「ねぇ、ティニー。これ、面白いよね」
「……はい?」
大仰に音を立ててテーブルの上に置かれたのは、お尻の丸い木彫りの人形でした。
、頭部を指で突くと、右耳らしき部分が板につきました。勢いよく起き上がりました。今度は左耳が板につきました。二度、三度と軽く揺れて、動きは緩やかに止まりました。
セリスさまは目を輝かせて、再び人形を指でつきます。
「レヴィンは子供のおもちゃだから、人前では出すなって言うんだけど、面白いんだよねぇ。あ、こういうのもあるんだよ」
大きな傘を被った男の人が釣り道具を持っています。
くくりつけられた糸を引くと、魚を吊り上げるように竿が傾きます。
「まあ……」
同じようなものを子供の頃に見たことがありました。少しだけ、懐かしいものです。だけど、特別に面白いものだとは思いませんでした。
「僕はおもちゃで遊んだ記憶、ないんだよなあ。でも、ラクチェやラナはあるって言うんだ。忘れているだけかなぁ」
「セリスさまはラクチェさまたちより年上ですから、一緒には遊ばれなかったのかもしれません」
「……そうかもね」
セリスさまは口元だけで笑いながら、人形の糸を引きました。
「……ティニー。あんまり面白いって思っていないでしょ」
「え、ええと……」
「オイフェにもレヴィンにも呆れられたよ。面白いと思うんだけどなぁ。可愛いしさぁ」
頬を膨らませるセリスさまこそが可愛くて、わたしは笑ってしまいました。するとセリスさまは。
「ねえ、今笑ったのは、僕を笑ったの? それとも、これが面白くて?」
いつの間にかセリスさまの手に口が大きな人形がはめられていました。セリスさまはその口で私の手首を食べました。
「……これらは、どうしたのですか?」
「ミレトスを解放した時に、街の子供がくれたんだ。宝物だけどあげるって、だから聖戦士さま、頑張ってって」
「そうですか……」
「嬉しいよね」
「そう……ですね」
わたしの声には、力がなかったはずです。
平和への願いは、皆同じ。大人も、子供も、村人も、貴族も。
純粋な応援は嬉しいけれど、わたしには少し重荷でした。無責任さへの苛立ちすら感じてしまいます。自分自身に近いところがあるから余計によい気持ちになれなかった。ですが、光の公子たるセリスさまは違うのだと、漠然とではありますが考えていました。
「って、セリスさま……?」
セリスさまの人形をはめた手は、徐々に上に登り、わたしの肩を噛みました。
わたしは彼の近くに寄せられました。
腰掛けていた椅子が倒れました。
「ティニーは心にもないことを言うの、本当に苦手だねぇ……」
「そう、でしょうか」
「苦手、苦手。良く言えば素直なんだよ。今だって、過剰の期待を重く感じたろ」
悪く言えば、抑えが聞かない、子供だということ。聖戦士としての自覚が足りない、ということではないでしょうか。答えに窮してしまいました。
セリスさまはわたしを抱き寄せ、髪に顔を埋めました。
「……僕はね、ティニーのそういうところ、好きなんだよなぁ」
わたしを抱く力は次第に強くなっていきました。
「え……と、ありがとうございます」
わたしは無難ともいえる返答をしました。
「ティニーは、そのままで」
「え?」
「僕が、護ってあげたいんだ」
セリスさまの肩越しに、テーブルの上のおもちゃたちが無邪気に揺れるのを、ただ見ていました。
セリスさまが急に重くなりました。
「え、え!? ちょ、セリスさま」
わたしは慌てて崩れる彼を支えました。
「ご、ごめん……少し、眠らせて……ここんとこ寝れていないんだ」
セリスさまは床にマントを引くと、そのまま寝入ってしまいました。
わたしは横に座りました。規則正しい息の音を聴きながら、安らかな寝顔を眺めていました。セリスさまが目を覚まされるまで、そうしていました。
過去の、夢でした。確かミレトスを解放した直後、城の片隅でのやりとり。
恋人同士の場面。 何度、わたしの中で繰り返されたことでしょう。
今日の空は蒼い。多分、東の窓辺に立てば、バーハラの尖塔が見えることでしょう。だけどそれは、昔ほどには鮮やかに見ることができません。
ここ数年の間に、私の目は霞んで物を映すようになってしまいました。
忙しい日々というのは、瞬く間に過ぎていきます。
最初の二、三年は、耐えなくてはいけないことと学ばなくてはいけないことの間で、もがいてばかりでした。そうしないと決めていても、逃げ出したくてたまりませんでした。特別なことがなくとも辛いという意識が押し寄せてきて、感情に任せて涙を流すこともありました。
それでも人前で泣く事だけはしませんでしたし、気遣ってくれる人には笑顔を見せていました。心の底から、優しい人たちに感謝することができました。
十年を経た私とセリスさまの関係は、恋人同士ではありません。ですが、親しい間柄ではあります。
