それはまるで、血が沸騰するかのような不可思議な感覚だった。
 熱く、冷たく、重く、軽い。まるで本来同一であってはいけないものが、同じであろうとするような。
 私は幼き日に、近い感じを覚えたことがある。
 あれは……シレジア王たるレヴィン陛下が私を抱き上げた時のことだ。
 そうだ。異神の強い血が触れ合った時、稀に起こる現象だと聞いた……。

「似ていないから、もしや違うのかも、と思っていたけれど……」
 先に触れあった部位を抑えながら、彼女は呟いた。
「え?」
「やはり……貴方は……あの子の……」

 何かを確認するかのように、私を見る。
 私はこみ上げる疑問と疑惑を抑えるのに必死だった。

 貴女は、誰だ。
 この店を選んだのは腹の虫が鳴ったからだ。食欲の起こした偶然としか思えない出逢いすら、もしや仕組まれたものだったのか?
 そして……楽しげに食べ物を口にしたのは! 全て演技だったのか?
 喉元まで出かかった言葉を、口にすることはできなかった。

「こんなところで出会えるとはね……」
「貴方……は……?」
「……血が、呼び合ったのかしら」
「貴方は……」
「……」

 私の瞳の少し下を凝視して、淡々と意味不明な言葉を紡ぐ彼女は……とても寂しそうに見えた。
 だから、何も聞かないことにした。

「私、おかしなことを言ったわね。ごめんなさい」

 私は頷いた。それしか、できなかった。
 私たちは、偶然出逢った。仮にいずれ出会う宿命にあったとしても、今日ここで出逢ったのは違う。言い聞かせるしかできない。  
 そうしなければ、楽しかった時間すら、無に還ってしまう気がしたから。二度と会ってもらえない気がしたから。
 私は彼女と、また会いたかった……。

「……そろそろ、帰りますね……今日は楽しかった」
 彼女は立ち上がった。口許を拭き、手早く会計をすませると、店を後にした。私は椅子に座ったまま、天井を見ていた。その後、心の弾くままに立ち上がった。
 外は、深い夜となっていた。山に近い地域特有の大きな風が吹く中で、私は叫んだ。
「待ってください!」
「……」
「……貴女の、名を……名前だけでも、教えてはいただけないものか!」
 彼女は振り向いた。ヴェールの中から銀の束が一つ、胸元へと滑り落ちたのを、私は見逃さなかった。夜にあってこそ、華やかに輝く銀糸を。
 私は、既に彼女に恋をしていた。
 おそらくは神の血を強く引くのであろう女性の素性を知りたいという理由で、名を問うたのではない。
 ただ、別れをほんの少しでも引き伸ばしたかった。
 もしかしたらこれっきりとなるかもしれない女性の名を、ただ純粋に知りたかった。

「人に名を聞くときには、まずは自分からって言わない……?」
「! これは失念していました。私の名はセティ……」
 セティ。その名がエッダ直系であることを知っている人間は少ない。告げることに支障はないはずだった。

「そう……セティというの……」
「ああ……」
「私の名は……そうね……」
 手を延ばせば届く距離まで、彼女は来た。そして言った。私の反応を見逃すまいと顔を近づけ、名を口にした。
「……ティニー……よ」
「ティニー……」

 くすくすっ。形のいい口許が、笑う。小鳥のような声が、笑う。
 彼女はその身を半回転させ、私に背を向け……そして、小走りに去った。 
  銀の束の残像が、闇夜に散った……。

* 

 
 私と彼女……ティニーとの逢瀬は、出逢った酒場とその周辺にある店全てのメニューを食い尽くすまで続いた。
 ティニー。おそらくは、本当の名ではないだろう。
 彼女も、それを信じるとは思っていなかっただろう。
 私はそれを承知の上で、彼女のことをティニーと呼んだ。彼女は眉を少しだけ動かして、その名を受け止めた。
 本当の名ではない、それでも彼女にとって意味のある名前であるのかもしれない。そう思っていた。私はティニーの素性について訊ねることはしなかった。調べることもしなかった。何故ならば、知らないほうがいいと、心が、分かっていたから。

 彼女は会うたびに言っていた。
「貴方との食事は、とても楽しかった」
 と。過去形で。

 逢うたびに募る想い。美味しく楽しく食事をするたびに、逸る気持ち。打ち明けたかった。
 こうして、一生食事をともにしたいと、告げたかった。離れたくなかった。
 だけど、それはとうとうできなかった。

「ティニー、私とずっと、こうやって……」
「スープが冷めるわ」
「じゃがいものポタージュは冷めても美味しい」
「まあ、そうなの?」
「ああ、ビシソワーズと言って、暑い時期には冷めたものを出す店もある……」
「詳しいのね。こっちのお料理も、冷めても美味しくいただける?」

