本日の一言   

2003/1/11

新市にのぞむ新春シンポジウム

  《意見発表をすることになって》
 「市民意見の発表者の方々は、13時半までに会場へお越しください」
予めそんな電話を受けていたので定刻に間に合うようにと清水市のテルサホ
ールへ出向いて行った。開会は14時からの予定であった。
 会場に到着してみると、受け付けコーナーに私達のための窓口があり、市
の係員の方々が親切に応対、名を名乗るだけで早速控え室へと案内された。 
そして「これが本日のプログラムです」といって印刷物を手渡された。

 

 その表紙をめくってみると本日の式次第が書いてあり、市長の挨拶の後に
市民意見の発表者の名が連ねてあり、私の出番は4名中の3番目だった。
 ちょうどそれを読み終わった頃、「この会場は500名入ることになって
おり、本日もほぼ満席の見込みです。皆様方には5分前にはステージ脇の椅
子へご案内しますので…」と、そんなご説明があった。そしてその時、清水
市の宮城島市長がドアをトントンと叩き、この控え室に入って来られた。

 「皆様、ご苦労さまです」−−そんなねぎらいの言葉を受け、すぐ歓談タ
イムとなった。市長のざっくばらんな話し振りがその場の雰囲気となった。
 もっとも、大方は市長の話を聞くだけだったが、その話の中で「清水市の
ミカンが有名になったのは明治の初頭の頃、法改正が出来たからですよ」と
その当時のエピソードが紹介された。法改正があったからではなく、法改正
が出来たというところに耳をそばたてて聞いていると。−−

 「当時、わが国の大臣が清水市に来られ、市民が”あの山にミカンを作り
たい”と申し出たところ、”それはいいことではないか”と、早速、法手続
きが行われ、以来、清水市の農業発展につながった」という趣旨であった。
 市長にとっては先人達の偉さの説明だけだったかも知れないが、私にとっ
てはズシンとくる重さと価値があった。この話は後で触れることになるが、
私がここで述べようとするプランも実は法改正を要していたからである。



《いよいよ登壇》
 やがて開会、私達はステージの脇の椅子に着席していた。
会場はシーンと静まりかえり、司会者の説明がたんたんと続いていた。
その時、同席の方から「ここはまだ新しい所ですから床が滑りやすいので気
をつけた方がいいですよ」とのアドバイスがあった。
 全く気のつかなかったことだけに「これはいいことを聞いた」と軽く感謝
の会釈をし、ステージを見つめ直した。とてもきれいだった。

 そして、市長の手馴れた挨拶があり、いよいよ私達の番となった。
一番目、二番目共、ムダのない上手な説明であった。よく見ると手元にきち
んとした原稿があり、それをさりげなく読んでおられるようだった。
「しまった、あのようにしなければならないのか」−ーと一瞬不安になった
が今更間に合わない。なにしろ、こちらはレジュメを一枚持っているだけだ
ったから、時間配分がうまくとれるかどうか、急に心細くなってきたのだ。

 その時だった。わが名が呼ばれた。
「滑らないように、それでいて堂々と歩くように…」自分にそう言い聞かし
つつ、会場の中央へと向かった。
 考えてみれば、この2つの相反した行動をすることは結構難しいことであ
る。何しろ大会場のことだ。手の動かし方、目線の置き方だって気になって
くる。でも、そんなことは気にするなと自分に言い聞かしつつ歩んでいく。

 壇上のマイクの前に立った時だった。まずは何気ない表情でストップウォ
ッチを取り出しスタートボタンをぐっと押した。10分間の持ち時間を意識
するためであった。
そして、頭をちょんと前に下げ、自分の居住地、氏名、若干の経歴などの自
己紹介をすることからスピーチをし始めることになった。
 前面には、後方へせりあがった形の椅子席が並び、人、人で一杯だった。

《発表の開始》
 「私がここに立ちましたのは、実はわがファミリーから背中を押される形
で出てきたものでございまして…」と、まずはその弁解めいた説明をした。
 というのは、この催しとは関係なく、たまたま私が”日本平の夢の開発プ
ラン”という本を書いていた(2月末発刊予定)いたところ、それを知った
ファミリーから「折角、こういう会が催されるならば黙って発刊するよりも
発表しておくべきよ」と、私にそそのかしてきた経緯があったからである。