別れてからの一年は、政務上で必要な言葉だけを交わしました。少ない言葉ですらほのかに強張った音声が発していました。ごく普通の会話を交わせる二人となるまで、三年は要しました。今の状態になるまで五年くらいはかかったように思います。
わたしはいつもより二刻も早く身体を起こしました。
今日は半年ぶりにセリスさまに逢える日です。
三日間、グランベル聖王がフリージ領土を視察されるのです。
*
「フリージの街、明るくなったね」
「はい。戦争で壊れた高い建築物は、極力再生しない方向で新しい町並みを造るようにしましたから」
「へえ。何で?」
「高い建物は下に住む者たちに圧迫感を与えます。ですから、少ないほうがいいのです。低い建物を中心にしたほうが日当たりも維持できますしね」
「よく考えてあるんだ」
セリスさまは、フォークを筆に皿を紙に見立て、書きものをする真似をしました。
「実は設計技師団の意見なのです。受け売りです」
「臣下の意見を受け入れて行政に生かすことは、多分、受け売りとは言わないよ」
「そうかもしれません」
せリスさまはグランベル六国を、たった半月で巡るということです。隣国フリージは最初の訪問地です。
「日程的に厳しくないですか? 移動時間も長いようですし」
「私なら、大丈夫だよ」
「道もよいとは言えないみたいですけど」
「まあ、馬や供の負担は心配だけどね。様子を見ながら、途中で入れ替えるというのも検討しようと思っている」
日程表を見ながら身を案ずる発言をしても、セリスさまは聖なる王の顔で微笑むだけでした。
明日の朝には、隣国ドズルへ向かって立ってしまいます。
予備として設けてあった最終日の午後、生のフリージを見たいという希望を受けて、わたしは魔道書、セリスさまは剣を携え、二人だけで城下に出ることにしました。日よけの傘とヴェールで顔を隠し、人気のない道を選んで街を歩きました。
大仰な歓迎のない街を歩くのは久しぶりでした。私自身歩くのは慣れない土地です。自分の国なのに地図を持って歩く羽目になってしまいました。
大通りの店を冷やかして、美術館で絵画を見て、昨年設立したばかりの大学内を歩きました。夏の休暇中で人気は少ないのですが、観光客らしい人たちが真新しい学び舎を物珍しげに見たり、近くに住む老夫婦が散歩を楽しんだり、思い思いに過ごしていました。
宗教に関連しない国立の大学を作るのは、即位した当初から考えていたことでした。開校式にはわたしも立ち合ったのですが、フリージ大公を間近で見ようとする人々に囲まれて、目線も意識もそちらにばかりとられてしまいました。
教室、講堂、図書館、庭。何度も眺めた設計図とおぼろげな記憶を頼りに、一通り歩いてまわりました。
それから、普段なら学生が多く集うのであろう近場のカフェに寄りました。
今はそこで、タルトとコーヒーをいただいています。
「明るくなった、というのは、物理的な面だけの話じゃないんだけどね」
「え?」
「雰囲気が変わったよ。下を向いて歩いている人が少なくなった。子供の笑い声が大きくなった」
人気の少ない窓際の席に腰掛けて、わたしたちは小声で話しをしました。
セリスさまはコーヒーにミルクと砂糖をわたしの分まで入れました。ミルクを入れると、芳ばしい香りまで柔らぐような気がします。
セリスさまは昔から苦いものが苦手でした。夕べの晩餐会でも赤ワインは殆ど口にしようとしませんでした。わたしも昔は酒類は全般的に苦手で、赤ワインはただ渋い苦みを感じるだけで口を濡らすのも苦痛でした。だけど不思議なことに、今は美味しいと感じます。
「少なくとも、戦に狩り出される心配も、ある日突然家がなくなる心配も、ありませんもの。彼らの心にあるのは、己と周囲のことばかり。ほんの少し、国のことを考えてみても、それは自分たちが幸福でありたいがため」
「おや、辛いね」
セリスさまは肩を竦められました。わたしは笑いながら、首を傾げました。
「辛いですか。よいことだと思っていますけど。少なくとも、国が生活を脅かすことはないと安心しているということですから」
「確かにねぇ」
フリージの復興は想像していたより、順調に進みました。フリージ公家は加害者の国です。自国が戦場になったのは終戦間際、バーハラに向かう解放軍と争った時だけでした。城下町も戦場になりかけましたが伯母率いるゲルプリッターが城壁の外で迎え撃つ形をとったので、建物の損壊も民間人の犠牲も少なかったのです。立て直すといっても、大して壊れていない国だったのです。少なくとも、フリージが壊した他の国に較べれば。
民家で暮らす普通の人々がこれまでと変わりない暮らしを取り戻すのは、当時は慣れないこともあり途方も無い事業のように思えました。しかし、今となっては困難というにはあまりに他の国に申し訳ない、そんな状態だったと思います。
バーハラの戦より長き時間を経た今でも、アグストリアやヴェルダンでは各地方での小競り合いが続いています。
シレジアはようやく政を行う体制が整いつつある。
