兄の、フリージへの病的なまでの嫌悪に感づいたのは、アルスターの天幕から抜け出す時でした。
 わたしの裏切りを見越していたかのように即座に掛かった追っ手を次々と雷の魔法や剣で倒しながら、わたしには決して魔道書を握らせようとはしませんでした。
 片手で馬の手綱を握り、片手で、相手に合わせて魔法と剣を交互に使う兄さまは、息を切らせながらいいました。

「ティニー、馬は得意か?」
「自分で走らせたことはないです」
「そうか、じゃあ仕方ないな。振り落とされないように、しっかり捕まっていて。かなり揺れるから」
「……あ、あの……っ」
「うん?」
「魔法、魔法なら扱えます!」
 震える声で言ったわたしに、兄は前を見たまま言いました。冷たく、暗い声で。
「フリージは君の同胞。戦いたくはないだろう?」

「……そう、ですけど……」
 それは、兄さまだって同じはず。思ったけれど、口にはしませんでした。
 兄の背中が、そっと覗いた横顔が、それを拒んでいるように見えたから。

 後にセリスさまにも、同じことを言っていただきました。
 肉親と、戦う必要はない。
 ……言葉にしては同じでも、意味合いも、言葉から滲み出る感情が、全く違いました。
 セリスさまの言葉が、わたしを思いやって自然に出てきた言葉だとすれば、兄のそれは、怒りと優しさの葛藤の末に出てきた言葉だと思います。今思えば、多分、否定することを望んでいたのだと思います。兄さまは。でもわたしは、無言という形で、肯定してしまいました。

 結局わたしは、シャナンさま率いる斥候部隊と合流するまで、戦うことをしませんでした。
 ううん、その後も……コノートでの従姉との対峙の時まで、相手がフリージであっても、なくても、まともに戦おうとしたことはありませんでした。杖を習い、後方で援護をすることで、本当の戦いから逃げていたのです。

 フリージの人間でも、解放軍の人間でもない。
 こんな自分でいいはずがないと思いつつ、フリージでのことを捨て去ることが出来ずにいたわたしは、やがて戦わないことが走る兄の足を引く行為であることを知ります。穏やかで優しい兄が、戦では人が変わったように戦う意味を知ったのです。

「全身の血を全て捨て去り、新たな血を入れる。それは不可能なことだろう?」
「……無理です……けど」

 魔法も、剣も、並の戦士より長けている兄は、戦略の要となることが多かった。斥候やおとりといった、中でも危険な役割を買って出ます。 兄だけでなく、父方の従兄にあたるヨハルヴァさん、ヴェルトマーの血を引くレスターさまにもいえることですが。
 理由を聞いたなら、兄さまはつまらなそうに言いました。

「だから、こうするしかないんだよ。戦って、殺して。やつらとは違うものだと示すしか」
「兄さま……」
「やつらを同族だなんて、思っていないのにな……」
「……」

 兄さまたちは、敵の血の持つ負のイメージを払拭すべく、必死でした。
 敵の血を強く引くこと。それは、いつ裏切ってもおかしくないという意味を含んでいます。
 わたしが何もせずにただ解放軍にいることだって、あらぬ疑いを抱かせることになります。解放軍の人間であることを証明するには、戦わなくてはいけなかったのです。フリージで育ったなら、尚のこと。

 それを知った時、わたしは、魔道書を手に戦場に出ることに決めました。解放軍の戦士として生きていこうと、一歩を踏み出したのです。
 それからは、イシュタル姉さまのことを含め、フリージでのことを口にはしなくなりました。わたしには、その権利はありませんし、何よりも兄が、わたしがフリージでの生活を語るのを、とても嫌がりましたから。  

 フリージでの過去は捨てよう。兄さまがフリージを嫌いだから。
 わたしも解放軍の戦士であろう。兄さまの尽力を無駄にしてはいけないから。
 わたしの居場所はここ。家族はもう、兄さま一人……。

