「バーハラ城はね、とても綺麗なお城よ」
「今度、一緒に行きましょうね……」

 庭を飾る噴水と花壇が、夜露と星の光に輝きに与えられていました。 とても綺麗です。
 セリスさまの申し出をお断りした夜。
 わたしはバーハラ城のテラスに出ていました。充てられた部屋に、一人でいる気持ちにはなれませんでした。
 バーハラ城は半月ほど前まで闇に侵されていました。
 暗黒神ロプトウスの直接の支配にあった城。それでも優雅で伝統を重んじる、素晴らしい城です。景観が数日で変わるはずがありませんから、これまでも建物としては華麗だったのでしょう。

 バーハラ城は、十二聖戦士の生きた時代に建てられた元の城を取り壊して新しい城砦を築き、その土台の上に豪壮な城舘を増築されたのだそうです。重々しい外観とは裏腹に、快適な居住空間に改築された内部は宮殿風に作られています。優雅と表現するのが相応しい庭園も、四隅に備えられた巨大な円塔も、わたしは知っていました。わたしは叔父に連れられて、何度かバーハラの都を訪れたことがありましたが、城の中に入るのは初めてでした。
 でも、バーハラ城のことを、よく知っていました。大好きだった従姉イシュタルから、何度となくこの城のことを聞いていましたから。

 砂漠に近いアルスターの城舘。中心にある庭。そこが、わたしと従姉の気に入りの場所でした。従姉は時間さえ許せば、色々な話を聞かせてくれました。
「外観は古風な昔ながらの城なのだけど、内部は宮殿風で……華麗という表現がしっくり来るようなお城でね……素晴らしい場所だと思うわ」

 古代の円柱を流用する中庭は、咲き誇る草花で飾りたてられていました。中央に置かれた大きな大理石の水盤が、乾いた風土における潤いや豊かさの象徴として存在していました。床仕上げには大理石や玉石のモザイクが使用され、室内以上に高価な空間が造られていました。わたしはそこよりも豪華な場所を、知りませんでした。

「アルスターも、フリージ本国のお城も、立派だと思っていますけれど……それより、ですか?」
「ええ。立派よ。外敵を防ぐための無粋な外壁がなければ、もっと綺麗でしょうけれど……」
「バーハラのお城が直接攻められるようなことがあるのですか?」
 無邪気な疑問。この質問をした数年後、自分がバーハラ陥落せしめる人間の一人になるとは、想像だにしていませんでした。

「あるはずがないわ。でも、万一の備えを怠るわけにはいかないから」
「そういうものなのですか」
「ええ。ティニーはまだ、バーハラ城に上がったことがなかったわね」
「はい。でも」

 別に、行きたくありません。
 わたしは続く言葉を呑み込みました。
 バーハラなどに行けば、アルスターにいる時以上に、好奇と悪意の視線に晒されます。従姉のよく出入りする場所に興味はありましたが、亡き両親が……自分が、悪しざまに言われる場に行きたくないという気持ちのほうが強かったのです。

 高い権力を誇るニ家の人間でありながら、叛逆者シグルドに加担した両親を持つ娘。わたしは、ドズルとフリージの汚点と言われ続けていました。存在すること自体が罪なのだと、己を否定してしまいそうになる日々。シグルド公と共に戦った仲間が一部では英雄として称えられているという噂は、心の支えの一つでした。血族から否定された両親やわたしを認めてくれている人がいる、わたしは悪くない、と考えることができるから。帝国の中心に近い場所に寄れば倒れてしまうであろう、危うい支えでしたが。

「今度、一緒にいきましょう」
「え」
「ティニーはあまり、アルスターから出ることがないものね。よい気分転換になると思うのだけど。揃いのドレスをあつらえて、一緒に夜会に出ましょう」
「……ありがとうございます、機会があればぜひ」
「バーハラ城まで足を運んだら……そうね」

