私は最初、耳を疑った。
 目の前の女性は細い。物腰にも品がある。はっきり言って、大食いにも、大酒呑みにも見えない。
 私は、自分で言うのも何だか、食べるほうだ。酒だって、いける口だと思う。

 その私と同じでいいのか? 本当にいいのか?
 私は細い。素性を考えれば、それなりに気品というものもあ る……のかもしれない。だから、女の自分と同程度しか食べないだろう。彼女が誤った判断をしたとしても不思議はない。

「私は今、かなり空腹です。多めに頼むつもりなのですが」
 控えめに、貴女が食べれる量ではないと忠告をする。彼女は口元に笑みを浮かびつつ頷いた。
「ええ」
「あの……でも、女性には食べきれないと思いますよ」
「……大丈夫、だと思います」
「……頼みすぎたのを私のせいにはしませんか」
「しませんよ」

 私は上体を乗り出し、その女性の目をじっと見た。
 女性は私の目をまっすぐに見返した。
 彼女の目尻が柔らかく緩んだ。ヴェールに覆われて素顔が見れないのが、残念な気がする。だが、その瞳だけで彼女の美しさを知るには十分ともいえる。
 覗く紫の瞳は潤んでいて、艶っぽかった。神秘的な瞳に吸い込まれそうになった。

  私たちはしばらく視線を交わしていた。やがて彼女は気恥ずかしげに目を背けた。そのしぐさがなんだか可愛くて、私は彼女のことを少し理解した気になった。
  おそらく彼女は旨いものに食い飽きている貴族の令嬢なのだろう。
  最高の食材を利用した、一流の料理人の手づからの料理。朝も昼もおやつも、最高級。 夜毎に開かれる晩餐会を渡り歩き、名家の選りすぐりの料理人による各国の名物料理を存分に味わう……。

「貴女がそうおっしゃるのなら、頼みますよ」
「はい」
「私もここの店は初めてなのですが、美味しいといいですね」
「ええ」

  想像するだけで口の中を唾が満たすような素晴らしき食事の数々も、毎日毎日食べていれば、飽きもするはず。私も干肉や塩スープは嫌いではないが、旅の途中そればかり食べていたので、肉を掴んだだけで味をすっかり想像できてしまう。食べられることをありがたいと思う反面で、やはり物足りなさを感じる。体を生かすためだけに摂取しているという気持ちになるからだろうか。同じような食事は、大好物であっても、いくら美味なものであっても、くり返し食べれば飽きてしまうのだ。安定した生活は、未知の味への期待や意外なところで超珍味に会えた喜びとは縁が薄いもの。何でも食べられるお嬢さまが、新たな味を求めて、ついに庶民の店に足を運んでみたいと思うようになったとしても、不思議なことではない。
 間違いない。彼女は味を求めることに熱心な令嬢。勇気を奮ってこのお忍びを決行し、またとない機会にさまざまな味を経験しておこうと考えているのだ。絶対そうだ。

  そうとなれば、話は簡単だ。彼女の一途な望みを妨げる権利は誰にもない。 私は手を叩いて、忙しそうに働くメイドを呼び止めた。
「注文を頼む! まずは……そうだな」
 彼女は顔を伏せたまま、私がメニューの三分の二を読み上げるのを聞いていた。

「へい、おまちっ」
 私と彼女の本当の夜は、料理とともに運ばれてきたと言ってもいい。 最初に運ばれてきた野菜の塩づけと米の冷酒を口にした瞬間、二人は声を合わせた。はじめて心が交わって瞬間だったのかもしれない。
「おっ」
「あらあら……っ」

  野菜の塩づけは無難な味だったが、米の冷酒はかなり、かーなりいい味だった。 口あたりはほどよく甘く、冷たい。喉ごしはさわやかだが、ほろ苦い。そして、胃に入った時の微妙な熱……。酒を飲む喜びがここに! といってもおおげさではない美酒だった。 私はグラスを満たしていた半濁液を飲み干した。そして、ためらいもなく、追加で注文を出した。

「これを、もう一杯頼む!」
「あ、私も……っ!」

 香ばしい匂いのシシカバブとともに運ばれてきた二杯目の酒を、私たちはかざした。
「君の……」
  瞳に乾杯! と言いたくなるのを私はこらえた。彼女の瞳は思わずそういいたくなるくらいに、奇麗だったから……。いや、瞳だけではない。食べるために顔面を覆う布のほとんどを剥がした彼女の顔は、想像以上の美しさだった。だが、それはさすがに照れ臭いし、古臭い。

