リレー小説 〜Infinity〜


Usual Morning


 ピィィィーー。
 火に掛けられたケトルの薬缶が、甲高い音色を奏で始める。
 その注ぎ口からは、白く透き通る湯気がもうもうと立ち昇っていた。
 東の窓から差し込む白い光に照らしだされたその光景は、見慣れた日常の朝。
 ある種の慌しさを感じさせる温もりのようなものに満ち溢れていた。
「あぁ…はいはい、待ってね」
 少女は生野菜を刻む手を止め、薬缶を乗せたガステーブルのスイッチを捻った。
 10月初旬のやや肌寒い朝だが、立ち込める水蒸気により手狭なキッチンは「暑い」と錯覚させる程に温まっていた。
 せっせと朝食の準備に勤しむ少女─水代留美は、僅かに汗ばむ額を拭うと再びまな板へと向き直る。
 生野菜サラダに熱いコーヒー。
 その品目は典型的な若い女性の朝食といえた。
 レタスの葉、トマト、タマネギ……と、これまたお約束な野菜の数々を食べやすい一口台の大きさに切り分けると、それをやや小振りなサラダボールへと移してよく混ぜ合わせる。
 その上から一つまみのクルトンをふり、最後にオリーブオイルをベースとしたサラダドレッシングをたっぷりとかける。
「ふぅ、こんなものかな?」
 そう呟くと、留美は愛用のウェッジウッドのコーヒーカップに安物のインスタントコーヒーを注ぎ、リビングの小さなテーブルへと運び込んだ。
 そして、若草色のカーペットの上に置かれたムートンのクッションに腰を降ろすと、コーヒーを口に含みつつテレビのリモコンを入れた。
 テレビからは、どこのチャンネルでも似たり寄ったりなニュースだかワイドショーだかが流れてくる。
 何やら、内臓を抜き取られた殺人だかなんだか、おおよそ朝の話題としては相応しくないような内容が取り上げられているようだったが、どんなに悲惨な事件が起きようとも所詮はテレビの中の出来事に過ぎない。
 留美はとりたて気に掛けるでもなく、淡々と食事を済ませていく。

 水代留美。都内の某大学に通う大学1年生。
 やや茶色味がかった長い髪を結わえた、やや小柄な少女は誰からも愛される…そんな明るい性格であった。
 現在は親元を遠くはなれ、憧れの東京で一人暮らしをする一方、仕送りの面で親に負担をかけまいと、勉強とバイトを両立する毎日を過ごしていた。

 簡素な食事を済ませ、シャワーを浴びるべく用意をしていると、突然朗らかな音色が室内に響き渡る。
 16和音の電子音が奏でるその曲は、ニュルンベルグのマイスタージンガー。
 留美が好んで使っている携帯の着信音であった。
「まったく、この忙しい時間に誰よ……」
 と、携帯のディスプレイに表示された名前は宇田川稔。
 梅雨明け頃から留美が付き合い出した、同じ大学に通う同級生だ。
「はい、もしもし」
 少しだけ不機嫌そうな声で電話に出た留美に対し、稔は一瞬だけ戸惑いの色を見せたようであったが、いつもどおりのぶっきらぼうな調子で用件を切り出した。
─おう、夕方のデートの事なんだけどさ……
「えっ…もしかして来れなくなった……とか?」
 誰が見ても判るような落胆の表情を浮かべる留美。
 その心情は声にも表れていたのであろう。
 電話の向こうからは、慌てた口調で稔が応える。
─違うって。そういうわけじゃない。
 その台詞を聞き、留美の表情が僅かに明るさを取り戻す。
─実は急なバイトが入っちまってよ。悪いけどさ、直接会場に行っててくれよ。
「バイト、断れないの?」
─ああ、悪い。そういう事だから頼むな。
「うん。それじゃ、先に行ってるけど…絶対に来てね」
 拗ねた口調で念を押す。
─わかってる。絶対に行くから……それじゃな。
「うん。それじゃ」
 そう言葉を交わし、留美は電話を切った。
 そして、深い溜息を一つ吐くと、窓の見つめてそっと呟く。
「ま、仕方がないか……」

 二人はこの日の夕方に公演される、ミュージカル『オペラ座の怪人』を一緒に観に行く約束をしていたのだ。
 本来であれば大学の講義が終わってから、二人でゆっくりと会場に向かうはずだった。
 この埋め合わせに、高い夕食でも奢らせようかしら?
 心地よいシャワーを浴びながら、留美は意地悪げに微笑んだ。

 水代留美が体験する事になる、ひどく奇妙な一日の始まりであった。
 


 

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