早期に開放されたイザークですら、かつてと同程度の生活を取り戻したかどうか、といったところです。北トラキアはかつて以上の繁栄を見せているようですが、南トラキア地方との貧富の差が問題として残っていました。
ドズルはイザークに、フリージはトラキア王国へ。深い罪の償いを重点的に行ってきました。最初は、経済的な支援すら受け入れてもらえませんでした。国主が受け入れたいと考えても、国民が納得しなかったのです。北トラキア解放戦役で戦った人たちの働きかけがなければ、今のフリージとレンスターの関係はなかったでしょう。
国民に直接、旧フリージの罪が重く圧し掛かることはありません。実際彼ら一人一人には何の罪もないのです。戦を遠き日のことにして、明るさを取り戻すのはよいことです。罪ある国の民としての自覚を持って欲しいと詰りたくなることもありますけれど。
「ティニー。今、政治のこと考えてたでしょ」
「え? いえ、あの……」
「やっぱりティニーはティニーだな。咄嗟に嘘がつけない」
セリスさまはテーブルから身を乗り出しました。顔が、近づいてきました。
「ティニーはすっかり、フリージの国主だね。国がとても好きでしょう。フリージの民は幸せだね」
「……好き……?」
「国のことを語るときの目、輝いているよ。声にもやたら張りがあるし、饒舌になる。政治のことを考えていても、厳しいことを口にしても、顔が優しい」
「ええと、好きといいますか……あえて言葉にするとすれば、大事、です」
何故か、頬が熱くなりました。
だけどそれを手で覆ったり、俯いたりして、隠したりはしません。
セリスさまは目を細められました。
「いい顔になったね」
「……ありがとうございます」
フリージの民はわたしが公位に就いたことを喜んでくれました。明確な形で、わたしを必要としてくれていました。二代に渡って光の傍についた正統なるフリージの後継者。彼らが望んだのは、ティニーでなく、ティルテュお母さまの子のどちらかだったけれど、それで十分でした。フリージは罪深きわたしを拒まず、大きな喜びで迎えてくれたのです。
即位式に集った民の晴れやかな笑顔の前に、できるだけのことをすると決めました。
必要としてくれる人を裏切るという過ちを、繰り返したりはしません。消えた人へと誓いました。
わたしは、フリージのために在れる自分を誇らしく思います。
「今の子供たちは戦を知りません。生涯知らぬままであって欲しいと思います。フリージの未来を作る子供たちですもの。彼らのためにできることがある、それはわたしの喜びです」
「子供が学べる環境作りに、特に力を入れているようだね」
セリスさまは外を見ました。
窓枠の向こうに立つ、先までいた白き学び舎を。
「物を考えられない人間となってしまうことは、とても辛いことです。フリージの今後を担う若者には、戦える強さよりも、考えられる力を養って欲しい。自らの未来を、自らの手で、選び取って欲しい」
セリスさまと同じ方角に目線をやりました。そうして、過去を見ました。
わたしは少女時代、己の弱さゆえに色々なものを逃してきました。
どうして、あれほど物を考えられない子でいられたのか。わかりません。
もしも今、過去の自分に会ったなら、わたしはきっと彼女に対して苛立つことでしょう。強くなって欲しいと願うことでしょう。もしかしたら、手を差し伸べるかもしれません。
イシュタル姉さま、アーサー兄さま、そしてセリスさま。
何故、皆、あれほどわたしに優しくできたのでしょうか。
今フリージという国に抱いているものが、その答えのひとつのように思えます。
「震えながらフリージを継ぐと言った人と、同じ人とは思えないな」
「……年月は、人を変えてくれます」
「あれから、十年か。早いね」
十年という言葉に、わたしの心は敏感に反応しました。
「はい、そうですね……」
『五年でも、十年でも待てる……』
かつてセリスさまが言ってくださった台詞は、何度となく思い返しました。
五年、十年。長い月日。そのようなことは無理だと、考えもせずに思いました。だけど、セリスさまもわたしも独り身のままで、結局十年を過ごしてきました。
「昔は十年というと、途方も無い年月のように感じたものだけど、過ぎてみるとあっという間だ」
「ええ、本当に」
今なお、セリスさまがわたしを想っていてくださるから、あの時の言葉通り独りでいる。
考えたことがないといえば、嘘になります。
わたしもセリスさま以外の人が考えられないから、独りでいる。
セリスさまが、そう思うこともあるのでしょうか。
勿論、現実はそんなに綺麗なものだけじゃありません。ですが時折、その綺麗な幻にすがりたくなることがあります。
眠れぬ夜、理由もなく優しい絃の音を欲するように。
わたしは今でも、セリスさまを求めてしまうのです。
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