夜の空は紺色。その中で、星が瞬いています。  
「さようなら……ごめんなさい……」
 下を見れば、涙が零れてしまいます。庭を彩る装飾品も、壁の漆喰も、従姉と過ごした時を想起させます。だからわたしは、空を見ることにしました。
 染みるような深い藍。長くはない冬の訪れを告げる風が冷たくて、肌に痛みを与えます。耳を澄ませても、風のざわめきや、泉の水が動く音といった自然を現すものしか耳に入りません。
 静か、です。
 だから、己の口にした言葉が、空間に長く留まりました。
 さようなら。それから、ごめんなさい。

 手にした小箱を、抱きしめます。その箱には、従姉の遺髪をおさめています。すでに液体でない血の付着した、銀の髪。わたしはこれを、従姉の命を絶った人の手から渡されました。彼女の、最期の言葉とともに。
『私は、間違っていたのかもしれない……』
 姉さまはまるで、全て己が悪いかのような言葉を最期に残したそうです。
 イシュタル姉さまはより悪い他人よりも少ししか悪くない自分を責める人。自分に厳しい人です。何から何まで、わたしとは正反対の人でした。わたしは自分に甘すぎました。周囲の優しさに甘えすぎました。従姉はそういう甘えの部分が、全くと言っていいほどなかった人でした。

 彼女が一方的にわたしだけを責めたのはたった一度。コノートで敵として対峙した時だけでした。わたしは修復不能なまでに二人の関係は壊れたのだと思いました。
 でも……違ったのです。彼女の最期は、己を責め、わたしに優しいものでした。
『だけど。もう後へはもどれないの。 許してね、ティニー……』

 その言葉だけでも、従姉との関係が根本的に変わっていなかったことを知らせるに十分でした。  

 わたしは手摺りに身を預けたまま、ずっと上を見続けました。
 時折、小箱に目を落としました。涙が零れました。己の涙が、嗚咽が許せなくて、また口角を締め、空を見ました。何度それらを繰り返したことでしょう。次から、次へと、頬を伝う雫。手で抑えても零れる嗚咽。寒さのせいだけでなく震える身体。それらを認め、従姉の死をただ哀しみ、嘆くまでに。

「姉さま、ごめ……っなさ、謝るのは、わたし……」
  泣くのは久しぶりでした。
  フリージに帰れないと知った日を最後に、涙を流すことはなくなりました。一つの国の消滅を前にしても、解放軍でともに戦ってきた人の死に対しても。従姉と向き合った時も、親族の死を知らされた時も。目の当たりが熱い水で満ちることはあっても、それが頬を伝うことはなかった。解放軍の人間が哀しむべきことではないって言い聞かせ、堪えていた。

「わたし……っ、わたしっ……ごめ、なさい……」

 でも今のわたしの中には、そんな箍は存在しませんでした。
 大好きな従姉との死別。恋しい人に決別を告げたこと。それから……自分の罪を知ってしまったこと。
 次から次へと襲う絶望の波は、限界で静まっていた心の海の堤防を、とうとう越えてしまいました。
 
 独り、私は泣きじゃくりました。涙は枯れることを知りません。ずっと、泣いていました。
「……?」
 遠い空の月の輝きが薄くなったころ、背後から硝子の震える音がしました。
「ティニー……」
 手で涙を拭い、振り返ります。そこには、兄が立っていました。
 白い肌を寒い夜にも関わらず上気させ、汗によって湿った髪を振り乱して。

「ここにいたのか」
「あ……兄さま……」
「部屋に行ってもいなかったから……探したよ」

 息を切らしながら言う兄、アーサー。大げさだとは思うけれど、心から心配してくれる人がいるというのは、とても嬉しいことです。
「ごめんなさい。それから、ありがとうございます」
「ありがとう?」
「心配してくれて、ありがとう」
 わたしはなんとか微笑んでみせました。兄はわたしをじっと見ていました。特に、目のあたりを。泣いていたのは、わかったと思います。でも、何も言いませんでした。しばらく見詰め合う形になって、ややあって、兄が口を開きました。

「無理していないか?」
「……していません」
「そうか……」
「はい」
「……」
「あの……何か、用があったのですか?」
「え? 何で?」
「部屋に来られたのでしょう?」
「ああ……うん」
 兄は、わたしの目元を見たまま、口篭もりました。
「何となく、だよ」
 ……兄は、わたしが一人で泣いていないか、心配になってきたのでしょう。
 実際、昨日までのわたしなら、ここで、兄の胸を借りて泣いていたと思います。
「変な、兄さま」
「……ここは冷えるよ、中に入ったほうがいい」
 兄は私の夜着からむき出した肩をかばうように外套を被せてくれました。
  わたしは頷いて、従います。

「……あのっ」
  一歩先を行く兄の背中に声をかけました。
「うん?」
「……わたし、兄さまが好きですから」
 言葉にしたことは、多分なかった。今、言葉にしたいと思った。明日からの強さの糧にするために。
「俺もティニーが好きだよ」
 その言葉のありがたみを、噛み締めます。
「きっと、幸せになってくださいね。わたし、もっと強くなりますから……」
「……ありがとう。俺も、もっと強くなりたい。ごめんよ、ティニー……」
 兄の謝罪の意味は、わかったけど、わかりません。兄が謝る必要はありません。謝るのは、わたしです。お礼を言うのも、わたしです。
 わたしは、ただ首を振りました。  

 彼には誰よりも幸せになって欲しいと思います。そのために自分が犠牲になることは、痛いことではありません。出会ってから、これまで。兄はわたしをとても大事にしてくれました。自身の危険も幸福も考えず、大切にしてくれました。わたしも、兄に対して、同じようにしたいと思います。

