<スキとサヨナラの理由>

 蒼。
 朝特有の、爽快な空の色を。
 わたしは見上げます。

 今日は、光遮るもののない輝きの日。
 こんな日の空の色は、好きだった……いいえ、好きな人、を思い起こさせます。
 窓を放ちます。
 柔らかな風が舞い込みます。
 平和を感じさせる自然の心地よさが、室内に入ります。  わたしは一つ、伸びをします。
 深呼吸して、清らかな空気を己の内に入れます。

 フリージ城の奥深くにあるキープ。
 上階にある大公の執務室には、東と南に光と空気を採り入れる窓があります。
 東の窓からは肉眼でバーハラ城の尖塔を捕らえることができます。
 わたしは多少でも手があけば、東の窓辺に立っています。  瞳が自然、バーハラの方角を求めます。
「セリスさま……」
 口がグランベル聖王……かつての恋人の名を、音として紡ぎ出してしまいます。

「駄目ね、わたしも」
 強く首を振り、脳裏に浮かんだセリスさまの柔らかな笑顔を掻き消します。
 フリージに戻ってから、三年が過ぎました。
 三年間。
 何度、同じ動作を繰り返したことでしょう。
 わたしは未だに、かの優しき人を忘れられずにいます。

「嫌々ここにいるわけでは、決してないのに」
  平和だけどめまぐるしい。そんな毎日は、早足で過ぎて去っていきます。
 グランベル王となったセリスさまと、フリージの大公となったわたしは、何度となく顔を合わせます。言葉を交わします。

  バーハラとフリージは、遠くはありません。
 逢おうと思えば、いつでも逢える距離です。
 だからこそ、諦められないのかもしれません。忘れられないのかもしれません。

 あの時。ああ言っていけばよかった。
 あの時。あんなこと言わなければよかった。
 ……何度も、後悔しました。一人、涙を流しました。
 それでも。セリスさまの胸に飛び込むことはできません。

 何故なら三年前。
 わたしが……わたし自身が。
 セリスさまの求婚も、フリージを継承するという兄の申し出も、拒み。そうして。
「ここに……フリージに、戻ることを選んだのだから……」

 遡ること三年……。
 長き戦いの勝利に湧く、バーハラ城。

 闇に侵食された帝国との戦いは、終結の時を迎えました。
 ともに戦った解放軍の戦士たちは、皆、血の故郷へ……。それぞれが導かねばならぬ地へと、帰って行きます。
 いつ終わるか知れない、戦いの日々。
 先の希望を忘れないためだったのかもしれません。
 人としての温もりを、心を忘れないためだったのかもしれません。
 戦争の中で男女が結ばれることは、少なくありませんでした。

 正式な婚約を結び、共に一つの国……多くは男性の故郷……に戻る恋人たちも、多く存在しました。
「ティニー。君にはバーハラに留まって欲しいと思っている」
 わたしたちも、その一組になるだろうと……親しい人たちは思っていたようです。
 わたしにそのつもりがなかったといえば、嘘になります。わたしは、セリスさまと一緒にいたいと思っていました。
 セリスさまは、言って下さいました。

「王妃として、これからもずっと……僕の隣にいて欲しいんだ」
 夢にまでみた、愛した人からの求婚の言葉です。嬉しくなかったはずがありません。
 でも、首を縦に振ることはできませんでした。

「……ごめんなさい、できません」
 吐き出すように言ったわたしの言葉を耳にした時。セリスさまの蒼の瞳は、大きく開かれました。

 わたしたちの間から、しばらく音が止みました。

「セリスさまと離れるのが怖い。ディアドラさまのような運命になりたくない。ずっと傍にいたい……」
 そう言って最前線に立ち、セリスさまの隣にあったのはつい半月前のことです。
 セリスさまはグランベル王となられる方ですが、わたしも名門ドズルとフリージの血を引く娘。身分にも、立場にも、おそらく大きな問題はありません。
 セリスさまはきっと、わたしが喜んで結婚の申し出を受け入れると思っていたのでしょう。

「理由、を……」
 やがてセリスさまは、乾いた声で言いました。
「理由を聞いても、いい……?」
 わたしは抑揚を殺した声で答えました。
「フリージの復興に携わりたいのです。ちっぽけなわたしに、何ができるかわかりません。それでも……」
 これは……わたしにとって、真実の、答えです。そのはずです。
 セリスさまは、その答えを聞いて、少しだけ、肩の力を抜いたようでした。