「茄子の一本漬けって飲み屋の定番よね、美味しい」
「君となら、何を食べても美味しい……」
「ふふ。ありがと、私もそう思うわ」
「だから一生こうし」
「その続きは言ったら駄目よ。……ね、もう一本頼まない? きゅうりのほうがいいかしら?」

 彼女は私が愛を告げようとするたび、明後日の方向に話を振ったり、首を振ったりして、それを制したから。

 出逢いから三月。マンスターの領主交代と時期を同じくして、彼女は酒場に現れなくなった。
 領主交代を促したのは、私だ。私一人の力とは言わないが、少なくともその一端を担った。つまり、彼女と会えなくなる要因を作ったのは、他ならぬ私自身なのだ。ティニーはマンスターを支配するフリージ公家の娘だったのだ。

 マンスターには、父に関する情報はなかった。それならば国に帰るなり、危険であるがもっとも父の情報に近いであろうグランベルはエッダ公国に足を入れるか、するべきだとわかってはいた。
 だが私は、マンスターを去ることはできなかった。
 酒場で、彼女との逢瀬を続けたかった。だがそれは私の生まれでは許されないことだ。国に残した母と妹のことも、指導者のいないシレジアのことも、気にかかっていた。彼女に別れを告げなくてはいけないと思っていた。
 そんな折、高額の税金や子供狩り、働き手の強制的な従軍……急速にあってはならないことを次々に行っていくフリージから街を護ろうとするレジスタンスに、力を乞われた。私は聖戦士の血を継ぐものとしてこれを拒めなかった。……それを理由にして、マンスターに残った。

 私は寄せ集めの志願兵を指揮し、子供狩りを遂行する軍人を闇に屠っていった。そうこうしているうちに、杖の勇者……風の勇者と呼ぶ声もあったが、それはレヴィン陛下より両親の結婚祝いに贈られた風の低位魔法ウインドゆえだろう。使い込まれたそれは、戦場で実力以上の力を何度となく発揮させた……と呼ばれるようになっていた。広範囲の人間を癒すリザーブ、任意の場所に個人や物を転送するワープ、遠距離から特定の個人を引き戻す高位魔法レスキュー。これらを使えるということ、所持しているということ。それは、常に緊迫した状況にあったマンスターにおいて攻撃系の神魔法を扱える以上の効果をもたらした。
  救いの力に恵まれた私の尽力と、以前の領主イシュタルが子供借りには積極的ではなかったことから、マンスターでの子供狩りの被害は他の地域に較べて少なかった。それが、帝国の腰を上げさせる結果となり、より残虐な代理公主を招いた。
 そして、イシュタルと……それに付いていたのであろうティニーは、マンスターを去ったのだ。  

 そう。彼女はティニー。仮のものである可能性の高い名であったが、彼女が残した素性への手がかりであることに違いはなかった。
 彼女が最後に酒場に現れた日から半年。ようやく私は、彼女の素性を調べることを決意した。
 ティニー。銀の髪の、神の血を強く引く、高貴な令嬢……。
 答えを導き出すことは容易ではなかったが、といって、難しいことでもなかった。
 トードの直系たるフリージ公家に、ティニーという女性は存在したのだ。公然の秘密として。
 シグルド軍に荷担した、ブルームの妹ティルテュの娘。
 父親については、公女自身が明かしたことはないらしいが、エッダ家長クロードの子であるという説が濃厚だと言う。
 ティルテュ公女は幼い頃より我が父を慕っていた。いつでもともにありたいと望んだ結果、解放軍に身を置いたと伝え聞く。事実は違うということを知ってはいるが、我が父との間が子を成す間柄だったと憶測が飛んでも全く不思議でない。彼女自身がクロードの娘だと思い込んでいる可能性とて、なくはないだろう。彼女が私を見る瞳は、態度は、兄に向けるものではなかったが……しかし、近しいものに向ける瞳ではあったと思う。あくまで可能性の話に過ぎないが、彼女の父親はシレジアのレヴィン王なのではないだろうか。同じシレジア人にして、同じく神魔法の継承者。そんな私を近しいものと認識した……。近い血を持っている、というようなことも言っていた気がする。フォルセティの継承者ならば、その存在を秘密にされるのも、ひそやかに匿うことも、納得がいく。神器の継承者を二人抱える家というのは、味方、敵、両方にとって脅威になるからだ。