 従姉はそこで、言葉を区切りました。従姉の瞬きが止まりました。水の動く音だけが、耳に響きました。わたしが首を傾げると、従姉は続きを口にしました。

「天候がよければ、シレジアにまで足を延ばしたいわね。雪とペガサスの舞う土地へ……」

 従姉はわたしの瞳を真っ直ぐに見て、言いました。話をする時、従姉は、常に相手の目を見ます。彼女と言葉を交わすことは数少ない楽しみの一つでした。でも……全てを見透かすような紫の瞳を向けられるのは、少しだけ、苦痛でした。

「……シレジアへ?」
「ええ、そう。バーハラ城とシレジアなら、船で渡れば、そう距離はないからティニーに、色々なものを見せてあげたいの。貴女は雪を見たこと、ないでしょう?」

 自然の緑を覆い隠す銀世界も勢いよく窓を叩く白粉の集団も、温暖なアルスターでは見る機会のないものです。わたしは、答えました。自分の発した言葉に違和感はあったけれど。

「……ありません」
「そう……よね」
「はい……」

 従姉の目線を避けるように、わたしは自然、俯いてしまいました。視界に、従姉の足が入りました。微かに、震えていました。

「姉様、寒いのですか?」
「……え、なあに?」
「いえ……何でもありません。シレジア、言ってみたいです。ペガサスに乗って空を散歩する……ずっと憧れていました」
「では、きっと行きましょうね」
「はい……」
「約束よ……」

 結局、その約束が果たされることはありませんでした。従姉は、その数日後にマンスターの領主として就任し、アルスターに顔を出すことが稀になり。わたしは解放軍討伐の指揮を任され、そのまま……。

 今思えば。別れの予感が、あったのだと思います。従姉には。
 いつか、叔父の仕打ちを知り、フリージを憎み、それに属する人間を憎み、外の世界に出ていってしまう。育った家よりも、シレジアにいる実の兄を選んで、自分から離れていってしまう。 そんな不安が、従姉の中には、きっとあった……。
 だから、わたしの中にシレジアの記憶があるか。シレジアからアルスターに、無理やり連れられてきたのだという事実を知っているか。探るようなこと、口にしたのでしょう。不安だったから、確かめずにいられなかったのでしょう。彼女はわたしが傍にいることを、望んでくださっていた。
 今はもう、この世にはいない女性。わたしも彼女がとても好きでした。それでも、わたしはフリージを逃げ出しました。

 フリージで虐げられてただ生きるよりも、解放軍で世界に光を取り戻すために戦うことを選んだ。従姉よりも、兄を選んだ。
 従姉はそう判断したのかもしれません。
 でも、本当は違います。わたしは、何も選んでいませんでした。
 従姉と敵として対峙した時になってはじめて、何も考えていなかった自分が見えてきました……。

 従姉と叔父のいるコノート城へ攻める時、わたしは最前線からは少し離れた場所で負傷者の治療にあたっていました。セリスさまの最初の言葉に甘え、わたしはフリージとの戦には参加しませんでした。最後の、フリージ本国。叔母との戦いを除いては。
 そこに、転移の魔法を用いて従姉が現れました。
 わたしは雷神イシュタルと、戦場を少し離れたところで向かい合いました。

「魔力の波動が似ている……とは思ったけど」
「姉様っ!?」
「……やっぱり、ティニーね」
「ごめ……ん、なさ……」
「裏切ったのね、見損なったわ……」

 淡々とした声。口許だけの笑み。意思も温かみもない虚空の瞳。その手には神器トールハンマーの魔道書が握られていました。魔力を外界に放出するための媒体である魔道書に、力が、集います。
 そこにいるのは、優しい従姉ではありませんでした。
 雷神イシュタル。
 死の女神とすら言われる希代の魔力を秘めた女性の話。話には聞いていました。事実として認識するには、わたしの記憶の中の従姉は優しすぎたけれど。だけど、今眼前に立つ女性は……紛れもなく、死を司る人、でした。