 *

「あ、あ……貴方は……誰、ですか」

 わたしの中での兄との出会いは、アルスターでした。シレジアで一緒にいた赤子の時のことは、全く覚えていません。だから、すぐには信じられませんでした。兄だと名乗る人のこと。

 やはり星の綺麗な夜でした。兄さまはレンスターの南に張った天幕に、それも形だけとはいえ軍の最高責任者であるわたしのいる奥陣まで、忍び込んできました。
 銀色の髪の、神秘的なまでに綺麗な人。……少し、イシュタル姉さまに似ている。
 それが兄さまに抱いた最初の印象でした。

 その時わたしはどうなってもいいと思っていました。
 戦場に立ち、人の命を預かり、奪うくらいなら……いっそ、ここで命を立たれたほうがいいと、漠然と思っていました。兵法など本でしか読んだことのなかったわたしが、いきなり6個大隊も与えられたのです。他者の命を預かるという責任の重さに、怯えていました。全てを投げ出したかった。それでも、侵入者との距離を知らずに取っていたし、枕もとにある魔道書へ少しずつ近づいていました。そんな自分を空から見て、ああ、わたしはまだ生きたいのかもしれない。そんな風に思ったりもしていました。

「ティニー……」
 侵入者は、この上もない愛しみを込めて、わたしの名を呼びました。
 声も、瞳も、身を纏う空気も、澄んでいて……どこか懐かしく感じました。
「俺はお前に会いたくて……ここまできたんだ」

 イシュタル姉さま……ううん、それよりも、そう……ティルテュお母さまに似ているんだ……。

 わたしの手は、知らず母の遺品であるペンダントへと伸びていました。
 銀の鎖に繋がれた蒼い石。それは、結婚前に父から贈られたものだと聞きました。父の瞳の色と、よく似ていたから強請ったのだと少女の瞳で母が語っていたのを、うっすらと覚えています。そして、父には自分の瞳の色とよく似た紫の石の、同じ細工のペンダントを渡したと。
「俺は、君の兄、アーサーだ」
 その時に兄さまが見せたのは、銀の鎖や、幾何学文様の細工が、わたしのものと同じ、でも石は違って……記憶の中の母の瞳に……そして、わたしや兄の瞳に、よく似た色の宝石……そんなペンダントでした。
「君も、これと同じものを持っている……そうだろ」
 私は頷き、懐よりペンダントを出し、兄のものと較べました。
「貴方が……兄……さま」
 美しき侵入者をじっと見ます。兄の存在を、アーサーという名を、母や叔父の口から聞いたことはありませんでした。ただ、一度だけ、イシュタル姉さまが口にしたことがあったと思います。アーサーという名。確か、ひと月は帰らないと聞いた時に、予定を聞いて……その答えとして、アーサーに会うから、と言ったのです。その人が姉さまとどういう関係にある人なのか、訊ねても答えてくれなかったけど。

「でも……どうして」
「俺たちの母は解放軍の戦士だった」
 わたしはその言葉に、頷きました。そのことは、よく知っていました。裏切り者の子だと、罵られ、殴られた記憶とともに、この身にこびりついていました。
「戦いのあと、俺を連れてシレジアに逃れたけれど、生まれたばかりの妹とともに、何者かに連れ去られ、俺にはこのペンダントだけが残ったんだ。最近になって、連れ去ったのはアルスターのブルーム王だと、母はすでに亡くなったと聞いて。でもティニーは生きているって……だから、ここまで来たんだ。君を、迎えに来たんだよ!」

 俄かには信じがたい話です。
 でも……大好きな人に似た人の言葉は、甘くて、優しくて……懐かしくて。
 彼を信れば、ここから逃げ出せる……逃げてもいいっていう、強い誘惑に抗うことができなくて。
 わたしをそっと抱き寄せた人から、離れることをしませんでした。
「ティニー……戦いをやめて、俺たちのところに来て欲しいんだ。話したいことはいっぱいある」
「はい……わたしも戦いたくはないです。兄さまの言われるとおりに……」
 戦いたく、ない。だから。この人を兄と信じ、従おう……。  

 わたしは、『俺たちのところ』というのが、何を指すのか、訊ねようとはしませんでした。
 兄が、誰にわたしのことを聞いて迎えにきたのか。知りたいとも思いませんでした。
 それは、当時のわたしにとって、どうでもいいことでした。……わかってはいけないことでした。
 見ないほうが、聞かなくてもいいほうが、傷つかないことというのは、多分、世の中には沢山ある。
 わたしはそういったものから全て逃げてきたのです。 幼い頃から、ずっと。
 この時も、戦いの場を抜けて、裏切り者と罵倒する憎い血族のもとからも抜け出し……この優しい人といられるならそれでよいと感じていた。何の特技もないわたしですが、己を保護してくれる人を見つけることには長けていたようです。

 兄は出会いの瞬間からずっと、わたしにとって特別な人でした。
 血が繋がっているだけで、わたしなんかを無条件で愛してくれるという稀有な人。フリージにあっては、かつてはティルテュ母さまが、最近まではイシュタル姉さまがあたっていた場所です。ティルテュ母さまは死んでしまった。イシュタル姉さまのところに戻ることはできない。従姉と心を通じ合うことはない、それがわかった時、わたしはその代わりと言ってもいい状態で手に入れたものを……兄の無条件の愛情を失うことを何より怖れるようになりました。
 そして、フリージでの過去を捨て、真に解放軍の戦士となることが、不可欠なことだと考えるようになりました。
 兄の愛を、失わないために。


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