「ティニーさまも、そろそろご結婚なさってもよいのではないですか?」
「オルエン、またその話……」
 縁談の話は、即位して間もないころから何度となく持ち上がっていました。
 早く次の大公となる人間を迎えて欲しい、光に属したトードの血を残して欲しい。皆が願っていました。
 健気に国を護ろうとする若き姫君は象徴としては申し分がなかったようですが、実績のない十七歳の小娘が国の最高責任者であることにはやはり不安があったようです。 わたし自身も、心細く感じていました。
 すぐに大公たりうる人と結婚してしまうと、またもその相手に依存してしまうのではないかという危惧はありました。しかし、フリージの未来と私の人としての将来を天稟に掛けるわけにもいきません。

「結婚や子育てを体験するのは、よいことですよ。世界が広がります」
 そういって笑うフリージ屈指の名門貴族の女性には、二人の娘がいます。
 乳母の手を借りることはあっても、基本的には自分の手で育てているということです。
 やがて貴族は、さして特別な存在でなくなるのでしょう。
「子供は元気?」
「はい、元気すぎるくらいです」
「いいことね」
「やはり子供は可愛いものですよ。だから、ティニーさまも……」
「わたしは、フリージのためにできるだけのことをしたいの。そのために身軽でいるのもいいと思っているのだけど」
「でも……」

 結婚は、するつもりでいました。仕事の話より多いのではないかしらと思うほどの縁談話にも、耳を傾けるようにしていました。
 伴侶候補は、フリージの名門の子弟や婿入りが可能な他国の王侯貴族でした。中には、『彼はこの話を知っているのですか?』と、思わず目を丸くして返してしまった、かつての仲間との話もありました。
「先日ゴリューン伯爵が持ってきた話も断ってましたよね。悪い話ではなかったと思うのですが」
「官職についていたようですが、実務は殆ど経験していないようでしたよ。それに、わたしより十五も歳上でしたけれど」
「……はあ、この国にはティニーさまに相応しい相手はいないの。やはり国外から迎えたほうがいいかしらね。シレジアやアグストリアも落ち着いてきたようだから、打診してみましょうか」

 でも決定的な夫候補はいませんでした。外から迎えようにも多くの国がまだ動乱のさなかにありました。国内の有力貴族は本来ならば戦争犯罪人として処罰されるべき人間が大半でした。他国の手前、そういった人間を大公の夫として迎えるわけにはいきませんでした。未婚で歳が合う。さらに人物も立派となれば、候補は限られます。

「今更無理に結婚しなくてもよいではないですか」
「もう、まるで人事のように。アーサーさまだって、心配されていますよ」
「……確かに兄さまには、何だか悪いわね」
 兄さまは時折、物問いだけな目でわたしを見ます。
 会話が途切れた時。バーハラやセリスさまの話に触れた時。
 どうなっているの? 聞きたくても、聞けないのでしょう。
 バーハラとフリージは近いから平気だと、兄さまに言ったのはわたしです。
 でも結局はお別れして、セリスさまとも、他の誰とも結婚する気配がありません。
 兄さまの中には、フリージを継がなかったことに対する後ろめたさが、未だにあるのでしょう。フリージでの生活を楽しげに聞かせても、せいいっぱい笑って見せても、兄さまには無理をしているように見えるのでしょうか。

「今の生活、それなりに気に入っているのだけど、どうしてわかってくださらないのかしら」
「アーサーさまは、ティニーさまが可愛いんです。幸せになって欲しいんですよ!」
「そうね。あ……もし貴女が男性だったら、結婚していたかもしれないわね」
「な、何をおっしゃってるんですか!」
「……? 頬が赤いですよ?」
「ティニーさま、変なことをおっしゃるんですもの」

 オルエンのように早くから……それこそ、わたしより早くから……解放軍で戦ってきたフリージ名門の子で、わたしを支え、北トラキアとフリージの架け橋となり、働いている人間。そのような男性がいたならば、結婚していたでしょう。わたしがいまなお一人でいるのは、かつての恋人を忘れられないからだけではないのです。現実は現実として受け入れていました。
 ただ、輝かしい過去を捨ててまで受け入れる現実が、よき未来に繋がると確信できないだけ。絶対にフリージのためになると言える男性がいない。だから、踏み切れないだけ。それだけのはず。これは個人の我がままではない。