「君の……」
 何か、それに代わるいい言葉はないかと思いつつ、彼女を見る。何より強烈なのは、その紫の瞳の印象……。その次には、そう。その豪快な……。
「飲みっぷりに乾杯!」
「……貴方の飲みっぷりも素敵よ」

  グラスを合わせる音が、笑い声とともに鳴る。
  私たちはその音が合図であるかのように、十人掛けのテーブルより多い量の食事と酒を口にしはじめた。
「お芋の唐あげ、美味しいわ。口の中で崩れる感じがいい」
「ああ、旨い。菜っぱのおひたしもいけるな。素朴な味だ」

 彼女の飲みっぷり、食べっぷりはこれまで出会った誰よりも素晴らしかった。 品なく、ただ口に詰め込むさまが早いとか、そういうことではない。姿勢を正したまま、骨付き肉であっても決して手掴みにはせず、ナイフとフォーク(わざわざ持ってきてもらった)まるで晩餐会での食事のように、酒場の素朴な珍味を食していく。天性の気品とは、食べる時であっても褪せないものだとしきりに感心したくらいだ。味わうことだって、もちろん忘れていない。私が『おっ』と思うような美味に大しては彼女も同じように、眉を動かしたり、頬のあたりを緩めたりして、美味しいと感じていることを現している。
「これも少しすっぱいけれど、美味しいわね。香料がきいている」
  言葉にすることもある。 しかも口に物を入れながら話すようなことはしないのに、食べるスピードに影響がない。箸休めに話をしているのではないかもしれない、と思いつつも、悪い気はしない。私も似たようなものであったし。
「こんなに美味しいものばかり食べられて、今夜は幸せだわ」
「そうだな。幸せだ」
「この店、また来たいわ」
「私もそう思う」

 気の向くままに小料理を注文し、酒を存分に飲み、ようやっとメインとして注文したマンスター四季御膳が届いた時には、私と彼女はすっかり打ち解けていた。食べることに夢中になる以外の理由で、会話が途切れることはなかった。
  マンスター四季御膳は色彩豊かな弁当だった。九つに区切られた漆塗りの箱に、煮物や魚の照り焼き、栗ご飯など、上品に詰め込まれている。量としては多くはなかったが、すでに色々なものを食べた後に、ゆっくりと御膳を味わっているうちに、腹は十分以上に満ちてきた。彼女も同じだろう。メニューを見つつ、隣のテーブルに並ぶ食事を物色しつつも、追加で注文を出そうとはしなかった。
  さすがにあれだけ食べればな……と思いつつも、ではそろそろ勘定を……とはどちらも言い出さなかった。

 もっと、色々なものを食べたい? 悔いがある? 当然のことだが、それもある。キムチ鍋を始め、気になるメニューは山のようにある。メニューがこれでもかとばかりにバラエティー豊かで、しかも味が高ランクなのは素晴らしいことだが、程度の問題である。これでは、足蹴く通わざるを得ないではないか。

「私は……また、この店に来ることになると思う」
 神妙な顔つきで言う。彼女は頷いた。
「……そうね。多分、私も……」
「では、また会えるだろうか」
 
 彼女と食事をするのは、楽しかった。
 ずっと、一緒に食事をしたかった。
 私をこんな気持ちにさせた女性は、過去にいなかった。
 彼女も同じだという確信があった。これっきりにはしたくなかった。
「……そう、ね……貴方との時間は楽しいから……そうできたらと思う。でも」
「でも……?」
「約束は、できないわ」
「何故!?」

 私は身を乗り出した。彼女は首を横に振る。

「私は……長くこの街に留まる人間ではないから」
「それは私も同じだ」
「……明日には、マンスターを立つかもしれない」
「……私だって、同じだ。目的を果たせば……」
「目的……」
「ああ……私は……」
 父を探して旅をしている。隠すほどのことではない。その父がエッダ家長クロードである、ということはともかく。だが彼女は、言わなくてもいいとばかりに首を振った。
「……家族を探している。そうでしょ?」
「!? 何故それを……」
「……なんとなく、そんな気がした……そういうことにしておいてもらえる?」
「……なんとなく……?」
 彼女はその白い手を私の口の前に翳した。言及はしないで。彼女の意思は伝わってきた。私は、衝動的にその手を掴んだ。

「……!?」
「!!」
 彼女に触れた瞬間、だった。
 私の……おそらくは、彼女も……内部で何かが弾けた。
 魔法を発動させたのではないのに、体から魔力が飛び出し、空に散る。
 それから。聖痣がある鎖骨と胸の間が奇妙に疼いて……。

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