 さて、それからが本題だ。まずは、私の主張の前提条件を説明する。
「新しい静岡市は、これからの地域間競争時代に勝ち抜く基盤作りが第一で
ありまして」と切り出し、静岡市の特性や高齢社会の話に踏み込んで行く。
が、ここで会場全体を眺めてみると大方はスーツをきちんと着こなした役職
者風の年令の人達ばかり。ーー「ハハァ、これなら前提条件はさらりと流し
た方がいいな」ーーそう思って前段階の部分はピッチを早めることにした。

 とはいえ、「今は中国を始めとした低賃金国の影響で、わが国はデフレ不
況に陥っていますが、これはかっての日本と欧米の関係と同じです。それを
想えば、日本人がハワイへ憧れたように、東南アジアの人々も将来は大いに
稼いで日本へやってくるのでないでしょうか」という部分は強調する。
事実、私達も安月給で働き続け、その上で海外旅行にも出かけ、身分不相応
の消費もしてきたからである。

 「しかし、そのためには受け皿作りをしなければなりません。静岡市なら
ではのよさを生かし、更に時代の流れも生かしつつ、オンリーワンでかつイ
ンパクトのある施設・環境を整えておく必要があるのではないでしょうか」
ーーと、ここで私なりの基本的な問題を提起してみる。
「その通りだ」と頷く人もいれば「観光客の誘致だろう?そんなことはわか
っているが、実際には来ていないじゃないか」といった表情の人もいる。


《日本平夢の開発プランへ》
 そこで、「ハワイだって”トリスを飲んでハワイへ行こう”といった販促
キャンペーンがあり、また”憧れのハワイ航路”といった歌謡曲もありまし
た」という例も紹介する。ソフト面での「その気作り」の必要性だ。
 つまり、オリジナリティの高い施設と環境を整えながら、もう一方では相
手国の人々が「ぜひ、日本の、しかも静岡市へ行ってみたい」という意欲が
湧くよう、マーケティング展開をしようという訴求だった。
                  
 そして、「そのために私はアクティブシルバーのための人生の満喫ゾーン
を日本平の一角に設置したい」と具体的な提案をする。”ハピラ計画”だ。
アクティブシルバーとは健康な高齢者のことであり、ここでは会社を定年で
退職した人達以降の人々を指している。ハピラとはハッピーライフの略だ。
「この計画は、地元、県外、国外の熟年層の人々が”長く働いてきてよかっ
た、これからは人生を大いに楽しもう”と感じるゾーンだ」とも説明する。

 では、具体的にどういったものか。−−ここからが本番だが時間の関係で
それが説明出来ないのが残念だったが、富士山へのビューポイントのあり方
とか、お茶の産地としての工夫などを一例として取り上げて解説する。
320区画に割り振った私の案のうちのほんの2〜3例に当たるものだ。
 でも、ここで私の著書の校正刷りなどを皆に提示し、「詳しくはここに書
いてありますが…」と補足もする。宣伝ではなくて立証の意味であった。

 そして、最後に法律問題にもふれる。「日本平は風致地区としての規制を
始め各種の法律がかぶさっており、現段階では殆ど開発が不可能だといえま
しょう。でも、だからといって諦めるべきでしょうか」と、ここで先ほどの
市長のエピソードを持ち出し、「市民の皆さんさえその気になれば法律なん
て変えられるものではないでしょうか。政令都市の指定に向かってそういっ
た問題意識を持つことも大事ではないでしょうか」と言い放つ。

 ついでに、自然保護や環境問題をも意識して「この開発プランは山頂又は
中腹の一角を利用するものであって、自然保護派の方々と共生・共存は成り
立つものだと思います」とも申し添える。
 私の述べているプランは極めて具体的なようなものでありながら、結構、
弾力的な構想であり、要は、日本平を世界一のゾーンにしたいと夢見ている
だけで、新しい静岡市が発展してくれればうれしいことだからでもある。

 そんなことを言いつつ、ふとストップウオッチに目をやると早や10分が
経っていた。そこで、慌てて「これからの施設は中途半端はダメ、金太郎飴
もダメ、今からは東洋一、いや世界一のものを作り、ダイナミックなものに
しよう、少なくとも後々メッカになるべきものを作るべきだ」と結んだ。
 その時にストップウオッチが演台からコロリと落ちたので、それを拾いな
がら「日本平への客を倍増、3倍増にしよう」と力説して、話は終わった。

                     2003,1,11(土)

 

 

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