「変なことかしら。わたしはオルエンがとても好きですし、貴女ならば誰もが納得するフリージ大公の夫になると思うわ」
「お褒めの言葉として受け取っておきます」
「そうしてくださいな。さ、そろそろ休憩はおしまい。次の書類を持ってきてください。セリス陛下に見ていただきたい書類もまとめなくてはね。それから、教会関連の修復請願も溜まっていたはず」
「あ、はい……」
 オルエンはまだ何か言いたそうでしたが、仕事が溜まっているのも事実でした。
 セリスさまのフリージ訪問は、四日後に迫っていました。だから大公としての業務は、少しでも減らしておきたい。セリスさまに会えるから。……そして、セリスさまと。

「ねぇ!」
 一礼をして去ろうとするオルエンの背中に、わたしは思わず声をかけました。
「何でしょうか」
 赤の絨毯を濃く染める影が、大きく揺れました。彼女は振り返りました。
「……その、オルエンもわたしが結婚したら嬉しいの?」
「当たり前です!」
 再びわたしの前に来ました。手にした紙の束に、皺ができていました。
「相手が誰でも?」
「そ、それは……」
 口ごもります。オルエンの立場を考えれば当然です。貴賎結婚は、かつては公位継承権の放棄に近かったこともあるくらいです。女の大公となれば、なおさらです。
「あの、誰か結婚なさりたい方がいるのでしょうか。その……大公としては好ましくない相手と……」
「そういうわけではないわ。例えばよ」
 オルエンは疑いの眼差しを向けつつ、前置きをしました。
「あくまで、私個人の考え方ですけれど」
「それが聞きたいの」
 促すと、躊躇いながらも言葉を続けました。
「……ティニーさまが即位したばかりの頃なら、夫となる人がどこの血筋でどれだけの能力を持っているのかというのは大きな問題になったでしょう。フリージの大公位を継ぐようなものでしたから。でも今は違います。フリージ大公は間違いなくティニーさま本人です。結婚しても、しなくても。ですから夫となる人は、ティニーさまが制御できないほどに愚鈍でなく、ティニーさまややがて生まれ出ずるお子にまで蔑みが及ぶような相手でなければ、誰でも構わないように思います」

 喉が、胸が、目頭が、熱くなりました。 
「ありがとう……」
 口元が緩みました。
 とても、とても、嬉しい言葉。
 フリージ大公はわたし。一番欲しかった言葉です。彼女の口から聞きたかった言葉です。
「本当に例え話ですか?」
「ええ。例え話なのよ。残念ながら」
 目を伏せて微笑むわたしに、オルエンは追随しませんでした。

 実際、セリスさまとわたしの間には、何の約束もありません。
 セリスさまがフリージを訪れた折には、いつもほんの少しだけ、時間を多く設けてくださいます。中庭で語らったり、お茶をしたり、二人だけの時間を過ごします。わたしがバーハラを訪れた時も同様です。例え一刻であってもフリージ大公としての行事以外の時間を過ごせるように予定を立てました。そのために、丸二日寝ずに書類に目を通したこともありました。ごくわずかな時。花の咲き乱れる庭を並んで歩いたり、二人で城壁に登って街を眺めたりしました。皆が寝静まった時分に城を抜け出し、歌劇を鑑賞したこともありました。
 だけど、いつだって何の約束もしていません。

 フリージに戻ったことを後悔したことは一度だってありません。
 だけどセリスさまに待っていて欲しいと言えなかったことは少し悔やんでいます。
 当時のわたしには、言う資格はありませんでした。

 消せない過去。決して得ることのない許し。永遠にわたしを苛む罪の意識。
 それらが消え去ることはありません。わたし自身、消すことを望みません。
 ですが、時間という優しきものは、愛した人と結ばれることが贖罪と矛盾するという意識を希釈してくれました。叶うものならセリスさまと再び結ばれたかったですし、それは可能なことのように考えるようになっていました。

*

「ティニーは幾つになる?」
「二十七です」
「周りもうるさいだろう。一人でいると」
 数日前のオルエンとのやりとりを思い出しつつ、肩を竦めました。
「そうですね。ただ、アーサー兄さまとフィーさまの間には四人も子供がいますから、あちらの子が継ぐのもよいのではないかと思っています。国民の間でも望む声があるようです。子煩悩な兄さまがそれを許すかどうかは、また別の話ですけれど」

 特にフリージの特徴を濃く継いだ愛くるしい双子は、ドズルでもフリージでも人気がある。うち一人にフリージを継いで欲しいと願うのは、自然なことでしょう。
  それならばわたしの結婚を望む必要もないと思うのだけれど、そういうものでもないらしいです。

