リレー小説 〜Infinity〜


The PHANTOM of the OPERA


 数分間のインターバルを経て、再び劇場内の灯が落ちる。
 荘厳かつ重厚な曲が流れ出し、舞台の幕が重々しく開いていく。
 それまでの実空間とは空気が一転──そこは、19世紀中期のパリ・オペラ座。
 ヒロイン・クリスティーヌと青年ラウルの恋に嫉妬し、なおかつ自分の要求を刎ね付けたオペラ座に”怪人”の激しい怒りが向けられた。
 オペラ『イル ムート』の舞台上に、突如晒された道具係ブケーの首吊り死体。
 そして、不気味な笑みと共に舞台に突き落とされた巨大なシャンデリア。
 その圧巻とも言うべき結末を迎えた第一幕に続き、オペラ座の第二幕は切って落とされた。
 怪人が去ってから、6ヵ月後──
 すっかり”怪人”の一連の騒動を忘れ去ったかのように、舞台上では壮麗な仮面舞踏会が催されていた。
 趣向を凝らした華やかな衣装に身を包んだ役者達が、その階段状の舞台で歌い、そして舞い踊る。


 その光景を、留美と稔はただ呆然と目にしていた。
 舞台上から押し寄せる圧倒的なまでの気迫。
 それは、今まで体感した事のない鮮烈なものであった。
 非日常。
 現実とは異なる空間。
 彼等が数時間前までその身を置いていた”非日常”とは似て非なるもの。
 それでいて、ある種、共通するモノが其処にはあった。


 その時、何処からともなく、髑髏の仮面をつけ”赤い死”に扮した怪人が現れた。
 異様なまでの威圧感で人々を押し退けると、怪人はクリスティーヌの前へと歩を進め、自作のオペラ『ドンファンの勝利』のスコアを差し出した。
 そして、クリスティーヌの首に掛けられたラウルからの婚約指輪を引き千切ると、怪人はこう要求するのだ。
”自分の指示するキャスト、演技、歌唱を以って『ドンファンの勝利』を上演しろ”と。


 第一幕での悲劇から一転して、それまで穏やかな雰囲気に満ちていた場内に、再び緊迫した空気が流れ出す。
 広い場内を隙間なく埋め尽くす観客達は、舞台上で繰り広げられる光景に我を忘れて没頭している。
 二段構えになった会場のさらに上方、特別席(VIP-ROOM)から観劇用のオペラグラスを用いて舞台を観劇する者もあった。
 舞台を正面眼下に見下ろし、ゆったりとした革張りのソファーに腰を落ち着ける。
 その傍らに配置されたオーク調のテーブルには、上質のシャンパンと演劇パンフレット……そして、一冊の古めかしい”本”が無造作に置かれている。
 個室の主は視線こそそのままに、グラスに注がれたシャンパンで喉の渇きを癒す。
 その視線は、先程よりただ一点のみに向けられている。


 再び現れた怪人の影に怯え、震撼するオペラ座。
 何と言うことだろう……
 怪人は去ったわけではなかった。
 地下に篭り、クリスティーヌの為にオペラのスコアを書き上げていたのだ。
 オペラ座では、追い込まれた極限状態の中、無用の喧騒が次から次へと湧き上がる。
 その場所に留まり続ける事が、クリスティーヌには耐えられなかったのであろうか。
 彼女は、稽古の合間に父親の眠る墓地へと赴く。
 幻想的な月の光に照らしだされたそこは、得も知れぬ静けさに満ちていた。
 どうしてこんな事になったのであろう?
 悩むクリスティーヌをそっと見下ろす影がある。
 蒼い月光の中、姿を現したのは怪人だ。
 怪人は彼女をオペラ座の地下へと連れ去ろうとする。
 だが、そこに現れるもう一つの影。
 クリスティーヌの婚約者ラウルであった。
 身を呈し彼女を庇うラウルに激怒した怪人は、手にした杖より無数の火の玉をラウル目掛けて放つ。


