陽光の下で



「じゃあ、あとでね兄ちゃんたち。ラガルトおじさんもねっっ」
 ベルン山頂にある古城。太陽の光を存分に受けて、ニノは手を振る。かかとで地面を叩く母の元へと走る。
「早くなさい。クズな子……」
「ご、ごめんなさい」
 黒き髪の美女ソーニャはニ年前、黒い牙に現れた。今では首領ブレンダンの愛人に収まっている。結婚の話も持ち出されている。兄弟の母である妻を失ってからブレンダンは女を身近に置こうとしなかった。後添えを貰うことは、むしろ二人が奨めていたことだった。黒い牙の方針に口を出しすぎる素性の知れない女。望ましい相手とは言いがたかったが、首領の言葉に異を唱えないのが組織の暗黙の了解だった。
 ライナスは豪快に手を振り返し、去り行く親子の姿を見ていた。二人が建物に入ったのを確認して言った。
 
「ニノは妹ってことになるんだよなぁ」
「そうだな」
「暗殺集団の首領の娘なんて、似合わねぇよな」
「ああ。できれば普通の生き方をさせてやりたいが」
 母親が許さないだろう。兄ロイドの言外の言葉を、弟が引き継ぐ。
「何であんな母親がいいんだろうか」
「……母親だからだろ」
 ラガルトがにべもなく言う。
 本当に、それだけに見えるのだ。
 母親といることで幸福とは思えない。ニノは他人といる時のほうがよほど寛ぎ、自然な笑顔でいる。何故、血の繋がりだけに執着するのか、ラガルトには理解できなかった。
「まあ、妹になったら、お前らが家族ごっこしてやればいいんでないの?」
「そうだな。あんな女が母親とは思いたくないけど、ニノは妹でいい」
 ライナスは自分の言葉に深く頷く。
「おれらが可愛がってやればいいよなぁ」

  人を殺していない。ニノは、黒い牙で、唯一とも言える存在だった。他に、歳の若い少女もいない。
 よく笑う、人懐こい娘。皆がニノを愛した。
 隣の人間が柔らかな頭を撫で、なにかと構えば、自分もそうしていいのだと思える。ニノを、幼い子供を慈しむことで、自身に残る人間らしさ再確認する。
 黒い牙で生きることは、それぞれが決めたことだ。それぞれに、理由がある。目的がある。
 ベルンの忠臣であったものもいた。田畑を耕し生活するものもいた。
 過去は違っても、未来は共通している。皆、普通に生きることはもはやできないのだ。粛清者である疾風はこれまで、牙の秘密を守るため、足抜けしようとしたものも屠ってきた。

「よし、ニノはお兄ちゃんが幸せにしてやるぞーっ」
「お兄ちゃんたち、な」
 拳を振り上げ吼えるライナスに、ロイドが訂正を要求する。ラガルトがちゃちゃを入れる。
「お前ら、あの子にすっかり参ってるのな。そういう趣味だとは知らなかった」
「違うっ!」
 狂犬二匹は、同じ表でラガルトに吼えた。大仰に肩をすくめて、一歩二歩と後退する。形の崩れた三人の輪から、笑いが転がり出た。

 汗を流し、あるいは頭脳や手先を使い、日々の糧を得る。家に戻れば、人を殺したことのない妻と、無垢な子供が迎えてくれる。大陸に住む多くの者の生き方、幸福。牙の者には、手に入れることは叶わぬもの。
 しかしニノだけは違う。彼女は何も知らない。闇に染まっていない。
 だから、光の場所でも生きていける。
 だからこそ、皆がニノを愛す。奥底に眠る望みへの守唄として、彼女の幸福を願う。
 ニノは、幸せに。ニノだけでも、普通に、幸せをと。


*

 湿気を含んだ潮の匂い。船に波が当たる煩雑な音。そして、眩しすぎる太陽の光。
 背面には魔の島。全ての仇が住まいし場所を去る。
 ライナスの死を持って、黒い牙の完全に壊滅した。もっとも、ソーニャがブレンダンの後妻に納まった頃には、すでに崩壊は始まっていたわけだが。
 ロイド、ライナス。ウハイ。ブレンダン。……それから、アイシャ。
 ここ数年で、ラガルトは多くを失った。だが生きている者もいる。ヤンを始め、各地に散った仲間もそうだ。
 そして、身近にもいる。二人。
 太陽の光が似合う少女と、闇の奥深くに在った少年。
 少年は生まれて初めての感情で少女を愛し、全てを失った少女には誰かを愛することが必要。
  彼らは二人で生きていくだろう。どこでどうやってかは知らない。彼らの行く末が少しでも明るいものであればいいとは思う。
 消えていった仲間たちの分も生きて欲しい。特に少女は、彼の中で牙そのものとも言えた親子が気にかけ、平穏な幸福を望んでいた。
 
 黒い牙はもうない。壊滅までは付き合えなかった。悔恨の念はない。ただ最期まで在れなかったという事実だけが胸に残っている。
「さーて、オレはどうするかねぇ」
 ラガルトはナイフと研磨石を取り出しながら呟いた。
 その時、丁度思考の中にいた少女が、小さな体をいっぱいに広げて小動物のように寄ってきた。新緑の髪と、身を包む紺の布地が潮風にはためいている。