 十年立てば、状況も、わたし自身も、変わります。
 わたしにはトードの血を無理に残す必要はありません。ですが、フリージ大公を降りたくはありません。この国のためにできるだけのことをしたい。わたしがそう望んでいるからです。

 歴史の紐を解けば、そもそもの領土を保持したまま他国の主と結婚した貴人は多く存在します。近いところでは、アルヴィス皇帝がそう。彼はヴェルトマー大公とグランベル皇帝を兼ねました。そして今現在、ヴェルトマーはひとつの国として存在しています。その夫人ディアドラ皇妃は、ヴェルトマー夫人とバーハラ皇妃を兼ねていました。
  わたしがグランベル皇妃とフリージ大公を兼ねることも不可能ではないはずです。また、夫婦だからと必ずしもひとつ舘に住むものでもありません。伯父と伯母も、大陸各地に邸を持ち、同じ城に滞在することは稀でした。当時は冷えた夫婦として理解できないものでしたが、今では、あれもひとつの生き方だったのかもしれないと考えています。

 もし。セリスさまが望み、受け入れてくれたなら。フリージ大公のままグランベル王と結婚することに、さしたる支障はないでしょう。フリージとバーハラの繋がりを深くするという大義名分もあります。
 結婚すれば、セリスさま以外の人と結婚しないでいい。おかしいかもしれませんが、それが一番の利点のように思います。共に暮らすのは難しくとも互いのために時間を融通することも、多少は許されるでしょう。それに、今回のように理由がない時だってセリスさまと逢うことができます。周囲が結婚を急くことも、独りでいることを懸念することも、なくなります。

 セリスさまは指を折りました。
「あれ、三人じゃないっけ。双子の男の子と、最近生まれた女の子」
「四人目がお腹にいるのですって。それに姪だってもうわたしのこと叔母さまって呼ぶくらいに大きくなってますよ」
「そうだっけ。最近時間が経つのが早くて。それにしてもティニーを叔母さまは酷いな」
「事実ですけど……少し、傷ついてしまいました。フィーさまと兄さまがティニー姉さまって呼ぶように直してくださったようですけど」
「目に浮かぶようだね。明日にはその姫君にも会えるかな。私もおじさまと言われてしまうだろうか」
「ええっ、まさか……」

 わたしたちはお互いの顔を見て笑いました。
 おじさまと言うにはまだ早いと思うけれど、セリスさまは以前よりずっと大人の男性らしくなりました。頬はところどころ肉が薄くなっていましたし、手や首には皴らしいものもありました。子供の頃、今の彼を見たなら『素敵なおじさま』と認識したかもしれません。かつて恋した皇子と別人に見えるのは、頭部を布で巻き、口元まで草色の外套で覆っているからだけではありません。
 わたしだって、若い娘のままではいません。化粧で隠しているけれど、慢性的な睡眠不足で隈がとれません。紅色の頬も自然のものではなく、はたいて付けたもの。今しているような、紺を基調とした暗い配色の装いも、昔は似合わないものでした。

 少女のようとも形容される綺麗な蒼のひと。
 かつてのセリスさまが、ふと浮かんで、そして消えました。

「そこで僕の顔見て笑うかな」
「セリスさまだって、笑ったじゃありませんか」
「君が笑うからだよ」
「ええっ、本当にそれだけですか?」
「……まあ、確かに歳はとったなあとは思ったけど」
「酷いです」
「お互いさまだろ」

 気がつけばカップは冷め切って余熱すらない状態になっていました。
 わたしたちは笑いの余韻を残したまま、店を出ました。
 赤く染まった外には、疲労を抱えた賑やかさがありました。仕事を終えた人々が岐路を急いだり、腕や肩を組んで酒屋や食堂に向かって動いています。泥だらけになって家を目指す子供たちや、手を繋いで歩く恋人たちの姿もありました。
 夜を待つフリージの街は昼の只中よりもずっと騒がしい。音と幸福が溢れていました。
「……結構、長居しちゃったね」
「ええ」
  わたしはセリスさまの手をじっと見てしまいました。男の人の、大きな手。
「ティニー。時間は大丈夫?」
「あ、はい、わたしは。でもセリスさまは」
 大丈夫でないことは、二人ともわかっていました。
「……そうだね。そろそろ、帰らないとね」
「はい……あっ」
  セリスさまがわたしの手を取りました。
「何?」
「……いえ、何でも」
 わたしたちは手を繋いで、聳え立つフリージの尖塔へと歩き出しました。

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