今日の、夕方のことです。
 三日間に渡る、勝利を祝うパレードを終え、仮に与えられた部屋に戻ろうとするわたしを、兄は呼び止めました。
 そして、わたしの頭に手を乗せて、微笑みながら言いました。

「フリージは俺が継承するよ。セリス皇子と幸せにな」

 その言葉はあまりに優しくて、声にする兄さまの顔があまりに清らかで、わたしは……妹として、頷いてはいけないと思いました。 
 もっとも憎んでいるもののために、生きる。そんな残酷な役目を押し付けるなんて、してはいけない。 フリージを継ぐのは、わたしであるべき。そう思っていたはずでした。
 それなのに……わたしは、兄の申し入れをすぐに拒むことができませんでした。

「でも……だって兄さまは、フリージを嫌いでしょう……」
 大理石の床だけを見て、わたしは言います。
「それは、ティニーもだろ」
「……それは……そうですけど。でも、優しくしてくれる人もいて……だから、嫌な想い出だけでなくて……」
「優しくしてくれたのは……イシュタル公女?」
「そう……一番優しくしてくれたのは、彼女……」
「俺も彼女には、感謝しているよ。ティニーを大切にしてくれたし……それに」

 兄はそう言って、わたしの手に収まった箱に、手を延ばしました。
「あ、それは……っ」
「フリージ城で、彼女の肖像画を見たよ。銀の髪の、とても綺麗な人」
 箱を、半分だけ開けます。そして中を確認すると、静かに閉めました。中にあるのは、黒い血の付着した銀の束。
「……俺は、彼女を知っていた。一度だけ、会ったことがある」
「……え!?」

 何処で、何故。
 決まっている。
 自我の段階の疑問と、意識下にある答えが、脳裏で渦巻きました。
 耳を塞ぎたい衝動を抑え、わたしは兄の言葉を待ちました。

「母さんがブルームに連れ去られたこと、ティニーがアルスターにいることを教えてくれたのは……彼女だった」
「……姉、さまが……」  
「哀しい瞳をした人だった。彼女のことを忘れたことはないよ」
「……」
「ティニーという家族をくれた人。彼女には感謝している。もっと早く知っていたら、フリージに対する印象も変わっていたのかもしれないな」
 彼女は、わたしが離れていくことを予感し、怯えていました。同時に、確信にも近いものを抱いていたように思えます。あれは……兄がアルスターに来ることを知っていたから、なのでしょうか。
「彼女は、いずれ帝国が敗れることを薄々感じていたのかもしれないね。だから、お前だけでも安全なところに逃がした」
 それでは、コノートであれほど厳しくわたしを拒絶したのは、フリージに戻ることを考えられないようにするため? 解放軍の人間となるほうが、囚われのフリージ公族であるより、幸福で、安全だから……?

「……わたし……何も知らなかった……」
 知ろうとも、しなかった。
「本当に、優しい人だね。それに狩られた子供たちを逃がすくらいだ、相当、悩んだだろう。俺たちと敵対することを。戦わないで済む方法も、あったのかもしれないな」
 そう。彼女を殺さずに済む方法は、あったかもしれないのです。
 無理だったかもしれないけど、生きて欲しいという意思のもとで動いていれば、彼女を生かす方法があったように思えます。
 それをしなくてはいけなかったのは、兄さまでも、セリスさまでもない。わたしです。彼女の優しさを一番知っていたのは、わたしだったのです。それを、解放軍の戦士であることに固執して……ううん、違う。皆から否定されるのが、怖かった。兄たちの愛を失うことに怯えて、何もしなかった。……ただ、臆病だっただけ。

 『許してね、ティニー……』
 最期の言葉が、思考を打ちます。
 看取ってもいないのに、声として、姿として、その最期を鮮やかに浮かべることができます。
 きっと、彼女は寂しげに微笑んでいた。優しい声でそれを言った。

 何故、姉さまが謝るの? 謝る必要があるの?  
 わたしは、姉さまの優しさに、気がつくことができなかった。
 悪いのは、全てわたし。わたしが、わたしが、わたしが悪い。謝らなくてはいけないのは、わたしなの!

 許せませんでした。
 従姉の真意に気づくことなく、目を瞑って何も見ようせず、ただ辛い思いをしないで済む方法だけを考えていた自分が。

「フリージ全てが悪いんじゃないんだよな。少なくとも、民に罪はない。俺……頑張って、好きになろうと思うんだ。母さんの祖国だしさ」

 アーサー兄さまも、イシュタル姉さまも、わたしをとても大事にしてくれました。己を犠牲にしても、色々なものを与えてくれました。それなのに、わたしは全てに目を瞑るという最悪の方法で、迫り来る運命を回避したのです。
 運命はわたしの隣りを通り過ぎていく。
 従姉は、死んでしまった。兄さまは、憎悪の対象と同化しようとしている。

 もう遅いこともあります。それでも、少しずつであっても。優しさを返していきたいと思います。これまで彼らが、躊躇いもなくそうしてきたように。己の望みを潰してでも。

 わたしは首を振り、強い口調で言いました。ここまで来て、やっと、言えました。
「いいえ、兄さま。フリージは、わたしが継ぎます」
「無理はしなくていい」
「……兄さまがわたしに、辛い役目を押し付けたくないのは分かります。でも、そんなのわたしだって同じです!」
 同じでなくてはいけないのです。これまで、一方的だった分も、わたしは兄を大切にしたいのです。姉さまにできなかった分も。それから、母さまにできなかった分も、大切にしたいのです。最後の家族である兄さまに。