 決めたのに、それでも。直接フリージに牙を剥くことだけはできませんでした。どうしても、できなかったのです。無理に戦場で出ても足が竦んで一歩も動けず、魔法を唱えようとしても沈黙の魔法にかかったように言葉が出てこなかったのです。血族殺しだから、できない。そんな道徳上の理由だけではありません。多分、従姉と顔を合わせ、罵られることが、怖かったのです。同時に、従姉を庇う行動に走り、兄さまやセリスさまに嫌われることも、恐れていたのだと思います。身体の底から。どこまでも半端なわたし……。
 コノートでイシュタル姉さまを庇ったことを知ったアーサー兄さまは、セリスさまやイシュタル姉さまと同じように……ううん、もっと強い、困惑と怒りを浮かべました。優しい兄は、言葉に出して責めることはしませんでしたけど。彼は、言葉でフリージへの憎しみを外に出すことは滅多にしません。フリージに対する兄の冷たさや憎悪は感じていましたが、言葉として聞いたのは……そう、最終決戦が始まる前……あれがはじめてだった気がします。


「おまえや母さんを奪ったフリージ家を俺はうらみ続けた。俺の手で叩きつぶしてやりたかった……」
  兄の傍で居心地の悪さを感じたのも、はじめてだったと思います。  
「でもね、ブルーム伯父さまやイシュタル、イシュトー姉弟はそれほど悪い人ではなかったのよ」
「……」
 いたたまれなくなって、わたしは言いました。縋るように兄の腕を掴んで。兄がわたしの言葉を、この時ほど無感情で受け取ったことはありませんでした。わたしは必死で言葉を続けました。
「少なくとも、わたしや母さまにはよくしてくれたわ。酷かったのは……」
 兄に、正しい怒りの的を与えなくてはいけないと思いました。血族全てを憎んで欲しくはなかったのです。わたしは違うから。
「母さんを死に追いやったのは、ヒルダだったな」
「ええ。あの人だけはわたしも許せない。できることなら、わたしの手でと思っていた……」

 わたしが強い怒りを示すと、兄の表情が少しだけ穏やかになりました。兄は、フリージの全てを憎んでいます。そして……わたしにも同じであって欲しいと思っています。だから、わたしがフリージに関わるものに対して理解を見せれば難色を示し、その逆には安堵を見せるのでしょう。

「もうお前に哀しい思いはさせない。俺が守ってやるから……」
 そう言った兄さまは、いつもの優しい兄でした。

 兄さまのフリージへの憎悪は根強いです。兄は、シレジアの長い冬を独りで越しながら、姿の見えない『母と妹を奪ったもの』への憎悪の炎で身を焦がし、生きる糧にしていた。普通の幸福を、家族を奪ったものを、漠然と、でも激しく、憎むことしかできなかったはずです。
  兄にとってフリージは全てを奪った敵。
  兄さまは、戦いの後はシレジアに帰るつもりのようでした。
  恋人であるフィーさまとともに。フリージを継ぐなんて、一度だって考えたことはなかったと思います。
 当たり前です。憎悪の対象との同化など、誰が考えるでしょうか。

 それでは、わたしは……?
 わたしは旧フリージでの生活を望んではいませんでした。周囲の、裏切り者に向ける侮蔑の目線、叔母による執拗な虐め。辛いことばかりでした。幸福と感じたことはありませんでした。いつも、逃げ出したいと思っていました。それでも衣食住は十分すぎるほど整えられていたし、貴族の娘としての教育も施されていました。優しい従姉弟たちもいました。 そう……わたしはフリージ公女として、生活をしていたのです。他の地域を蹂躙して奪った財の中で、少なくとも形だけは豊かな生活を与えられてきたのです。そのわたしに、兄のように奪い去っていくだけの存在だったフリージを憎悪する権利があるのでしょうか。ないでしょう。フリージを継ぐことなんて、考えられない。……それでは、無責任すぎます。

 フリージに戻りたいなんて思いません。
 でも、大陸の人間を虐げ続けたフリージの責を誰かが負うのでしたら、それはわたし以外にはいないように考えていました。終戦を目前とした頃には、それを考えられる程度には、成長していました。

 フリージの継承。それは、セリスさまと一緒にいられないことを意味していました。 兄と離れて生活することも、指していました。独りで、国を背負って立つ。そんなこと、できっこないという思いもありました。
  フリージとの戦いに決着がつく前には言おう。最後の戦いの前には言おう。戦勝の宴が終わるまでには言わなくてはいけない。

 わたしは結局、フリージの継承を言い出すことができませんでした。辛い決断を先送りにしていました。そして、ついに兄さまに言わせてしまいました。 口に出すことも辛いであろう言葉を。

  そうしてわたしは優しすぎる真実を知り……。

 

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