─演劇なんてガラじゃない……そう思い続けていたんだが、なかなかに凄いものじゃないか。
─なるほど、高い金出してまで熱中する気もわかるな。
 稔はそんな風に思った。
 今まで武術修行以外には目もくれていなかった稔にとっては、ある意味、清明との出会い以上に衝撃的であった。
 そして、ふと横を向けば、留美が舞台に集中している。
─何よりも、留美が喜んでくれるのが、俺にとっても一番出しな……
 頭の中でそう付け加えた。


 怪人の手からクリスティーヌを守ってから数日。
 いよいよ、『ドンファンの勝利』の初日公演。
 オペラ座の内外を多数の警官が固める厳戒態勢の中、舞台の幕は切って落とされた。
 ヒロインを務めるクリスティーヌの相手役、ピアンジが舞台から姿を消し、再び現れた時には、なんと怪人と入れ替わっていた。
 怪人は彼女に愛を告白すると、そのまま彼女を劇場の地下へと連れ去っていく。
 そして、舞台裏からは物言わぬ亡骸と化したピアンジの姿が……


 最愛のクリスティーヌを取り戻すべく、単身で怪人の後を追うラウル。
 その彼に加勢せんとその後を追う、メグ・ジリーら劇団員達。
 留美は、この光景に先刻の自分の立場を重ねていた。
 ハーメルンと呼ばれた悪い魔法使いから、懸命に自分を守ってくれた稔。
 そして同じく自分を助けてくれた真冬に晴明。ついでに三谷。
 今となっては現実味に欠けるそれは、彼女にとって目の前の舞台に勝るとも劣らない確かな出来事なのである。
 何故、あんな事が起きたかなんてわからない。
 何故、あんな不思議な力を使えたかなんてわからない。
 ただ確かなのは、助けを呼んだとき……稔を呼んだとき、彼が自分を守るために来てくれたということ。
 それだけで十分であった。
 ふと、横を向くと、そこには留美を見つめる稔の顔があった。
 稔は一瞬、驚いたようだったが、すぐににこやかな笑みを優しく返してくれた。
─そう、あたしには稔がいつもついていてくれる。
 留美も極上の笑顔でそれに応えた。


 クリスティーヌを追い、地下にある怪人の隠れ家まで辿り着いたラウル。
 彼女との再会を果たしたものの、一瞬の隙を突かれ怪人の罠にかかってしまう。
 太く強靭なロープを首に掛けられたラウル。
 自分を選びラウルを助けるか、自分を拒みラウルを失うか。
 怪人は非情な選択をクリスティーヌに迫る。
 彼女は醜く歪む怪人の顔を見つめると、意を決して怪人の元へと向かう。
 しかし、彼女の本心を悟った怪人は、ラウルを開放すると彼女を残し闇に消えた。
 そして、2人は光に満ちた地上へと歩き出す。
 ラウルの後を追ってやってきたメグ・ジリーは、そこで取り残された怪人の仮面を発見する。
 かくして、オペラ座の怪人は終幕を迎える。


 ぱちり…と、オペラグラスを折りたたむと、男は静かに立ち上がった。
 一歩踏み出すと、舞台上に並んだ役者達に惜しみない拍手を贈った。
 終わらないカーテンコール。
 しかし男は、壁に掛けられた闇灰色のコートを身に纏うと、傍らのテーブルに無造作に置かれた”本”を取り上げる。
 そして、踵を返すと歩き出した。
 が、何かを思い出したように足を止めると、誰にともなくそっと囁く。
「予想以上に素晴らしい物語でした。もっとも、『オペラ座の怪人』はこれで幕引きとなりますが、貴女の物語はまだ始まったばかり……」
 その男の目は右眼が深い暗緑色で、左眼が淡い金色をしていた。
「さあ、物語は第二章の幕開けです……」

 興奮冷めやらぬまま、家路に着く観客達。
 会場内外のあちらこちらで、各々が感想を口にし合っている。
 そんな人ごみの中、留美と稔も街並みへと消えていった。

「今日は腕によりをかけて、ごちそうしてやるからな」

「ふふ、楽しみにしてるわよ」

 
Infinity 1st Episode End .


 

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