「いたいたっ。ラガルトおじさーん!」
「うん……? ああ、ニノか」
 おじさんという呼び方に引っ掛かりを覚えつつも、もはや訂正する気も起きなかった。
 いずれ他の人間からもおじさんと呼ばれようになった時、この少女のことを思い返すかもしれない。それも悪くないかと思った。
「探してたんだよ、お部屋にも台所も宝物庫にも行ったのに! 甲板に出てるなんて盲点」
 部屋はともかく、残りの二箇所はオレのイメージか? と眉を顰める。
「そうか? 海風を浴びるおじさんってのもさまになるだろ?」
「うーん、どうかな。海より山かなぁ。だっておじさんに会う時はいつも山の中だったから」
「そりゃ、牙のアジトが……っと、まあそれはともかく、何か用か?」
「あ、うん。あのね、この間の話なんだけど、その」
「どの話だ?」
「身の振り方……の話」
「ああ」
 手を何度も組み替え、か細い声でいうニノ。ラガルトはナイフを研ぐ手を止めた。
「それがどうした」
 表情を引き締め、硬い瞳でニノを直視する。
 ラガルトおじさんと一緒に行きたい、そういうのなら、再び突き放さねばならなかった。
 
「……あたし、その……あの……あのね……」
 頬を染め、口の形が音を出さずに言う。一緒に……。
 ラガルトは大体のことを察し、続けた。
「一緒に暮らそうと言われたか」
「……! ど、どうしてわかったの?」
「おじさんは何でも知っているってね」
 ラガルトの脳裏に、黒い牙の死神……否、元死神の言葉がよぎる。
 自分が死んだら二ノのことを頼みたい。命を落とす危険があっても二ノと生きたい。二ノは守る……。
 ジャファルは強い。言葉通り、彼女を守るだろう。
 だが、二ノが継いだ言葉は、彼の予想とは違うものだった。
「あたしは……」
「ああ、行き先は言わなくていい。お互い、知らないほうがいいだろ」
「……ど……」
 どうして? 無邪気にそう尋ねるかと思った。
 二ノは言わなかった。
「うん、それでも……いつか、どこかで会えるといいなって思ってるよ。ラガルトおじさんとも、それから、ジャファルとも」
「そうだな……」
 己の思考が待つ言葉に頷いた後、反芻し、思わず口を開ける。
「……って、は?」
 ラガルトは鑢を手から溢した。二ノが拾った。
「あー、ニノ。お前さん、誰と暮らすんだ?」
「エルクさんと」
「……あの魔道士の坊やとか……何だってまた……」
「魔道士じゃないよ、もう賢者の称号もとってるんだから! 坊やでもないよ」
「はは。じゃあ賢者のエルクさん。まあ、それはともかくエトルリアの大貴族んとこにやっかいになるのは、いくらなんでもまずいだろ。貴族ってやつは詮索好きで、素性の知れないやつを嫌う。お前さんが有能な弟子になるほど、まずい」
「……うん、エトルリアには行かないよ。リキアのどっか……そのくらいは言ってもいいよね? でね、二人で暮らすの」
「そうか。しかし驚いたな。二ノとエルクがねぇ」
 よく話をしているところは見かけたが、一緒に暮らすことまで考える仲だとは想像だにしていなかった。まさか、エトルリア大貴族の後見を持つ未来の明るい少年が、元黒い牙の二ノとの未来を考えるとは。
「うん、あたしも驚いた。でも嬉しかった」
 そういって笑う二ノは、少しだけ大人びていた。

 今のニノは、二年前のニノとは違う。たった一年とはいえ、首領の娘だった。何も知らない子供ではない。仕事も、請けた。
 黒い牙は、平和の訪れとともに消滅を望まれる。どれだけ言葉を飾っても、人を殺しすぎた集団、殺せる人種なのだ。その一部が世に残れば、まともな人間は安穏な生活が脅かされると忌避する。ここ一年の上客、暗殺を依頼した貴族たちは、自らの罪の露見を恐れ牙を言葉なく裁くであろう。
  壊滅し、絆や掟に縛られぬ牙の秘密は、容易に外に漏れる。元牙、リキアの側についた裏切り者、疾風、死神……そして首領の娘の存在は、遠からず世に出る。ニノの客は、一人だけ。だがその一人は、大陸に二人といない最上の客だ。

「あたしは元気でやっていくから、ラガルトおじさんも元気でね」
「ああ」
 だが二ノは幼い。子供の成長は早く、変わっていく。
 五年、十年と経てば、あどけない笑顔の似合う元頭領の娘二ノはいなくなる。それまで、無事にやり過ごせばいい。そう難しいことではない。
 だから言った。彼女の頭に手を乗せて。
「よかったな」
「うんっ」
 太陽の光を浴び、はにかんだ笑顔を浮かべる少女。黒い牙としての影はない。
 もとより彼女には影はない。
 彼女は影の中、限りなく日向に近い場所にいた。
 ニノの笑顔は真逆、影のもっとも濃き部分にあった死神を浮かばせる。

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