 力はあっても、フリージにあって育てられた彼女は、家に従順だという。
 幼い頃からフリージ家の生活に慣らされてしまえば、逃ることなど、まして歯向かうことなど、考えることすら困難にもなるだろう。私と隠れて会うことは、家に対する、せいいっぱいの抵抗だったのかもしれない。両親の戦友であった、それも父と憶測される人間の息子に会うことは。
 彼女と逢う機会がある時に知っていたなら、連れて逃げられたのか? 彼女はそれを望んでいたのか? そうではなかったと思う。     

 ティニーは今、どこで何をしているのだろう? 生きているだろうか。ちゃんと、食事をしているだろうか。美味しいと感じているだろうか。

 フィーの緑の髪の向こう側。窓を外に広がる空を見上げる。
 彼女と、昼の空を見上げることは、一度もなかった。
 太陽の光の下で、彼女を素顔を見ることはなかった。私が知っているのは、ヴェールから覗く夜の顔だけだった。
 時折零れ落ちるのを目にするだけだった銀の髪が、豪快に風を受けるところを、見たかった。
 見たいと、思う。でも、そんな機会は多分訪れないだろう。再び会う機会があるかどうかも、わからない。 二度と会えない確率のほうが高い。万が一再会できたとしてもそれは戦場だろう。戦場での再会など、願ってはいけないことだ。 

 もしも、彼女がシレジア王女でもあるならば、解放軍に迎え入れる可能性もないわけではない……けれど。
 駄目だ。考えたらいけない。これは考えたら、いけないことだ。フリージは、敵。今の敵は、フリージの上層部。だから彼女は、敵と認識しなければいけない。マンスター解放軍のリーダーになってから、毎日のように心の中で繰り返している言葉を、声に出さずに呟く。
 フリージ上層部の人間は、敵。敵。敵だと考えなくてはいけない。マンスター解放軍のリーダーとして! それは、リーダーとして必要な心のありようだから……。と、ん? 待てよ。

「お兄ちゃん……?」
 明後日の方角を見て、首を振る私。それをふと止め、床に視線を落とし。考え込む私。
 フィーは首を傾げる。
「私は……もうマンスター解放軍のリーダーではない、のか……?」
 マンスターは、ひとまず解放された。レジスタンスと呼ばれたものたちは、今後は復興のためのボランティア団体になるのだろう。
 私は今後、セリス皇子の解放軍に参加する。その意思も伝えてある。
「? そりゃあ、まあ……マンスターは解放したもんね」
「そう、だよな……」
 光の皇子という旗印に集った一人。それならば……想うことくらいは、許されてもいいのではないだろうか。
 甘すぎる。わかっている。しかし、敵に所属する者全てを憎む必要はない。それはそうだ。
 かつては敵であった者がこの軍には多く参加しているという。彼らを受け入れているからこそ、セリスさまの解放軍はこれほどの規模になったのだ。だからといって、優しくて甘すぎる気持ちを、武器を持って相対する人間に対し抱いてもいいのか? 敵の中枢にいる人間に? いや、彼女は好んでフリージにいるワケではないから、熱意を持って接すれば優秀な味方に……。
 いいや、もうこの際、理屈はどうでもいい!
 私は彼女を想いたい!! 敵であってもいい。報われなくてもいい。私は彼女が好きなんだ!!
「お兄ちゃん? いきなり何ー。痛いよっ」
「……」
 己の中を、不慣れな感情が駆け巡っていた。
 恋らしい恋だけじゃあ、ない。自分勝手に振舞うことに、私は慣れていない。私はこれまで、己の気持ちすら、責任で封じ込めてきた。我侭な感情を、彼女への恋を、言葉にしたことはなかった。今日はじめてそれを、ほんの少しだけど、言葉にして……そして、今、想いの封印が解けかかっている。

「もう、お兄ちゃーん」
「あ……すまない」
 私は、フィーを力いっぱい抱きしめていた。
 人の体温が、無性に恋しかった。
「……んもう……」
 フィーが、私の背中に手を回した。いい子、いい子と、背を叩く。フィーが泣きそうな時、辛そうな時、私はよく、こんな感じでなだめてやったものだ。
「そんなに、無理しなくていいんだよ?」
 その言葉は、絶妙のタイミングだった。
 私の瞳から熱い水が伝った。嗚咽が洩れた。
 今更、何が辛いのかわからなかった。好きだったのに、満足に告白すらできなかったこと。彼女が敵であること。再び会う確率が非常に低いこと……。色々ありすぎて、わからない。
「フィー、私は……私は……彼女のことがとても好き……なんだ……」
 私は、泣いた。フィーの腕の中で、夢中で泣いた。
 おそらく、今流している涙には、母の死への嘆きも含まれているのだろう……。

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