「わたし、兄さまに幸せになって欲しい。フィーさまと、シレジアで、二人で暖かな家庭を築いてください。フィーさまとなら、きっとできます」
 兄さまが一番欲しがっているのは、穏やかな家庭。子供の頃、無理やり叔父によって摘み取られたもの。
 それを手に入れる手伝いくらいは、今のわたしにもできると思います。
「フィーはシレジアじゃなくても、俺が一緒ならどこでもいいって言ってくれている。だから……俺は」
「……わたしは、フリージに残りたいのです。フリージにはいい想い出だって沢山あります。母さまのこと、お姉さまのこと、イシュトー兄さまのこと。……それに、何より、兄さまに、フリージを継いで欲しくないのです。兄さまがフリージを愛するようになるには、時間がかかります」
「……確かに、すぐには無理だ。でも努力するよ」

 幼い頃からの孤独の素を、憎しみの対象を、許せる人がどれだけいるでしょう。わたしだって、ヒルダだけは彼女が死んだ今でも許せません。言い換えれば、わたしのフリージへの憎しみは、ヒルダという個人への恨みに集約されるのです。小さな負は……かつての形のフリージが滅んだという事実と、従姉の優しさが、昇華してくれた。

「わたし、フリージを愛すること、できると思うのです。同胞と戦わなかったのは、わたしに勇気がなかったからだけど……新たな統治者としては悪いことではないと思います」
 兄さまは、己の手に視線を落としました。多くの同胞を屠ってきた手を、見ます。
 フリージを愛するようになれば、今度は、躊躇いもなく同族を殺して来たことが、兄を苛むのでしょう。彼は、そういう人なのです。仕方がなかったことなのに。

「だけど……セリスさまのことは……? ティニーはバーハラに嫁きたいだろう」
「バーハラとフリージは近いもの、平気です。セリスさまはきっと、わかってくださいます」

 肉親すら上手に愛せなかったわたしに、他人を愛する権利があるとは思えません。セリスさまとはお別れすることになるのだと、漠然と考えます。従姉や兄のように、わたしの弱さによる明らかな犠牲がなかっただけで、セリスさまのことも二人と同じでした。優しさや、幸福への道を、一方的に与えられるだけ。そのわたしが、セリスさまを縛っていいはずがありません。わたしなどからは解放されたほうが、彼は幸せになれます。

「……わかったよ」
 兄さまは、わたしから申し訳なさそうに目を背けて、言いました。
 わたしの幸福を優先しきれなかったことをすまなく思っているのでしょう。
 なんて、優しい人。

「そのかわり、辛くなったら、言うんだよ。俺はドズルに行く。フリージとは隣りだから、いつでも飛んでいける」
「ドズル……?」
「ああ、父さんの祖国だ。おかしなことじゃないだろう?」
「それは、そうですけど……無理していませんか?」
 
 シレジアに較べれば、ドズルは断然近い。そして兄さまはドズルをフリージほどには憎んでいません。そうしてくれたら、どんなに心強いだろうと思います。それでも、兄さまがそれを少しでも辛いと思うなら、やめて欲しいと思います。思わなくてはいけないと考えます。ドズルも、フリージと同じく罪深い国なのです。

「していないよ。ドズル行きは、前からヨハルヴァにも望まれていた。英雄の子の俺のほうが、新たな国を作るに相応しいって民の中では言われているんだって。結構、いい加減なもんだよな。英雄の子がどんな子か、知りもしないで言っているんだ。俺よりはヨハルヴァのほうがドズルのこと考えているのにな。ま、お飾りの大公だよ、俺は。シレジアに行ってセティお義理兄さまにこき使われるより楽ができるだろ」
「まあ、兄さまったら……」
「やっと、笑ったな」
 思わず笑みを零したわたしの口許に、そっと指を当てて、兄は言いました。
「俺はフィーとティニーが近くにいて、笑っていてくれれば、それで幸せなんだ」

 それは、兄の本心でしょう。
 そしてわたしは、兄に幸せであって欲しい……。

 わたしは、自分が幸福になることよりも、兄が幸福であることを、望みました。
 従姉は兄を導き、わたしをフリージの外に退避させたけれど、それでも根本ではわたしのフリージ離反を望んではいなかった。彼女の隣りにいてひしと感じた、傍にして欲しいという従姉の願いは真実だったと思います。フリージに戻るのはわたしなりの贖罪でもあります。
 セリスさまには申し訳ないと思っていました。辛いと、感じていました。その一方で、彼にこのまま依存し続け、犠牲を強いることにならなくてよかったと思っていました。


 戦いが終わった時、わたしが望んだのは皆の幸せと贖罪でした。その望みゆえに、わたしはフリージに残ることを選んだのです。
 自分よりも他者のことを思い、何かを選んだのは、はじめてのことだったかもしれません。
 何かを選んだ、という行為すらはじめてのことだった気がします。
 これまでのわたしは、周囲の優しさに甘え、運命に流されるままでしたから。

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