 身体に流れるトードの血が、警告を発しました。
 殺さなければ、殺される……と。

「ごめんなさい、ごめんなさい……っ」
 それでもわたしは、謝ることしかできませんでした。
 魔道書を手にすることも、できませんでした。

 絶対の力を前にした恐怖ゆえ……?  それだけではありません。
 その時になってもまだ、謝れば許してくれる、この人は敵ではない、という甘い考えがあったのです。
 わたしは、フリージに直接牙を剥いていない。
 だから……もしも、解放軍にいることが、フリージにいることよりも辛くなったら。帰ればいいって……帰れるんだって甘えが、あったのかもしれません。自分のしたことは、許されること。 帰ろうと思えば、帰ることができる。従姉と、敵でいる必要はない……。

「どうして、敵に?」
「それは……兄様が、迎えに来てくださったから……」
「では、私がもし……貴女に戻って欲しいと言ったなら……」
「姉様……わたし……」

 従姉はわたしに、魔道書を持たぬ左の手を差し延べました。
「姉様と敵になんて……」
 従姉の血塗られた手に、自分の手を重ね……ようとしました。

「そんな、半端な気持ちで……」
 従姉は、形のよい口許を歪め、私の手を払いました。同時に、右手の魔力が膨れあがりました。
「……っ」
 頭の中が、真っ白になりました。
 手を延ばせば届く距離で膨れあがる絶対の力。その魔力の洪水に呑まれて、意識を手放しかけました。少しでも離れようと竦む足を動かそうとしてました。でも……無理でした。
「ィニ……っ」
 目を、閉じました。瞼の上からでもわかる、雷の光。恐怖が、全身を駆けました。

「ティニーーーーっ!」
「……え?」
 飛び込んできたのは、セリスさまの声でした。
 セリスさまは、わたしに放たれるはずだった雷神の魔法を左肩に受けました。苦痛に顔を歪めながらも、手にした勇者の剣で、従姉の肩から胸にかけて線を引きました。紅い飛沫が従姉の中から散り……。その時。わたしは知らず、叫んでいました。虚ろな思考の中で。

「お願い、やめて、殺さないで!」
 
 乾いた地面に倒れた従姉を襲う剣が、一瞬だけ、本当に一瞬だけ、止まりました。夢中で、従姉に被さりました。

「ティニー……?」
「駄目、嫌……っ、い……や……」
「……」

 最後に見たのは、困惑と怒りに揺れる二つの顔、でした。
「だ……め……」
 わたしはその後に続く現実を見たくなくて。そのまま意識を手放しました。

 従姉から手を振り払われた時、わたしはやっと、気がつきました。もう、フリージには戻れないということに。
 わかっているはずでした、そんなこと。 フリージに帰りたい、なんて考えたことはありませんでした。でも、差し延べられた手を、とろうとしました。
 もしもわたしが、闇の支配から平和を救うために、解放軍に身を投じたのだとしたら。
 兄アーサーと共にありたいと強く望み、その兄の手をとったのなら。
 フリージを出て解放軍入りをすることで何を得、何を失うのかを知り、考えた末の行動ならば。
 従姉の手を、とりたいとは、とれるとは、思わなかったはず。

 ただ意に添わぬ戦いから逃げ出したかっただけで……。フリージへの憎悪も兄への想いもなく。崇高な理想もなく。ただ<そこではない何処か>に行きたくて。フリージから、わたしを望んでくださった人の許から去り、解放軍に参加したのです。

「裏切り者、見損なったわ……」
 抑揚のない声が、何度も頭の中で鳴り響きます。
 従姉はアルスターの城という狭い世界の中で、唯一、好きな人でした。彼女はわたしが気を失った後、迎えにきたユリウス皇子とともに、空に消えたそうです。

 目が覚めてその言葉を聞いた時、わたしは、安堵しました。姉様は生きている、よかった、と。
 神魔法トールハンマーを持つ雷神イシュタルは強敵です。
 ユリウス皇子に迎えられたのなら、再び敵として立ち塞がることは必須。解放軍の勝利を得るためには、いつかは倒さなくてはいけない人です。
 それでも、生きていて欲しかった。
 わたしは解放軍の戦士でありながら、雷神イシュタルを敵と見なすことはできませんでした。

 従姉はもう、わたしを迎え入れてくれることはない。フリージに戻ることは、できない。解放軍にしか居場所はない。それなのにわたしには、フリージでの過去を捨てて戦う覚悟すらなかったのです。

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