「リーン……私は、それほど頑固な夫ではないつもりだよ?」
「は……?」

 窓枠から進入する月の青い光と橙のランプだけが、二人の視界を助ける。
 一国の王妃が住まっているとは思えぬほどの簡素な部屋。
 夜の、後宮。王妃の寝室……。
 五日ぶりに部屋を訪れたセティは、鏡台の前で髪を梳くリーンの隣りに座り、言った。

「むしろ、肝要な旦那だと思っているんだけどね。君がやりたいことを、正当な理由もなく止めたりはしない」
「分かっているよ?」
「リーン……私に隠していることはないか」
「……? 隠していること……? なんか、セティさま……既に証拠は掴んでいるって顔している……」

 見当もつかないよ。リーンは言外にこめて首を傾げた。
 その様子に、セティは侍従の報告の方が間違っていたのかもしれないと思ってしまった。他にも出所の知れない話ではあったが、彼女が町で踊りを披露しているという噂は耳に入っていた。だが、それらは全て間違いだったのでは……と。

「ねえ、気になることがあるなら言ってよ。改めた方がいいことは改める。あたしはそれほど頑固な妻ではないつもりよ?」
 リーンは鏡に映ったセティに向かって、片目を瞑ってみせた。
「リーン、君さ。よく私に内緒で街に出ていないか?」
 単刀直入に訊ねる。リーンはあっさりと頷いた。
「街? うん。出ている」
 よどむことなく答えるものだから、逆にセティが次の言葉を失ってしまった。
 リーンは続ける。

「……って、ねえ。街に出たら、いけないの?」
「いや、いけないというワケではないが」

 一人で。自分に告げず。というところに問題があるのだ。
 セティは妻の肩に手を置いて言った。

「……君はこの国の王妃なんだよ」
「うん……まだ、その肩書きなれないけど」
「伴も連れず、まして行き先も告げず、城を出たりしたら周囲の人間が心配するとは思わないかい」
「……でも……別に近くの街になんて、これまでもよく遊びに行っていたし……」
「私は街に出たらいけないとは言っていないよ。ただ、頻繁にというのは関心できないし、やはり私には一言欲しい。それから、誰か護衛を兼ねた同行者を伴って欲しい。城でただ心配している私の身にもなって欲しいんだ」
「……ごめんなさい。本当はセティさまと一緒に行きたいけど、忙しそうだし……了承とるにも、いつも周りに人がいて近づけないし……」
「リーン……」
「少し自粛する。街に出るにしても、誰か連れて行くようにする。セティさまにも、ちゃんと言うようにする。こうやって二人でいる時に言えばいいんだもんね」

 リーンは甘えるようにセティに抱きつく。頬擦りをして、囁くように言う。

「心配かけて、ごめんなさい。それから、心配してくれてありがとう」
「夫として当然のことだよ……それとね……」
「あ、そうだ!!」

 近くの町に出て踊りを披露しているという話は、何かの間違いだろう?
 そう訊こうとしたが、それは早口に続けたリーンの言葉に圧されてしまった。

「ね、セティさま。……心の広い旦那さまにお願いがあるんだけど、駄目かなぁ?」
「……うん? 何だい?」
「明日、あたしのために一日……ううん、半日……ううううん、夕方、少しの間でもいい! 時間作ってもらえない?」
「どうしても明日でないと駄目か?」
「うん、明日……」
「……あ、無理ならいいよ、セティさま忙しいもんね……」

 明日は、半日謁見の予定が入り、残り半日は軍法の改正について処理せねばならぬ書類がある。個人の時間はないに等しかった。だが哀願するように見つめるリーンに押されて、セティは頷いた。

「何とか、作るよ」
「やった!」
 背に回した腕に力を込める。厚く柔らかな絨毯の上に、片膝をついていたセティは倒れてしまう。
「こら、リーン……」
「セティさま、大好きよ……っ」
 リーンはセティの唇に、己のそれを軽く重ねた。
「……」
「……」
 息遣いと互いの鼓動だけが部屋に響く。
 翠の瞳が、闇の中にも、見える。リーンの洗いたての髪の香りが、セティの嗅覚を刺激する。媚香のように。
「……私もリーンが好きだよ……もう聞き飽きたかもしれないけれど、君だけを愛している……」
「何度聞いても飽きないもの……、一生聞いていたいわ……」
「君も、私を愛している……?」
「勿論よ、愛しているわ……」
「リーン……」
 今度はセティが仕掛ける。深く長いくちづけを。
 愛し、愛される幸せが、二人の中を満たしていく。

 踊りの話は、その夜は結局、うやむやのうちに過ぎていった。
 愛した娘との大切な時間。それは噂に端を発する疑念を晴らすために使うには、あまりに惜しいものであったから。

 セティの立場で無い時間を作るというのは困難なことだ。
 彼が全ての行動を早めるだけでなく、周囲の人間も行動を早めるように、導かねばならないからだ。理由が妻とも時間を作るため、では協力は仰げないし、急かすわけにもいかない。

 セティは口調を早める、無意味な相槌を増やす、その場に相応しくないことには眉をひそめるなどして、さりげなく他者の行動を急かした。
 結果、半日は無理であったが、それでもまだ陽の高いうちに、自由な時間を作ることができた。
 彼が後宮に彼女を迎えにいくと、身支度を終え、護身用の剣を携え。あとは出かけるばかりといったリーンが笑顔で出迎えた。その笑顔だけで、頑張ったかいがあったとセティは思う。