「それなら……僕は待つよ」
「国一つ立て直すことが、ニ年や三年でできるとお思いですか?」
「五年でも、十年でも待てるよ。君以外を妻にすることは考えられない」

 涙が出そうになるほど、嬉しい言葉でした。
 頷いてしまいたい。頷いてしまえ。
 心が、身体が、そう叫んでいました。

「……グランベル王となられるお方が、軽はずみなことを口にしてはいけません」
 でも、駄目です。わたしは理性で、子供な……どこまでも我侭な自分を、抑え込みました。

「セリスさまには王家の血を残す義務があります。そして、わたしにも同様の義務があります。フリージ公家の人間として、トードの血を残す義務が……」
「ティニー……」
「だから……。ごめんなさい、ごめんなさいっ」
 必死で謝りました。何度も、何度も。セリスさまに向かって頭を下げました。
 セリスさまは、困った顔をしていました。
 身勝手なわたしを、怒りはしませんでした。

 多分、怒りはしないだろう。
 わたしは、予想していました。求婚の言葉を受ける前から。
 セリスさまはいつだって、優しい人でした。
 血と泥にまみれた戦いの最中でも。それ以外の時でも。
 セリスさまはいつでも……そう、はじめて会った時から、その優しさでわたしを包み込んでくれたのです。

 セリスさまとわたしの関係ははじめて会った時から何も変わっていなかったのかもしれない、な。
 頭の片隅でそんなことを考えながら。
 わたしはただひたすらに、謝りの言葉を繰り返したのでした。

「あの……ごめんなさい!」
 わたしがセリスさまに発したはじめての言葉も、謝罪でした。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
 顔を伏せて、アーサー兄様の背中に隠れるようにして。わたしはただ謝りました。それ以外の言葉を知らないかのように。
「君がティニーか。話しは聞いているよ」

 私は兄の導きのままにフリージを離れ、解放軍に身を投じました。
 当時のわたしは、北トラキアの民を苦しめ続けたフリージの人間であることに、罪の意識を抱いていました。軍を指揮し、世界の希望と称えられる解放軍へ牙を剥いたという事実に、後ろめたさがありました。
 だから解放軍の盟主であるセリスさまの天幕に通された時も、謝ることしかできませんでした。
 謝ることで、自分に寄る責めが軽くなることを望んでいたのでしょう。セリスさまは優しい方だと聞いていました。だから、熱心に謝れば、謝りさえすれば、罵られて辛い思いをすることはない……。甘えが、あったのです。
 そんな駄目なわたしに、セリスさまは春の陽射しのような笑顔で言ってくださいました。

「いいよ、気にしなくても。ブルームは君の叔父。敵対したのは仕方のないことだよ」
「許してくださるのですか?」
「勿論だよ、君は悪い人じゃあない」

 セリスさまの声には人を惹きつける強い力があります。笑顔には、人を安心させる優しさがあります。王者としての資質ともいうべきセリスさまの力は、怯えきっていたわたしの心を、容易く捕えました。
 そう。笑顔と声と。何より、その言葉で。
「肉親と戦うのは辛いだろう。君は無理をしないでいいから」
 わたし本人には、何の罪もない。
 無理に叔父と戦う必要はない……。
 セリスさまの言葉に、弱いわたしは泣きたくなりました。

 望まぬ戦いをしないでいい“自由”と、ティニーという存在そのものに対する“許し”。
 その二つは二つながらに、当時のわたしが渇望してやまないものでした。

「セリスさまは聞いていたとおりの方ですね。わたし……もっと早くお会いしたかった」
「……え、何?」
「あ……いえ、あの……その、何でもありません……」

 必要な時に、必要なものを、言葉という形にして与えてくれた人に。わたしは惹かれずにはいられませんでした。
 おそらく、この人は自分が生きていくために必要な人だとわたしの中の弱い部分が感じ取ったのです。
 民衆が、命の危機に怯えずに住む日々を得るために、セリスさまを支持したように。わたしも自分のために、セリスさまという存在を求めたのかもしれません。

 この人の傍にいれば、わたしは大丈夫。
 必要なものを、与えてくれる。辛いことがあっても、絶対に助けてくれる。
 民衆が、兵士が、光の皇子に寄せる想い。 それと大差のない、わたしの気持ち。
 それはやがて、実を結びました。

 わたしなどのどこがよかったのか、わかりません。
 ……セリスさまはわたしのことを、好きだと言ってくださいました。

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