを見渡す。幸い廊下に人影はない。リーフはついでに、とばかりに、ティニーの頬に唇を寄せた。
 ティニーが気恥ずかしそうに、俯く。
「ずっと、一緒にいられたらいいですね」
 ティニーは、先に見せた哀しげな表情が消して、口元に幸福を浮かべた。瞳に強い意思が覗く。
「いられるさ」
 恋人が幸せそうだと、それだけで若き王子も暖かな気持ちになれた。二人は、フィンの部屋までの短い距離を存分に楽しんだ。

「と、ところであの……、フィン様のお部屋って、この辺りですよね」
「えっと、そう北側の三番目の部屋、そこだよ」
「何だか、騒がしくないですか?」
「え?」
 耳を澄ませば、いや、澄まさなくとも十分に聞こえる。派手な物音と荒げた人の声が。
「喧嘩でしょうか。フィン様のお部屋の方から聞こえますが、まさか」
「え、フィンが……? しないよ、フィンはそういうこと」
「そう……ですか。そうですよね」
「隣りの部屋か、でなければ……」
 心細げなティニーを力づけるように、リーフは気楽に言った。
「フィンはさ、ああ見えて意外とドジだからさ。きっと、花瓶か何か割っちゃって、一人で勝手に騒いでいるんだよ」

 天下の主城、バーハラ城内の部屋だけあって、防音設備は整っている。話の内容までは伝わってこない。
「フィン様が、ですか?」
 小さく笑う。桜のような唇が、愛らしさを零した。
 確かに、一見して冷静なフィンが情けなく騒ぐ様は、想像すると可笑しい。
 リーフは恋人の眩しい微笑がもっと見たくて、フィンの話を続けた。
「いや、でも本当、あれでほんと、ときっどきなんだけどさ。取り乱したりすると面白いんだよ。泡を食うっていう表現がしっくり来るんだ。僕がね、フィンの入れたお茶で舌を火傷したって言ったら、どうしたと思う? 外に飛び出していったと思ったら、包帯とアロエの茎を持ってきたんだよ。ほっとけば直るのに……大体、舌に包帯なんて普通は巻こうとしないよな」
「あの落ちついてそうに見えるフィン様が?」
「うん。ティニーもレンスターに来たら、フィンの滅多に見せない意外な面を知る機会、沢山あると思うよ」
「そうですね……。リーフ様の大切な方なら、わたしにとっても大切な方。仲良くしたいです……」

 いつまで見ていても飽きない恋人の微笑がほんの一瞬だけ、翳った。結婚の申込みを受け入れて以降の彼女は、時々酷く辛そうな顔を見せる。リーフにはその原因が分からない。もう少しで分かりそうな気はするけど、分からない。それが苦しい。
 ティニーが歩みを止めた。リーフもそれにあわせて、足を止める。

「あの、ここですよね」
 二人は、木扉の前に立つ。
「うん」
「ド、ドキドキ……しますね」
「うん」
 リーフは再び、深呼吸を一つ。二つ。ティニーもつられて、息を吸い込む。
「ふう。じゃ、行くよ」
「はいっ」

 リーフは一歩を踏み出し、扉に丸めた右手の届く範囲にまで、移動した。ティニーも半歩後に続く。その時、木扉が押し寄せてきた。
「さようなら、お父様!」
 中から、よく知った男女が二人、飛び出してきたのだ。
「わっ」
「きゃっ」
 小柄なリーフとティニーは、喉を鳴らすような小さな声を上げて、三歩分、押し戻された。
「おい、ナンナ……」
 しかし、ナンナはリーフらにも気付かずに、勢いよく扉を閉めた。恋人の腕を引いて、そのままその場を立ち去ろうとする。怒りのオーラを立ち昇らせ、鬼のような形相をして。常に親しいリーフですら、声を掛けるのを躊躇うほどの様子だった。

「いきなり、何なんだよ。ナンナぁ」
「ご、ごめんなさい。お……フィンに用事ですか?」
「あ、うん。ちょっと……」
 ナンナは横目でティニーを捕らえた。リーフも、上目でアレスを捕らえる。瞬時にお互いの状況を理解した。
「へえ……そちらもですか」
「そっちも、かあ。偶然だな。でもまあ……この状況下なら、必然、なのかな」
「フィンに用事なら……時間を空けてからのほうがいいと思いますよ。今は、少し……気分が優れないようですから」
「そうなのか?」
「はい」
 冷たく澄んだ微笑を浮かべて、ナンナは言った。
 リーフは二の句を次がせない迫力のある微笑に、反射的に頷いていた。

「……出直されたほうが、無難ですよ。それでは、王子。ティニー様。また……」
 綺麗な会釈をしてから、歩き出した。誰もを魅了する、品のいい仕草だ。
「アレス、行きましょう」
 ナンナは恋人の背を一瞥することで推して、廊下を足早に移動した。
 残されたもう一対の若い恋人達は、怪訝な顔で二人を見送った。

「……」
「……」
「何だったのだろう。変なナンナだ」
「あの……どうしましょうか?」
 今や音の止んだ、フィンの存在するはずの部屋を指差した。
 リーフは、しばし首を垂らした。顔を上げて、言った。
「そうだね……少し、外を歩かないかい?」
 リーフは念の為、ナンナの忠告を聞き入れることにした。

 彼らは、夜道の散歩を楽しむことにした。
 星の飛び散る紺のスクリーンの中を歩きながら、二人は将来の話を楽しんだ。
 そして、小一時間の後、フィンの部屋へと向かった。

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