「嬉しい、本当に時間作ってくれたんだっ!」
「ああ……」
「じゃ、早速行こう!」

 セティの腕を引く。
 リーンの衣装は、首から足にかけて身体を隠す外套だった。だが、動けば、袖口から金の腕輪が覗き、首筋から儒子の布が見える……。
  セティは震える手を、リーンの外套の留め具に伸ばした。
「え……? ちょ、これから出かけるんだよ……?」

 外套の下は、薄紅色の衣。セティは低く声を掛けた。
「リーン……」
「……ん?」

 彼を出迎えた時と変わらぬ笑顔で、リーンは首を傾げた。セティは何度となく手を組み直した後、口にした。

「……この衣装は……何だい?」
「……? 舞踏用の衣装よ?」
「それは、わかっている。忘れるはずがない。私は……踊っている君を、とても綺麗だと思う」
「……やだなぁ。真顔で言わないでって言っているでしょ、いつも……」

 頬を染めて、リーンは俯く。
 ……愛しさが込み上げ、抱きしめずにいられない可愛い仕草。だが、今回に限っては、セティは複雑な面持ちでそのリーンも見ざる得ない。

「リーン」
 再び新妻の名を呼び、息を吐く。
「私は……頑固な夫ではないと言ったはずだが」
「うん」
「リーンが踊りを踊りたいというのなら、反対するつもりはない、が」
「うん?」
「少し、傷ついたかな。前もって、一言欲しかった」

 リーンはしばらく考えた後、鏡に自らを写しながら言った。

「あ、あたし……王妃だから、皆の前で踊ったりとかしたら、いけない……とか? あたし……もう何度か踊っちゃったよ」
「……皆の前で踊ることがいけないとは言わないが」

 冷静に考えれば、国の祝典などの大舞台ならともかく、あるいは城内でならともかく、街中で、王の妃である女性が踊りを披露するというのは褒められた行為ではない。前代未聞と言ってもいい。だが今は、そのようなことは気にならなかった。

「で、でも、あたし、自分のこと王妃だ、なんて言ってないよ」
「……リーンは、立場を偽ってまで、踊りを踊りたかったのかい?」
「最初は、広間で遊んでいた子供が踊りの練習をしていたから、少し、教えてあげていただけだったの。でもお手本を見せているうちに人が集まってきちゃって。皆、もっと見たいって言ってくれて。元気が出るって言ってくれて……そ、それからねっ……」

 リーンらしいとは思った。
 雪で塞がれた町だ。リーンの踊りのような、春の陽射しを感じさせてくれるものに元気づけられる民を責めることはできない。もう少し予算、時間的に余裕が出てきたら娯楽施設を充実させよう、と王としての彼は考えた。だが、1人の男であり、リーンの夫であるセティは、リーンが街で踊りを披露していたという事実が、面白くなかった。

「それで、請われるままに、踊りを披露したと……?」
「う、うん。そうよ……それで……」
「リーン。君は私に言ったね。踊り子は辞めると」
「うん……」
「君が踊り子を続けたいというなら、それでも構わない。だが、一度した宣言を撤回する以上、私に一言あってしかるべきではないのか?」

 早口に言ったセティの言葉を、リーンは頭の中で反芻しているようだった。
 そして、彼の言いたいことを理解したのか、セティの目を真っ直ぐに見て、ゆっくりと口にした。

「……あたし、踊りをやめるとは言っていないよ。踊り子を辞めるとは言ったけど」
 詭弁だと思い、セティは言った。
「同じことだろう」
「……」

 リーンの瞳が動きが止んだ。口許には自嘲ぎみな笑みが浮かんでいた。セティは己の迂闊さを呪った。

「いや……違う、か」

 職業としての踊り子は色眼鏡をかけて見られる存在だ。薄い衣装で申し訳ない程度に身体を隠し、性による魅力を売る。引き換えに金を得る。
 リーンはずっとそうやって生きてきた。
 踊り子を辞めるということは、その生き方を変えるということ。世間から後ろ指を差される存在であることをやめるということだ。踊りそのものをやめるというのとは、確かに違う。

「違う……でしょ。あたし、踊りそのものは……嫌いではないもの。セティさまは……あたしに人前で踊って欲しくない……?」

 嫌いではない。それが、リーンの精一杯の言葉だ。
 セティは、彼女の口から踊りが好きだという言葉を聞いたことはない。言わないのではなく、言えないのだ。 彼女の意思とは関係なく。踊り子を選んだ自分に、否定的であるから。踊りが好きだということは、言葉で聞かずとも見ていればわかる。だが言葉にはできない。それも失われた恋の傷跡ゆえなのだろう。

「いいや。だが……」
「だが?」
「やはり、王妃という身分にある以上、むやみやたらに踊りを披露するのはどうかと思う……いや、それよりも」

 セティはリーンの手から、優しく外套を取り上げた。リーンの繊細な心を包む込むように、白の上衣を一枚掛けてやる。そのまま妻の細い腰に手を添える。

「私以外の男に、肌を晒して欲しくないな……」
「もう、セティさまったら……独占欲強い……」
「私はこういう男だよ」
「知っているけどー」

 リーンはまんざらでもなさそうに頬を染め、セティの熱のこもった手に、己のそれを重ね合わせた。

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