リレー小説 〜Infinity〜
Odd's Eye Conductor
それから午後の講義1つを出席すると、留美は大学を後にした。
ふと時計を見上げると、時間は午後二時半を指している。稔との約束は夕方の五時だったので、時間的にはまだかなりの余裕があるといえた。
留美はその時間を利用して、久しぶりに独りで街をぶらつこうかと思っていた。
「最近は学校とバイトばっかだったから、たまには良いよね?」
そう小声で誰にともなく呟くと、最寄のアクセス駅へ歩調を上げて歩き始めた。
数分後、留美は日がな延々と回り続ける環状線の車内にあった。
首都東京の中心部を大きく環状に繋ぐJ R山手線。
外回り、内回りと称されるこの止まる事なき電車が、留美は上京当時からずっとお気に入りだった。
始めの頃は意味もなく一周乗っていたこともある程だ。
地元にいる頃はとりたて電車が好きという訳でもなかったのだが、どういう訳か東京に来てからは妙に気になり始めたのだ。
もっとも、都内に於ける電車のアクセスは極々当たり前の物であり、それほどまでに気に掛けるのは余程の電車マニアか好奇心旺盛な子供くらいなのだが……
それは留美にも分かっている。
だけど、この山手線に乗ると時折、不思議な感覚に襲われる事があった。
眩暈にも似た軽い昂揚感。
時には不快で、時には心地よい。
恐らくは、この閉鎖空間に留まる汚れた空気が、脳神経や感覚中枢になんらかの作用を与えているのであろう。
始めのうちこそは嫌な感じがしていたが、今ではそれは留美の密かな楽しみと化していた。
今日も僅かばかりの期待を抱いていたのだが、空調がいつも以上の働きをしているのか、生憎”それ”が訪れる事は遂になかった。
電車の心地よい揺れと、窓から差し込む暖かい光がその車内をまるで別空間のように演出している。
そんな光景の中、誰もいない車両で留美はひとり物思いに耽っていた。
思えば、今日は朝から色んな事があったものだ。
朝、稔からの電話。
結果、デートの予定(待ち合わせ)が一部変更。
通学途中、途方にくれた外国人に手を貸した一件。
そのお礼にと渡された、奇妙なネックレス。
昼食時、真夜の胡散臭い魔術犯罪理論講座。
その後に見た不思議な夢と、やたらリアルな幻聴。
どれもが普段はあまりない事象ばかりだ。
「……考えすぎかな」
そう呟くと、留美は何気なく車両内を見回してみた。
車壁の両側に設置された横一列に続く乗車シートには、留美がただ一人だけ座っていた。
そのはずであった。
だが、いつの間にか斜め正面に、グレーのフリースコートを着た痩せ型の男が座っている。男は手にした文庫本へとその視線を落としていた。
留美はふと疑問を感じた。
前の駅を出発した時には、確かに誰もいなかったはずだ。
おそらくは、別の車両から移動してきたのであろう。
だが、直線距離にしてわずか3メートル前後の距離だというのに、はたして人の気配に気付かなかったのであろうか?
そんなせん無き事を考えていると、ふと男と目が合う。
その男の目は右眼が深い暗緑色で、左眼が淡い金色をしていた。
両目の色が異なる、オッドアイと呼ばれるものだ。
猫などには比較的頻繁に見かけられるこの症状であるが、人間に発症する例は極めて少ない。
また、生まれつきの先天性である場合と、何らかの外的要因によって後から発症する場合とがある。そのいずれも視力障害であるので、見た目の美しさ程に喜んではいられないのではあるが。
初めて見るその不思議な双眸に思わず見惚れていた留美に、男は僅かばかり微笑むと、再び文庫本へとその視線を落とした。
「なんか、綺麗……」
留美のその微かな呟きは、彼女の目的地への到着を告げる車内アナウンスによって掻き消された。
留美が電車を降り、しばらくして発車を継げる軽快なメロディがホームに響き渡る。
そして、電車が再び走り始めると、男はそっと文庫本を閉じる。
その左右の色の違う瞳で虚空を見上げ、静かに、微かに、感情無き声で囁く
「悲劇の役者は揃いつつある。そろそろ第二幕へと移る頃合か……」
次の駅に停車した時、その車両には誰の姿もなかった。